ウーバーイーツの評価制度とその機能不全


ウーバーイーツにおいて相互評価制度というのは本当に機能しているのでしょうか。


目次

はじめに

前の記事でウーバーイーツについて書きました。

ウーバーイーツの仕組みと利用にあたっての注意点

我ながら長すぎるとは思いますが、そうはいってもあれでも大幅に削っています。

個別のトピックについては、脱線したい箇所がたくさんあったのですが、全体像の描写に努めたため枝葉の論点は書きたくても我慢しました。

そして、脱線したかったことの1つが、ウーバーイーツが採用している相互評価の仕組み。

レストラン、配達人、注文者の3社がお互いに評価し合うという仕組みですが、これは本当に機能しているのでしょうか。

そこをちょっと考えています。

まあ、最初に結論を書いてしまうと、うまく機能していなくて、その原因は、現代人が抱える強い自己愛と存在不安により、今の日本社会は他人同士が直接評価しあうような状況にないです。

無関与・無関心がベスト

この自己愛バブルは確か、下記の記事の後半に詳しく書いたのですが、もう一度簡潔にまとめてみます。

無差別大量殺人犯が生み出される社会的要因について

ネタ文献はこれ。

現代社会を貫く啓蒙思想が16世紀くらいに登場し、神は死んで、人間主体の思想が登場します。

そして、人間、特に個人の尊重を中心とした思想が大々的に展開し、福祉国家論、社会権の登場、弱者の保護、マイノリティの尊重、多様性の尊重など、要するに、個人の人格が神の代わりに神聖化しています。

とにかく、人格がえらい。

典型的なのが、セクハラ・パワハラと言った各種ハラスメントやいじめで、被害者側からの定義が正式に採用されています。

つまり、「自分は傷ついた、不快だった」感じる人が出れば、それはハラスメントであり、いじめになるわけです。

それくらい、個人の人格は神聖化され、他人を傷つけたり、不快にさせたりすると徹底的に罰せられます。

会社で部下を叱る時などは細心の注意が必要で、叱り方を間違えてうっかり相手を傷つけちゃったりすると、「ミスしたことは謝りますがそんな言い方はないんじゃないですか」などと逆ギレされたり、ボイスレコーダー片手に「なぜ大声を出す必要があったのかご説明ください」などと逆に詰められることになり、「職務上の上下関係を勘違いしてしまい、対等なはずの他者の人格への敬意を欠いた」という不敬罪で罰せられます。

その一方で進むマクドナルド化した社会。

マクドナルドで、我々は言われもせずに列に並び、自分の順番が来てから注文を考えるなどはもってのほかで、並んでいるうちに注文は決めておき、順番が来たら直ちに店員に伝えます。

そして、注文が終わったら、横にズレて、注文のために並んでいる人と間違われないように細心の注意を払って、商品の出来上がりを待ちます。

他にもエスカレーターでは片側に立ち、もう一方は歩く人のために開けるなど、社会には暗黙のルールがたくさんあります。

このように、我々は、社会が滞りなく進行するように細心の注意を払うことが求められ、つまらぬ自己主張をして社会の円滑な進行を妨げようものなら、瞬く間に「困った人」として、ベストセラーの「職場にいる困った人図鑑」に載っているアイツになってしまいますから、とにかく自分を殺して、社会の効率的な運営に貢献します。

他人を怒らせるのは絶対にいけないけど、何かあって自分が怒ったときには、一時の怒りに任せて場を乱すなんて言うのは論外で、自己啓発本や心理学マニュアルを片手に、怒りを抑え心を整え、感情をコントロールして笑って受け流さなくてはいけません。

当然、そんなの耐えられるわけなくて、どうすればいいかと言えば、なるべく他人と関わるのを避け、余計な口は利かず、余計なかかわりは持たず、無関与・無関心で過ごすのが一番です。

自己愛バブル

では、現代人が無関与・無関心を強めていく中で、その心の中では何が起きているのか。

ちょっと前に、『ゆたぼん』とかいう10歳くらいの不登校Youtuberが話題になりました。

このゆたぼん、最初は完全不登校というわけではなく、給食登校(これ自体が意味不明ですが)、給食だけ食べに学校に行ったりしていたそうです。

しかし、同級生などから「ずるい」と言われたり、からかわれることがあったり、軋轢が生まれるようにって、一切登校しないようになったそうです。

この件に関して、心理カウンセラーである父親が、同級生にからかわれたりして、ゆたぼんは傷ついたが、学校というのは傷ついてまでも行かなくてはいけないものとは思えない、だから、自分を傷つけるくらいなら学校には行かなくてよいといった、みたいなもっともらしいことを言っていました。

まあ、ゆたぼんの不登校はどうでもいいのですが、人間関係には二つの側面があります。

それは、相手を尊重し、むやみにぶつかったりせず、多様性を受け入れて関係を維持していくという側面。

もう一つは、見解の相違などにより、他社との対立・軋轢が生じ、関係に亀裂が入っても、それを乗り越え修復して、より強固な関係を構築しなおすという側面。

もちろん、誰とも仲良くしたり、知り合い全員が親友になることはないですが、壊さないような配慮と同じくらい、壊れたものを修復する努力は重要で、大人が他者と交わりながら社会生活を送っていく上では不可欠な車輪の両輪です。

そして、それを学ぶ一番重要な機会が無邪気な学生時代。

大人から見るとくだらなくても、当人にとっては真剣な、数々のしょうもないけんかを経て、他社の尊重を学ぶとともに、対立を乗り越えることで生まれるより強い関係の構築を体験します。

大人らなら誰しも学生時代の友人など古くからの友人がいて、その友人との関係の強固さと言ったら、社会人になってから出来た友人とは別物と言えるかとは思いますが(例外もありますが)、なぜかと言えば、学校生活や恋愛などに関して、自分の未熟さを露呈させた経緯などを全部間近で見て知っている友人に隠すことなどないし、すでに様々な葛藤や衝突を乗り越えてきているからです。

自分をよく見せる必要がなく、また、数々の衝突を乗り越えて今の関係がある安心感から、非常にリラックスできます。

そこを考えると、給食だけ登校していることをからかわれ、友人関係にヒビが入ったときに、傷つくくらいなら学校なんて行かなくてよいと、その衝突を乗り越えてより強固な人間関係を構築する機会を一切放棄してしまう姿勢には疑問を感じます。

ただ、このような事態に直面しているのはゆたぼんだけではなく、上述したように、現代人はみな神聖化する他者とマクドナルド化した社会の狭間で、極力他人との余計な干渉を避け、無関心社会が出来上がっています。

その結果、無邪気な子供時代以外は、葛藤や対立を乗り越えて人間関係を強化していくプロセスが起きません。

もちろん、その一番の理由は、他人を傷つけてはいけないのと同じくらい、自分を傷つけたくないからです。

つまり、人格が神聖化しているのは他者だけでなく、自己もそうで、「傷つくくらいなら逃げていい」という風潮にしたがって逃げた先で、「生きてるだけで美しい自分の人格」が、他者との衝突によってじゅぶんに成長し、整えられることなしに、自分の中だけで、肥大化しています。

こうして、現代人は孤独の中で、自己愛を成長させていきます。

存在不安とスケープゴート

他者だけでなく自己の人格も神聖化され、無関心社会の中で他者との軋轢や衝突を経ずに、自己愛だけが肥大化していく。

しかし、自分の中だけで肥大化した自己愛を裏付けるような現実はあるのでしょうか。

残念ながらそれがない場合がほとんど。

本当は、自己というのは、もちろんと尊いものですが、成長する過程で、様々な衝突・敗北・挫折を繰り返し、修正されるもの。

本当のところは、いまだ実現していない「本当の自分」が素晴らしいのではなく、なんだかんだいいながら長い時間共にしてきた、ポンコツな自分がいとおしいだけ。

どっかで、自己愛はそういった諦めと裏表の自己満足に変わらなくてはいけない。

しかし、学校やメディアがやたら自己の神聖さを煽るので、自己愛が生み出す自己イメージと現実のギャップに悩む人が多い。

とはいえ、自己実現しないのは社会が悪いからだと、他責性全開でテロリストになれるのはある意味、そのきっかけに出会う偶然も含めてごくわずか。

多くの場合は、圧倒的な説得力を持つ現実に打ちのめされ、自己の存在への肯定感を失いそうになっている人の方が多い。

そういった、自己の存在が不安な人にとって、一番手っ取り早い解決策は、スケープゴートであり、似たような仲間と結託しつつも、作り出したスケープゴートを攻撃することで、自分を覆う不安から逃れることができます。

いじめ防止法の改正について思うこと

こういった、現代人の肥大化した自己愛やそれが引き起こす存在不安が、評価制度をゆがめているような気がします。

相互評価制度の目指すもの

もうちょっと、イントロが続きます。

ウーバーイーツは、シリコンバレーの代表的なテック企業です(創業者の評判はWeWork以上に悪い気もしますが)。

シリコンバレーの連中は、テクノロジーで社会を変えようとしていますが、そのリベラル気質にも特徴があります。

しかし、なかなかうまくいきません。

例えば、インターネット革命。

これが技術的に登場したのは冷戦が終わったあたりですが、画期的な発明として社会を変えるとされていました。

つまり、冷戦が終結し東側諸国の共産主義政権による監視政治が終わったこととも相まって、インターネットによる情報革命で、真の民主主義が訪れると期待されました。

自由な情報の流通が実現することで、情報の流通にも自由競争がおき、質の高い情報のみが流通するようになり、既得権益に支配された大手マスメディアの影響などは弱まり、人々が本当の意味で自己決定ができるようになって、真の民主主義社会が到来すると期待されました。

しかし、グーグルなどが登場し、情報流通の自由かは急速に進んだのですが、インターネットには、金儲け目当ての広告記事、大衆の野次馬根性を煽るだけのフェイクニュース、陰謀論などが氾濫し、リテラシーの高い国民の手による真の民主主義など全く到来せず、ネット上にはゴミ記事だらけで、社会はゴミ記事に右往左往する大衆だらけです。

しかし、本当のところ、誰かが強大な権力でそれを実現したわけではなく、我々一人一人が低俗であるがゆえに、自由な情報の流通の結果そんな事態になったわけです。

続いてきたのが、仮想通貨革命。

これも、デジタル通貨をグローバルで普及することで、中央銀行のいらない世界、つまり、通貨発行権という巨大権力を持った主体の存在しない、自由で平等な社会が誕生すると期待されていました。

そして、昨年には、ビットコインなどが世界中で一気に普及し、仮想通貨バブルがおきました。

しかし、その結果、ビットコインの流通は増えるかと思われたのものの、誰もが価格チャートと毎日にらめっこするだけで、つまり投機対象でしかなく、ある意味世界中の全員にとって外貨預金のようになってしまい、結局、通貨の一番大事な本質的な要素である、交換機能は誰も行使しないという結果に終わっています。

爆発的に広まった結果、通貨風の投機対象でしかなく、本当の意味での通貨ではなくなってしまいました。

誰でも、仮想通貨が普及すると、その結果社会全体が良くなるという理想像はなんとなく知ってはいたり、共感はしていても、いざ自分で保有すると自分の損得しか考えなくなり、みんな通貨として使用しようとは思わないからそうなるわけです。

そして、ウーバーが始めたのがギグワーク革命。

これは、ウーバーイーツに関して言えば、ウーバーは、レストラン、配達人、注文者という独立の3つの主体をつなげるだけであり、つまりプラットフォームを提供するだけであり、食品を提供する事業には一切かかわっていないという建前です。

その結果、ウーバーは責任を回避しているとか、個人事業主を都合よく使って搾取しているとか、まあ、悪い言われようですが、ウーバーの理想は少し違います。

ウーバーが実現したいのは、支配者のいない社会であり、個々の事業者が直接つながり、自分達はプラットフォーム提供の手数料をもらうだけで、一人一人が独立し、自由に創意工夫し、健全な競争による価格決定が実現し、不当な上前を撥ねる元締めのいない社会・サービスが実現すると考えているのです。

しかし、グーグル自身が情報の選別をしたがらないように、また、仮想通貨の発行体が管理権限を行使したがらないように、極力サービスそのものへの介入は避け、自浄作用を持つコミュニティの構築にまい進します。

そして、そのためには、3者間の相互評価が不可欠です。

レストラン、配達人、注文者が、お互いに評価し合い、問題点を報告し合うことで、それぞれのサービスの質が向上するとともに、クレーマー含め、3者とも一定以上低評価が集まった主体をサービスから除外することで、健全な共同関係を構築できると考えています。

よく、誰でも配達人になれるから質の悪い人間が混じっているなんて言われますが、それは何も配達人だけではなく、レストランだってそうで、誰でもレストランとして登録して食品を販売することができます。

また、これはウーバーイーツだけの話ではありませんが、様々な場所でトラブルを起こしているクレーマーでも何の審査もなく注文者として利用できます。

中に入ればわかるように、一定数どころか相当数の、質の悪い配達人だけでなく、質の悪いレストランやクレーマーが跋扈しています。

要するに、誰でも、配達人だけでなく、レストランににも、客にもなれるわけで、ただ、相互評価システムがあるがゆえに、悪質な行動は事前に牽制され、また何かトラブルが起きても改善され、一定以上改善しないものはサービスから排除されることで、サービス全体の質は保たれるという思想です。

壮大な夢であり、理想であり、決してディストピアではありません。

しかし、インターネット革命や仮想通貨革命と同様の展開になりつつあり、一人一人の参加者の行動により、まったく全体最適とは異なる方向に進んでいます。

ウーバーイーツでの展開

上述したように、ウーバーイーツも、レストラン、配達人、注文者の相互評価により、サービスの質の向上し、悪質な参加者は排除され、参加者全員が満足する世界が実現するはずです。

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しかし、一番最初に書いた、現代人の肥大化した自己愛と存在不安、そして無関与・無関心社会が生んだ「衝突への不慣れ」が、相互評価制度に機能不全を起こしています。

みんな衝突をを恐れ、基本的にお互い高評価をつけあって良しとし、万が一低評価をつけられたら、報復として低評価を付け合うというおかしな事態が横行しています。

低評価を理由と共につけられたら、改善すればいいだけなのですが、みんながみんな深い傷を負ってしまい、禍根を残すどころではないです。

自己愛型機能不全

まず、レストラン関連で多いのが自己愛型機能不全。

低評価つけると逆ギレしちゃって、一発で関係が崩壊するパターン。

私も配達人として、ある程度慣れた頃、社会人として余計な出来心を起こしてしまったことがあります。

それは、2回ほどレストランに指摘してしまったのです。

しかも、牛丼のチェーン店とかではなく、個人経営的なお店。

一個目は、登録されたレストランの住所の番地がおかしかったので、料理を受け取る時に、番地が少しおかしいから修正してくれると助かりますと店員に告げただけです(本当に間違っていた)。

まさか、バッグに積めて配達に出発しようとして私の所に、怒り狂った店長が襲撃してる来るとは思いませんでした。

そんなことほかの配達員の誰にも言われたことない、実際にピックアップに来れてるのだから別にいいじゃないか、何が問題なのかと、滅茶苦茶キレられました。

もう一個は、梱包の仕方。

汁物とそれ以外がある場合には、それを分けるのが普通。

また、温かいものと冷たいサラダなんかも分けるのが普通。

それをごちゃごちゃにしてたので、次からは分けてくれた方が助かるといっただけ。

そうしたら、またもや、そんなこと言われたこと一度もない、今までこれで問題が起きたことない、とキレられました。

この2つをもって、私は、二度とレストランに何か言うのを止めようと誓うとともに、もちろんその店には二度とピックアップにはいきません。

ただ、私も日和って、その店に低評価つけられなかったです。

さすがに絶対バレると思って。

それ以来、何があってもとりあえず店からは笑顔で受け取って、しれっと低評価をつけるとともに、ヤバそうなところは、低評価もつけず、ブラックリスト入り案件にして終えています。

つまり、これは私が主体ですが、相互評価で業務改善どころか、余計な軋轢を生むのを避けて、無関与無関心が最善策となってしまっています。

そして、万が一、サービス全体の発展のために指摘を続けようものなら、自己愛の高い相手方による報復低評価合戦が始まって、もう滅茶苦茶になります。

これはある意味レストラン側のプロ意識が高かったからこうなったのだと思いますが、自己愛が強いせいで、「低評価=人格否定」みたいな受け止められ方をしてしまい、とても率直な評価なんてできる状況にないです。

低リテラシー型機能不全

それから、注文者サイドに多いのが低リテラシー型機能不全。

これははっきり言って滅茶苦茶。

まず、仕組みを全く理解しておらず、とりあえず何かあれば、配達人の責任にするというタイプは結構います。

待ち時間が予定時間よりも大幅に遅れた場合も、アプリを見れば、レストラン側の問題なのか、配達人の問題なのかは一目瞭然なのですが、そういうことにはさっぱりわからず、とりあえず、配達人に低評価をつける注文者はたくさんいる。

また、買い物代行サービスと勘違いしていて、商品間違いがあった場合に、配達人に低評価をつける人もいます。

とくに、マクドナルド関連の注文でこれが多く、配達メモ欄に、ケチャップ2つとか、ドリンクは氷抜きとか書いてくる人が時々いて、当然店に伝わってないから実現しないのですが(このメモを見れるのは料理をバッグに詰めて配達を開始した後)、当の注文者は買い物代行サービスと思っているから、メモを読まない質の悪い配達人ということで配達人に低評価をつける。

また、登録すればだれでもできるのは配達人だけではなく、レストランも同様であるということを理解してない場合は(配達に関して何の研修・教育がないというのはレストランも同じで、アマゾンで買った適当なプラスチック容器に適当に入れて渡してくるところなんてたくさんある)、届いた料理に不備があった場合も、配達人の責任にする。

欲丸出しなラーメン屋がウーバーイーツ始めて、適当な安い容器でラーメンを配達人に渡した場合、汁がこぼれたりするのは配達人としては自転車で運ぶ以上どうしようもないのですが、そこが分からず、請け負った以上は完ぺきな状態で届ける義務があると、配達人に低評価をつける。

しかし、ここで登場するのが、素人の注文者としては、店の梱包が悪いのか配達人の運搬が悪いのか判断できないという見解。

しかし、相互評価、レビューというのは、サービス改善のためにあるもので、なにも公正な第三者としてどっちが悪いか裁判してくれというものではないです。

したがって、どっちが悪いかは主観的な判断でよく、もし本当にわからなければ、レストランに低評価をつければいい。

なぜかというと、よほど荒い運転しない限りこぼれるわけないなというレベルの梱包するレストランはたくさんあり、問題が起きるのはそうではないレストランだから。

それは配達人サイドの都合の良い意見であり、フェアーではないという意見が出てきそうですが、互いの人格を評価し合っているわけではなく、相互評価の本質はサービス向上の道具。

大事なことは、どうすれば自分のレビューによって同じ問題の発生が減るかであり、公正な判断かどうかなんて関係ありません。

どこの馬の骨が持ってくるかわからないサービスなんだから、何かあった場合に「どう考えてもこれは配達人の問題である」と判断できるような梱包をしてない以上それはレストラン側の問題ととらえない限り、何も改善しない。

もちろん、そんなことは私の良心が許さないと、サービス業かくあるべきという「あるべき論」片手に公正性を貫き配達人を攻撃し続けても、死んだ後に天国には行けるかもしれませんが、現生ではその店の配達に関してトラブルが起き続けます。

以上が低リテラシー型機能不全。

存在不安型機能不全

そして、最後が存在不安型機能不全。

これは、本当に多い。

何かというと、配達人を下に見てくるレストランの店員や注文者は本当に多い。

これは配達人を経験して、本当にびっくりした。

ここまでひどいとは思いませんでした。

まず、レストランでは、やたら客に愛想を振りまいてヘコヘコしてる店員で、相手が配達人となった瞬間横柄な態度を取るタイプは多い。

まあ、学生時代から、ボスみたいなキャラに積極的に忠誠を誓うことで、それ以外に威張るような、ランクをつけてその中間に自分をはめることで、他にマウントするタイプはたくさんいたから、驚かないけど。

とはいえ、自分も良くいく浜松町のレストランにたまたまピックアップに行ったら、いつも愛想のよい店員が、店内の客にペコペコ愛想を振りまきながら、既に用意されている料理を一向に私に渡さず、忙しそうなバイトの子に、手が空いたらでいいから料理あいつに渡しといてみたいなことを言ったときはびっくりしました。

他にも、ちゃんと届けてくれよなみたいな威圧をしてくるレストランも多くてびっくり。

今日もちょろったやったのですが、注文番号確認したら、最近炎上騒動があったからなのか、あなたは何々さんだなと名前を呼んで、俺はちゃんと監視してるかならなオーラだしてきました。

その時の店員コンビの偉そうで威圧的な態度。

本当に、配達人を自分達の使用人か何かと思ってるんでしょうね(他人にタメ口聞いて社会人として恥ずかしくないのかなと思う)。

そして、偉そうなレストランほど梱包が甘い。

スープの蓋にラップをして、自分達はしっかり梱包してるオーラを出していましたが、そんなのどこでもやってるどころか、その上からテープ巻いて初めて合格とも言えますが、それはせず、スープとご飯ものが同じビニール袋にスカスカの状態で詰められていて、威張る前にトラブルが起きないような梱包しろよと言いたくなる店でしたが、そこは言えず。

また、配達人にマウント取りたがるのは、注文者も同じ。

私は、アマゾンでもピザーラでも、何の配達を受けるときも、インターホンでは「はーい」って返事しますし、受け取る時も笑顔でありがとうございますと言います。

こんな人間に育ててくれて本当に親に感謝。

しかし、返事しない、目を合わさない、あいさつしない、終始けだるそうな態度、料理を奪い取るように取る、チャットをしたときに、「ですます」をつけない、こんな注文者がたくさんいる。

当人たちからすると、なぜ配達人如きに配慮をしなくてはいけないのか、という所なのでしょう。

最大の闇は、高級マンションに住むお金持ちは皆愛想がよく応対も丁寧で威張ってるタイプは少ないのですが、中間層にこの横柄なタイプが多いこと。

そうやって人間にランク付けをして、「下の人間」を作り、自分を等身大より大きく見せる「お化け鏡」として使わないと、自分の存在が不安なんだろうと思います。

上に書いたリテラシー不足型機能不全の本質も、根っこの部分はリテラシーの不足ではなく、自分の思い通りに事が運ばなかったときに、傷ついた神聖な自己の修復のために、配達人という「身分の低い出来損ないの人間」が必要だから、全部配達人のせいにするんだと思います。

キレ方が異常というか、単なる配達トラブルに対する怒りじゃすまない量の怒りが内面から沸き起こっている気がする。

そして、配達人のせいにしながら妙にレストランの肩を持ってやさしさアピールするのは(私は良いとしてもせっかくの料理を台無しにされたレストランがかわいそうとか)、まさに配達人がスケープゴートとされていることの証左でしょう(かなりの割合で、ろくな梱包をしない・無茶なものを適当な梱包で運ばせる・厨房がスタックしてるのにネット注文止めないレストランが元凶なんですけどね)。

まあ、私は、幸い副業としてやっているだけですから、せいぜい威張ってろと心の中で思うだけですが、そうじゃない人がどういう思いをしてるかと考えると言葉にならないです。

ただ、こういった状況は心理的に作用して、やっぱり評価をゆがめると思う。

そして、以上のような一触即発の緊張状態の中、無関心の発露としての高評価の付け合いと、心理的な報復のような低評価合戦が始まって、まったくサービス全体が向上しない状況が生まれつつある。

これが、ウーバーイーツの相互評価制度の現状。

結局、参加者が、サービスの向上という合目的的行為とかけ離れた個人行動に突き進むせいで、まったく機能していないどころか、ヘイトの連鎖を生みつつあります。

逆ギレ、蔑視、無理解、一部の余裕のあるお金持ち以外、相互評価が機能するような状況じゃない気がします。

ウーバーからすると、プラットフォームを提供し、相互評価とそれに伴う3者間コミュニケーションが進めば、どこの馬の骨が持ってくるからわからないからこそ安くて便利というウーバーイーツにおいて、ラーメンを売ろうとするレストランやラーメンを配達してもらおうとする注文者は消えていなくなるはずなのですが、全くそうならずに、どいつもこいつも、自分の強欲は棚に上げて、あるべき論片手に諍いばかり。

さらには、結局うまく取り仕切らないウーバーが悪いなんて結論になったりするのですが、中央集権的な権力機関がなく、自立した参加者同士の健全なコミュニケーションと競争によるユートピアを夢見ているシリコンバレーの企業には全く通じません。

何かあったら、すぐに管理者の責任を問うというお上頼みの発想に関して、結局大衆はファシズムに惹かれるのかなんて頭を抱えているかもしれません。

もちろん、無政府状態かファシズムの二択ではなく、ちょうどいい状態こそが求められるわけですが、権力というのは一方通行ですから、治安維持法のように、最初は良いものだったとしても、やりすぎだぞとなった時に逆転させる方法はありませんから、一度プラットフォーマーが介入し始めると収集がつかなくなる(食べログがいい例)。

結局いつもの議論か。

誰か、「市場の失敗」とか「民主主義の失敗」ではないですが、「レビュー制度の失敗」みたいな論点まとめてくれないかな。

おわりに

みなさんご存じように、先日、ウーバーイーツの配達員が受取拒否されたつけ麺をマンションの共用部分にぶちまけるという炎上事件がおきました。

しかし、そのリアクションを見ていると、この国じゃ相互評価は機能しないだろうなと感じたので書いてみました。

あるべき論をどれだけ展開しても、状況改善にはまったくつながらない。

こういうと、それは甘えだとか、プロ意識の欠如という話が始まる。

一切利用しないならそうやって徹底的に仕組みを批判するのもわかるけど、利用しておいて、目の前の配達員に説教し続ける気なのだろうか。

もう一度同じトラブルが起きても、公正な評価者としてジャッジをして配達人に低評価、そしてまた同じトラブルに遭遇して、またもや公正な評価者として配達人に低評価。

これで何が解決するんだろうか。

そして最終的に、カオスに耐え切れなくなって、「悪い奴」をぶった切る中央権力装置の登場を望む。

合目的的な思考を排除して、あるべき論や道徳論・善悪論をひたすら唱えつづけるというのも、ある意味、肥大化した自己愛を抱えて漂流している現代人が自己の存在を肯定したい一心なんだと思う。

結局、みんな宗教が必要なんですかね。

私は正しい、なぜなら、この教義をしっかり守っていると。

現実と折り合いがつかない自己愛の部分は、教義を守り、あるべき論を主張し、原理主義者のように「正しい生き方」をすることでしか満たせない。

そして、万が一自分の神聖な自己を傷つける不届き者が現れた場合には、その輩があるべき姿とかい離していることをもって徹底攻撃し、その裏側で、教義を守っている自分を肯定する。

最終的に、「間違った人間」の排除を約束する権力者の登場を歓迎するんだろうな。

これこそが、現代人の病か。

まあ、話が本当だとしたら、どんなに腹が立っても、料理を共用部分にぶちまけるなんて話は許されませんけどね(写真を見る限り、ぶん投げたようには見えないけど)。

とはいえ、玄関先での応酬などを配達人としての経験から勝手に想像するに、よほど腹に据えかねることがあったのだろうなとも思ってしまう。

そこは同じ仕事をしている人間として、同情してしまいます。

何より、これは関西の出来事らしいですが、汁物を紙袋に入れて配達させるレストランがあるのかと、恐怖に震えました。

配達人としては、バッグもダメになっただろうし、受取拒否されても、汁の沁みた紙袋などもう一度バッグに詰めるわけにもいかない。

また、受取拒否後、配達完了にするわけにもいかず、カスタマーセンターからの対応をまって次の仕事に移れない状況で何十分と経過。

そして、それが本当に自分の責任なのかという疑問。

そんなの配達員の責任だろうとか、自業自得でありお前の都合なんて関係ない、とかいうもっともらしい言説の背後に確かにある蔑視。

誰もが、肥大化した自己愛を抱えつつも、現実とのギャップに苦しみ、スケープゴートが必要な状況。

こんな状況じゃ相互評価制度なんて機能しないでしょうね。

もうちょっと整理がひつような気がするけど、まあいいや。


観たんだけどレビュー記事書くか迷ってます。