ゆたぼんの不登校の是非について


だいぶ落ち着いてきたみたいなので私も思う所を書いてみます。

ゆたぼんなる不登校系Youtuberが最近、ひろゆきさんなどと議論をしていて話題になっていました。

まあ、小学校不登校だったのが、今年の春に中学生になったわけですが、Youtubeで中学も行かないと宣言したのが発端です。

そこで、学校には行くべきか否かと言った議論がネットで起こったというわけです。

結論から言うと、私はゆたぼん擁護派です。

学校に行かないと後の人生に支障が出るケースが多いだろうから、一般論としては学校には行った方が良いと思うけど、個別的な議論として行きたくないなら行かなくていいと思います。

高校生くらいまでの勉強なんてやる気の問題で、学校行かなくても一人で教科書なり参考書なり読めばいいだけだし、それができるのならそれでいい。

勉強しないのならしないで勝手にすればいい。

そして、したくなったらすればいい。

親がいないとかなら周りが干渉する必要があるけど、親が話し合ったうえで決めているのであればそれでいいと思う。

なにより、私は子供を子供として扱うことに反対で、本人が自分の人生は自分で責任をとると言っているのであればそれでいい。

私は少年法とかに大反対なので、法律がどうだろうが中学生以上は大人として扱うべきで、子供として扱うことに何より反対。

それより、私がこの騒動?で気になったのが、ネット上の議論。

なんだか、Youtuberには常識的な人が多いみたいで、ここぞとばかりに、耳障りのよい学校論が主張されているのが気になった。

個人の個別的な意思決定に対して、「学校というのは・・・」とか、「教員は免許制で・・・」とか、一般論で応じることに違和感しか感じなかった。

学校にもいろいろあるし、教員にもいろいろいて、まさにピンキリで、自分が出会う学校・クラス次第で天国にも地獄にもなるだろうことは容易に想像がつく中で、抽象的な一般論で、個別的な意思決定に干渉するのが適当な問題だとは思いません。

また、そういったYoutuberを支持する人をはじめ、ゆたぼんに反対する無名の多数の人たちの態度も気になった。

「学校に行った方が良いに決まってんだろ!」と主張する人たちが一様に帯びている熱気のようなもの、あれは何だろうか。

最近は他人への配慮がとかく求められる風潮のせいか、無意識下に自分自身の人格が「尊いもの」としてやたら神聖化されているんじゃないだろうか。

つまり、学校に行かないという宣言、ただの自分と異なる意見を、「聖なる自己」への攻撃や否定であるかのように感じてむきになっている人が多い気がする。

さらに、単に自分と異なる意見への過剰反応だけでなく、ゆたぼんによる不登校の意思決定により、学校へ通った自分のアイデンティティの危機や不安を感じている人も多くいるような気がした。

つまり、「お前、学校通ってたの?バカじゃねーの?」と言われたときに、「学校に通ってた自分」を心の底から肯定できない人がいるんじゃないだろうか。

彼なりに考えて選択したクソ生意気な中学生に対して、何も考えずに周りと同じ行動をした自分にある種の不安・劣等感を覚えるのかもしれない。

自分は何も考えてなかったと。

その自己不安が一部の人たちの猛烈な攻撃性に繋がってる気がする。

そう考えると、私も何も考えずに学校に通った側で、いかない方がよかったとは思わないし、むしろ行って良かったなとも思いますが、ただやっぱり、行く前に行くべきかどうか考えたりはしなかったので、彼にかける言葉は基本的に見つけられない。

行ったから今の自分があるのは間違いないですが、行かなかったら、学校で得られたものが一切得られなかったとは思わないし、まあ私のような暗い人間は引きこもって終わってかもしれないけど、ゆたぼんの場合は、Youtuberとして知名度があっていろいろ行動してるわけだからその心配はなさそうだし。

ただ、ゆらゆら申し訳ないですが、私の論点はそこじゃない。

私は、「お前どうせ何も考えずにエスカレーターに乗って学校行っただけだろ」と言われたら、ドキッとしてしまうというか、確かに何も考えてなかった。

ちょっとした決まりの悪さを感じているのは間違いない。

ただ、だからといって、「うるせえな!学校は行った方が良いんだよ!バカはテメーだろ!」と戦闘態勢にはならない。

確かに、そっちから見たら私はロボットに見えるだろうし、それも仕方がないよな、としか思わない。

何なんだろうこの差は。

ゆたぼんがそもそも不登校になった原因は忘れましたが、最初に軽く不登校になった時に、何とか復帰しようとして、途中登校?みたいなことをしたら、友人たちから、お前給食だけ食べに来てんのかよなどとからかわれるようになり、本人が傷つき、それを見て父親が「傷ついてまで行かなくていい」と不登校の決断をしたという話をなんかで読みました。

その話を聞いて私が思ったこと。

それは、人間関係には2つの車輪があるという話。

1つは、相手を尊重し、人間関係を維持するという車輪。

もう1つは、何らかのきっかけで諍いが起こり、人間関係にヒビが入っても、それを修復してより強固な関係を構築するという車輪。

この二つのどちらも重要で、二つ揃って初めて、豊かな人間関係が作れる。

しかし、一度ヒビの入った人間関係を再構築してより強固な関係を作るというのは、大人になると難しい。

大人になると、一度決裂するともうそれっきりということがほとんど。

その点、学校の友人と言うのは、何かあっても翌日以降強制的に顔を合わせることになり、しかも、学生時代の諍いというのは、もともと大したこともないことも多くて、いつの間にか仲直りして、そういうのを繰り返していく中で親友関係が出来上がるということが多い、

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だから、大人になってから、学生時代の友人と言うのは特別というか、大人になってから知り合った友人よりも関係が深いことも多くて、その理由は明らかで、お互いに若く未熟なときにお互いの欠点を見せ合い、その結果生まれるあまたの対立と葛藤を乗り越えているので、多少のイジリやすれ違いではびくともしない。

そう考えると、傷つくくらいなら不登校でいいという意思決定はなかなか難しく、多少は傷ついても、毎日顔を合わせていく中で、元に戻る可能性どころか、より強化の関係を構築できる可能性があって、その可能性をあっさり捨てていたとしたら、もったいないと考えることもできる。

やはり、強制的に顔を合わせる学校が一番の機会なのかなと思う。

だから、個別的具体的に自分が通う学校がよほどひどい状況でない限り、やはり学校には行った方がいいと書こうとして気づいた。

私、中高時代の友達で付き合いある人いないんだよなあ。

別に学校行ったからと言っても親友ができるわけではない。

そこをもう少し掘り下げると、私の場合、中高を通じて色んな人とぶつかった気がする。

そこを乗り越えてより強固な関係を築くことはできなかったのかもしれないが、ただ、多様な連中と強制的に触れ合う中で、自分のアイデンティティーを構築することには成功した気がする。

たとえそれが、「自分以外はみんなバカばっかり」というもので、後の人生に大きな問題を生じさせるものだったとしても、少なくとも、自分と違う人間をみても「ふーん」としか思わず、自分のアイデンティティに危機を感じて全力で攻撃したりはしない。

そう考えると、別に親友ができなくても、学校には行った方が良いと思う。

というより、学校に行かなくても色んな人に出会うことはできるわけですが、学校のような強制性がないと、まったく気の合わない連中と同じ時間を過ごしてぶつかり合い、否定と肯定で揺れ動く思春期を通じて、自分のアイデンティティを強固にしていくことが難しくなる気がする。

だから、ゆたぼんに私がアドバイスするとしたら、学校に行かなくても勉強はできるし、人と出会うこともあるけど、自分と全く気の合わない連中と強制的に同じ時間を過ごす訓練はどこかでしておいた方が良いよ、かな。

その結果、様々な対立と葛藤を乗り越えて強固な絆で結ばれた親友ができるかもしれないし、それができなくても、自分と異なる他人を前にしてもびくともしない自分を作り上げていくことができる。

理解し合うのが大事なんじゃなくて、理解できない相手を通じて、「誰でもない自分」もまた発見・受容することができる。

youtuberという知名度を生かして、同じような不登校の生徒を集めて会合を持ち友人になることができるかもしれないが、それは危険。

残酷な話になるけど(侮辱する気も挑発する気もないです)、自殺したいじめ被害者の遺族で作る会などでは、同じ境遇のもの同士、真に分かり合うことができるようで、「あなたの家族の場合はうちと違って、こうしておけば自殺は防げたんじゃないか」なんて話はお互い口が裂けても言えない。

その結果、当事者にしかわからない深い話が出来ているようで、互いに批評論評し合って傷つけあうなんてことはしてるはずもなく、実は話し合えば話し合うほど、「学校が悪い、先生が悪い」という話にしかならない。

そして、これはある意味いじめという現象の原因そのもので、同質なもの同士がその関係を強固にするためには、異質なものを共通の敵(スケープゴート)にするのが手っ取り早い。

共通の敵を攻撃し、その異質性を強調することで、自分達に内在する差異に目をつぶることができる。

だから、不登校のもの同士で集まって、学校制度の悪口を言いながら打ち解けて、「真に分かり合う親友」ごっこはできるかもしれないけど、その実、自分と異なる他者と触れあい、対立と葛藤の中で自己のアイデンティティーのもろさに直面しながら自分なりに成長するプロセスが一切ない。

大人になって、普通に学校に行ってた多数派に囲まれたときに、自分のアイデンティティーのもろさに気づいて、打ちのめされるだけかもしれない。

そして、多数派と違ってなんとなくでよりかかる「普通」がない分、自分を肯定するためには、「学校とはそもそも」と理論武装せざるを得なくて、そしてそれは頭の中で考える原理主義的なものにならざるを得ず、いずれ社会への復讐で心を焼かれた、攻撃性全開のテロリストになる。

多様性が叫ばれ、実際に多様性が進むにつれて、なぜか宗教的原理主義とか環境原理主義とが流行し、至る所でテロリストが跋扈する理由をそこに見ることができる。

ただ、そう考えていくと、そもそも話の最初に戻るわけですが、学校に行ってた側が、「学校に行くのが正しいんだよ!この馬鹿野郎!」と、「学校は行くべき」原理主義者となって、ゆたぼんに猛攻撃をかけているのはなぜなんだろうか。

やはり、パワハラやモラハラ、イジリといじめの区分論争、あだ名はいじめにつながるからやめましょうじゃないけど、とにかく相手を傷つけてはいけないという状況が進みすぎた結果、個人の人格が神聖化しすぎて、学校という監獄には気の合わない連中と強制的に同居対立して傷付け傷つけられる機会がせっかく保証されているのに、それが悪いものと徹底的に排除された結果、学校生活を通じても、他者と共存していく上で必要不可欠なアイデンティティーの形成する機会が奪われているのではないのかな。

つかれたから終わるけど、ますます学校に行っても仕方がないのかも。

というか、どこでも勉強できる環境が整備されつつある中、勉強とは全く別に人間形成の観点からも学校に行く理由ももはやないのかも。

最後に、全然関係ないけど、人間の美しさは抵抗するところにある。

ゆたぼん君、がんばり給え。

陰ながら応援しているよ。