「この指とめよう」について


面白いニュースですね。

はじめに

ネット上の誹謗中傷の防止啓発運動を目的として最近設立された、一般社団法人「この指とめよう」という胡散臭い団体があるのですが、案の定その代表者が過去に子役に対して「死ね」などツイートしていたり、数々の暴言をしていたことが明らかになって、炎上となりました。

とっとと謝罪すればよかったものの、最初にしたのはツイートの削除、アカウントに鍵をかけて見えなくする、批判者をブロックなどと言った、啓発団体の代表者とは思えない対応により、更に炎上。

ということで本日謝罪することになりました。

もっとも、検索に引っかからないよう、謝罪文を「画像ファイル」で出すあたり、SNSの達人ぶりを見せており今話題になっています。

過去の誹謗中傷ツイート暴かれ炎上したSNS啓発団体「この指とめよう」の小竹海広代表が謝罪。問題点は?

まあ、私もこのニュースでこの団体の存在を知ったのですが、参画メンバーの顔触れを見ると、いかにもと言う感じの面々で、少し興味をひかれたのでこの問題について少し語ってみます。

左の本格派

この団体のメンバーは、いわゆるそっち系の人達ばかり。

既存の国家や政治や社会を攻撃することで生計を立てているような方々ばかり。

世の中に悩みのない人間はおらず、自分が悪いのか、それとも環境や社会が悪いのか、誰もが答えのないジレンマの中で悶々と過ごすわけですが、そういった悩める人達、特に不幸が重なり追い込まれた人たちに対して、「あなたが悪いんじゃないよ、こんな社会が悪いんだよ」と「優しい」言葉をかけて、社会を変えるための運動への参加を呼びかけ、様々な名目の「参加料」をもらうことで生計を得ている人達。

よりよい社会を作ると言いつつ、党派を組んで組織的に既存社会を攻撃する運動を展開する過程で世の中に様々な葛藤・対立・ヘイトをまき散らし、右も左も入り乱れた誹謗中傷合戦が広がった世界。

そんな社会を自分達で作り出しておきながら、今度は、誹謗中傷をやめるようと啓発運動を始める。

「悪」と戦う以外にやることがないんだろうか。

童子問の一説

伊東仁斎の「童子問」というのは、とにかく「論語」と「孟子」を読み込め、それ以外の難解そうな本なんてどれも読んだところで何の役にも立たないと熱く語る本ですが、その第4章に以下のような一説があります。

邪説は人を動かしすし。(中略)故におぼえず自ずから其のきゅうに陥いる。温厚和平、しょうよう正大なる者にあらずんば、必ず論語の妙に通ずることあたわず。氣質偏勝、奇をけり高きにする者の得て知る所にあらず。

きゅうというのは、鳥の巣の中の穴のことで、居心地の良い場所と言った意味です。

訳すと、邪説というのは人を動かしやすく、安易に行動する結果、いつの間にか自分の都合の良い場所に居ついてしまう。温厚平和、ゆったり構えて正々堂々としている者でないと論語の神髄に通じることはできない。気質が偏勝(優れているが偏っている人のこと)で、新奇なものに心をそそぎ、高尚なものを追いかける者に理解できるものではない。

これが言うように、「この指止めよう」のメンバーも、高尚なものに胸を打たれ、社会改善運動に安易に身を投じてモグラたたきに熱中するあまり、行動すること優先で、物事の本質が見えなくなっている気がします。

ヘイトについて

まず私が思うのは言葉の汚さとヘイトの違い。

私は、2ちゃんねるなどで行われる罵詈雑言の応酬にヘイトを感じないです(もちろんものによりけりですが)。

「うっせーハゲ」「死ねデブ」「お前絶対童貞だろ」とか、言葉は汚いけど、全く根拠がないだけに、短絡的に「悪態」をついているだけで、その背後に根深い禍々しさを感じないです。

そこに、馴れ合い的な愛を感じることはあってもヘイトはそこまで感じない。

それよりも、昨今ツイッターなどで散見される「考えは人それぞれだと思いますが、私はその考えに違和感を覚えます」とか「議論する気はないけど、根拠などがあるなら聞きたくはある」なんて感じの上品で温厚な発言を、わざわざ芸能人に直接ぶつけるツイートからにじみ出てくる、背後に存在する怒りや憎悪の方が気になる。

言葉ではなく、その裏側にあるヘイト、なんでこんなにも他人の些細な言動にキレやすい人たちが多いのかということこそ問題な気がします。

問題は、誹謗中傷ではなくそれを生み出すヘイト感情であり、ヘイト感情を生み出す対立だと思うのです。

そういったことを考えると、「誹謗中傷」は止めようなんていうキャンペーンは、まったく本質をとらえた行動ではなく、何も解決しないまま、むしろ、「どこからが誹謗中傷か」と言った枝葉の議論を生み出すだけのような気がする。

そして、そのあいまいな議論は、ダブルスタンダード論争と裏表の運命にあり、しょーもない泥沼が待っていそうです。

民主主義に内在する対立

うろ覚えですが、プラトンは『国家』という本の中で民主政治を批判して以下のようなことを言っていたと思います。

民主制では、政治的な勝ち負けは経済的な格差をはじめとした各種の格差といった結果を伴う。その結果、敗れた少数派は憎悪や怒りを胸に社会に潜むことになる。そして、彼らが、権力や富を握っている連中が必ずしも「力」「実力」で優れているわけではないのだという軽蔑を手にしたときに、社会の内側から「革命」の火の手が上がる。

まあ、そんな不安定な政治体制が良いわけねーだろっていう話なのですが、コミュニケーションが活発化した現代にまさに当てはまっていて、政治的な少数派は多数派に対して怒り狂い、「なんであいつらはわかんねえんだろうな」「政府を支持ている奴らはバカなんじゃないか」などとSNSでヘイトをまき散らしているわけです。

そういう点では、言葉ではなく根っこの対立そのものが問題であり、その解決なり緩和という点からは、相手とどう向き合い、うまく和睦するかという態度こそが問題です。

しかし、ここに大きな問題があるのです。

古典的な民主主義観

上記のプラトンのような考えでは、民主主義を力と力のぶつかり合いと捉えています。

民主主義=デモクラシーのもともとの言葉は、古代ギリシャ語のデーモス・クラティア。

デーモスというのは「民」ですが、語源的には、国民というより、山のデーモス、海のデーモスといったような、特定の地域の住民や、その民が暮らす部落や村といった地域そのものを意味するようです。

そしてクラティアというのは「支配」を意味しますが、語源のクラトスは「力」を意味する言葉で、つまりクラティアというのは、支配と言っても「神の支配」というような神聖な文脈で使われるものではなく、力による支配、制圧といった世俗的なものを意味します。

したがって、デーモスクラティアというのは、(特定の)民による力による支配・制圧を意味します。

なので、利害関係の異なる複数集団がある中で、特定の集団が力で支配することがデーモスクラティア(民主制)であり、だからこそ、プラトンも、民主体制というのは、必然的に内部に対立を生み出す体制で、いずれ内乱や革命がおこる不安定な体制であると指摘しているわけです。

そして、この性格は、多数決という仕組みにより多数派が少数派を押さえつけるという点で現在も残っており、プラトンが言った通りに社会の内部にヘイトが存在しているわけです。

リベラルの民主主義観

しかし、リベラルの考える民主主義はこれとは少し違います。

キリスト教の影響を受けた欧米人にとっては、歴史の最期には最後の審判があってハッピーエンドで終わるという考え方は自然で、社会というものはゴールを目指して進んでいくもの、つまり進歩して行くものと考えます。

なので、リベラルの考える民主主義というのは、自分勝手な集団が自己主張しあい、最終的に一番力が強いものが勝つという野蛮なものではありません。

そんな野蛮な時代は終わった/終わらせないといけないものであり、市民社会の発展に伴い市民一人一人も進歩し、理性ある市民であれば当然考えるであろう「善」が、民主主義により実現されて行くと考えています。

民主主義は単なる多数決(パワーゲーム)ではなく、それを通じて「最終的に実現されなくてはいけないもの」があり、中世・近代・現代そして未来と「そこへ向かって進歩していく正しい過程」があります。

だからこそ、「真の民主主義」なんて言葉を使う人がいるし、アベが強行実現した反リベラルな政策など、それが多数決で選択されたとしても「民主主義ではない」わけです。

そして、目指すべき方向は、理性ある人間なら当然理解できるものであると考えます。

つまり議論をするといっても、参加者が理性的であれば当然、自分達の主張する結論に達するはずと信じています。

そうはいっても、思想信条の自由があるし、現実に反対する勢力があるではないかと反論しても、その人たちは「教育が不十分」「かわいそうな」なだけで、適切な啓蒙教育を施せば必ず「目が覚める」ものだと考えます。

リベラル対反リベラル

もちろん現実にはリベラルに反発する勢力が存在し、社会にはいろんな意見を持つ人がいて、議論は絶えません。

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このときに、民主主義を力と力のぶつかりあいと考える派からすれば、意見が割れた時に求められる態度というのは、これ以上揉めてもお互いダメージを受けるだけだから、適当なところで中間線を引こうという妥協ですが、リベラルな人達というのは、市民社会の発展途上であるがゆえに存在する「反知性派」がわかってくれるまでの間、親が子供をあやすような態度はとれますが、本質的に妥協はできません。

これこそが誹謗中傷の裏側にある対立構造であり、溝が埋まらない原因でもあります。

反リベラル側からすると、リベラルの言うことは理解はできないこともないです。

「個性や意見を超えて互いに尊重し合う社会を作ろう」という主張は分かるし、LGBTなどで良く主張されるような「互いに立場を入れ替えても成立するような社会」くらいまでは何とかついていけますが、頭で描いた「真っ白な世界」を目指そうとする態度に警戒感を抱きます。

歴史や伝統をあっさりと否定して間違っているとバッサリやる態度がはたして理性的なのか疑問ですし、なにより、方向はどっちでも、急激な変化ほど社会にとって害悪はない。

また、「理性的な結論」を主張する当然の帰結として抵抗勢力を「愚か者や反知性派」と扱うことも怖いですし、実際に過去に、旧ソ連やナチスドイツなど、科学的な理性派が覇権を手にしたときの態度、ガス室に送るか、わかりましたというまで教育施設で労働教育が行われるといった、「間違っている者」への不寛容さと、それが引き起こした悲惨な歴史の教訓。

変えるとしても、歴史や伝統を大事に慎重にゆっくりやろう。

反リベラルすなわち保守派の主張の核心はここにあります。

しかし、知性の万能感に酔いしれるリベラルにこの思いは到底理解されません。

理性的な人間であれば人類の目指すべき方向は自明なのに、なぜ「理論的な根拠のない」伝統や慣習に固執するのかと。

結局、どうやっても和解交渉が決裂する運命にあると言っても過言ではなく、

反リベラル「自由自由って言いながら、お前らが一番他者に不寛容じゃねーか」

リベラル「思考停止で現状維持が楽なのはわかるけど、少しは頭つかえや」

といった対立にしかならず、お互いに感情的になるわけです。

そして、リベラル派からすると、彼らの主張と言うのは理性・知性が当然行き着く帰結であり、つまり理解できないものは「愚か者」ですから、対抗勢力への批判というのは、上辺の表現をどう取り繕おうと本質的に「誹謗中傷」になります。

つまり、彼らによる「誹謗中傷」の取り締まりは必然的にダブルスタンダードになる運命にあります。

その状況を目にした反リベラルは、当然が無論に、「どう考えてもバカはお前らだろ」と考えますから、同じく表現方法をいくら取り締まっても本質的に「誹謗中傷」の性質を帯びます。

結局、表現をいくら取り締まっても、何らの解決になりません。

そういった根っこの対立構造に目を向けて根本的な解決を図ろうとするのではなく、上辺の誹謗中傷「表現」を相手の戦いに「大義」を見いだしてしまうとあたり、やはり、上述の伊藤仁斎が言うように、己の低さに気づかぬまま高尚なものに目を奪われ、よく考える前に行動を始めたがゆえに、結局目の前の「悪」を見つけてそれと戦うことにしか至らず、思想というより運動でしかなく、台風の目にいて大暴れしているものの、何も聞こえず何にも見えていない感じがします。

井上達夫先生が、「リベラルのことは嫌いになってもリベラリズムのことは嫌いにならないでくれ」といった意味がよくわかります。

問題はリベラリズムではなく、リベラル勢力なんですよね、たぶん。

優しい誹謗中傷

確かに、最近、SNSでの誹謗中傷で有名人が自殺に追い込まれる事件などがあり、事件化してないだけで無数の同じ問題があるでしょうから、私だって何も放置しろと言ってるわけではありません。

ただ、「死ね」と100回言われるのも嫌ですが、「どういう了見で先ほどのような発言をされたのでしょうか。理由をご教示いただけると幸いです。」なんてネチネチ言われるのも同じくらいいやです。

そして、誹謗中傷を止めようという運動の結果、メルカリみたいに上品な言葉と笑顔だらけの北朝鮮化した社会になったものの、結局、ヘイトを内在した上品な言葉で他人を追い詰める行動が多発し、その反面、どこから先が誹謗中傷かといった無意味な議論が延々となされる。

そんな無意味な未来が来るだけのような気がするのです。

オピニオンリーダー的な地位を自称するような人たちが、こういった表面的な運動に意義を見いだしてドヤ顔で推進し、「心優しい人達」がそれに追従する。

私のこういった発言も誹謗中傷とみなされ、「文句を言うことも気晴らしにはなるでしょうが生産的とは言えないと思いますので、建設的な提案などされたらどうでしょうか。それともなにか具体的な活動はされているんでしょうか、是非お聞きしたいです。」なんて、上品な言葉で猛攻撃されるのだろうか。

だとしたら何が解決するのか。

根本的な解決にはならないとしても、誹謗中傷発言が減ることはいいことではないのか。

それだって、いいことばかりとは言えない気がします。

言ってはいけない

今の世の中言ってはいけないことが多すぎます。

例えば、下記のような意見を持っている人がいるとします(私とは言っていない)。

「自分は大阪なおみ選手がグランドスラムを初制覇し、日本人初の快挙というニュースが出たときにまったくピンと来なかったし、うれしくもなかった。そもそも大阪なおみ選手を「日本人」だと思ったことは一度もない」

こんなこと今は口が裂けても言えません。

しかし、思ってる人多いでしょうたぶん。

思っていることがあっても言えない。

誹謗中傷の取締りにより、言ってはいけないをまだ増やす。

堕落論

書きながら、坂口安吾の堕落論を思い出しました。

戦争中、誰もがお国のためになんて言いながら、本当はみんな戦争が嫌だった。

けど口に出せなかった。

そういうことを言ってはいけない空気が出来上がっていて、しかも、慣れ過ぎて疑問に思うことすらなくなり、みんな全力でそれに従っていた。

そして、終戦を伝える玉音放送。

本当はみんなこの戦争が早く終わることを願っていたし、嫌で嫌で仕方がなかった。

けど、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで降伏する」というお言葉を、涙しながら聞いて、悔しいけど従いますという態度を国民がとる。

その様子を見て、せっかくの再出発なのに、嘘八百の偽物の態度をとり続けていたら何も変わらないじゃないかと、堕落論を書いた。

生きよ堕ちよ。堕ちるんだったら、真っ逆さまに堕ちるところまで堕ちなくてはいけない。

何も堕落して退廃的な生活をしろと勧めているわけではないです。

しみついた偽物の社会道徳を脱ぎ捨てて、本当に自分が思う所、正直なところを見つめ直そう。

それが社会をなんとなくで包む空気からすれば「堕落」なのだとしても、もしそれが自分の本心なら、一旦嘘は全て脱ぎ捨てて、思う所感じる所に忠実に、「借り物の高尚さ」を指針にするではなく、「必要は発明の母である」精神を胸に、地に足付けて新しい社会を作っていこう。

これを言ったのが堕落論。

終わりに

コロナ禍で閉塞感が漂い、誰もがイライラして、社会にヘイトが充満しています。

もちろん、匿名で個人を攻撃するなんて言うのは論外で、そんな奴はとっとと捕まえて牢屋にぶち込むべきです。

しかし、大きな部分で言うと、いっそのこと、自分の感情に素直になって、みんなで言いたいことを言い合うことが大事なんじゃないかと思います。

誹謗中傷があふれる反面、上っ面の上品さの競い合いもあふれています。

誹謗中傷が悪であることは間違いありませんが、ただ、本物か偽物かといえば、誹謗中傷こそ本物であり、上っ面だけの上品なやりとりは偽物です。

高尚な理念でコスプレをしながら、偽物の言葉で議論をしても、対立が収まるようには思えません。

むしろ、何ら得るものもなく落としどころもない不毛な言葉の応酬が氾濫し、結果としてヘイト感情が残るだけといった状況が進展する一方なのでは。

いったん、皆で下品な本性全開で堕ちるところまで堕ちて、「和をもって尊し」としないとどうにもなんねーなと実感することの方が先で、そうでもないと収拾がつかないところまで来ている気がします。

社会の内部に致命的な亀裂があり、それによって互いへのヘイトが実在しているわけで、そこに目を向けず、その一部分の発露でしかない誹謗中傷を規制したところで、嘘の言葉と偽物の態度の跋扈を助長するだけで終わり、ますます議論が本質から離れ、かえって事態を悪化させるのではないかと思うわけです。

「この指とめよう」という団体。

信者ビジネスを生業としいる方たちからすると、「良識派」として信者を集めて会費を徴収するには便利なのだと思いますが、リベラルな連中の薄っぺらさがもろに出ていて、見事にそれがバレたというのが今回の炎上事件なんでしょうね。

匿名をいいことに汚い言葉で本音をぶつけ合うことこそネットのいいところでもあったんですけどね。