最近の刑事裁判について


腹が立って仕方がないのは私だけ?

最近おかしな刑事裁判が目立つと思うのは私だけでしょうか。

1.池袋の暴走老人が書類送検だけで起訴されず。
2.新幹線の中で二人殺した男が、被害者が二人だからと死刑を回避して無期懲役。
3.熊谷の6人殺害事件は裁判員裁判の一審死刑判決だったのが、高裁で心神耗弱が認められるとひっくり返され無期懲役に。
4.息子を殺した元農水次官は懲役6年の実刑判決で執行猶予がつかず。

これらの結論に納得してる人ってどれくらいいるんだろうか。

私は、選挙権を持った時から、衆議院選挙の時に同時に行われる最高裁の裁判官の国民審査は全部×つけてます。

必ず全部に×つけます。

これを知り合いに話すと、不真面目・ふざけすぎとか、反知性主義者とか、みんな口を揃えて非難してきます。

しかし、状況がここまで来た今、声を大にして言いたいです、だから言っただろと。

なんとなくでずっと×つけてない人に言いたい。

どう責任取ってくれんだと。

まあ、愚痴はさておき、熊谷の事件に関して、専門家である元特捜部主任検事という人がおかしなことを言ってるのでコメントします。

熊谷6人殺害事件で上告断念 死刑回避の理由になった精神鑑定はなぜ重要?

この人の主張のポイントはシンプル。

刑法には以下の規定がある。

「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」

そして、「軽減できる」という「できる規定」ではなく「軽減する」という「義務規定」だから、心神耗弱が認められたら必ず減軽しなくてはいけない。

そして、死刑であれば減軽する以上はどんなに重くするにしても無期懲役となる。

だから、精神鑑定などの結果を考慮して心神耗弱が認められたら無期懲役にするしかなく、それでも死刑にする選択肢を用意するなら法律を改正するしかない。

三権分立の下、司法の責務は法の執行であり、法律を作るのは国会の役目だから、司法は法の枠内で判断せざるを得ず、つまり、遺族がどんなに無念で、国民が納得いかないとしても、心神耗弱が認められる犯人を死刑にするには、法改正をしない限り無理で、今回の判決は仕方がないと。

これがこの人の主張の内容。

到底納得できないですね。

まず、この人も持ち出していますが、「心神喪失者の行為は、罰しない」とか「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」といった規定の背景には責任主義という考えがあります。

責任という言葉は多義的で難しいのですが、刑事責任というのはそんなに難しい言葉ではありません。

刑事責任というのは「非難可能」という意味です。

「非難可能」というのは、「お前が自分の意思でやったんだろ」と言えることです。

「引き返すこともできたのに、お前が自分の意思で一線を越えたんだろ」と非難できることが非難可能であり、それが言える場合に、相手には「刑事責任」があると言います。

そして、知的障害とか精神疾患とかでものの善悪が分からない場合には、正常な現状認識やそれを踏まえた判断ができないわけで、つまりが道義的に非難できないから、刑罰という形式での非難が無くなったり、軽くなったりするという理屈です(個人的にはここからして納得いってないのですが、そこは省略)。

もっとも、なんとなくわかるように、「非難可能」というのはあいまいで、結局のところ、何が基準かといえば、究極的には、国民の目線で、非難が可能かどうかが決まります。

もちろん、国民の意見は一人一人違うわけで、国民目線とか世論なんていうのはフィクションなわけですが、それを言ったら国民主権ですらフィクションであって、国民主権という概念を認める以上は、非難可能かどうかも国民の視点で決まるとなります(裁判員裁判の意義もここにある)。

その結果、刑事裁判で精神鑑定が行われ専門家たちが鑑定書を出したりするわけですが、最終的に、心神喪失や心神耗弱を認定するのは裁判官とされています。

つまり、決定打となるのは、認知能力の程度という科学的な判断ではなく、国民の目線から非難可能かどうかというあくまで国民主権の下での法的な判断なわけです。

そりゃそうで、究極的には、罰すべき人間を罰し、罰すべきじゃない人間を罰さないのが刑事裁判の目的。

何が言いたいかと言うと、「心神耗弱を認定して、だから死刑が相当だとしても無期懲役にしかできない」という思考は間違ってるということ。

死刑が相当なら、国民がそう考えるなら、それだけの「非難」ができるのであれば、それは「心神耗弱」ではないということ。

その「非難可能性」とは完全に別のところで、心神耗弱かどうかが決まるというなら、それは法的判断ではないし、裁判官ではなく精神科医が最終的にも決めるべきもので、最新の科学的診断の結果に基づいた認知能力の程度に応じて機械的に判断すべき。

責任能力の有無は、精神鑑定などを考慮しつつも、最終的には裁判官が決めるというのは、最終的には、科学的な視点で認知能力がどの程度あるかどうかではなく、刑罰を科すという非難が可能かどうかを国民目線で決めるのが刑事裁判という場であるということ。

「死刑が相当だが、心神耗弱が認められる以上、現行の法律の下では無期懲役にせざるを得ない」ではなく、「心神耗弱」かどうかの判断が科学ではなく法的判断なのであれば、「死刑が相当」と非難が可能なら、それは「心神耗弱」ではない。

百歩譲って心神喪失に関しては客観的な判断があるとしても、心神耗弱に関してはそうでしょう。

したがって、今回の事件で、高裁の判事が法律の枠内で苦渋の決断をしたというのは間違いで、高裁の判事は、警察署からタバコを吸うふりして脱走したのがそもそもの始まりとか、殺した後に金品を奪って逃げたとか、そういった事情を考慮しても、死刑という非難はできないという判断を、一番根っこのところでしたということ。

今回の事件に関しては、法改正なんか必要なく(絶対にした方がいいけど)、担当した裁判官の問題。

裁判というのは、事実に法律を適用して行う。

もっとも、事実は小説より奇なりだし、あらかじめ未来の全部を細かく決めておくことはできないので、法律というのは抽象的にならざるを得ない。

その結果、法律の解釈というものが生まれる。

例えば、自動車安全運転法という法律があったとする。

その中に、「運転中に窓から手や頭を出してはいけない」という規定があったとする。

そこで、どうやるかはさておき、運転しながら足を外に出した人がいる。

その場合に、条文には手や頭と書いてあるけど、足だってダメに決まってるだろといって有罪にするのはダメ。

さすがに、その場合に「書いてなくてもわかるだろ」なんていうのは、法治主義に反します。

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もっとも、では窓から髪の毛が出ただけで、有罪になるのか。

ここは、理屈上は2択あって、髪の毛だった頭の一部なんだから、条文に合致して有罪になるという解釈。

もう一つは、安全運転を求めるのが目的の法律なんだから、手や頭を出すなと言っても、安全運転に支障が出るような形で手や頭を窓から出すことが取り締まりの対象であり、髪の毛が少し出たくらいは条文の想定している行為ではないから、無罪という解釈。

まあ、当然後者が採用されるわけですが、なんでかと言えば、結論が妥当だから。

国民目線で納得がいくのは後者だから。

つまり、法律の解釈というのは、条文の文言上(日本語上)、いくら何でもその解釈はさすがに無理という範囲はありますが、その枠内であれば、どっちの解釈を取るかは、結論からさかのぼって決めるわけです。

日本語の枠内で、国民から見て妥当な結論を導くのが法律解釈であって、条文にはこう書いてあるから、だれも納得できないかもしれないけど、こう結論付けざるを得ないのだ、というのは基本的におかしい。

もちろん、覚せい剤を1g以上保持とか書いてあって、0.99gしか持ってなかったなんて場合のように、具体的な規定であればそうなる可能性もあるけど、「心神耗弱」のような究極的にはあいまいな概念では、結論の妥当性が決定的な意味を持たなくてはいけない。

言い方を変えると、あらかじめ法律情報をプログラムした裁判AIみたいなものを作っておいて、具体的な事実をインプットすると、それは有罪、これは無罪と、機械的に判断できるようになるのかと言えば、そうはならない。

裁判というのはそういう機械的なものではないはず。

もちろん、現代社会においては、大岡裁きのような恣意的で独断的な裁判は許されないというのは分かります。

客観的な裁判を心がけなくてはいけませんが、でもだからといって、100%論理的・客観的という裁判は不可能で(それが可能なら裁判官なんて不要で全部AIにやらせるべき)、必ずどこかで「どっちにするか二択」という究極の選択が課せられ、「国民目線での結論の妥当性」というフィクションの名のもとに、主観的・独断的な判断をしなくてはいけません。

サッカーの審判じゃないけど、人が人を裁く以上、究極の選択を決めるのは裁判官個人以外になく、主観的な要素は絶対にゼロにできないわけです。

しかし、ここまでくるとなんとなくわかるように、知的エリートの中にはこれが苦手な人が多い。

六韜という中国の兵法書の中で、王様から、どのような者を将にするべきかと問われた太公望が五材十過という話をして、将たるものが持つべき5つの才能と、将にしてはいけない人間が持つ10個の過ちを語ります。

その過ちの1つに、「知恵が有っても臆病な者を将にしてはいけない」というものがあります。

今起きてるのは、まさにこれ。

現代法治国家においては、大岡裁きのような独断的裁判は許されず、客観的で論理的な裁判を心がけなくてはいけない。

そこに縛られて、前例とか科学鑑定に逃げる。

どんなに客観的であろうとしても、人間は万能な神様ではないから主観的な要素は排除できないし、したがって、裁判官というのは、有罪か無罪か、死刑にするかどうか究極的には自分のさじ加減一つという、非常に重い権力が与えられる。

そうはいっても、高度な倫理観とできる限りの客観性を保つ必要があるから、裁判官というのは非常に狭き門なうえに、その反面、それを通った者には高度の独立性とそれにふさわしい待遇や尊敬が与えらえる。

しかし、臆病者はその権力の行使を最後までためらい、「精神鑑定の結果を尊重せざるを得ない」とか、「同種事件の判断の結果との公平性に照らして」とか、客観的風要素を言い訳にして、重い責任から逃げる。

価値観が多様化しすぎてどう生きるべきかわからない中で、知的エリートほど、不確実性というストレスから逃げるようにして、論理明晰なリベラル系原理主義に染まって確からしさへ逃避し、確固たる安定土台の「あるべき論」の立場から、現実を無視した空理空論を展開する現象と本質的には同じ。

どんなに冷静に事実と向き合っても噴出する、反対意見を持つ人達からの、「結局、あんたが有罪と呼びたいものを有罪と呼んでるだけなのじゃないのか?」という心無い批判に耐えられない。

でも、人が人を裁く以上は原理的に絶対に逃れられないんだから、そこは受けて立たないと。

しかし、それができず、できる限りの客観性を保つためではなく、主観的判断への批判を避け安全なところに身を隠すために客観性を追求し、裁判AIのように振る舞い、要するに、国民の為ではなく、自分が天国に行くために、与えられた権力を行使する。

国民の声を聴いて判断なんて言うと世俗的に聞こえるし、法律関係なく行き当たりばったりで判断しているような印象を与えるからと、国民の声の逆にむしろ進む。

司法権の独立と言ったところで、不可侵の教会ではなく公務員であって、国民の下僕のはずなんだけど、いつの間にか、法の下僕という神聖な神父のような立ち位置に変わって、国民は納得いかないかもしれないけど、「このように判断せざるをえなかったんだ」と、一般国民には見えていない宇宙のどこかに客観的な真理があるかのようなふりをしながら、ただ単に、国民という名の「法律を分かってない連中」からの批判と正面から闘わないためだけの理論武装に堕ちる。

裁判官というのは、国民から司法権の行使を委託された公務員であって、法なる神聖な存在から真理の執行を委託された伝道者ではないし、そもそも法自体が国民の声に従って現実を処理する道具であり、崇高な思想を体現するようなものではないです。

敗訴側を無理やり納得させるという意味では、崇高なイメージを演出することはとても大事ですが、法解釈という枠内で国民が望む結論を導き出すという根本的な使命を忘れてはダメでしょう。

やはり、国民の感情的な意見なる世俗的なものと自分で、一線を画したいのかな。

要するに、自分が死んだ後に閻魔様に完璧な申し開きをして、自分が天国に行きたいだけ。

「仕方なかったのです(個人的な判断ではありません)」と。

今後この傾向はますます続くとみた。

遺族の無念を思うとどうにも怒りが収まらないですね。

もっとも、こういう考えも「勉強不足」とされるのでしょうかね。

だったら、憲法改正して国民主権を止めるべきだろうに。

「選ばれしものだけが分かる真理」主権とか。

私は、魂が穢れているから真理の光が見えないのかな。

でも、だとしたら、宗教万能のヨーロッパ中世暗黒時代と何が違うのか。

いたずらにキリスト教国のまねするから、こうなるんですよ。