Jリーグ誤審騒動について


先週の湘南ベルマーレ対浦和レッズ戦で起きた誤審騒動についてです。

先週、Jリーグで起きた誤審騒動というより明白な誤審が話題になりました。

事の詳細は下記からどうぞ。
https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=58718

まあ、私は日本代表の試合しか見ないにわかサッカーファンなのですが、サッカーというスポーツについては前々から記事にしたいことがあったので、これを機に書いてみます。

めずらしく、字数少なめな記事になると思います。

私がサッカーというのは面白い競技だなと改めた思ったのは、昨年のロシアワールドカップ。

あの大会から、通称VAR、すなわちビデオ・アシスタント・レフリーという制度が導入され、一定の決定的な場面での判定について、主審がいったんプレーを止めて、複数角度からのビデオ映像を確認して、判定を再考する制度が始まりました。

そんなVARの導入は、様々な意見・議論があったのですが、私が面白いと思ったのは、FIFAのVARについての公式見解です。

正確な文面は忘れましたが、その中に下記のような文章がありました。

曰く、VARの導入によっても、サッカーが主観的なスポーツであることには変わりないと。

この、サッカーとは主観的なスポーツであるという一節、私はなるほどなと感心しました。

スポーツというのは基本的に身体運動です(そのゲーム性を強調して現在は「eスポーツ」なんて言葉もありますが・・・)。

しかし、スポーツが人間の肉体的な能力を競うものだからと言って、原始的な営みととらえるのは間違っています。

なぜかというと、ルールがあるからです。

格闘技、特にボクシングなんてすごくて、相手をノックアウトすることを目指すのですが、目つぶしや噛みつきだけではなく、掴み、投げ、関節技どころか、蹴りまで禁止です。

つまり、相手をノックアウトしようと全力で闘うのですが、ルールという名の禁止規定がたくさんあり、相手をノックアウトするという目的に照らすと、きわめて非合理的です。

今夜史上最強の男が決まるなんて煽ったり、前日会見で乱闘を起こしたり、試合中相手を挑発したり、選手たちはアドレナリン全開で見境なくなっているようですが、そんなことは無くて、無数にあるルールだけはきっちり守ります。

もちろん時々、反則男のような選手も登場しますが、ルールがないかのように振る舞い、「その競技」の枠からはみ出すほど見境が無くなる人はいません。

そういう点において、スポーツというのは極めて文明的で社会的な行為であり、野蛮で本能的な行為とは対極にあります。

もっとも、その文明性・社会性がどこまで徹底されるかという点に関しては競技ごとに温度差があります。

そして、その面で特徴的なのがサッカーです。

サッカーにもルールはあり、ルールブックを見れば客観的な規定がありますが、実際に客観的に運用するのは不可能です。

ファウル、ハンド、イエローカード・レッドカードなど、「危険な」とか「意図的な」とか、規定の解釈を巡り、主審の裁量という名の主観的な判断に任せざるを得ない面があります。

しかも、それがやむを得ないものとして甘受されているというのではなく、むしろ、積極的に認められています。

殺気立った試合では早めの段階でイエローカードを出して選手を牽制したり、クリーンな好試合が展開されていれば流れを優先したり、サッカーの主審は、その判定による試合の上手なコントロールこそが求められていると言えます。

そして、ルールの運用に関して、主審の主観的な判断が当然に許される反面として、選手としても見えないところでファウルしたり、時間稼ぎしたり、ずる賢さというのもサッカーの技術の内であるなどといわれたりします。

これが、FIFAがサッカーとは主観的なスポーツであると認めている所以であり、他のスポーツとの比較において見えてくる本質として、手を使わないとか、運動量が多いとかではなく、人が人を裁く主観的な競技として側面が強い、という特徴が挙げられます。

審判の主観的な判定も、それを逆手に取った選手のプレーも、サッカーの本質的要素の1つであり、やむを得ず存在してる副産物ではありません。

そして、そこがサッカーの魅力に大きく影響しています。

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サッカーというのは、ファンの過激な行動が有名ですが、テレビで見ていると気持ちがわかるというか、基本的に見ていてフラストレーションがたまりやすいスポーツです。

ゴールという一定の枠内にボールを放り込めば1点入るわけですが、そのための最も効率的な動きを競うというよりは、相手を掴んで投げてはダメ、ボールを手で触ってはダメ、オフサイドはダメと、禁止規定ばっかりなため、なかなかゴールは生まれず、攻守が頻繁に入れ替わりチャンスの場面は数あれど、なかなかがゴールが生まれない競技です。

しかし、ゴール前で、手を伸ばしてパンチすれば入る場面でも誰もそんなことはしません。

もちろん、そんなことをすればレッドカードをもらって退場になるから割に合わないとも言えますが、メリットデメリットの比較という功利主義的な考えから反則をしないというよりも、自分達がしているのはサッカーという競技であり、サッカーをすると決めた以上はゴールという枠にボールを放り込むことに死力を尽くすが、ルールは守るという文明人としての自負からしないことがほとんどです。

このように、選手たちは、肉体的能力の発揮という原始的な行為を中心として特定の目的の達成に全力を尽くすわけですが、ルールというものによって手足を縛られており、目的を達成したいがそれを阻むルールは全力で守るという矛盾に直面しています。

こうやって考えると、見ている観客としてフラストレーションがたまるのは当然です。

しかも、サッカーの場合、目的達成を阻むルールの運用が主審という一人の人間の主観的な判断に大きく依っているのでストレスは倍増します。

選手は、死力を尽くしながらも文明人としてルールを全力で守っているのに、ルールの運用は絶対的な権力者の恣意的な運用に委ねられているわけですから、本質的には理不尽としか言いようがなく、民主主義社会で育った近代人が絶対君主制の中世社会に放り込まれたもののようで、観客も選手も非常にストレスフルです。

スピーディに展開し、数多くの見せ場が作られるものの、ルールやその運用のせいでなかなか点は入らず、しかも審判の判断は恣意的にしか映らず、ついつい相手のファウルをアピールしたり、審判の判定に不満を言ったり、やり返せなんて叫んだり、イライラは募るばかり。

しかし、そんな状況の中、ゴールという瞬間がやってきます。

ルールによる自縄自縛と審判による主観的な判断に翻弄されながらも、ゴールという枠にボールを放り込むという無意味な目的に、全身全霊を投げかけると決めた選手達。

観衆はフラストレーションに押しつぶされキレる寸前になっているのですが、鍛えに鍛えられ、選びに選び抜かれた天才たちが死力を尽くす中で、ふとした弾みに、ルールによる制約や主審による恣意的なルール運用の理不尽さなどをものともしないようなプレーが生まれます。

試合時間の99%はイライラしているのですが、ある瞬間、ルールによる制約や審判の主観的な判断など大した問題ではなく、ゴールを決めるためには最初から手を使う必要や相手を押し倒す必要などなかったんじゃないかと思わせるような、聴衆を圧倒するスーパープレーが登場し、ゴールが生まれます。

そのギャップこそがサッカーの魅力なんだと思います。

そう考えると、サッカーは主観的なスポーツという説明はその通りですし、主審の主観的なルール運用も、サッカーの魅力に不可欠な要素の1つなんだと思います。

以上を考えてみると、今回のJリーグ誤審騒動。

内容は、ボールがゴールラインを割ったかどうかの判定を巡る明白な誤審。

これは、客観的に判断しないとだめでしょう。

サッカーというのは、人がプレーし人が裁くという主観的な要素がその魅力の本質だとしても、ゴール判定だけは、誰がどう見ても機械的な判断が求められる場面で、しかも技術的に容易にクリアできる話。

ポジショニングといった主審のミスもあるのでしょうが、誤審もサッカーの一部みたいなノリで放置して、機械的で客観的な判断が要求される判定について、主審の判断の正確性を担保する仕組みを欠いている運営体制こそが批判させるべきものだと思います。

まあ、にわかサッカーファンの独り言ですが。