いじめ防止法の改正について思うこと


さすがにこれは仕方が無いような気が・・・

はじめに

今日、Yahooのニュースを見ていたら、いじめ防止法等法律の改正案に関する記事がありました。

【#しんどい君へ】揺れる「いじめ防止法」…放置した教職員を懲戒すべきなのか

簡潔に内容をまとめると下記のようになります。

いじめ防止法の改正案のまとめ作業が難航中。

改正案につき、昨年12月に試案が出たのだが、学校・教員への負担が大きすぎるということで、今年4月に、超党派国会議員の勉強会において、試案から大きく変更がなされた座長試案が出された。

これに対して、いじめ被害者の遺族会などが猛反発しているという状況です。

そこで、具体的にどのような修正に猛反発しているから調べたら、12月試案にあった、いじめを放置、助長した教職員を懲戒処分とする規定が、座長試案では削除されたと報道されているので、さすがにそれはひどいと思ったのでいろいろ調べたら、やっぱり報道の仕方に問題がある気がしてきた。

そこに触れつつ、いじめ問題で避けて通れない点を考えてみます。

座長試案による修正

まず、現行法、昨年12月試案、座長試案の比較については、下記を参照ください。
https://shibutetu.files.wordpress.com/2019/04/ijime.pdf

さすがに全部については触れられないので、あくまで個人的に気になったところだけをコメントします。

まず、いじめを放置、助長した教職員を懲戒処分とする規定が、座長試案では削除されたという箇所。

まず、下記の条文が、12月試案にはあったのに、座長試案では削除。

第二十四条の二の二 地方公共団体が設置する学校の教職員の任命権者は、当該学校の教職員がこの法律の規定に違反している場合であって必要があると認めるときは、地方公務員法第二十九条の規定に基づき、適切に、当該教職員に対して懲戒を加えるものとする。

まあ、これは、もともと公立学校の教職員には地方公務員法に懲戒の規定があるわけですが、いじめ防止法に違反した教職員には、その懲戒を与えろと言っているような条文です。

しかし、「必要であると認めるときは」という限定がついていますから、地方公務員法29条の条文と重複していて、有っても無くても、意味のない条文ととらえられるような気がします。

ただ、この条文の趣旨が、いじめ防止法に違反した教職員には原則的に懲戒処分を与えるという方向で機能するならちょっと話が違ってくる。

なぜかというと、もう一つの、座長試案で削除された条文が下記。

第八条4 学校の教職員は、いじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有し、いやしくもいじめ又はいじめが疑われる事実を知りながらこれを放置し、又はいじめを助長してはならない。

この条文の削除をもって、いじめを放置・助長した教職員への懲戒が削除されたとするのは言い過ぎでは。

問題は、前半の「学校の教職員は、いじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有し」という箇所。

こんな条文があって、違反した教職員は原則懲戒なんて規定作ったら、事実上教職員にいじめの結果責任を全部負わせるに等しいような気がする。

「法律とは何か」なんて問いだしたら、哲学者が活発な議論をはじめそうですが、一つの重要な性質として、裁判の基準という機能があります。

どんな争いも、最終的には裁判所に行き、原告と被告で議論を尽くし、十分に対論することから浮かび上がってきた真実に、法律の条文を適用して、裁判官が判決を下す。

しかし、「徹底して守り通す責務」なんていう義務だか責任だかを負わされたら、浮かび上がった事実が何であれ、いじめ被害者が出たら、学校側が負けるのが決定しているようなもの。

特に、いじめ防止法において、いじめの定義は、下記のように定められています。

第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

長い条文ですが、最後の、「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」という箇所が肝で、要するに被害者側からの定義です。

つまり、昨今の各種ハラスメントの議論と同じですが、被害者がこれはいじめだと言ったら、それがいじめに該当するという定義です。

さらに、座長試案において12月試案から削除された条文に下記のようなものがあります。

 前二項の規定の適用に当たっては、児童等の生命及び心身を保護するとともにその尊厳を保持することの重要性に鑑み、これらの規定に規定するいじめの定義を限定して解釈するようなことがあってはならない。(orこれらの規定に規定するいじめの定義と異なる解釈によりいじめの事実の有無の確認を行ってはならない。)

つまり、上記の被害者がいじめと言ったらそれはいじめなんだという条文を補強する条文で、それをなんらかの別の理由で、「それはいじめとは言えないのではないか」と疑義を呈することは許されないという規定であり、学校関係者どころか裁判所まで縛る感じです。

過去に何例も、学校側が、「いじめだとは思わなかった」と言い訳するような許しがたい事例が発生している以上、この規定の趣旨は分かるのですが、学校側の裁量権を完全に奪う規定であり、どんな些細なものでも、被害者がいじめだと言ったら、他の条文で追加されているような学校側・教育委員会・文部科学省の詳細な対応をフル稼働させなくてはいけなくて、それに従わないと、いじめを放置・助長したということで懲戒になるという試案です。

こうした状況を考えると、「いじめを放置助長した教職員は懲戒処分に該当するか」と聞かれれば、「そう思う」と答えますが、今回の座長試案は教育関係者に過度に配慮しすぎかと言われると、「いじめの放置・助長」の範囲が広すぎるきらいがあるし、その他学校側の負担がすさまじく、12月試案が過激すぎて、学校関係者に酷すぎるという感想を持つのが素直なところです。

特に、いじめの加害者の存在を考えると、学校の先生だってある意味被害者であり、また、昨今のモンスターペアレンツや体罰禁止によるなめくさった生徒など、本来は社会全体で支えなくてはいけない学校の教員の負担が増大し、どう減らすべきか議論している中で、ここまで負担を増やすのはあまりに非現実的だと思います。

他にも、学校側へのいじめ防止対策案の策定の義務化とその詳細に関する規定など、エンロン事件を受けたSOX法騒動のど真ん中に監査法人にいた身としては、計画の策定や文書化を学者が推すのは分かるのですが、超詳細なドキュメンテーションや長時間の研修をするといじめ被害が根絶するかと言えば、NOでしょう。

こうしてみると、12月試案の一番の問題は、全体を貫く、「学校側が適切な対処さえすればいじめ被害は根絶できる」という思想でしょう。

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いじめ被害者の遺族がそう言いたいのは分かるし、個々の事例をみていくといい加減な対応をしておきながら適切な処分を受けていない教職者もいるだろから、部外者として偉そうなことは言いたくないのだけど、「学校側が適切な対処さえすればいじめ被害は根絶できる」は違うと思う。

いじめの構造をちょっと考えてみます。

BullingとMobbing

いじめを英語にすると、Bulling(ブリング)とMobbing(モビング)の二つがあります。

Bullingの語源はBull、つまり雄牛。

要するに、雄牛がその角で弱い牛を牧場の隅っこに追いやる行為のことで(たぶん)、いじめとしては、弱い者いじめの類。

外国では、いじめと言えばこれが主流らしいですが、日本だとこれじゃないのもあります。

Mobbingというのは、和製英語であるモラル・ハラスメントを英訳もMobbingらしいですが、Mobというのは群衆とか暴徒という意味で、集団が個人を攻撃するようなものです。

したがって、ヤンキーがひ弱ながり勉をいじめるのはBullingですが、学級会の時に、おしゃべりがやまないので、「いい加減静かにして!」なんて叫んでしまった優等生の学級委員が、それ以来、「あいつ最近調子乗ってない?」「いい子ぶってんじゃねーよ」「成績良いからって威張るなよ」とクラスから無視されるようなものはMobbingなんでしょう。

まあ、英語との対応なんてやっても仕方がないのですが、今回問題にしたいのは古典的な「弱いものいじめ」ではなく、貧乏な子も金持ちの子も、勉強できる子もできない子も、いつだれが被害者になるかわからず、なんかのきっかけで目立ったことにより始まるMobbing型のいじめです。

こういう事例で根本にあるのは、個人と個人の差異。

差異の中でも一番わかりやすいのが、持ってる持ってないから生じる嫉妬や妬み。

ここで重要なのが、任天堂のスイッチがほしいが親に買ってもらえない状況だったとして、ちびまる子ちゃんで言う花輪君のような、超セレブな子が持っていたとしてどう思うか。

まあ、うらやましいなと思っても、そこまで嫉妬は悪質にならない。

しかし、自分と近いタイプの子が、親に買ってもらったりすると、嫉妬は強くなります。

つまり、他人との差異というのは、大きいと、「まあそういうもんか」とか、「あいつとは住んでる世界が違うから」なんて納得出来たりするのですが(究極系は身分制社会)、均質的な人間同士になると、微妙な差異でも摩擦の原因になります。

したがって、徹底的にみんな平等を訴え、しかも実際に似た者同士が集まりやすい中学や高校などは、実は集団としては非常に不安定な状態にあります。

似た者同士が集まっていて、なんとなくの緩い共感がいつもそこにあるからこそ、ちょっとした差異から摩擦が生まれやすい。

一体感がありそうで実は、誰もが他者との微妙な差異に一喜一憂していて、小競り合いに満ちています。

しかし、その一番の回避方法がスケープゴート(生贄のヤギ)を作り、そいつを排除すること。

変な奴を作り出し、そいつを攻撃し、みんなでそいつの変さに照準を合わせると、その他大勢の自分達の差異を気にしなくて済むようになり、集団は安定します。

「あいつキモイよねー」と言いながら、心の中で「その点私たちは普通だよねー」とつながることが可能で、生贄のヤギ以外は「みんな仲良し」になれます。

つまり、均質化・標準化した、みんな同じ状態の集団というのは、些細な差異から生じる小競り合いが常に起きていて、本質的に不安定なわけですが、線を引いて一人をあちら側に追いやり、自分達はこちら側に来ることで、みんな同じ仲間ということで、集団は非常に安定します。

このように、Bullingタイプいじめと異なり、スケープゴート(人身御供とか)を出してみんなで一体感を得て安定した組織を作るというのは、学校や会社などの、組織の中で同じ役割を与えられた均質的な個人の集合においては、発生が不可欠なんだと思います。

つまり、結束した集団の裏側には、必ずMobbing型のいじめが存在すると言っても過言でないわけです。

いきなり本論

ここにきて、いきなり本論。

実は、私が言いたいのは、今回の12月試案における、学校への負担の大幅強化をいじめ被害者の遺族会が要求しているというのは、上述の、結束の裏側で必ず生じるMobbing型のいじめそのものではないかということです。

つまり、いじめ被害者の遺族会が、いじめ対策を議論すればするほど、学校側の責任を追及するようになるんじゃないかと。

そして、今回の12月試案のような、学校側が事前にパーフェクトないじめ防止対策を策定し、研修などを通じてパーフェクトな教員を揃え、個々の事例にパーフェクトな対応をすれば、いじめ被害は根絶できるといった流れになるのではないかと。

なぜかというと、いじめには学校側の関与の仕方も様々ですが、被害者も様々、加害者も様々、被害者の家庭環境や教育方針も様々(加害者側も)などとなっていく中で、学校のできることには限りがあるなんて言ってしまうと、いじめ対策の議論は被害者の性質、被害者の家庭環境や教育方針の話をせざるを得なくなります。

そうすると、いじめい被害者遺族会の中で、うまく対応していたと判断される遺族と、家庭の対応や被害者本人の対応に問題があったと判断されざるを得ない遺族の分離といった残酷な事態が発生するからです。

「お宅の場合は、もしあなた方両親がこのように対応していればご子息の自殺は防げたのでは?」なんて発言は口が裂けても言えません。

なんとなく、これ以上書くと一番ヤバいタイプの炎上になるかもしれないので書きませんが、心に傷を負ったいじめ被害者遺族や、それに寄り添うやさしい専門家などでいじめ対策を議論し、一致団結して政治的社会的活動をすると、必然的に学校がスケープゴートになるような気がするのです。

そして、それこそ、いじめの本質であり、無関係のようで同じ社会の住人として決して無関係ではない私たちこそが、いじめ問題を考えていく中で、冷静に見つめなくてはいけない本質の1つだと思います。

参考文献