映画「JOKER」を観て思ったこと


話題なのでさっそく見てきました。

公開されたばかりですが、人間や社会のリアルな描写から、既にアカデミー賞確実なんて言われている「JOKER」をさっそく見てきました。

映像、音楽、構成いずれもよく出来ていて、かなり面白いので間違いなくお勧めできますが、見終わった後にちょっと暗くなってしまうような映画でもあります。

物語は、バットマンシリーズに登場する名悪役のJOKERがどのようにして誕生したのかという、バットマンのスピンオフ作品です。

腐敗する街で凶悪犯罪を繰り返し、街がパニックになり、多数の死傷者が出ても、ただ、笑うだけ。

何をやっても彼にとってはジョークでしかない、というかなりサイコパスなJOKERですが、どのような経緯でそんなモンスターが誕生したのかを描いています。

主人公アーサーは、貧しく不幸な境遇の中で、本人的には何とか踏ん張って生活しているのですが、誰も助けてくれず、愛する人は愛してくれず、周りからは蔑まされ、将来に関して希望の光は全く見えません。

そんな状況で生きている不幸な人間が、やり場のない怒りの中で、絶望と哀しみが行くところまで行き、ふとしたきっかけで爆発し、暗黒面に落ちて、JOKERが誕生するというストーリーです。

製作陣的には、政治的・社会的なメッセージはないとのことですが、どう考えても、社会的な背景を読み取らざるを得ず、妙にリアルに感じてしまう作品です。

JOKERを生み出す社会的な雰囲気だけでなく、モンスターたるJOKER自身の内面にも共感出来てしまうところが、よく描けているなと感じます。

しかし、よくよく考えてみると、非常にアメリカ的なリアルで、日本人にはちょっとわかりづらいところもあります。

JOKERは白人で、憧れている人気テレビ司会者マレーも白人で、弱者を救うために戦うとアピールする政治家トマス・ウェイン(バットマンの父親に当たる)も白人。

そして、マレーもトマス・ウェインも、スポットライトの当たる華やかな世界で生きていて、この二人に代表されるような上流白人は、正装して綺麗な劇場に集まり、庶民生活を風刺するチャップリンの映画をみて笑っている。

しかし、主人公アーサーも同じ白人ですが、周りに白人はいません。

ここら辺が、この映画にメッセージ性を見ないではいられない点で、主人公が日常生活で関わる人達は、街のギャングやら、ソーシャルワーカーやら、アパートの隣人やら、皆黒人かラテン系で固められています。

つまり、上流下流の二極化社会を描きつつも、白人なのに非白人に囲まれながら下流で暮らす主人公という点で、白人なのに下流という、人種意識的なものが登場します。

ここら辺の孤独感や負け犬感というのは、ある程度想像はできますが、日本人としてリアリティを感じるのは中々難しいところです。

ただ、アメリカでは、結構リアルな感情なんでしょうね。

そうやって、日本人としての感覚と比較していくと、少し違和感も出てきます。

まず、上流下流という二極化社会が生み出すヘイト、というステレオタイプの見方。

もちろん、そういったヘイトはないわけではないのでしょうが、個人的には、日本人としては、フランスの黄色いベスト運動の方がリアルに感じます。

黄色いベスト運動も庶民の運動で、運動というより暴動と化していますが、あの運動の本質にあるのは、下流対上流ではなく、下流対中流です。

黄色いベスト運動とノートルダム寺院の寄付の話

フランスは、教育制度や子育て支援などの福祉制度の充実がよくマスコミなどで持ち上げられたりしますが、実態としては、豊かな中流の生活を下流が支えるという構図になっています。

中流階級の人が、日本からすると考えられない豊かな生活を送っているわけですが、高い消費税率や超学歴社会などで移民などの下流層にしわ寄せをして福祉制度を実現維持しているという現実があり、社会の多数派を占める中流層が自らその現状を変えるはずがありませんから、暴動が起きているわけです。

一部の金持ちを襲撃しているわけではなく、何が自由・平等・博愛だと、中流層が多数派を占める社会そのものを攻撃しています。

そして、この構造は日本にも当てはまると言えます。

もともとは一億総中流だった日本では、環境の変化にいろいろなものが対応できていないと言えますが、その結果として、既得権益のような中流層が大量に発生しています。

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もう5年以上前ですが、私がシステム開発の仕事をしていたころ、私はシステムのデザインをする仕事だったので、いろいろな部署の社員の方を話をしました。

そうするとどの部署の人と話していても、雑談の中で、会社に無駄が多いという話が登場するのですが、私は、もし会社がグーグルにでも買収されたら、業務が徹底的に合理化されて、管理部門のコストなんて10分の1くらいになるんでしょうねなんて話をします。

そうすると、みんな、本当にそう、大改革が必要、と同意してくれましたが、最終的に、そういう自分達の人件費も10分の9に入ってるかもしれませんねと笑って終わります。

みんな薄々は気づいています。

システム開発に当たって、色んな社員から要望を聞いてシステムのデザインをするのですが、色んな人達から、自分達の意向が全然反映されていない、社員の要望を聞かなかったら業務改善につながらないじゃないか、いったい誰のためのシステムを作っているのかと、たくさんのクレームも受けました。

しかし、自分達が目指しているのは、社員の要望を反映し社員が使いやすいシステム、すなわち社員にとってのパラダイスではなく、No man land(無人島)つまり、社員がいなくても会社を動かせるシステムであり、技術や予算の問題で一気にその状態にいくのは無理だとしても、それに行くための布石としてのシステムなので、システムの合理的な設計が最優先で、社員目線での細かい配慮や使い勝手の工夫などまったく気にしていないという点は理解してもらえませんでした(理解されるはずもないのだけど)。

お前何様だと言われそうですが、それくらい、人材なんて不要な時代が到来しています。

そうはいっても、労働基準法はあるし、一気にAIを駆使したスーパーシステム会社に移行もできないし、会社の中にはコストに見合わないポジション・業務・人材であふれています。

社会の超高度な効率化が進み、富を生み出しているのはほんの一握りの人達という傾向が強まっていて、下流も中流もそれを分け合っているだけなのですが、中流層は既得権益層として、より多くの配分にあずかれています。

ある意味実力に比例しない富の分配が行われており、下流の犠牲の上に中流の生活が成立している面があるわけです。

つまり、大企業の社員という(もちろん全部じゃないけど)、社会に適応できていなくても能力以上の待遇が保証されるという、誰でもなれるが席は限られているという既得権益たる中間層の席を巡って、椅子取りゲームが大々的に行われているのが現代社会です。

そして、その席を運良くゲットした側も、押し寄せる徹底IT化やAI化の波の中で、なんとなく自分の仕事の無意味さを感じています。

しかし、生活する必要がありますからしがみつくしかありません。

そして、足元がおぼつかない自己肯定感を満たすには、自分より下を見る必要があります。

そして、自分を納得させます。

あの下層な連中と自分は違う、運で椅子取りゲームに勝っただけなのではなく、明確な実力の差があるのだと。

一方、下層の方では、何が異なるのかわからない、あの中間層の連中はただ椅子取りゲームに勝っただけではないか、実力ではなく、下層を搾取する社会構造の上に運よく立っているだけではないかと。

この対立こそが、SNSで散見されるヘイトの温床の1つの気がします。

そういう点では、会社を創業してお金持ちになった人や大成功した芸能人やアスリートに対して、給料が分不相応だと嫌悪感を持っている人というのは少ないと思います。

つまり、日本社会にも上流下流の対立はないわけはないのでしょうが、相対的貧困なんて言葉の登場が表しているように、実際にバチバチ火花ををまき散らしているのは、下流と中流の対立のような気がします。

そして、そうこうしているうちに、外資系のテック企業に根こそぎやられるという未来が迫っていると。

そう考えると、話は急に戻りますが、この「JOKER」という作品、社会の二極化、民族主義の台頭、偽善だらけのメディアなど、見事なまでに現代社会を描いているようですが、ある意味徹頭徹尾ステレオタイプかもしれません(まあ、アメリカという国が特殊過ぎるというのもありますが)。

少なくとも、この映画を見て、「これはリアルだ、もうすぐ日本も下層がこんな風に暴れる日が近いよ」なんて評論している中流層の人間が、社会の構造的な問題の本質に気づかないという本当の問題に一役買っているかもしれません。

最近過激すぎかな。