オリンピック開催の是非のどうでもよさについて


大した話じゃないという視点こそが重要です。

はじめに

GW中、衣替え的な感じで部屋を整理していたら、買ったまま読んでなかった丸山眞男関連の本が出てきたので読んでいました。

そうしたら、オリンピック開催の是非をめぐる問題に関して感じるところが出てきたので書いてみます。

日本の人間教育

佐久間象山と横井小楠という二人は英雄あまたの幕末期においても、開国派きっての頭脳派として知られています。

まあ、開国派や攘夷派といっても濃淡ありますし、なにより情勢変動が激しい中、その思想内容も内部で急激に変化していくので、単純な二分法はあまり適切ではないとは思いますが、一応開国派としておきます。

この二人、参勤交代とかで諸藩をいじめて幕府権力の安定を図るような政策は国を消耗させるだけで、諸外国との差は開くばかりだから欧米に倣って開明的な国家を作るべきと考えます。

そして、二人とも政治の要は人材にあり、すなわち教育にあると考えているものの、ここが面白いのですが、この二人、諸外国の合理的な部分の導入に賛成しつつも、一人一人の教育に関しては、キリスト教の影響を受けた西洋より仁義を重んじる日本の方が優れていると考えていました(二人とも儒学者だから当然ですが)。

そして、政治は優れた人材に担われるべきと考えており、選挙という仕組みで無教養な一般市民から政治家を選ぶような制度には賛成しておらず、従来のエリート型政治のままでいいと考えています。

自然科学は欧米にならうとしても、人間教育の内容については儒学的な道徳教育の方が優れており、道徳的に優れた人間こそが政治を担うべきと考えていました。

福沢諭吉の考え

しかし、これに真っ向から異を唱えた人に福沢諭吉と言う人がいます。

この人は、選挙で政治家を選ぶという、欧米型と言うか、現代的な民主主義者です。

この人は、民主主義を支えるには個人の能力・資質が重要である点では同じなのですが、その資質として一番重要なのは「一個独立の気象」であると、独自の訳語を使って説明します。

つまり、民主主義においては、個人個人が気概を持って独立していることが何より重要で、その点、日本の道徳教育というのは、親を敬え主君を敬えと、幕府の支配を裏側から支えるようなものになってしまっており、究極的には、お上頼みの人間を作る装置になっていて、独立した個人育成という点では「ま逆」のものと考えています。

自由主義・民主主義を推し進めつつ、気概を持って独立した個人を育てることが重要と考えていました。

ニヒリズム・相対主義

しかし、当の手本の欧米側にはニーチェという化け物がいます。

「神は死んだ」と言った人で、ニヒリズムの到来を予見した人です。

どういうことかと言うと、ヨーロッパでは中世の教会支配が終わり、啓蒙主義の時代が来て、人間の知性を重視する社会が到来します。

そして、神の希望する世界の実現が目的ではなくなり、ではどんな社会を構築すべきなのかと言えば、自由で平等で、個人個人が自分なりに生きる意味や人生の目的を見つけつつ、幸福を追求する社会です。

念仏のお題目としては美しいのですが、これがニヒリズムを招くというわけです。

なぜかというと、例えば、殺人犯にどんな刑罰を科すべきか。

死刑賛成派もいれば反対派もいるでしょうし、刑罰の意義をめぐって、犯した罪への応報として罰を与えるべきと考える人もいれば、それは野蛮で、教育や治療こそが重要という立場もいるでしょう。

それのどちらがいいかはさておき、教会支配の時代と言うのは、それらの議論は究極的には聖典の解釈の問題に帰着でき、結局神様はどう考えているのかという正解を探す議論でした。

しかし、「神が死ん」で人間の知性の時代が来ると、どんな考えを持とうが個人の自由ですから、どんなに議論しても結局、「まあ、あなたがそういう考えを持つのはあなたの自由だけどさ」としかならないわけです。

これがニヒリズムで、どんな考えを持とうが個人の自由なんだから、議論しても意味がないわけです。

つまり、個人個人が独立して、それぞれの考えを持っていればそれでいいとはなりません。

議論をしようにも議論自体が成立せず、民主主義は空中分解してしまいます。

一個独立の気象

そこで、福沢諭吉は「一個独立の気象」という言葉を使ったわけです。

つまり、個人の自由とっても、個人がその思想を気概を持って主張することが重要であると考えていました。

各自が気概を持って主張して「熱い議論」をしないと、民主主義も看板倒れで終わってしまうことを見抜いていました。

つまり、日本の旧来的な儒教的な道徳観はお上頼みの精神を作り出すだけと批判しつつも、武士道精神的な気概は重要であると考えていました。

ここをもう少しわかりやすくしたのが丸山眞男です。

丸山眞男の「諫争」

丸山眞男は、「諫争」という現象に注目します。

これは何かというと、江戸時代の身分制社会においては、実力とは関係なく、殿様の子が殿様になりますが、その家臣は、仕える主君がバカだったときにどうするのか。

自己の保身を第一に盲目的に従うふりをして済ますのでもなく、かといって冷徹に判断してその元を去ったりもしません。

「殿、目をお覚まし下さい」、良い主君になってくれと命がけで諫めるわけです。

この、必死で自己主張しつつも、あくまで自分は家臣であるといった束縛を絶対放棄しない相剋を持つ人間を「志士仁人」と呼びます。

こういった個人の内面の相克が重要で、てんでバラバラの個人が快楽主義よろしく勝手に自己主張し、いざ対立すればニヒリズムに陥るとういのは最悪で、誰もが何らかの信念に縛られている状況での自由主義こそが意味のある議論を導き、民主主義の空中分解を防ぐと考えました。

そして、江戸時代のような主従関係である必要は無いとしても、このような束縛・節度が内面に無くなって、個人が自分勝手に自己主張するだけになったら民主主義は終わりなんだけど、正に現代社会においてそれが起きていると嘆くわけです。

これは、コロナ禍の自粛社会にも見ることができます。

都合の良い2面性

政府の要請に従い必死に自粛する人も、自粛しないで外で酒飲んで遊んでいる人の悪口は言っても、直接注意したり何か行動することはほとんどありません。

その一方で、コロナは風邪派の多くも、一部のマスク男以外、自粛要請に不満を持ちつつを言いつつも従うケースがほとんどで、堂々と酒を売ろうとか、自粛に反発しようと行動する人は少ないです。

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自粛派も反対派も、自粛やコロナに関する主張はあっても、アメリカで起きたマスク運動やマスク反対デモのように、それを実現する社会に向けて実践・行動することはせず、政府の要請というお上の権威的判断に従う「良識派」として振る舞うことでろくろくとしています。

民主主義を支える国民一人一人、主張はあれど戦う気概はなく、政府への不満を口にしつつもその要請に従うことで自分を肯定し、「こんなにいい子にしてるんだから、政府さん、何とかしてくれ」と思っています。

「物言う主権者」&「民主主義の理念」と「お上に従う他力本願な被支配者」&「秩序や規律を重視するという伝統的な道徳観」という2つの身分&理論を都合よく組み合わせてなんの行動もしません。

つまり、選挙に行くという点では政治参加していますが、それ以外は、政府の要請や法律を守ること以外の政治参加はないというか、自分の主張を行動に移すことはないです。

無能な政府

コロナ禍の中、政府の無力が叫ばれます。

しかし、それは当たり前とも言えます

権利主張はすれど気概はなく、不満は言えど従うことに道徳を見いだす、そんな人たちから選らばれた政府が無能なのは当然で、有権者一人一人が、何が起きても行動に移すことはなく、究極的には言われたことを守るだけという点で、政治選択にリアリティを持っていませんから、そこで選ばれた政治家たちに何らかの信念があるはずもありません。

せいぜい、労働者代表とか中流階級代表と言った自分の経済的利益に応じた選択をするくらいで、その結果として各経済的な立場の代表が利益調整する場が国会であり、結局は、医師会、経団連、財務省、などの各種業界団体が利益を奪い合う場でしかありません。

そして、その利益を最大化するために、政治の方が国民を扇動することが政治活動とも言え、国民は政治を選択する存在と言うより、政治から扇動される対象でしかなくなっています。

そんな国民が選挙で選んだ政治家たちというのは各種利益の代表でしかなく、国家の危機的状況において、どのような政策を取るべきか、中核的な視座なんてあるはずもありません。

さて、ここでやっとオリンピックの開催の是非について。

やっとオリンピック

国民一人一人が「一個独立の気象」なり「志士仁人の気概」を失っていることによる、政治の無力化。

といいつつ、国民がそういった気概をもっていれば、この問題はより充実した議論になったり、結論が出たりするのだろうか。

現代の武士道精神的なり個人を貫く普遍的な倫理観なり、確固たるものあればこの問題の是非に影響を与えるのだろうか。

そこまで考えて、オリンピックなんてどうでもいいんじゃないかと思ったという話です。

そして、開催の是非をめぐる議論を見てみるとおもしろい。

賛成派も反対派も、他人をかたって議論している。

曰く、アスリートの立場に立てば何とか開催してあげたい。

曰く、医療関係者の負担増大や、大切な人を失う人が増えることを考えると開催には反対。

オリンピックを誘致するときに散々口にしていた、「オリンピックの理念」なりその価値を口にしている人が皆無。

愛の祭典だか平和の祭典なのか何なのか知りませんが、世界平和や多様性社会への貢献、そういった価値を主張している人がいない。

つまり、だれもオリンピックの価値というものを認めておらず、単なる「お祭り」としか考えていないのでしょう。

だから、なんとなく議論しなくてはいけないような気になって議論するんだけど、心の底ではどうでもいいと考えているから、あったことも見たこともないアスリートなり医療関係者なり、将来コロナで大切な人を失う人を持ち出して議論している。

そう考えると、オリンピック開催の是非なんて、真実としてはどうでもいい話題であり、これこそ、無力な政府というか、利益調整の場としての国会の本領発揮のトピックで、直接的な利害を持った団体が議員の買収合戦などの自由競争、国会が終わった後の料亭で話をつければそれが最適解なんじゃないの。

利得と損失を天秤に載せるという、世俗的な功利主義で決めればいい気がします。

終わりに

ただ、佐久間象山とかの最初の話に戻るわけですが、日本人というのは西洋化しているようで、まったくしてないこともわかる。

オリンピック開催の是非に関して、キリスト教的な感じで愛とか平和とか普遍的な価値の実現などがまったく登場せず、アスリートなり医療関係者なり、社会共同生活における他者を思いやるという主観的な仁義道徳を基準に議論している。

上辺は西洋化していても、中身は江戸時代と大して変わらずというか、「西洋文明に出会った江戸の町人」のまんま現代まで来てるんじゃないかな。

そして、それが悪いのかと考えると、究極的にはそれこそが「社会はこうあるべきなんだという気概を持って主張をする個人」が登場しない原因と言えるから、西洋万歳的な理念からすると、「旧弊からいつまでも脱却できない日本」なんだろうけど・・・

昨年のアメリカのトランプ騒動のおける、「テメーは多様性の価値が分からねーのか」と内戦寸前まで行く熱さを見ていると、どうにもバカバカしいというか、そんな理念対理念の空中戦で国民同士が分裂して大喧嘩しても仕方がない気がする。

イデオロギー対立の激しい欧米に引っ張られてか、オリンピックというどうでもいい「お祭り」開催の是非について、熱く議論してしまうのは単に流され過ぎなんでしょうね。

なんだかわからなくなってきたのでここらへんでやめますが、「一個独立の気象」が失われつつあると言っても、かろうじて残っている個人の核が、結局は社会共同生活における仁義道徳観であり、江戸時代のままなら、一部の知識人が欧米の猿真似で推し進めてきた一部の政策に対する不満がもうすぐ爆発する気がする。

それが怖いな。

本丸は個人の仁義道徳感情及び実生活と密接に関連した少年法はじめとする刑事系だろうな。

国民のほとんどは、上辺では人権主義を口にしたりするかもしれないけど、本音ではいまだにゴリゴリの応報主義者だろうから、どっかで爆発するんじゃないだろうか。

書きながら、やはり頭がまとまってないとわかったので、後半は意味不明になりましたが、ここでやめます。

オリンピック開催の是非。

みんなそれっぽいことを言いながらも、「オリンピック」そのものの価値をこの国では誰も認めていないことを認識することも大事だと思います。