なぜ古文と漢文を勉強するのか、その意味は


古文と漢文を勉強する意味について語ってみます。

はじめに

(結構読まれているようなので、2021年5月9日に大幅な加筆修正しました。)

私は、理系ですが学生時代から古文と漢文が好きだし得意でした。

また、このブログを読んでいる人は知っているように、今でも時々文法書や辞書をひっくり返しながら勉強しています。

そして、大人になってからも勉強する理由は、読みたい古文漢文があるからというのもありますが、古典に関する素養の有用性や必要性を感じるからです。

したがって、私は、教育指導要領の見直しのたびに議論になる、古文・漢文の学習に関して、バリバリの必要派です。

しかし、学校教育における古典指導のカリキュラムや内容(今も昔も)には疑問を持っており、内容を大きく変えてもいいのではないかとも思っています。

そんな私の考える、古文と漢文を勉強する意味と、どのように内容を改めるべきかという私見を書いてみます。


なお、この疑問を持った人、私の記事なんて読まなくていいですが、この本は絶対に読んだ方がいいです(宣伝じゃなくて本当に)。

なお、アニメ好きの私がアニメを通して英語を勉強するサイトは下記(もしよければどうぞ)。
アニメで英語の勉強

学校は工場

まず最初に、私は、究極的には「学校は工場である」という点を否定しません。

もちろん、我が国の憲法の大原則の1つである個人主義の観点からは、個人一人一人が充実した人生を全うするのに必要な知識・教養を身に着けさせる制度の設計こそが政府には求められています。

したがって、学校教育の本質は集団教育ではなく、あくまで一人一人の個性に沿ったものでなければいけないというのは、理念としては理解できます。

しかし、人は生まれながらにして人権を享有するとか、人権は国家よりも先にあるなんて主張しても、イラクやシリアの難民を見れば分かるように、国家を失えば人には何も残りません。

頭の中で、「学校は個人のためにある」と考えることは可能でも、現実には、誰かが国家を設計しその運営を担わなくてはいけませんし、国の発展に貢献する人材も必要ですし、社会の調和も必要ですから、そのための人材を集団的に育成する必要があります。

個人の尊重も重要ですが、同じくらい国家の維持も重要です。

したがって、現在の国家権力が、「個人の自己実現」だけでなく、「国家にとって役立つ人材の育成」という観点から学校制度を設計するのは、バランスはさておき、避けられないことであって、否定するつもりはありません。

そういった根底の部分から否定して、学校など行かなくてもよい、学びはどこでもできる、という主義者で、かつ、古文・漢文を勉強したくないという人には、私の考えは説得力がないだろうと思うのですが、学校という公的制度どころか国家そのものが個人のためにあり、「本人が学びたいものや必要性を感じているものだけを教えればいい」という思想とは根本から違うのですから、そこはご了承ください。

以下は、積極的か消極的か、どのくらいかはさておき、そういった学校の工場としての側面をある程度認めた上での意見です。

「古典は教養」説

古文や漢文をなぜ学ばなくてはいけないのかという問いに対して、「それが人として基礎的な教養だから」といった説明をする人がいます。

しかし、そんな見解には一分の理も認める必要はないです。

その人は、古文・漢文が「教養だから」という理由で勉強したのでしょうか。

もっと突っ込むと、教養がないと人はどうなるのでしょうか。

「一人前の人間」にはなれないのでしょうか。

教養がない人間は基礎が成っていない「出来損ないの人間」で、「一人前の人間」になるために古文や漢文を勉強したのでしょうか。

何がおかしいって、理由が理由になってない点です。

・古文漢文の勉強は教養として必要。

・教養がないと一人前の人間とは言えない。

これを合わせれば、古文漢文は勉強しなくてはならない、なぜなら、人として古文漢文は勉強しなくてはいけないからだ、となります。

まったく、勉強する理由の説明になっていません。

ただ単に、何も考えずにロボットのように学んだ自分を、相も変わらず何も考えないまま肯定しようとしているだけです。

それが必要なんだ、なぜなら教養だからだ、と。

似たような見解に、「知的欲求は人間の本能説」があり、勉強すると面白いとか、いい先生に出会ってないだけだとか、古文や漢文を面白いと思う本能が人間にはもともと備わっているかのような主張をする人もいます。

しかし、じゃあ、古文と漢文を面白いと思わないのは人間じゃないのだろうか。

これも、裏返せば、なぜ勉強したのですかという質問に、人間だからと答えているのと等しく、要するに理由が理由になっていません。

本当のところ、学ぶ意味を考えたことがないのだと思います。

理由は無いけど、物知りだと大人になってからモテるから勉強しといた方がいいよ、なんてアドバイスの方がよほどまともです。

ちゃんと理由が理由になっていますからね。

しかし、古文漢文教養説には進化系があります。

「外国語より国語」説

古文と漢文と比較されがちなものに英語教育の充実があります。

実用性のない古文・漢文に時間を割くよりも、英語教育により時間を割くべきだと。

しかし、それに対して、英語がいくらできても、日本人として日本文化に関する深い知識がなければ意味がないと主張する人たちがいます。

例えば、一生懸命勉強して、英語が話せるようになったとします。

そこで、外国人と円滑に会話できるようになったとしても、向こうからすればこちらはへたくそな英語を話す日本人です。

そして、もしこちらが英語は話せても、日本文化などに詳しくなく、つまり、相手からして特段面白くない人間であれば、相手にとって、あえてこちらと話す理由はありません(他の魅力を持つ方法はいくらでもありますがそれはさておき)。

したがって、大事なことは英語が話せるだけではなく、魅力ある日本人にならなくてはいけないわけで、そうすると、グローバルコミュニケーションにおける、手段としての外国語というより、より本質的な部分として、自国文化に対する素養が求められてくると言えそうです。

しかし、本当にそうでしょうか。

源氏物語や徒然草に精通していると、魅力的な人間になれるのでしょうか。

逆に言うと、外国人と話すときに、相手が滔々とシェイクスピアか何かについて話しだしたりして、深い知識を披露して来たら、それは魅力的でしょうか。

そんなことはありません。

せいぜい、「へー詳しいんだね」とか「文学オタク?」と思うくらいでしょう。

上述したような、「教養は人間の基本」といったような、知識を得ることで自分が立派な人間になれると信じ、何かにつけて「え!知らないの?」なんてマウント取っている人からすれば、自分の知らない(高尚そうな)知識をたくさん知っている人は魅力的なのかもしれませんが、普通の人にとっては、自分に関係のない話や特に興味のない話をされても、迷惑としか感じません。

したがって、日本初のグローバル人材になると言っても、古典の知識をいくら頭に詰め込んだところで、外国人から見て、「自分の知らないことをたくさん知っている魅力ある人だ」と尊敬されるということはありません。

「古典思想重要」説

もっとも、外国人と話している中で、もし、話しているトピックに関連する形で、日本やアジアならではのウィットのきいた古典知識を披露できると話は変わってきます。

世界から見ると、日本は独特ですから、外国人からすると、聞いたことも無いような斬新な視点を提供することができるかもしれず、そういうことができるとグローバルコミュニケーションにおいても、面白い人材になれるかもしれません。

日本のアニメや漫画なんか人気ですが、外国人のリアクション動画など見ていると完全に彼らの流儀で理解していますから、根底にある日本人の視点や歴史的背景を教えてあげるのは素直に喜ばれるかと思います。

特に相手がそれなりに教養のある人間だと、視点の違いを歴史的思想的な側面などから説明できると評価は高まると思います。

そういった観点からは、日本初のグローバル人材の育成として、古典教育は必要と考えられるかもしれません。

しかし、この主張も、古文漢文必要説の理由としては少し無理があります。

それは何かというと、そういった儒教・道教の思想や故事成語、平安貴族や武家から連なる日本人の考え方など、知ると面白いものはたくさんあるのですが、それを原文で読む能力など必要ないからです。

大事なことは思想や歴史を理解することであって、それは翻訳されたものでも十分です。

というよりむしろ、原文を読むなんてきりがなく、専門家によって筋道立てて思想の流れが整理された論考を読む方が重要。

古文や漢文必要説側の人も、大人になってから、古典を愛読しているとしても、古文や漢文を原文で読んでいるという人はおそらく非常に少ないと思います(そもそも安く売ってないし)。

大人になってから、論語や孫氏の兵法を読む重要性を強調する人は多いです、座右の書に挙げる人のほとんどが現代語訳版で読んでいます。

(まあ、古典の素養の必要性を説き、古典書を愛読しているけど現代語版で読んでいるという人が、人としての当然の教養などと言いながら学校教育における古文漢文の学習の重要性を説いてたら、それはそれでツッコミどころ満載ですけどね。)

原文で読んでいる人が仮にいたとしても、専門家かそれが趣味の人の2択で、一般人にとって、日本の歴史や思想史を学ぶ必要を認めることと、それを原文で読める能力を育成する必要性はほとんど関係ないです。

したがって、日本的思想を知る、自分に連なる歴史を知るという点においても、ほとんど外国語に近い古文と漢文を勉強する意味はないです。

以上のように、必要派だと言っておきながら、よくある古文と漢文を学ぶ理由を否定してきました。

では私が考える、古文と漢文を学ぶ意味とは何でしょうか。

日本語という言葉

私が、古文と漢文を学ぶことが必要だと思う理由は、日本語の理解にそれらの知識が不可欠で、日本語の理解が、日本人が一定以上深く物事を考える時には不可欠だと思うからです。

私は、会社員時代の最後の3年くらいは英語環境にいました。

日本人同士は日本語で話していましたが、上司は外国人で、メールや作る資料は全文英語でした。

私は英語が全然できないのですが、意外と何とかなりました。

月曜日の朝のエレベーターの中で、陽気な外国人の同僚から、週末はどうだったなどと質問されるのは何年たっても地獄でしたが、仕事の場だと、自分の感情を伝える必要もあまりないし(喜怒哀楽は表情で十分)、日本人社会で求められるようなキャラを伝える必要もなく、事実だけ伝えればいいとなると意外と何とかなります。

そうすると英語のいろいろな面が見えてくるようになりました。

日本語で会議する場合、「それでは会議を始めさせていただきます」なんて言ってからはじめるわけですが、英語環境に初めて来た日本人なんかで、「それでは会議を始めさせていただきます」は英語でなんて言うのですかなんて聞く人がいます。

まあ、英語ではそんなことは言わないというのが正解で、文化が違えば言うべきセリフも違うし、事実を伝えるだけでもいろいろな違いがあります。

しかし、ビジネスのような、基本的に事実さえ伝えればそれで十分と言う環境で英語に慣れていくと、英語ではこういう言い回しがあるのかとか、こういう場面ではこういう言い方するのかという発見がたくさんあって少し勉強が楽しくなってきます。

感情表現は、本当にこれで自分の気持ちが伝わっているのかとか、そもそもこういうキャラが外国人相手に通用するのかと難しいものばかりですが、事実を伝えたい場合には、正解があるので学びやすいです。

参考文献に載せた「古文の読解」という超有名参考書の中で、国文学者の小西甚一先生がスタンフォード大学に勤務してアメリカ人同僚と英文詩の共同研究していた時のエピソードが紹介されています。

最初のころ、小西先生は、アメリカ人の研究者たちがこぞってBeautifulと評価する箇所がなぜBeautifulなのか理解できなかったそうですが、半年してやっと、Beautifulというのは日本語の「美しい」では決してなく、彼らがBeautifulと呼ぶような詩の表現を見たときに言う言葉がBeautifulなのだと気づいたそうです。

まあ、これだと、美意識が異なるのか、言葉の守備範囲が異なるのか、厳密には卵と鶏ですが、小西先生の言うように、主観的な感情は外国語で正確に伝えるのは困難な場合も多く、円滑なコミュニケーションを成立させる場合には、相手のやり方に沿ってBeautifulと言う必要があって、自分の美意識で美しいと思ったところをBeautifulと言って、その心を伝えようとするのは一般人レベルではほぼ不可能です。

地味な花の一輪挿しを見てBeautifulと言っても、ほとんどの外国人は?でしょうが、それが美意識のズレなのか、Beautifulの意味範囲の問題なのかは難しいです。

Beautiful=美しいと捉えて、こういうのを日本人は美しい(Beautiful)と感じるのだと、日本文化を紹介して、文化比較を面白く論じようとしても、相手にとっては、美意識の問題ではなく、言葉の意味範囲の問題として、それはBeautifulではないかもしれません。

もし、Beautifulがヴェルサイユ宮殿や宝石のように、華やかな美しさに使う単語なのであれば、菊の一輪挿しを見せて、日本人はこれをbeautifulだと感じるのだと熱く語ったとこで、外国人からすれば、それはBeautifulではないとしか思いません。

しかし、ビジネス現場では仕事上の事実だけを伝えればよいので、日本のビジネスマンにありがちですが、飲み会などのフレンドリーな会話では英語はさっぱりですが(とりあえず仲良くなることは重要だとしても)、仕事の場では何とかなるというレベルには結構すぐに行けます。

そうしていくと、英語の中の便利な単語や言い回しにお気に入りが出来てきて、その影響を受けて、日本人同士でも段々と会話の中にカタカナが増えてきます(そうじゃない環境の日本人相手には嫌われますが)。

その反面、どうやっても訳せない日本語に気づいたりして、日本語にも興味がわくようになってきます。

キレるという単語が登場したのは、私が小学生6年生くらいの頃で、逆ギレの登場はその数年後ですが、今となっては、逆ギレという言葉がない時代の人達があの現象をどう表現してたのか疑問です。

もちろん、言葉がなかったからその現象がなかったわけではないのですが、取り巻く行動は今と違ったんだろうと思います。

そんな感じで、自分も言葉ありきなんだなと気づかされます。

つまり、英語を学んでいく過程で、英語を話す人って、こうやって物を考えているのかという気づきがあって興味深い反面、自分の考え方や行動も、かなり日本語という言葉の影響を受けているのだなと気づくようになります。

よく言われる話ですが、明治時代に様々な西洋文化が輸入されるにあたり、英語の翻訳で色んな苦戦がありました。

代表例にLibertyがあり、これは日本語で言うと自由です。

しかし、本来Libertyというのは国家権力などの圧力や干渉に拘束されないという意味で使われるのですが、日本では、思うがままに行動するという意味の、自由という単語を当ててしまいました。

そのせいか、自由というと歯止めがきかない悪い側面をもっていて、日本ではすぐに、自由主義とわがまま放題は違うなんて話まで登場しますが、これを英語にすると意味不明で、LibertyとSelfishは違うと思うなどと英語で力説したところで、何言ってんだ?となります。

しかし、そういった側面に気づかずに、なぜ日本では自由主義(liberalism、リベラリズム)が根付かないのかなんて議論しても、日本人からすれば「自由」を最大限尊重する主義なんて本質的に問題ありそうな気がして、どう考えても根付くわけなく、そもそもLiberalismというのは、「国家が個人を尊重して過度に干渉しないこと」を意味するもので、「自由主義」ではないわけで、かといってリベラリズムとカタカナにしてもなんだかよくわかりませんし、そもそもその問いかけ自体に問題があるとしか言えません。

別の上手い訳語があれば、もしかして根付いているという結論になるかもしれません。

こういった疑問に気付くためには、言葉に関する鋭い感覚が必要です。

違和感が始まり

上述したような、そもそも言葉遣いの問題が避けて通れないのではないかという疑問は重要です。

勉強など、何かを学ぶにあたっては、自分の頭で考えることが重要であると力説されます。

まあ、間違っているとは言いませんが、密室にこもって自分の頭でいくら考えたところで、何にもならないのはある程度自明です。

もちろん、そういったロマン主義に若気の至りとして陥るのはやむを得ないとしても、実際には、勉強というものは、講義に出たり本を読んだり、他人の考えに触れながらするものです。

他人の意見を受け入れるだけではダメですが、大事なことは、他人と一緒に考えることです。

そして、他人の考えを吸収したり、自分なりに反論していく中で、「あれ、なんかおかしいな」と違和感を抱くことこそが、一番重要です。

その違和感を自分なりに広げていくことこそが勉強であって、その違和感を深く追求していくためには、自分の思考様式、自分が物事をどう考えているのかという、自分に対する理解が必要になってきます。

そこに、自分が思考するための道具でありまたそれ以外に表現する方法がないという点で自分を制限する、日本語が大きくかかわってきます。

そして、私たちが日常的に使っている現代日本語は、古文や漢文の書き下し文とは大きく異なるようでその流れをしっかりと引き継いでいます。

参考文献に載せた橋本治さんの本に登場しますが、私たちが使うのは和漢混交文です。

江戸時代まで公式文章を書くときは基本的に漢文だったわけですが、平安時代から女流作家たちがひらがなで別系統の文章を作ります。

その結果、長い間、「雨の日はいとをかし」みたいな主観的な文章と「行ク河ノ流レハ絶ヘズシテ」なんて漢文長の文章が二系統存在し、明治当たりからそれらが混ざった和漢混交文が現代語として使われています。

しかし、ごっちゃになっているようでそうでもありません。

実際、言葉遣いなんてどうでもいいなんて言ってる人も、いざ選挙にでも立候補すれば「有権者各位の絶大なるご支援を懇願いたす次第であります」なんて漢文調で話しだします。

賛否両論のある人で堀江貴文さんがいますが、あの人がまじめに書いた文章を読んで、頭が悪いと思う人はいないと思いますが、なんでそうかと言えば、本人が意識しているかどうかは別として、必要な場面で、話し言葉とは少し違う堅めの漢文調(漢字を中心として完結明晰な)の文章をちゃんと書けるからです。

その逆に、人を見かけで判断してはいけないとは知りつつも、人が話すのを聞いたり、人の文章を読んで、どうもこの人は馬鹿っぽいなと感じたりすることは多々あります。

それくらい、無意識下に、私たちの中では古文と漢文が作用しています。

自分の思考様式

一番最初は他人の考えのコピーでかまわないのですが、他人の考えや自分の考えとの違いに違和感を持ち、それを掘り下げることこそが本当の勉強の始まりです。

そして、その時に、なぜ自分はそう考えるのかという理由を考えるにあたって、日本語を使って物を考えるという思考様式そのものに目を向ける必要があります。

というか、言葉そのものに自然に目が向くようにならないと、一定以上深い思考はできません。

英語を勉強し、外国人と話す中で、外国人ってこうやって物を考えているのかと思うのと同じように、外国人や日本人とコミュニケーションを取っていく中で、自分も日本語にとらわれて物を考えているのだなと気づくことが重要です。

そして、そのルーツは、古文と漢文にあるわけです。

そこで、自分の頭で他人の頭と共に考えていくにおいて、自分の思考様式を理解するために古文と漢文を勉強して、言葉に対する感覚を磨いておく必要があるわけです。

したがって、私は古文や漢文の学習は英語と同じくらい重要と考えますが、古文における平安時代の偏重や漢文における漢詩の読解などは不要と思います。

大事なことは、言語学な視点から、いま私たちが使っている日本語、そしてそれを使って物を考えざるを得ないという点において私たちの思考様式そのものである日本語を、原始的でもありながら、ある意味究極的な形でもあるルーツからさかのぼって学んでいくことだと思います。

限られた素材であっても言葉の意味の広がりやその変遷を巡って考察するのは言葉への感覚を磨くために非常に重要だと思います。

また、古文や漢文の学習というのは究極的に情報処理能力の養成につながると思います。

分かるようで分からない日本語をパーツパーツに分解して解釈していく作業は、読解力養成の要でもありますし、この訓練を適切にしなかったために大人になってから変なことを言っている人はたくさんいます。

『の』をめぐる攻防

「よろしかったでしょうか」は間違いなのか

漢詩の押韻なんて全くやる必要なく、中国語読みの発音なんて、「難しいこと知ってる=偉い」的な、しょうもない教養論を振りかざさない限り不要で、日本語や日本思想を学ぶ範囲内での漢文訓読を学習させればいいと思います。

そして、古文も、源氏物語なんて言う最難関の物語を読ませるのに苦心してないで、江戸時代や明治時代のものも増やしながら、古文と現代語とをつなぐ勉強をさせるべきだと思います。

古文が日本人のルーツその1

ここで、自分の思考様式のルーツが古文にあるという点を少し補足します。

それはどういうことか。

参考文献に登場する有名な例ですが、ノーベル文学賞も受賞した川端康成の『雪国』の出だし、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」の英訳の考えてみてください。

これ、英語が全然できない人は、After long tunnel, it’s snow! all snow!なんて両手を振り回しながらやりがちです。

まあ、外国人からすると意味不明というか、3歳児くらいと話している感じなんでしょうが、ここでのポイントは、日本人は、この出だしを読むと、電車が長いトンネルを走っていて、トンネルを抜けてパッと辺りが明るくなったと思ったら、一面に雪景色が広がっている情景を思い描く点です。

自然に描くイメージが「一人称」で、当然のように、作者の思い出語りだと解釈します。

しかし、英訳版では、この有名な出だし、The train came out of the long tunnel into the snow country.となっています。

そのまんま、「電車が長いトンネルを抜けて雪国につきました」と、ナレーションのような英文というか、新聞記事のように淡白に事実を述べているだけです。

なんでかと言うと、英語がそういう言語で、1人称視点で事実を伝える術がないからです(言いすぎか)。

別の例で言うと、英語に、Ouch(アウチ!)という単語があります。

「痛い!」という意味ですが、英語には、日本語的な単語はこれくらいしかないような気がします。

何言ってるか意味不明だと思うので補足します。

鬼滅の刃で無限列車に乗っている煉獄さんが弁当を食べながら、「うまい!」と叫ぶシーンがあります。

あれ、英語字幕ではdeliciousと訳されていますが、deliciousというのは、美味しいという意味で、食べ物の性質を客観的に述べている言葉です。

しかし、あの「うまい!」は、外国人が痛みを感じたときにouch!と叫ぶのと同じで、「この弁当は美味しい弁当である」と、誰かに対して、食べた弁当の味を説明しているのではなく、美味しいものを食べたときの心の動きをそのまま表現しています。

にたような単語に、「ヤバい」があり、色んな場面で使う言葉ですが、街で芸能人を見かけたときに、「やばいやばい」というのは、日常・一般の外にある事象に直面したからです。

英語にも、extraordinaryという単語があり、まさに非日常的という意味ですが、しかし、芸能人を街で見かけて「やばいやばい、キムタクじゃん」というのは、別に、「今私が直面している事象は、非日常的なものである」と、その事象の頻度やレアリティを説明しているわけではありませんから、日本語の「ヤバい」は英語のextraordinaryとは全然違う言葉です。

ouch!と同じように、そういうextraordinaryな事象に直面した時の心の動きをそのまま、「やばい」というわけです。

こういう日本語の原始的な姿が古典単語には詰まっています。

代表的なものに、「いとほし(愛ほし)」というものがあり、現代語の「愛おしい」とは少し異なり、迷子の子供がわんわん泣いているのを見たときのような、弱者を横にしたときの感情を表現する言葉です。

つまり、可愛くもあり、かわいそうでもあり、それと同時に、弱ったな、こまったなどうしよう、という戸惑いも含みます。

したがって、婿候補に難癖ばかりつけて、なんで結婚してくれないのか、このまま年老いてどうするのかと、しくしく嘆くおじいさんに対して、かぐや姫は「いとおし」なんです。

これを英語のように、いとおしには大きく3つの意味があり、1.かわいらしい、2.かわいそう、3.困ったなどと整理して、この場面ではどれでしょうかなんて考えても、日本語の本質を見誤るだけです。

平安時代の女流文学というのは、話し言葉をそのまま文字にしたもので、ある意味、現代で言う女子高生言葉で書いたライトノベルのようなものですから、現代語でいう「ヤバい」「ウザイ」「エモい」のオンパレードで、ち密に訳そうとすればするほどおかしくなるどころか、究極的には、その時代に生きていない限り絶対に意味の分かるものではありません。

ただ、学者さんたちの努力もあり、ある程度の感覚はつかめるようにはなっており、主観的で感覚的、話し言葉から発展した日本語の本質的な部分の結晶のようなものを味わうことが可能です。

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「春はあけぼの」だけだと何が何だか分からなくても、ゴリゴリのギャルがテレビのインタビューで「夏はタピオカ」と熱く語ってたら私たちは理解できますし、外国人から「夏はタピオカ」はどういう意味ですかと聞かれた場合には、「夏にタピオカドリンクを飲むのはとても楽しいことです」なんて訳すしかなく、それで仕方がないわけですが、その練習のような古文学習をすることに意味はなく、日本語の本質を一番原始的な形で味わうことが重要です。

そして、現代日本語もこの流れを汲んでいて、何かを説明するのではなく、心の動きをそのまま声にするような言葉ばかりなので、そもそもが主観的で、自称を客観的に説明する英語に訳すのが難しいのです。

これがそのまま、日本人が英語を話せない理由でもあり、英会話の授業で、みんなして、I think thatとか、I feel thatと、いちいち「私は」で始めてしまう理由でもあります。

この壁を理解して乗り越えない限り、絶対に英語は理解できないと思いますから、そういう点でも重要です。

古文が日本人のルーツその2

せっかくなので、もう1つの日本語の特徴、助動詞「れる・られる」。

まあ、古文で言う所の「る・らる」。

これは、受身、可能、尊敬、自発という4つの意味があり、普通に使っている私たちでも、なぜその4つが同じ助動詞に?と改めて聞かれると意味不明というか、なんでだろうと思います。

日本語を学ぶ外国人からすると、受身(be動詞+過去分詞)と可能(canやbe able to)が同じ文法で、文脈次第で意味が変わるなんて言うのはさぞかし地獄だろうと思います。

もっとも、この4つの分類、そんなに難しいものではありません。

例えば、いつも威張っていて、偉そうなことばかり言っている同級生がいるとします。

そして、そいつのことを、「あいつ傲慢だよね」と友人と陰口を言っていたら、それを聞きつけたそいつが、「俺のことを傲慢とかいうのやめろ」と言ってきたとします。

そこで、言い返すわけです、「お前が威張って偉そうなことばかり言ってるから悪いんじゃん、実際にお前傲慢だろ」と。

この場面、「あいつは傲慢だと思われる」わけですが、この場合の「思われる」は、受身、可能、自発のどれでしょうか(尊敬は省略)。

この例であれば、いかに、受身と可能と自発が繋がっているかよくわかると思います。

状況的に、あいつの態度を見ていると、あいつは傲慢だと思えてくるわけですし(自発)、それはそのまま、思うことができるということですし(可能)、その結果、あいつは傲慢だと思われてしまうわけです(受身)。

これは、日本人の根本的な思考様式で、自分達は自然の一部であり、自然に生かされている存在でしかなく、自分で出来ることなんてたかが知れていて、運命というか、大きな流れに翻弄される存在と言う意識です。

つまり、本質的に受身的であり、「自分が思う」というより、外部によって「思わされる」「そう思うように仕向けられる」存在なわけです。

(天候次第で大きく運命が左右される農耕民族としての性質が要因という説がある)

そういった、大きな力の存在を無意識下に持っています。

平家物語で、平清盛亡き後、後を継いだぼんくらの三男の宗盛ですが、あの状況で平家の看板背負った以上、もうその看板掲げて最後まで戦うしか選択肢はないわけです。

生まれも家族も友人も何もかも選べなくて、自分以外のしがらみにがんじがらめにされて身動きできない存在である点において、自分だって同じだから、平家の滅亡に日本人は胸を打たれるわけです。

あれを読んで、「自分が宗盛だったら、勝算をち密に計算した後に、負けが濃厚になった時点で、源氏に降伏しただろう」なんて感想持つ日本人はいないはずで(いたらすみません)、人生は意思決定の連続とか、自分が人生の主役なんて言ったところで、「どうにもできない自分」「どうしようもない状況」が誰にだってあるから、「もののあはれ」を感じるわけです。

そういった自分の手に負えない「大きな力」を無意識下に認識しているからこそ、日本語では、自発と可能と受身は同じ表現なわけです。

そして、なぜ尊敬があるかですが、敬語の本質は、相手との距離感を正確に把握・表現することであり、「る・らる(れる・られる)」を使うことで、「大きな力の結果自分がそう思うようになる」の派生・延長として、相手の行動が自分の手に負える範囲ではないことを表明することが、敬意の表明につながるからです(以上は全て大野晋先生の受け売りです)。

このような日本語ですから、日本語の受身と言うのは英語の受身とは根本的に異なります。

英語の受身形は他動詞でしか使えませんが、日本語の受身は自動詞でも利用可能で、「彼は奥さんに逃げられた」とか「彼は昨年奥さんに死なれた」なんて言い方が可能ですが、これを英語にできません。

つまり、欧米とは世界観自体が根本的に異なり、それが言葉に見事に反映されているわけです。

他にも、古文の助動詞を丁寧に見ていくと、日本語にはそもそも時制がなくて、あるのは主観的な確度判断だけなんじゃないかという、日本語の性質、さらに、それを使っている自分の思考様式が分かってきます。

そして、「我思うゆえに我あり」と自分を中心に世界を組み立てていく欧米流の思考様式に対して、自分は自然の一部でしかないという全く異なる思考様式を持っていることを認識することは、外国人とのコミュニケーションだけでなく、外国の名著などを読んだときにうっすらと感じる違和感を紐解いて、新たな一歩を踏み出すために極めて重要だと思います。

以上のようなことから、古文を学ぶと、自分の思考様式の源流が見えてくるし、それはとても重要なことだと言ってるわけです。

そして、それこそが目的なんだから、手段でしかない「古典文学鑑賞」ばかりに力を入れずに、「自分の源流」としての古典の理解を、古典教育の目的として再構成すべきと言ってるわけです。

日本思想史

なお、個人的には、古文・漢文を学ぶべき理由としてもう一つ付け加えたいのは、日本思想史の理解のためです。

これは、前半で書いた、現代語で読めば十分と言う主張と矛盾するのですが、江戸時代当たりは原文で読んでもいい気もします。

というか、原文(書き下し文)で読んだ方が良いです。

社会学とか政治学の人達は、海外の本ばっかり読んでいて、日本の思想史を軽視しています(ような気がする)。

海外から持ってきたモノサシで、やれ日本は近代化したとかしないとか、「人類は皆同じ」という体で分析を続けています。

幕末に黒船がやってきて急に西欧化した、戦争で負けて戦前と決別して戦後民主主義が始まったなど、特異点を境に思想が180度変わり、当事者たる日本人の中身が急に入れ替わったかのように物事を語る人もいます。

しかもそういった勝手な理解に基づいて、日本人には主体性がないとか、だから本当の民主主義が根付かないとか。

しかし、参考文献の本に登場しますが、別の考え方もあります。

日本には、仏教伝来、儒教伝来、キリスト教伝来、朱子学伝来、などさまざまな外国文化の襲来がありましたが、何一つとしてオリジナルなまま日本で存在しているものがありません。

そして、そういう態度こそが日本なわけです。

一神教の聖典のような、善と悪が絶対的に定義されるような文化・道徳観の下で育ち、「人や社会はこうあるべきなんだ」という強固な思想を持つ人達から、「お前ら日本人には確固たる哲学がないのか」と言われても、「そんなものないよ」とやって、いいとこどりして現実主義で行くのが日本流で、その一方で理念中心の原理主義的な態度には絶対にくみしないというのが日本の思想かもしれません。

和魂洋才などといって、明治維新や戦後など、技術や制度を真似するだけの上辺だけの近代化を果たしたから真の近代社会になっていないなんて意見もありますが、参考文献の苅部直先生の本のように、明治維新は急転直下の大革命というわけでもなく、江戸時代の様々な文献を見ていくと、平和の中で農業や経済などが急速に発展し、西洋文明に出会っても、「それ面白いねえ」と吸収する文化的な土台が出来上がっていたという考えもあります。

安保闘争から始まり、多くの社会運動に対して、ほとんどの日本人が、無関心な態度をもって結局は自民党に投票するわけですが、それを西洋のフレームワークを持ち出して、やれ「政治的ニヒリズム」だ「政治的無関心」だと分析し、そういった面もあるのでしょうが、「真の民主主義」なんて念仏にくみせず、目の前の生活から決して足元を離さずに理念よりも実利を重視する思想が日本にはあるかもしれません。

また、ステレオタイプな歴史観からすると、幕末の尊王攘夷派などは、近代化という時代の流れに逆行した頭のイカれた連中のような扱いを受けていますが、そういった思想の親分たる水戸学のリーダーの会沢正志斎や藤田東湖の書いた文章を先入観を捨てて読んでみると(さすが漢文白文は読んでいませんが)、まったく頭のおかしい人達ではなく、むしろ、非常に現実的で地に足付けた議論をしている気がします。

明治維新や戦後、江戸時代から現代までは、押し付け近代化、押し付け民主主義などと、日本という国自体が借り物競争をしているような体で語られますが、本当はそういうとらえ方が自体が間違っていて、もちろん外的環境はあるにせよ、様々な外部と遭遇しながら、特異点を強調しすぎるのが間違いで、鎌倉時代当たりから、大して変わらず「いつもの日本」をやっているのかもしれません。

有名ですが、新井白石の著作で『西洋紀聞』という面白い本があります。

将軍の子が将軍、老中の子が老中といったような、実力制とは無縁の身分制の中で、その優秀さを評価されて学者ながら宰相となった新井白石は例外中の例外的な特異な人物ですが、鎖国してから100年ほどたった禁教下の日本にイタリア人宣教師が流れ着き速攻で捕縛されるろ、学者である新井白石は興味津々で、連日取り調べをします。

その記録が『西洋紀聞』です。

新井白石は学者として、その宣教師の持つ、天文学、航海術、地理、歴史といった知識に舌を巻き、西洋の知識水準はすごいなと素直に驚嘆するわけですが、歴史が一定以上さかのぼると(キリスト教の話になると)、モーゼとかいう爺さんが海を割ったとか、父親のいない生娘から神の子が生まれたなどと、その宣教師が真顔で語りだすので、頭の整理ができなくで困ってしまいます。

智者と愚者の二人と同時に話しているようだと、本当に素直に困惑していて面白いです。

そして、出した結論が、西洋の学問というのは、目に見える容器を正確に描くのは非常に優れているが、目に見えないその中身については全く分かっていないようだというものです。

つまり、私が勝手に補足すると、精緻な数式モデルを作って分析するのが得意だから静的な自然科学は得意だろうけど、動的な社会や経済にそのアプローチを応用すると絶対に失敗するだろうということを見抜いたわけです(これはかなり私的解釈)。

ここで私が強調したいのは、日本人として日本の文化に根付いた学問を身に着け、それに基づいて自分の知らない西洋の学問と真正面から対峙した姿勢です。

今の日本の学者はこの姿勢が完全に欠落している気がします。

海外に留学して、海外の著書を読み、研究と言えば横文字を読むことで、それをそのまま日本に持ち帰って実践しようとしている専門家の多いこと。

幕末の攘夷派が開国派を嫌ったのも、流行り病にかかったかのような、そういう浮ついた開国派がたくさんいて、既存の地に足付いた学問やこれまでの歴史・文化をろくに顧みずに否定したり、なんの副作用も考慮せずに社会の変化を説いたりしていたからです。

これは、現代では、死刑制度を巡る議論が最たるもののような気がしますが、海外では死刑制度廃止が進んでいるのに未だ維持する日本が恥ずかしいとか近代国家とは言えないとか、こういうことを平然と言う専門家が多すぎてびっくりします。

彼らは単に欧米を崇拝しているだけです。

ただ、世論調査すれば、加害者に甘すぎる、凶悪犯罪には毅然として厳罰を処すべきという意見の方が圧倒的に多いわけで、大きなずれがあります。

どうも、日本人の日本人による日本人のための議論が学者さんたちにリードされていないと思うのです。

フランスにおける民主主義の発展の歴史なんて研究する前に日本人の社会思想の歴史を勉強しろと言いたいのですが、とはいっても私に言われなくても、そういう機運が高まっている気がします。

言いたいことは、おそらく今後日本思想史の見直しがブームになると思っていて、核となるのは江戸時代ですから、その時代の思想の漢文の読み下し文くらいは読めるようになっていてもいいのではないかと思います。

そう考えると、やはり古文の平安時代偏重は考え物で、現代とつながりが強い江戸時代などを中心にすべきですし、漢文も、孔子とか老子とか古代の中国思想をやった後は、漢詩と歴史ものではなく、新井白石や本居宣長などの日本人が書いた思想をしっかりと取り扱うべきかと思います。

専門家馬鹿の時代

現代社会は自分のことしか考えない専門家馬鹿に蹂躙されていますが、その最たるものが教育です。

科学者も、社会学者も、国文学者も、「これくらいは知っておいてもらわないと困る」「これくらいできないと先進国とは言えない」「このままいくと中国やインドに追い越される」「北欧では云々」などと、狭い視野に基づいて、過剰な負担を押し付けてきます。

そして、政治家が「まあまあ落ち着いて」なんて言い出すと、途端にマスコミが、「政治が教育問題に介入」なんて騒ぎだしますから、被害者はいつも学生です。

参考文献の浅羽通明さんの本に登場する面白い例を紹介します。

永井均さんという、「なぜぼくは存在するのか」「なぜぼくは他の誰かではないのか」という疑問を小学生のころから考え続けて、そのまま哲学者になってしまった人がいて、「<子ども>のための哲学」という本を書いて、様々なテーマをとことん問い詰めるという一般向けの本を書いたりして人気なのですが、それに対して竹田青嗣という哲学者が、「フランス思想における反ヘーゲル的格闘が(永井の議論の背後には)存在して」いるが、永井の方法では「ヘーゲル的『自己』は簡単には解体されない」と批判したというエピソードが登場します。

永井さんが、子供ころから抱いていた疑問を長年考え続け、哲学者にまでなって一定の解を見いだし、自分なりの到達点を一般向けにやさしく書いた本で、「自分だけの考察」なのですが、誰もが思う疑問を突き詰めたからこそそれが「みんなのもの」となり、結果ベストセラーになったわけですが、専門家が勝手にフランス思想がどうのこうのという枠組みを当てはめてきて、ヘーゲル的『自己』がどうのこうのと批判してきたわけです。

おそらく竹田先生的にとっては、そういうのが「哲学すること」であり、そういうことを続けて「哲学者」になられたんだと思いますが、タコツボ化した専門家の極致とも言え、本人は真剣なのでしょうが、一般人とは関係ない世界です。

しかし、世の中の専門家なんてそんなもので、教育指導要領を巡る議論の中でも、こんな専門家たちが、「これくらいは知っておいてもらわないといけない」などと、学ぶ側のことは無視して議論しています。

その最前線ともいえるのが古文と漢文で、やたら難解な平安文学にこだわったり、漢詩を教えようとしたり、何かあれば、勉強とは社会で役立つ知識を学ぶことだけではないなんて言いながら、社会で役に立つかどうか、本人の人格形成や成長にどう影響するかは一切考慮しないで主張しています。

そして、それを支えている人もいて、勉強イコール先生が言ったことや教科書に書いてあることを覚えることだと思っている人達も多くて、要するに何も考えずにひたすらロボットのように暗記にまい進すると、大人になってから、「優等生」であった自分自身を肯定するために、自分達が学んだものを人としての必須の教養であるなどと言い出して、「教養ガー」「教養ガー」と叫んで自己循環的に変な専門家を支え出すわけです。

まあ、しかし、究極的にはこういった専門家馬鹿の跋扈を支えているのは国民が専門家好きだからとも言えます。

日本人は、「事件は現場で起こってるんだ!」的な論調が大好きだし、現場を理解していない本部から指図されるのは大嫌い。

日本をダメにしているのは現場が強すぎるからなんて言ったら、おそらく日本のサラリーマンは口をそろえて、言いたいことは分かるが、自分の会社の本社の人間は本当に現場のことが分かっていなくて・・・と始まるはずです。

これは、太平洋戦争を分析した名著の「失敗の本質」をよく読むとわかりますが、あの戦争でも、最終局面はどの戦闘でも、最終的に現場が「あいつらは分かっていない」と本部の指示を無視するようになります。

これが日本のある意味お家芸で、上り調子の時は、現場がすさまじい力を発揮するのでいいのですが、下り調子の時には、大局的な判断をして、生かす部分と切り捨てる部分を見極めないといけないのに、現場が強すぎて、統一的な撤退戦ができない。

バブル崩壊後の失われた30年もこの影響が大きい可能性はあって、政治家が社会の隅々までわかるはずもないのに、なんかあるとすぐに、「専門家」が登場して、「あなたは本当に~を理解しているのですか」と始まって、政治家をマスコミが吊し上げ、一向に大局的な計画がまとまらない。

そういう意味では、勉強ができる秀才よりもリーダーの育成の方が急務。

職業に貴賤は無いし、人に上下もないんだけど、現場一筋の専門家よりも、本部で大局的な判断をする人の方が偉いに決まってるし、その人が各現場の隅々まで理解なんてしてるはずない。

しかし、下降局面ではそういったリーダーが指揮する社会じゃないといけないし、また、実際に尊敬されるリーダーを育成しないといけない。

そう考えると、「他人と自分」や「世界と日本」の狭間にあって、相手の主張を理解するとともに、そもそも自分がなぜそう考えるのかという点で、日本語という思考様式及び自分の根底に流れる歴史的な思想様式を深く理解していて、かつ、日本語外国語ともに正確なカミュにケーションができる人間の育成が急務であって、そのために古文・漢文の勉強は必須であり、また、そのための古文・漢文として構成され直されないといけないと思います。

古文と漢文が苦手な人へ

長々と語ったように、こんなおかしな古文と漢文なのに、やらなくてはいけないんだからと、何も疑問を抱かずに勉強する秀才たちがたくさんいて、しかも大人になってからも自己防衛的に、教養として必須などと主張して、更にはその親分的な専門家が、何の疑問も抱かずにタコツボの中でしのぎを削り、文系の場合は特に、ほとんどの人間には関係ないというポイントを忘れ、むしろだからこそ自分達は高尚なことをしていると勘違いして、公教育にも偉そうに口出ししています。

もし、社会に口を出すべきなら、自分の専門分野を通して、日本社会の様々な問題を貫く、根本的な問題を抽出するべきなのですが、「男性中心社会がー」「教育制度がー」「子どもの論理力がー」とそれぞれの専門領域から叫び、自分の専門外のことは「わかりません」と平然としています。

そういう点から考えると、古文と漢文が苦手で、何てこんなの勉強しなくちゃいけないんだよと疑問に思ったあなた。

あなたは、上述したような秀才ではないということ。

つまり、日本をダメにする人間になる可能性が低いということです。

よかったね。

がんばれ。

おわりに

書きながら、どんどん偉そうになって言って、途中からどこぞの学者にでもなったかのような感じですが、こういうのは勢いが大事だと思うので、ふざけ半分書き切りました。

日本思想史関連は私が鋭意勉強中ですのでいろんな本の受け売り(しかも誤理解込み)全開ですがご容赦ください。

まあ、たかが古文・漢文ですが、されど古文・漢文です。

昔から不要論が根強いにも関わらず、聖域として残されており、しかも、現代社会との対応という視点から全く見直されないという点で、現代日本社会が抱える問題の縮図のような存在です。

古文も漢文も江戸時代の比重をだいぶ増やして、さらに、言語学と日本思想史の専門家入れて根本からカリキュラム変えた方が良いんじゃないかと思います。

そうすれば、まさに現代日本人や日本社会のルーツを考え直すという点で意味のある勉強になると思うけどなあ。

まあ、あらゆる古文書を読むための土台が平安時代にあると言えばその通りなのですが・・・、そこで終わっても仕方がないですし。

アクティブラーニングやフィールドワークになじむし、論理分析能力を鍛えるパズルにもなると思う。

もちろん、文学に親しむのももちろんあっていいと思いますが、漢詩とか、紹介だけでいいよ。

昔、漢文は日本人にとって必須の教養だったというなら、その昔の日本の教養人の主張そのものを読ませようよ。漢文で書かれてるんだから。

参考文献


教養という言葉に興味を持ったらこの本はおすすめ。古文と漢文をなぜ勉強しなくてはいけないのかと疑問を持ったのであれば、もっと広げてそもそも勉強自体何のためにするのかという所から考えてみると、勉強が単に他人にマウント取るだけの教養にならなくていいかもしれません。明確に引用した部分以外でも教養論のところはこの本に大きく依っています。


この本面白いです。もっと壮大なストーリーをでっち上げてほしかったけど。


この本も面白い。専門家からすると怪しい解釈なんでしょうが、このくらい軸となる視点を入れてくれた方が勉強になる。


この本の視点も面白い。へえと思った。


言わずと知れた名著。レビューで妙に持ち上げている人がいますが、全然難解ではなく、読みやすい参考書です。


この本は本当に面白い。この記事のきっかけはこの本の感想文を書こうと思ったことです。