シェアエコノミーと性善説、カオスか服従か


dカーシェアで、車を勝手に売却する事件が連続して起きたそうです。

まずは、最近ニュースになった、ドコモが運営するカーシェアサービスのdカーシェアで発生した、貸した車が借主に勝手に売却されるという事件についてから。

「dカーシェア」悪用で外国車を無断売却 容疑で男を逮捕

dカーシェアというのは、ドコモがやっているサービスで、結構複雑なのですが、その中にマイカーシェアというサービスがあります。

これは、車の保有者が自分の車を登録し、1日いくらで貸しますと設定して公開しておくことで、借りたい人が出た場合には貸すことができるサービスで、ドコモのプラットフォーム上で、貸したい人と借りたい人をマッチングするサービスです。

dカーシェア上で借りたい人が登録者に、x月x日から3日間家族で伊豆に旅行するのでお借りしたいですなどと、メッセージを送ってから取引開始のようです(もちろん、最終的には直接会って鍵と車を渡す。代金決済などはドコモ経由で行う。)。

ネットの情報によると、被害にあったのはBMWのZ4らしいですが、持ち主が、dカーシェアを通じて出会った借主に貸したら、そのままバックレてしまい、当のZ4は売られてしまったという話です。

(借主は偽造免許書を使用していたとのこと)

もっとも、警察が動いて、既に車は持ち主の下に返却されているようです。

ここで問題になったのは、ドコモの対応と利用規約の話。

ただ利用規約には上記のほか、「ドコモは車の共同使用契約の当事者にはならない」との旨が記載されている。今回は被害に遭った車が全て持ち主に返還されたが、仮に戻ってこなかった場合でも「(dカーシェアには)車の持ち主に補償を行うスキームはない」という。

出典:「dカーシェア」で無断売却トラブル 外国車3台が大阪市で被害に 捜査で全て発見、現在はオーナーに返還済み

つまり、dカーシェアのマイカーシェアサービスにおいて、ドコモとしては、貸主と借主の共同使用契約の媒介(仲介?)はしても、契約の当事者にはならないから、トラブルには関与しませんし、こういった事件が起きても、貸主に補償する仕組みは用意されていないということ。

そこで、ドコモの対応については、そんなのおかしいという意見が噴出しているようです。

こういった事件が起きた場合の補償制度のようなものが用意されていないのはおかしいと。

(なお、この事件では、被害者の方はカーシェアの熟練者らしくドコモに補償制度ないことは受け入れている。加害者が偽造免許証を複数使って、一人で複数アカウント作ったらしいのですが、その複数の偽造免許証は名義は違えど同じ写真が使用されていたらしく、ドコモとしては新規アカウント登録ごとに免許証のチェックをしていたのですが、既に登録済みの免許証と、名義は違えど同じ写真が使われた免許証の登録が試みられたときに、それを検出するセキュリティが用意されていなかったことをもってドコモに過失があるかどうかは難しいのでコメント避けます)

そして、最近話題になった、Uber eatsのつけ麺ぶちまけ事件。

これも、マンションの共有部分に受取拒否したつけ麺が放置されていたので、注文者の方がウーバーに連絡をして、配達人と話したいから連絡先教えてくれといったら、断られた上に、ウーバーとしては、個人間のトラブルには関与しないので、何かあれば警察に行ってほしいと言われたという話。

(なお、この話、誤解されてる節があるので補足すると、返金は何の問題もなくされている)

この、dカーシェアとUber eatsの話、最近流行りの言葉で言うと、それぞれシェアエコノミーとギグエコノミーなので、違うような気もしますが、要するに、胴元のドコモやウーバーとしては、自分達は個人同士が直接つながることをアレンジ(取次ぎ)しているだけで、当事者間のトラブルには関与しないスタイルという点では同じです。

やっと本題に入れる。

こういった問題に関するネット上の文章を読んでいると、下記のような論説によく出会います。

曰く、シェアリングサービスやUberのようなギグエコノミーというのは、個人同士が直接つながることで、中抜きなしの安価で便利とはいえ、性善説を前提に設計されているので、トラブルへの対応が未整備、と。

これ本当かなあ。

Uber eatsで麺類頼む人やdカーシェアで初対面の人にBMWを貸す人が性善説に拠っているというならわかるけど、なぜ、サービスが性善説に基づいて設計されているとなるのだろうか。

私は違うと思います。

利用側には性善説に拠ったお人よしの人はいるかもしれませんが、設計側は性善説なんてものとは無縁の連中だと思います。

だって、ウーバーもドコモも、個人間で発生したトラブルの責任取る気なんて最初からないし今後もないから。

個人同士をつなげるプラットフォームを提供し、ある程度世話は焼くけど、後は勝手にやってねというサービスだとしか思ってないでしょう。

犯罪的な事件が発生した場合については、性善説に立ってるから対応が用意されていないのではなく、そういうのは個人間で解決すべき問題であり、自分達には関係ないと、心の底から思ってると思います。

いや、そんなサービスがあっていいわけない、サービスを提供している以上、責任を負うべきとか責任持って対応にあたるべきという意見が出てきそうですが、それがこの記事で話題にしたい話。

また、脱線します。

これ、別の記事に書いたかもしれないですが、思い出せないので書きます。

今から十数年まえ、司法制度改革というのあって、司法試験に関して、従来のペーパーテスト一発勝負が終わり、幅広い人材に英才教育を施して、多様で優秀な法曹を育成するということで、法科大学院という制度が始まり、50校くらいが一斉に開校しました。

その記念すべき初年度の生徒を選別するための入学試験の話。

初年度ということもあって、どの学校も気合十分の試験問題を用意したのですが、人物本位の選抜ですから、目玉は小論文で、どの法科大学院も、上野千鶴子とか井上達夫とか課題文にはそうそうたる学者の論説が出題されました。

しかし、天下の東大の法科大学院では、著名学者の論文ではなく、太郎君と花子さんの会話という短い創作文章が出されました。

その中で、太郎君というのは、法科大学院の入学を控えた学生でやる気に満ちています。

そして、弁護士を「社会の医師」に例え、たくさん勉強して弁護士になり、社会にたくさんある紛争の解決に貢献したいと考えています。

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しかし、花子さんはその話を聞いて食いつきます。

弁護士が「社会の医師」とはどういうことか。

それなら、紛争のない社会が健康な社会だというのかと。

それは違う、法曹の仕事とは、社会に紛争を広めていくことなんだと思うと。

インテリ全開ですが、言いたいことは分かります。

カーシェアやウーバーのようなサービスが日本でどこまで根付くかわかりませんが、一番の障害は、私たち日本人の一人一人があまり個人間の紛争になれていない点にあるような気がします。

個人間でつながりながら、何かトラブルがあると、運営元に連絡して、何とかしてくれと。

そういったサービスを提供している以上、責任を取らないじゃ済まわけないだろ。

間に入って、相手を罰してくれと。

気持ちはよくわかるというか、運営元から、自分達は無関係なので、相手と紛争したいなら警察に相談してくれと言われたときの、突き放されたような感覚は共有できます。

そういう意味では、シェアサービスというのは、性善説にたったサービスなのではなく、利用者が自己責任でトラブル対応することを前提にしたサービスなんだと思います。

結局、欧米生まれのサービスという性質は無視できないんでしょうね。

犯罪行為については警察に言ってくれ、損害賠償は弁護士立てて相手からとってくれと。

これが、日本で根付くのか。

そこで思い出さずにはいられないのは、中国の芝麻信用、いわゆる信用スコア事業。

これはアリババのサービスですが、金融資産や購買履歴やら交友関係やらから、自分にスコアが付けられる。

LINEが信用スコアビジネスに参入:芝麻(ジーマ)信用を目指すのか

そして、スコアが一定以上だと、シェアリングサービスに加入出来たり、不動産の賃貸で敷金がいらなくなったりする。

合理的と言えば合理的ですが、スコアをつける会社が絶大な権力を持つことになり、全員がスコアにおびえて暮らすようになります。

あるいみ、超監視社会です。

しかし、一定上のスコアの人のみが参加できるシェアサービスなどは、素行良好の人(かつスコアを気にして行動する人)しかいませんから、安心してその便益を享受できるようになります。

このまま、シェアサービスやウーバーで、トラブルが相次ぐと、いずれ日本でも、「信用スコア事業が不可欠で、一定以上の素行が良い人間だけが加入できるようにすべき」なんて議論が始まる気がします。

ウーバーイーツの評価制度の記事で書きましたが、日本だと、当事者同士で評価し合うというのは、もう逆ギレと報復のオンパレードで、業務改善に貢献しないどころか、遺恨と禍根を残すだけで終わっています。

ウーバーイーツの評価制度とその機能不全

これは、会社の360度評価も同じで、5段階の場合、みんなでお互いに4を付け合って済ませる暗黙のルールがあり、時々3とか2をつけてくる人がいると、職場の人間関係が超険悪になって仕事に支障をきたすどころの騒ぎじゃなくなります。

この、お互いに評価し合うのに慣れていないというのは多くの日本人が共感すると思います。

そして、その一方で、信用スコアのようなものには抵抗がないというか、ルールがよく出来ていて明確な場合、そのスコアを上げるためにまじめに励んでしまう「良い子ちゃん」がたくさんいる気がします。

意見の異なる他人との細かい衝突がストレスで、誰かが明確なルールを作ってくれた方がうれしいという人は多いです(最近はあらゆる場所が細かい注意書きだらけです)。

その反面、権力者に縛られるくらいなら、カオスの方が良いという人は少数派です。

そしてルールが増えるほど、従順派の負担は重くなりますが、その反面違反者への怒りも増大し、マナーとかルールを振りかざして、他人を攻撃する人が最近はたくさんいます。

ある意味これが、社会の多様性とヘイトが同時に増えていく現状の原因なんだと思います。

最近はやたらと多様性が持ち上げられますが、本当に日本は多様化社会に耐えられるのでしょうか。

個人主義、訴訟社会のアメリカで発展しつつある、シェアサービスやギグエコノミー。

その一方で、共産主義の中国で非常に発展してる信用スコア事業。

日本は建前上は個人主義・自由主義の国なのですけどね。

個人が自由で多様性が許されるのであれば、当然個人間の小さな対立は避けられないわけで、花子さんのいうように、紛争が社会に広く埋め込まれた社会にしなくてはいけないのですが・・・。

衝突が起きたときは、すぐにお上にたよって、こんなのおかしいでしょ、何とかしてくださいよ、となってしまう。

個人的には日本では信用スコアも根付かないと踏んでるのだけど、相性がよさそうというか、根っこの部分にそういったお上志向のシステムを求める傾向がある気がします。

最近は、リベラルな人たちが、多様性を強調しつつも、社会の分断を嘆いています。

しかし、「古い考え」と共存できない人達こそが社会の分断を招いているとも言えます。

とは言え、政治とか社会の話になると、誰でもリアリティを失ってしまいがち。

そういう意味では、流行しつつあるシェアエコノミーやギグエコノミ―というのは、間違いなく安くて便利なので、どこまで伸びるかはさて誰もが利用する機会が増えていきそうですが、個人個人が直接つながる反面、衝突も直接おきるので、これらのサービスが今後どのような展開を迎えるかは、日本社会の行方を占う試金石になりそうな気がします。