『君たちはどう生きるか』の読書感想文の例文


せっかくだから披露します。

私は、このブログ内にいくつか読書感想文関係の記事を書いています。

今は夏休みということもあってか、それらの記事が時々読まれている様子。

中には、課題図書として数多く採用されている、『君たちはどう生きるか』について書いたものもあります。

漫画『君たちはどう生きるか』を読んだ感想と『兎の眼』

まあ、この記事、自分で言うのもなんですが、自己評価の上中下でいうと、下か中の下くらいの記事。

ただ、検索でこの記事にたどり着く人が日に数名いるみたい。

しかし、どうやって、私の記事にたどり着くのかがよくわからない。

『君たちはどう生きるか』の感想は、感想文を書こうと検索する人が多数いることが容易に想像されますから、無数のブロガーが感想文の例を書いています。

その結果、グーグルで、「君たちはどう生きるか 感想文」などと検索すると、大量の記事が出てきますが、私のようなマイナーブログの記事はどれだけ下にスクロールしても出てきません。

たどり着く数人はどうやって私の記事にたどり着いたのだろうか。

しかし、せっかくたどり着いても、あの記事だと申し訳ない。

ということで、『君たちはどう生きるか』の読書感想文の例文を披露します。

とてもコピペできるような代物ではないでしょうが、考える役には立つかもしれません。

特に、あの本を読んだけどこういう本に感動したりしたくない、と思ったけどうまく表現できないと感じた人にはヒントになるかもしれません。

さて、私の感想文。

『君たちはどう生きるか』を読んで

課題図書の『君たちはどう生きるか』を読んだ。

印象に残った個所を振り返りながら、自分の考えたことを書いてみたい。

まずはこの本の簡単な概要。

この本は、主人公である本田潤一の成長を通じて、読者に人はどう生きるべきを考えさせようとする本です。

潤一は中学生で、大人になりつつあり、自分がどう生きるべきかなど、悩み始めています。

潤一は既に父を病気で失っているのですが、亡くなる前の父から、潤一が立派に育つように面倒見てくれと頼まれたおじさん(父の弟)がおり、近所に引っ越してきます。

潤一は日々の生活で突き当たる悩みについて、おじさんに相談し、それに対して、おじさんは時には直接対話し、また、時には潤一がじっくり考えられるように、自分の考えをノートにしたため渡し、そういった交流を通して、潤一が成長していく話です。

まず印象に残ったのは序盤のシーン。

おじさんと潤一の交流がまさに始まるシーンですが、潤一が近所に引っ越してきたおじさんの引っ越し作業を手伝い、せっかくだからと近所を案内がてら二人は散歩します。

潤一が楽しそうにしているので、おじさんは散歩を延長し、潤一を誘い電車で銀座まで行きます。

そして、夜になりデパートの上から銀座の人混みを見下ろしている時に、潤一はあることに気が付きます。

なんて、人間というのはちっぽけなんだろうと。

そして、自分もおじさんも、世界を構成する小さな分子に過ぎないのではないかと感じます。

その考えを聞いて、おじさんは大いによろこび、いきなり、潤一のことをコぺル君と呼びだします。

理由は、潤一がした発見は、コペルニクスと同じくらいの大発見だからとのこと。

つまり、地動説天動説のように、人は自分を中心に物事を考えがちだが、本当のところ自分というのは世界を構成する一分子に過ぎない、この考えは、これから大人として生きていく上で非常に重要な考えなんだと。

おじさんはいたく感心して、潤一をコぺル君と呼ぶようになります。

私がこのくだりを読んで感じたのは嫌悪感です。

君のした発見はコペルニクスと同じくらいの大発見だから、君のことは今日からコペル君と呼ぶよ。

それに対して、にやにやして応える潤一。

読んでいるとムカムカしてきます。

どうして嫌悪感を抱くのか、今一つわからないのですが、あえて言うなら、嘘とか偽りという言葉しか思い当たらない。

世界は嘘で出来ていて、世の中嘘だらけで、その嘘の典型的なものを見せつけられたような気がします。

こんな安っぽい嘘話で私を導こうというのかと、バカにされたような気になります。

私は自分の幼稚園の入園面接のときに、イヤイヤ病を起こして、暴れ回っていたらしいのですが、そんなときに、幼稚園の園長先生が来て、優しく、可愛いでしょうと、大きなクマのぬいぐるみを渡してくれたらしい。

そうしたら、私は、「可愛くなんかない!」と叫んで、そのぬぐるみを叩きつけて引き裂こうとしたらしいです。

ちなみに私は幼稚園はほぼ不登校。

私はこの時の記憶はありませんが、その時に感じたような嫌悪感をこの序盤のシーンから感じます。

「ほら、このぬいぐるみかわいいでしょー」

子供ながらに、嘘や偽りといったものを感じ取って、バカにするなと怒ったのでしょう。

「君のした発見はコペルニクスと同じような大発見だから、今日から君のことコペル君と呼ぶよ」

エピソード自体の作り物感もすごいですが、100歩譲ってその設定を受け入れてもなお、嘘を感じます。

小学生の時に、USA for Africaという歌が流行りました。

マイケルジャクソンやスティービーワンダーなどの米国の著名歌手たちが、ボランティアで、アフリカの貧困問題などを助けようとうたう歌です。

世間では美談として騒がれていて、感動する人や賛同する人は多かったみたいですが、私は小学校低学年ながらに、とにかく、そういうのは嫌いでした。

やはり、嘘や偽りといったものを子供ながらに感じていたのだと思います。

嘘や偽物で人を動かそうとしたって、思い通りになってたまるかという気持ちは今も昔も変わりません。

話は戻って、「君のことを今日からコペル君と呼ぶよ」。

私は、嘘、としか思いません。

次に、印象なのが、豆腐屋の浦川君のシーン。

浦川君は、家が豆腐屋なのですが、貧しく、毎日弁当のおかずが油揚げであることから、あぶらあげとあだ名され、クラスの一部からいじめられています。

そして、山口君といういじめっ子によるいじめが本格化したときに事件が起こります。

いじめを見るに見かねたガッチンというあだ名の潤一の友人が立ち上がり、いい加減にしろといじめっ子の山口君に掴みかかります。

すると、素行の悪かった山口君の日ごろの行いにうっぷんがたまっていた他の生徒達も、一斉にガッチンに加勢します。

そうして、多勢に無勢となった瞬間、なんと、いじめられていた浦川君が立ち上がり、やめろと、山口君をかばうのです。

この事件自体から考えることは特にないのですが、問題はその後です。

その後浦川君が学校に来なくなるのですが、潤一は、心配になって浦川君の家に様子を見に行きます。

すると、浦川君、赤ちゃんを背負って、実家の豆腐屋を切り盛りしているわけです。

豆腐屋の若い衆が病気になってしまったため、もともと貧しい中に無理して中学に通っている浦川君ですが、家庭の状況的にとても中学に通う余裕がなくなってしまい、子守をし、油揚げを作り、店番して大人のお客さんたちとやり取りをしています。

自分と同じ中学生で、しかも、いじめられていてどちらかと言えば意気地がなさすぎると思っていた浦川君が、一家の重要な働き手として、家業を助け、ある意味既に大人として生活している。

一方で、自分は働くどころか、家の手伝いすらろくにせずに、のうのうと過ごしている。

そこから、潤一は、貧困、労働、社会、大人になるということなど、いろいろなことを考えるようになり、おじさんへ色々と自分の考えを述べ、おじさんの方も刺激を受け、やり取りは加速します。

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そういった、潤一の成長を見て、おじさんはうれしくも頼もしくも感じ、勉強だけが全てではなく、世界は、人々の労働によって支えられているという話をします。

しかし、おじさんのノートには、下記のような一説が出てきます。

「浦川君の洋服に油揚のにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃない。」

こういう発言は、絶対に受け入れられません。

浦川君にとって、服にしみ込んだ油揚げのにおいが誇りであるはずがありません。

まさに、他人に感心され、社会から立派だと思われるための敬意であり、話の中に浦川君は登場しますが、貧困の中頑張る少年の記号としての抽象的な浦川君であり、分析対象でしかなく、現実に生きている浦川君ではありません。

潤一やおじさんは、目の前の浦川君の服から油揚のにおいがしたときどうするでしょうか。

君の服からは油揚のにおいがするけど、これは君の誇りだね、君は立派だねと言うのでしょうか。

まさか面と向かって言わないでしょう。

ではなぜ言わないのかと二人に問えば、二人は、そういう繊細な話は本人を傷付ける可能性があるからと答えるでしょう。

しかし、裏側では、服に沁みついた油揚のにおいは彼の誇りであり、彼は立派だと語り合う。

こんな無礼で不遜な態度があるのだろうか。

なんだか、現代社会を覆おう、上っ面だけの優しさ、人格尊重、相互理解、そういった嘘の典型のような気がします。

そして、最後のシーン。

潤一の友人のガッチンは山口君と揉めたまでは良かったのですが、山口君は悔しくてそれを自分の兄に話します。

そこから、ガッチンは、上級生に目を付けられるようになり、何かにつけてからまれます。

それを聞いた、潤一ら三人の友人は、ガッチン合わせて四人で一緒に行動し、上級生に絡まれたときも、四人で闘う約束をします。

しかし、想像通りの展開が起こります。

ある日の学校の校庭、潤一が少し離れている間に、残りの三人が上級生に絡まれ、殴られ始めます。

潤一は、少し離れた場所から事態に気づきます。

上級生には山口君もくっ付いており、三人に、今日は潤一は一緒じゃないのかと問います。

すると、少し離れたところにいた潤一を三人は見るのですが、恐怖から潤一は背を向けて走って逃げてしまいます。

そのまま潤一は高熱を出し寝込むのですが、熱は引いても友人に合わせる顔がないといって布団から起きてきません。

そこで例の如くおじさんとやり取りが始まり最終的に潤一は三人に謝罪の手紙を書き、また三人も受け入れ、仲直りをします。

失敗するのは仕方がない、大事なことは、それを正面から受けとめて、二度と同じ失敗を繰り返さないことであるという、教訓話です。

ここまで読むと、この本に納得がいかない点もだいぶはっきりしてきます。

この本は、立派な人間とはなにか、どうすれば立派な人間になれるかという話をしています。

しかし、その本質にあるのは、自分との対話でなく、真逆の、世間体との格闘です。

つまり、逆から言えば、常に世間の目を気にしている人間同士の話であり、立派な人間になるというより、「世間から立派だと思われる」人間になる話をしています。

しかし、立派な人間だと思われようと行動するのは不純であり、心の底から立派な人間になりたいと思う人間にならなくてはいけないなんて、言っています。

なんだかそれっぽい御託を並べていますが、どうお化粧したところで、世間から立派だと思われる人間になることが至上命題なわけです。

しかし、立派な人間になるためには人格的な成長が不可欠であり、そのためには自分を全力で社会にぶつけていく必要があり、そういった自分体社会の衝突なしに、横目で世間を伺いながら立派な人間の皮をかぶろうとしても、立派な人間にはなれません。

やはり、そこに、この作品が、嘘だらけの社会を象徴するかのように嘘で満ち溢れている理由がある気がします。

友人と共に戦うと勇ましく誓ったのに、実際には恐くなって逃げ出してしまった。

潤一にとってはある意味、これが本当の自分であり、この小説の中で唯一、潤一が世間の目を振り切って「本当のこと」をした瞬間です。

しかし、潤一は世間体との格闘に全身全霊を投げかけており、おじさんも同じタイプの人間で、いくら話し合ったところで、逃げた自分は、「世間から受け入れられない自分」であり、世間から立派な人間として受け入れられるために「克服しなくてはいけない自分」でしかありません。

まさに、社会を構成する分子としての自分観であり、いい社会にしていくために、その構成員たる自分も立派なパーツにならなくてはいけないという思想です。

ありのままの自分という概念が全く登場しません。

友情に熱くなってできもしない約束をした自分、現実に直面して恐怖から逃げた自分。

そこにこそ、向き合うべき本当の自分がいるのに、ともに戦うことを誓ったことは友達思いで、立派であり、良いことであるが、恐怖から友達をおいて逃げたことは、立派な行動とは言えず、良くない。

そういった感じで、自分の行動を、立派な人間モノサシに基づいて、他人事のように良いか悪いかで評価するだけであり、自分は評価の対象でしかありません。

終始、世間体と闘っており、世間的に許されない自分を認識し、なぜ立派な行動がとれなかったのかと嫌悪することはあっても、本当の自分を見つめて、社会の中でその自分とどう折り合いをつけるかという内省が一向にないわけです。

この本は、ここで終わってしまいますが、次の日に、また山口君が上級生に絡まれたとして、今度は四人そろって上級生にぶん殴られたとする。

これが潤一の成長なんだろうか。

潤一からは、人間の本能的な部分に基づく生命力、人間の美しさのようなものがまったく感じられません。

おじさんも、待てと言われたら何があっても待ち続けるような使用人の美学のようなものを潤一に仕込んでいるようにしか見えません。

途中おじさんがナポレオンの生涯を熱く語るシーンもあり、いかに精力的・活動的な怪物だったかを語る途中まではいいのですが、結局、社会にどんな貢献をしたのか、みたいな話になってしまいます。

この後も、潤一は、自分は社会の一分子にすぎず、自分中心のものの考えはいけないと、客観的に自分を分析し、社会を構成するパーツの一つとして立派な人間になるための努力をし続けるのだろうか。

もちろん、立派な人間を目指すことは重要です。

しかし、自分を全力で貫き社会にぶつかっていくことでしか本当の成長は生まれないと思います。

その点、世間体を気にしながら立派な人間を目指すというやり方で人間的な成長が望めるのでしょうか。

結局途中から、外観を帳尻合わせしただけの「立派な人間」が生まれそうです。

こうして考えてみると、この本は結局、社会の側からの、どうやって有用な人間を育てるかという視点しかない本なのだと思います。

個人の視点にたって、ありのままの自分を受け入れ、自分らしく生きるとはどういうことか、そしてその試行錯誤から生まれる個人の成長という視点が皆無です。

非常に全体主義的傾向の色合いの強い本であり、戦前の道徳教育の権化のような本です。

圧力の強い社会の中で、みんなで嘘つきながら生活している時代の、社会を覆う嘘が当たり前すぎて、自分で自分に嘘ついていることすら気付いていない人たちの話です。

この延長に到来したのがあの戦争であり、戦争に行くのが怖いなんて誰も言わない立派な人だらけの社会です。

それにしてもこんな本が、戦後70年以上たった今も名著として賞賛されるようになったのはどういうことなんだろうか。

個人主義が進みすぎた反動として、全体主義的傾向が強まっているのだろうか。

それとも、個人主義など結局幻想にすぎず、宗教が必要ということだろうか。

君たちはどう生きるか。

私は私でいたいです。

もちろん、社会への貢献を否定する気はないし、生きる以上は立派に生きるに越したことはない。

しかし、何よりも先に、私は私でいたい。