アンパンチの暴力性について


ついにここまで来たかという感じですね。

最近、アンパンマンは暴力的という指摘が物議をかもしています。

アンパンマンがアンパンチでばいきんまんをやっつけることに対して、物事を暴力で解決する姿勢に繋がるということで、見せないようにしている親御さんが結構いるらしいです。

そして、夕飯を食べながら北斗の拳を見ていた我々世代を中心に、そんなバカなという感じで議論が巻き起こっています。

まあ、ほとんどの意見が、「アンパンマンは短絡的で暴力的な悪いお手本である」という主張には賛同しないのですが、どうも多数派意見には引っかかるものがある。

アンパンマンに疑問を呈している人たちは、アンパンマンがアンパンチでばいきんまんをやっつけることを、是か非かといえば、非であるという主張をしています。

しかし、多くのコメンテーターなどは、子供の暴力をアニメなど他人のせいにするな、暴力が存在する社会の中で暴力を振るわない子供を育てることこそ親の責任である、などと教育問題へすり替えて、本質から逃げています。

もちろん、子供が他の子にアンパンチして怪我させてしまったときにどう対処するかという現実的な問題もあるのですが、それとは別に、こういったおかしな主張が出てくる根本原因を考えて、そこに正面から反論する必要があります。

この問題を受けて、一番強調しなくてはいけないことは何か。

それは、社会の平和は暴力が支えているということです。

どんな社会の裏側にも暴力があり、一番強い暴力装置を握っている勢力が社会を統治し、私たち日本人が、この国は国民主権であるなどといっていられるのも、それに逆らう勢力が登場したときに、力づくでねじ伏せる警察や自衛隊と言った暴力装置が国民の手にあるからです。

私たちが、目の前に現れた気に入らないやつをぶん殴って言う通りにさせないのは、それをすると、もっと強い警察という人たちが出てきて、刑罰という暴力を強制されるからです。

何かトラブルがあったときに、文明人らしく、裁判で白黒はっきりさせようなんて言ったとします。

そして、無事勝訴して、相手側が自分に賠償金を支払わなくてはいけないという内容の判決が出たとします。

で、それに相手が従わなかったらどうするのか。

その場合、執行官という人たちが、敗訴側に家に乗り込んで、無理やり金目の物を奪い取って、競売にかけて売上金を自分に振り込んでくれます。

もし、相手がそのプロセスを邪魔したら、警察が出てきて刑務所にぶち込まれます。

このように、社会の治安が良く、平和が保たれているのは、社会的に悪と認定されたものに対して、いつでも暴力という強制力をもって従わせる仕組みが出来ているからです。

また、これは難民問題を見てもわかります。

イラクやシリアなどから多数の難民が他国に逃げています。

これは、国家の崩壊そのものですが、その本質はなにか。

それは、一言でいえば、公的な暴力機関が、テロ組織や反社会的組織など、私的な暴力組織を抑え込めなくなったからです。

政府が治安の維持ができなくなると、国民は難民となって逃げだす以外に選択肢はありません。

しかし、実際に難民になり、自由も平等も人権もない生活を強いられると、「人は生まれながらにして基本的人権を享有するのであって、人権は国家から与えられるものではない」なんていう憲法の教科書に太字で書いてあるかっこいい理念も、絵にかいた餅でしかなかったことが分かります。

このように、混乱する国際情勢の中、人権の前国家性とか、いかなる暴力も否定するとか、そういった理想主義的な建前が目の前で音を立てて崩れていっています。

つまり、私的暴力と公的暴力は、きちんと分けて議論する必要があり、公的暴力の存在を否定するのは愚かです。

それこそが私たち一人一人の平和な毎日を支えているからです。

話は戻って、アンパンマンのアンパンチは、私的暴力ではなく、公的暴力の話です。

したがって、ばいきんまんに一度も説得することなくアンパンチを食らわしていたらそれは問題ですが、説得に応じない場合にアンパンチを食らわして言うことを聞かせるのは当然の措置です。

社会を崩壊させようとする勢力が登場したら場合には実力で止める必要があり、暴力による解決の否定は、社会の崩壊につながります。

この点、アンパンマンの世界に、警察組織や裁判所といった公的な暴力機関が整備されているのであれば、アンパンチによる解決は違法ですが、そうではないというかアンパンマンが公的な暴力機関ですから、話しても言うことを聞かない悪の勢力に実力を行使することは是か非かで言えば、是です。

それを認めなければ、ばいきんまんのやり放題になって社会は崩壊します。

もちろん、現代社会において、我々私人は正当防衛が認められる状況でない限り、実力行使は許されません。

我々国民は、悪に対する実力行使に対して、選挙された代表を通じて決めた法律により警察に委ね、我々自身が暴力をふるうことを正当防衛が認められる状況以外は禁止することにしたからです。

私たち自身がそういう法律を作ったわけですから、従うほかはありません。

また、実力を備えた警察がちゃんと法律で委任された範囲で権限を行使するように、一定以上の実力行使には裁判所の令状を必要とすることとし、刑罰を科す際には刑事裁判が要求され、被告側の弁護人選任や公開法廷での裁判などを義務付けて、牽制しています。

このような警察組織や司法が未整備のアンパンマンの世界において、アンパンマンこそがその代わりですから、アンパンマンが話してもわからないばいきんまんに実力行使をすることは、是か非かでいえば、是です。

したがって、子どもがアンパンチを繰り出したときに、アンパンマンは良くてもお前はダメだとダブルスタンダードを押し付けるのは、上辺だけの良い子を作り出す危険があります。

あくまで、現実世界においては、私たちは正義の名のもとにおける暴力の濫用を避けるために、暴力の行使は、警察法によって規定された専門暴力装置としての警察組織に委ね、その行使の適正性を裁判所に監視される仕組みを作り、社会の平和を維持するために不可欠な暴力の行使の精度を高めることとしたからです。

よりデモクラシ―を重視した教育にを心がけるのであれば、そういう仕組みがあるから私人の暴力はいけないのではなく、国民主権の下、そういうルールを私たち自身が作ったからこそ、私たちはそのルールを守る必要があるのです。

しかし、そう考えていくと、アンパンマンの世界の危うさも見えてきます。

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まず、アンパンマンの正当性を担保する仕組みがなく、アンパンマンが仮に暴走したら、誰にも止められないません。

ばいきんまんと協定を締結し、世界を分割してしまうかもしれません。

また、ばいきんまんと手を結んだアンパンマンに対して、カレーパンマンや食パンマンが倒しに行くかもしれませんが、ミイラ取りがミイラになる可能性の方が高いです。

このような感じで、実力者同士が、アンパンマン国、ばいきんまん国、カレーパンマン国、食パンマン国と割拠して、常に小競り合いしながらも、平和の実現=実力拮抗だったのがまさに中世のヨーロッパ。

しかし、アンパンマン国に目を向けると、なぜそんな体制が存続したのか。

そこを説明するには、アンパンマンが小麦が無ければ成立しないという点と、パンを専門職としてアンパンマンを支配していたジャムおじさんの存在がさけられません。

ジャムおじさんが国王で、アンパンマンが軍隊。

国民は、小麦を生産して年貢を納めないと、アンパンマンが来てアンパンチされますから、文句を言いつつも小麦をジャムおじさんに納めます。

また、なにより、ばいきんまんが攻めてきたときに、自分達を守ってくれるのはアンパンマンです(封建制社会においては、日本の江戸時代と同じで戦争は貴族の仕事)。

このように、ジャムおじさん、アンパンマン、国民、階級による差はありましたが、それなりに均衡を保っていたのが中世封建制社会。

しかし、ばいきんまんとの戦争にひたすら明け暮れ、さらにはパン工場をやたら豪華にするせいで、国家を借金まみれにするジャムおじさん(ルイ14世)が登場し、年貢が増える一方で国民に餓死者が出たりするのですが、ついには、「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」なんて言い出すバタ子さんが登場し、国民がブチギレるのがフランス革命(本当はだいぶ複雑だけど)。

そして、ジャムおじさんがギロチンにかけられます。

しかし、混乱に乗じて襲ってくるばいきんまん(外国)と闘い、革命による混乱の中で治安を維持し、社会の平和を実現するアンパンマンは必要で、しかも、その力は強大にならざるを得ない。

したがって、アンパンマンの実力行使をうまくコントロールしなくてはいけないのですが、アンパンマンはジャムおじさんが支配します。

そこで登場したのが民主制で、ジャムおじさんを選挙で選ぶことにしたわけです。

(本当は、フランス革命ではブルボン王朝が倒れた後は、民主化勢力の内ゲバに次ぐ内ゲバで国はぐちゃぐちゃの大混乱となり、それはナポレオンが軍事クーデターで国を統一するまで続くなど一筋縄ではないですが、端折ります)

ジャムおじさんを選挙で選び、また、任期を定めて定期的に信任を問う方法で、アンパンマンの実力が不当に濫用されないようになっています。

しかし、しかしですよ、仮にジャムおじさんが選挙で選ばれ、何年か後に再選挙があるとしても、一旦選ばれたジャムおじさんが、国民から委託された権力を濫用し始め、反対意見をアンパンマンを使って排除するようになったらどうなるでしょうか。

ここで、登場するのが、かの有名な、アメリカ合衆国憲法修正第2条です。

そう、国民に銃の所持を認める条項です。

これ、時々、正当防衛のためとかに認められると勘違いしている人がいますが、それは違います。

アメリカの憲法が国民に銃の所持を認めるのは、まさに、アメリカ独立革命の精神そのものであり、国民皆兵という思想であり、権力者が公的暴力装置を濫用したときに、国民を守るのは国民自身だからです。

そこで、国民に武装する権利が与えられています。

だからこそ、アメリカの銃規制は進まないわけで、カウボーイハットを被って銃を腰に差しながらスタバに行くようなテキサス州の一部の銃マニアが規制に反対しているわけではなく、普通のアメリカ人の中にも銃規制に反対の人はたくさんいます。

国民から銃を取り上げようとする大統領の選任など、アメリカの建国の精神に照らせば、絶対に認めてはいけない存在だからです。

その流れで第二次世界大戦が引用されることもあり、ドイツ、イタリア、日本など、権力者が独裁化し暴走を始め、自国民を犠牲に他国への侵略を始めたときに、国民が止められなかった国とされます(日本は独裁じゃないとおもうけど)。

実は、これは現代日本にも通用する難しい問題です。

私たちには、警察と自衛隊という、世界に誇るべき優秀な公的暴力機関がありますが、権力者による濫用を止める根本的な仕組みがあるのでしょうか。

だいぶ暴走して、アンパンマン関係なくなっちゃったのでここらへんでやめます。

いずれにせよ、アンパンマンはばいきんまんとの個人的な喧嘩の解決としてアンパンチしているのではなく、公的機関としてアンパンチしているわけですから、問題の本質はアンパンチの暴力性ではなく、アンパンチ行使の適正性確保です。

そのために、アンパンマンの生命線を握るジャムおじさんは民主的に選ばれることが不可欠ですから、アンパンマンの最大の問題点は、ジャムおじさんに対して、民主的なコントロールが存在しないことです。

しかし、仮にその制度があったとして、突然ジャムおじさんが裏でばいきんまんと結託してアンパンチを国民に向けてきたとき、どのような方策があるのか。

また、民主的コントロールが十分に機能しているとしても、少数派へのアンパンチの正当性をどう担保するのか。

これは、現代社会が抱えている問題そのものです。