最近の刑事裁判について その2


其の2です

先ほどアップした記事の後半からだいぶ脱線気味になったので、珍しく分けて書きます。

記事の中にも書きましたが、刑法には以下の規定があります。

「心神喪失者の行為は、罰しない」

「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」

この二つのルールにつき、引用した元特捜主任検事の方が書いた下記の記事では以下のような説明がなされているので、ちょっと長いですがそのまま引用します。

熊谷6人殺害事件で上告断念 死刑回避の理由になった精神鑑定はなぜ重要?

こうした規定に違和感を覚える人も多いだろう。いい歳をした大人が生死に関わる重大な結果を引き起こしているわけだし、被害者やその家族らからすると相手が誰であろうと関係ないからだ。素朴な正義感のあらわれとして理解できる。

 しかし、長い歴史を経て形づくられた近代刑法は、そうした結果責任論から脱却し、「責任主義」という考え方を基本原則としている。たとえ刑罰法規に触れる行為があっても、犯人の内面などに非難できない事情があれば、法的な責任を問えないというものだ。

 こうした責任能力の問題ばかりか、訴訟能力や受刑能力の問題もある。法廷の内外で支離滅裂な話をしていて意思疎通ができず、防御のための権利すら理解できない者に裁判を行うのは妥当でないし、自分がどのような刑罰を受けるのか、また、なぜそうした刑罰を受けなければならないのか認識できない者に刑の執行をしても刑罰の意味がないというわけだ。

これぞ知的エリートと言った感じの説明です。

この説明で納得できます?

昔はシンプルな結果責任論だったが、近代刑法では、そういった結果責任論から脱却し、責任主義なるものが原則となり、認知能力に問題がある人に刑の執行をしても意味がないとなった。

私はこういう説明を聞いても全く納得できません。

法廷の内外で支離滅裂な話をしていて意思疎通ができず、防御のための権利すら理解できない者に裁判を行うのは妥当でないし、自分がどのような刑罰を受けるのか、また、なぜそうした刑罰を受けなければならないのか認識できない者に刑の執行をしても刑罰の意味がない

とは全く思いません。

どうして意味が無いのだろうか。

遺族は納得するし、社会だって納得するでしょう。

悪い人に何の理由もなく親族友人を殺され、要するに正義の天秤が一方的に傾いたわけですが、個人的な復讐を認めるわけにはいかないから、社会が代わりに敵を討って傾いた天秤を元に戻す。

刑法なんてそれ以上でもそれ以下でもない。

しかし、知的エリートはそう考えない。

昔はAだったけど、近代刑法ではBなのだと、学校の先生が説明すると、ふんふん、なるほどと、それをノートにとって、試験に出ればそれを書いて合格し、そのまま専門家になって、一般人に聞かれた場合には、なぜかと言えば、近代刑法ではこうなのだと、オウムのように繰り返して説明する。

上の説明も、「そうなのだ」と言ってるだけで、実質的にはなんの理由付けもない。

私にすれば刑罰というのは、因果応報の強制的な実現そのもので、やったことに相応の報いを受けさせることでしかない。

罪を犯した人間が罰を受ける意味を理解できるかどうかという点を問題にするところこそ、何の意味があるのかよくわからない。

また、時々、厳罰化しても犯罪は減らないとか言う人がいますが、そういう人達、手のひらに世界を載せてあーしようこーしようと神目線で設計したい人からすれば、刑罰の目的は、こういうことすると罰が待ってますよと予告することで、犯罪を抑止して、犯罪のない世界をデザインすること。

彼らにとっては、向かうべき理想の社会が議論の対象であり、現実に生きてる人間の感情などどうでもいい。

むしろそんな、一般市民の感情論なる下等なものに振り回されるのだけは避けたい(その一方で国民主権とか民主主義とかを語るけど)。

私からすれば、犯罪が減らないどころが、増えても構わないから(ありえないと思うけど)、罪を犯した人間にしかるべき報いを受けさせてほしい。

悪いことした人間が国民が納得する報いを受けない社会になんて生きていたくない。

もちろん昔は、私のような因果応報派が主流だったわけですが、時代の流れとともに、人権派が台頭して、報いなんて考えは野蛮だとなり、よりよい社会の構築こそが課題であり、刑罰の目的はそのための道具として、犬に棒を振り上げるかのようにして、犯罪を予防することとなった。

そして、人権派というのは、人権、すなわち生きてる人間しか問題にしないから、既に死んだ被害者や、まったく関係ない遺族は度外視して、今目の前にいる加害者のことだけ考え、その加害者にとっての「意味」しか考えない。

ここで大事なのが、そういった、「時代の流れ」なるものを無条件で受け入れる人たちが多いこと。

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私が、刑罰は「責任主義」ではなく、問答無用に結果相応の報いを受けさせるべきなんて言おうものなら、「勉強不足」「古い考え」とか言われて、実質的に議論にならずに終わる。

江戸時代は身分制だったから、どんなに優秀でも家柄が良くなければ出世はできなかった。

にもかかわらず、平和で暇だったからということもあって、私塾などを作って熱心に勉強している人たちがたくさんいた。

共通カリキュラムなどはないし、勉強ができても出世にはつながらないので、それぞれ自分の興味がある分野を、自分の意思で勉強していた。

その結果、幕末になって、国難を乗り切るために広く人材を利用しようとしたら、化け物級の下級武士たちが全国に出現することになった。

そりゃそうで、モチベーション高く自分の好きなことを勉強してきた人たちだから、皆もれなく優秀だった。

しかし、明治政府が出来て、全国的に優秀な人材を大量に育成しなくてはいけないとなって、高等文官試験というものが始まる。

そこで初めて、学業の成績と試験の結果が結びつくこととなり、当然に試験科目として、学習すべき内容も固定される。

そして、そこから、与えられた知識を疑問を抱かずに鵜呑みにする人間から順に出世するという現代につながる悪習が生まれる。

もちろん明治維新の課題は、近代化して欧米諸国に肩を並べることですから、欧米諸国の法制度を輸入した。

その中の1つが刑法。

だけど、刑法が無い社会なんてなく、未開部族ですら、罪とそれに対する罰は用意されている。

それを外から輸入したって上手くいくはずない。

にもかかわらず、エリートたちは、一生懸命近代刑法なるものを学び覚えて、それを実施しようとする。

それを実施して国が良くなるかどうかなんて何も考えてない。

なにか反論があれば、それは古い考えなのだ、今はそういう時代じゃないのだ、日本は近代国家にならなくてはいけないのだと、自分達が「正しいもの」として教わったものを素直に実践しようとする。

あるべき国家を実現することが大事なのであり、先生なる存在から教わった考えをやみくもに実践して、現実の国民の不満を放置してその結果どうなるかなんて、何も考えていない。

そして、アメリカでトランプが生まれ、イギリスがブレグジットを決めると、信じられないと口を開けて呆然として、どうしてこうなってしまったのかと嘆く。

半七捕り物帖に『小女郎狐』という話があります。

目が見えない母親のもとに、娘が二人いて、妹は丁稚奉公に出ていて、姉が病気の母を看病しながらなんとか暮らしている。

そんななか、器量の良かった姉に、隣町のお金持ちの庄屋から縁談が来る。

しかし、それが面白くないと思った村の連中が、あの娘は狐につかれていると噂を流し、相手の男はそれでも結婚しようとするものの、家族の反対などがあり、縁談は破談となり、狐がついていると噂を流された姉は自殺。

そして、家に帰ってきた14歳の妹が姉の遺書を見つけ、何が起きたのかを知る。

そして、うわさを流した地元の不良たちのたまり場に夜中に行き、酔っぱらって寝静まったところ、火の中に松葉を積んでいぶして、建物を外から封鎖する。

その結果、5人死亡で、2人重体。

しかし、妹は狐の妖怪を装い、死んだ5人の墓荒らしまでして復讐を続けているところを、役人に捕まる。

しかし、地元の役人が誰をどう罰すべきが困ってしまって、江戸に使いを出し、指導を仰ぐ。

そして、江戸から来た裁きが下記。

重体の二人:嫉妬から根も葉もないうわさを流して縁談の決まった娘を自殺に追い込むなど言語道断、よって死罪。

妹:幼い身でありながら姉の復讐を果たしたことは感心。でも墓荒らしは良くないから所払い。水戸で奉公しなさい。

村人:娘がいなくなって盲目の母親は困るだろうから、村人一同でこの母親が生活に困らないように対処すること。

今でも日本人はこういう裁きが好きだと思うけどな。

ヨーロッパから輸入した近代刑法なるものを根本に据えて、日本人の納得する刑罰秩序の実現ができるんですかね。

生活の基本中の基本たる刑罰法規に関して国民の不満が高まってるというのはまずい気がするけどなあ。

ここだけは、国民の納得を最優先しないと。

無理に「近代国家」を目指して、その反動から全体主義国家になってしまって、しかも歴史は繰り返すなんて、絶対避けないと。