「共和国に科学者は必要ない」


フランス革命のときの革命裁判所が残した名言の1つです。

ラボアジエと言えば、質量保存の法則を発見し、それを手掛かりに燃焼という現象が物質が酸素と結合であることを発見するなど、近代化学の父と呼ばれる天才科学者です。

この人は、18世紀のフランスで活躍した人ですが、その悲劇的な最期はあまり知られていません。

税金の徴収官という、庶民から最も嫌われる仕事をしていたことから、フランス革命時には革命政府により投獄されます。

科学者などの知識人たちが一斉に反発し、解放を要求するも空しく、死刑に処されます。

その時に、死刑判決を下した革命裁判所が言ったのが、タイトルの「共和国に科学者は必要ない」です。

さて、最近のコロナ禍におけるネット上の議論。

自分と異なる意見を見るや否や怒り狂い、ヘイトをまき散らして、至る所を炎上させる不穏な人たちが後を絶たない一方で、冷静な「知性派」もいます。

曰く、人それぞれ立場が違うのだから、各人各様の意見を持つことは当たりまえであり、そこに善悪や正誤などなく、批判し合うことに意味はない、みんな互いの立場を尊重し合い冷静になろうと。

これぞ民主主義の最大の敵、ニヒリズムと言った感じです。

どんな思想を持つかは個人の自由なんだから、批判し合うのは止めようと。

議論が白熱しかけたら、「まあ、あなたがそういう意見を持つのはあなたの自由だけど」と言って、一歩下がる。

これが理性的な態度なんだろうか。

ヴォルテールの名言に、「あなたの意見には全く賛成しないが、あなたがそれを主張する権利は命を懸けても守る」というものがあります。

そういった、血みどろの革命・内戦を経て民主主義社会を実現させた人たちが聞いたら、ひっくり返るでしょうね。

どんな意見を持つかは個人の自由なんだから、熱くなったりするのは止めようなんて。

ある意味、民主主義という思想が持つ価値を根本から否定する所業です。

さて、その「知性派」の言説には続きがあります。

曰く、無意味な批判合戦ではなく、エビデンスに基づいて科学的な意思決定をすることが重要。

素人が議論するのは止めて、科学者にすべて任せようと。

権威主義の他力本願ここに極まれりといった感じで、個人的に開いた口がふさがらないです。

ただ、残念ながら、コロナに関しては分かってないことだらけで、エビデンスなんてあるわけない。

テレビやネットを見れば、自称専門家や本物の専門家が、百家争鳴よろしく各自勝手なことを言っています。

ゲーデルの不完全性定理と言って、「数学には証明できない問題があること」を証明した人がいますが、今回のコロナ問題も、そういう姿勢で臨めば、「科学的に結論は出せない」というのが科学的な結論であるはずで、今あるデータに基づいて「できる限り科学的に」なんていうのは原理的には「非科学的な態度」そのものです。

そもそも科学なるものを絶対的な権威のように扱うことがおかしくて、人間、社会、宇宙、どれもその1%もわかってないですし、なにより、科学者というのは権力者からの資金提供を受けて研究をしている。

したがって、権力者の顔色を伺うタイプの科学者なんていくらでもいて、「素人が議論するのは止めて専門家に任せよう」なんて態度の薄っぺらな有権者を扇動するするときに一番科学が役に立つ。

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有能な有権者が科学的な思考で政治選択した時代など人類史には皆無で、政治の方が一票欲しさに無能な有権者を扇動しているのが現状で、その最強の道具が科学です。

近代以降、科学というのは常に権力を支えてきたもので、共産主義革命を支えたのも科学者ですし、ナチスを支えたのも科学者です。

きっとフランス革命のときなんて言うのは、知性重視の啓蒙主義の時代ではありますが、まだまだ科学者が王侯貴族の支援の下に研究をしていた時代ですから、どいつもこいつも、お抱えの科学者を携えて、自分の主張が科学的・客観的であることを主張していたんでしょうね。

しかし、理路整然とネチネチやられて、じゃあ結局、素人の一票に価値なんてなくて、専門家が決めた方が良いのかよとなってしまいますから、ついに革命裁判所がブチギレて、「共和国に科学者は必要ない」なんて言ったんでしょう。

そう考えると、暴論のようで、なかなか含意のある名言のような気がします。

「決めるのは自分たちなんだ」という熱い想いが伝わってきます。

それにしても、「政治家は何してんだ!」、「役人は何してんだ!」、「専門家は何してんだ!」、「マスコミは何してんだ!」と声高に主張している人たちに、「お前こそ何してんだよ!」と言い返す思考実験をした場合に、「自分は法や政府の要請に従っている」という受身的な態度が「善良な市民の態度」とされてしまうところがあり、「親を敬え主君を敬え」を柱とし、究極的にお上頼みの他力本願な人間を作り上げる儒教的な道徳観の影響は大きいですね。

世俗を超越した、神様なり哲学者なり超人なりがいれば、世俗の義務を果たすことと人間としての真の義務を果たすことは関係ない、正義のために行動しろと、ガツンと言ってくれるんですかね。

だとすると、血の雨を降らしてでも民主主義は守ると憲法で市民に銃の所持まで認めているあの国の、マスク派と反マスク派が殴り合いしているのが正しい民主主義の姿なのか。

たぶんそうなんでしょうね。

まあ、日本の民主主義が「真の民主主義」かどうかはさておき、一応は民主主義なのであれば、大事なことは、一人一人が政治参加する反面、参加した以上はその結論に納得すること。

そう考えると、議論というか、参加と決定のプロセスこそが重要。

だたしたら、もし科学的結論が一致していないのであれば、その場合に経るべきプロセスにおいては、「共和国には科学者は必要ない」かもしれないですね。

全然話違うけど、確か映画「キリングフィールド」だった気がしますが(だいぶうろ覚え)、ポルポト派がカンボジア国内を制圧したときに、ある村の役場かなんかに学校の先生などの知識層を集めて、

「これからは既存の悪習を廃して新たに強く豊かな国家を建設しなくてはいけない。そのために一番重要なのは若者の教育である。世界と交わり広く深い知識を身に着けた人材の育成が急務である。我々は教壇に立つ人材が必要としている。英語を話せるものは挙手して是非立候補してほしい」と述べ、

挙手した知識人たちを建物の裏に連れて行って、機関銃で皆殺しにするシーンがあった気がします。

「共和国に科学者は必要ない」。

民主主義は本当に難しいですね。

殴り合いやニヒリズムといった極端にブレず、対立・葛藤・相剋を乗り越えた先の成熟に未来があるのかもしれません。