田村玲子の死、なぜあのシーンに心打たれるのか


突然頭がおかしくなったわけではありません。

『寄生獣』というマンガ・アニメに関する考察です。

なお、以下は『寄生獣』を読んでその内容を知っていることが前提で書きます。

このブログでも時々言及していますが、最近の私は英語の勉強もかねて、Youtubeで外国人のアニメへのリアクション動画をよく見ます。

あれこれ見ていたのですが、そういえば『寄生獣』はどうなんだろうかと最近、アニメ版である『寄生獣 セイの格率』(英題は『Parasyte the maxim』)へのリアクションを見てみました。

なお、私は大学生の時に、友人から私について聞かれた私の友人が、「寄生獣が大好きな人」と説明したくらい大好きな漫画です。

海外ではそこまでメジャーではないせいもあってか、あまりリアクション動画の数は無いのですが、やはり、海外勢には刺激が強すぎるのか、「作品のテーマが全然わかってねーな」と言いたくなるようなリアクションも多いです(もちろん絶賛する人もたくさんいる)。

やはり、人間というのは神様が自分に似せて作った特別な生き物だとか、人間は自然の支配者だとか、そういったキリスト教的な価値観を当然の前提に育った人には過激すぎるのかもしれません。

特に、市長広川の演説は刺激が強すぎるらしく、単なる偽善的な環境保護活動への批判程度の文脈で捉え、「偉そうなことを言っても、お前は人間を殺しているじゃないか」なんて反論するリアクションには唖然としてしまいます。

とはいえ、じゃあお前はこの作品を理解しているのかと聞かれれば、大好きで何度も読んだとはいえ、「作品の理解」はさておき、自分なりに完全に咀嚼できている自信はありません。

その中でも、やはり、単行本8巻、アニメで言う18話の田村玲子の最期のシーン。

これは、寄生獣ファンならだれもが認める作品上屈指の名シーンで、原作もアニメも何度見ても深い感動を覚えます。

しかし、一体自分が何にそんなに心を打たれているのか、改めて考えるとよくわかりません。

外国人も、ごく少数号泣する人もいる反面、まったくついていけなくなっているという感じの人も多いです。

そこで、自分の中で高校生以来の課題であった、田村玲子の最期のシーンは、私たちをなぜそんなに感動させるのかについて、自分なりにケリをつけてみたいと思います。

下記のシーンです。

田村玲子は、ずっと、なぜ自分は生まれてきて、自分はどこに行くのかと考えています。

自分の存在意義とは何なのかと。

しかし、彼女は本当は知っています。

意味なんてないと。

パラサイトだろうが、人間だろうが、それどころか地球の歴史自体、広い宇宙や悠久の時の流れの中では、塵芥の如くであり、物理法則だか、化学反応だかの偶然の結果生まれてきただけであり、意味なんてありません。

全体から見れば、地球の歴史どころか、太陽系全体の歴史すら、あったかどうかすらわからないような微小な出来事です。

彼女の抱いている疑問というより、彼女が感じている、疑問の根底にある絶対的な孤独、そこに私たちも、心の底で共感できると思います。

しかし、私たち人間は、その絶対的な孤独とは真正面からは向き合いません。

家族、友人、職場の同僚など、他社と様々な人間関係を作り、1つの社会を作り出しています。

そして、「社会の中で生きる自分」という後付けの自分を受け入れ、孤独を紛らわすための作り物の社会に全身全霊を投げかけて、自分の社会的意味を見いだしながら生きています。

自分を取り巻く社会を作るどころか、人類の歴史なんて壮大なストーリーを作り、その中に、社会の発展の歴史や科学の進歩の歴史などを作り出し、私たちが宇宙に浮かぶ塵ではなく、なんらかの目標に向かって進んで行く『人類』なるものの一部であるかのように、自分のよって立つところを自ら作り出して、それに寄っかかって生きています。

もちろん、中には、神が人類を作ったとか、いやいや人間というものは遺伝子の乗り物に過ぎないなんてストーリーもあります。

しかし、いずれも、本当は意味なんてないのに、意味をひねり出す試みに過ぎないとも言えます。

最初は、田村玲子も、人間という種を食い殺せという命令を受けたという、自分を生み出した絶対的な主体がいるかのような態度をとっていました。

また、仲間の中には広川のように、地球全体から見たら人間ほど身勝手な生き物はなく、全生物の視点から考えれば、生物ピラミッドの中で人間の一つ上におかれ、地球の破壊にまい進する人間を「間引く」パラサイトは地球存続に貢献する崇高な存在として、その存在意義を強調する者もいました。

(地球という視点を勝手に持ち出す点においては広川は極めて人間であり、地球は泣きも笑いもしないから「地球のため」として語られる言説はすべてフィクションにすぎないというミギーの思想がパラサイト)。

いずれも、人間が自らの存在理由を、自分勝手に作りだした物語の中に自分を位置付けることで勝手に満足している態度とパラレルだったからこそ、彼女は納得できなかったのでしょう。

「自分」とは何なのか。

自分という人間はそれ自体で完結的に存在しているようですが、本当のところ、自分以外の存在なしに自分を定義できるのかは怪しいです。

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他者無しにも自分は存在するのか、それとも、他者との関係があって初めて自分という存在が意味を持って定義できるのか。

宇宙の中にポツンと私だけがいたとして、その自分と、ただの物質の集合や化学反応の集合と何が違うのか。

この点に関しては、人間もパラサイトも同じです。

しかし、人間はまだしも、それだけで生物として生きていけますが、パラサイトは人間なくては生きていけません。

その点において、パラサイトは人間なしには生きていけない”か弱い”生物です。

宇宙の中でぽっと生まれて、なんのために生きるかわからない。

人間というものは、それぞれ生きる意味だったり人生の目的なりを見つけているようで、その実、きわめて自分勝手に作り上げたストーリーの中で満足している、愚かで醜い生き物。

しかし、その人間なしには生きられないパラサイトの脆弱性が自分には突き付けられている。

そんな中、転機が訪れる。

それが、何気なしにAとの性交で作った赤ん坊。

興味本位の実験のつもりで作ったのですが、実際に生まれてきた赤ん坊は人間そのものであり、パラサイトではない。

しかし、その赤ん坊を通じて、田村玲子はあることに気づく。

それは、まず先に人間という個が存在し、その後に個と個をつなぐ「関係」が存在するわけではないという点。

99%の人間関係は後付けの作り物ですが、母と子の関係だけは異なると。

この関係だけは、自分の存在と同時に生まれています。

先に自分があって、後から「関係」を作る場合が99%ですが、母子関係だけは、自分と「関係」が同時に生まれます。

関係というものが、実在する個が後付けで生み出したフィクションではなく、個と同時に実在する確かなものであれば、個の意味を関係から導き出してもおかしくはありません。

この点、田村玲子の赤ん坊は、生物学的には人間の子であり、そもそも田村玲子が乗っ取った女性の子供ですから、厳密な意味では田村玲子の子供とは言えないかもしれません。

しかし、田村玲子が自分の意志で作った子であり、田村玲子がいなければ存在しないはずの存在であり、生物学的なつながりはさておき、一定の意味において母子関係にあると言えます。

しかし、パラサイトではなく、人間。

自分と子供の関係に悩む田村玲子。

そして迎える最期のシーン。

銃弾の雨の中、田村玲子は戦いも逃げもしません。

知的生命体として、自分の存在意義について人間のように社会的意味を見いだしませんから、自分の生や死に「意味」はなく、死ぬとしても、「ああそうか」と思うだけで、生物としての自分に関して、生への執着のようなものはありません。

しかし、なぜか、赤ん坊を守り、新一に託す。

自分という存在それ自体に意味はなくても、それと同時に、自分と子供の関係も作り物ではなく、間違いなく実在するものであり、自分は宇宙に浮かぶ孤独な塵芥というだけではなく、この赤ん坊の母親であるという揺るがない事実がある。

そして、それが確かなものであることを確認しようと、降り注ぐ銃弾の中、新一の母親に擬態して新一に近づき、新一の中にもその関係が揺るがない事実として存在することを確かめる。

そして、最後のセリフ。

・・・この前人間のまねをして・・・・・・・・・・
鏡の前で大声で笑ってみた・・・・・
なかなか気分が良かったぞ・・・・・

そもそも自分の意志でこの世に生まれたわけではない以上、自分の存在に意義などないという、ある種当たり前の絶対的な孤独。

そんな中、いくら考えても答えなどなく、突き付けられるのは、愚かな人間たちに寄生しないと生きていけない自分達のか弱さ。

それでも、子供を作って見つけた、自分と同じように実在する、他者との「関係」。

しかし、その子供も人間であり、パラサイトではないという、絶望的な哀しみ。

それでも、対赤ん坊において、「母親」として何らかの関係、すなわち自分の意味は間違いなく存在するだろうという思い。

そして、人間のように、「母親」として我が子を守り死んでいく。

自分の存在の絶対的な無意味さの中で、やっと見つけた、実在する、自分と他者との関係、そしてその他者を起点として導ける自分の意味、しかし、その「関係」の不完全性がとどめとなって陥った、絶望的な孤独。

彼女の抱える孤独感や哀しさには一人の人間として共感せずにはいられない部分がある一方、自分達は最後のよりどころとして、確かな実感たる家族愛のようなもの持っているからこそ、彼女の救いのない孤独と哀しみがより一層強く感じられ、そこに不憫さを禁じえなくて涙が止まらないのかなと思いました。

抜群の知性を持つ彼女がついに母性愛という人間性を得るに至ったという、人間の生が美しいものであるかのような、人間中心的な解釈はあまり好きじゃないな。

自分の生死には全く関心がない半面、母子関係の確かさを新一に確認しようとしただけであり、その結果、新一に語りかけるために、我が子を守る母親という母性的な行動になるわけですが、死ぬ瞬間も、「ふーん、これが死か」という程度の冷静さの中にありながらも、絶望的な孤独の中で生き続けてきたパラサイトとして、「こういう人間的なものも悪くはないな」と、ほんの少し淡い感情を抱いた、というロマンチックな解釈をしたいです。

どうだろうか。