Amazon Primeアニメ『どろろ』の感想と更新日


このアニメ面白いので必見です。なお、Amazon Primeの更新日は毎週月曜日の夜11時です。

アニメ版の『キングダム』を全部見終わってしまい、見るものが無くなって、せっかくだからとアニメで探していたところに見つけた『どろろ』。

テレビでもやっていますが(MXで月曜22時から)、配信はAmazon Primeの独占です。

原作は手塚治虫なので間違いないはずと言いたいのですが、原作漫画の方は、手塚マンガにしてはかなりやっつけな感じで粗もたくさんあり、しかも相当不評だったせいか無理やり終わらせられるというものになっています。

熱心な手塚ファンからすると、粗削りな点に見どころを見つけられるのでしょうが、私のような『火の鳥』と『ブラックジャック』が好きくらいのレベルの手塚治虫ファンには、テーマは分からないでもないのですが、正直なんだこれっていうような作品です。

しかし、今回のアニメは、原作の設定を踏襲し、手塚治虫らしさを残しつつも、見事にオリジナル作品へと昇華させていて、おもしろいです。

アニメ版のキングダムもそうですが、最近のアニメのクオリティの高さをまざまざと見せつけられるといった感じです。

というわけで、Amazon Primeでみれる『どろろ』の感想を書きたいと思います。

アニメを通して描かれるのは人間の業のようなものです(私は感想文ではこの話しかしませんね)。

この『どろろ』、設定は戦国時代で、侍は戦ばかりしていて、庶民はそのせいで苦しんでいるという設定です。

主人公のどろろは戦乱の中で両親を失った少年で、生まれながらにして体の48の部位を鬼神に食われ、自分の体を取り戻すために鬼神を討ちながら旅をしている百鬼丸とともに旅を続けます。

そう、この漫画では、鬼神と呼ばれる悪の存在が登場します。

しかし、人間を襲い食らう鬼神もひどいのですが、非道な所業を平然と行う人間もいます。

手塚マンガらしいですが、人間対鬼神、すなわち正義対悪といった単純な話にはならず、鬼神には鬼神の生活や人間を食べないと生きていけない宿命がある一方で、平然と人間を殺すある意味鬼神以下の人間も出てきます。

もちろん、両者とも人間を殺すという点は悪と言っていいわけですが、通り魔や快楽犯的に殺しているわけではなく、必要性を感じながらそれをやっています。

どこまで同意するかはさておき、一理あると思ってしまう点があります。

そこで考えさせられるわけです。

確かに私たちは自由のようで自由ではありません。

誰もが、自分を取り囲む環境にがんじがらめになって苦しんでいますし、自分らしくとか個性を大事になんて小学校以来強調されっぱなしですが、多くの場面で「そんなこと言われたって・・・」と思って生きています。

そのせいか、組織犯罪に加担した人の言い訳は大抵の場合下記の2つです。

自分が参加した時点では、既にそういう仕組み・構造になっていて、自分としてはその一員になるしかなかった。

一員として行動しながら、おかしいなと思ったが、自分はそれを変えられるような立場になかった。

具体的な犯罪に手を染めるかどうかはさておき、現実には、多くの人が社会の中でこういう思いを持って過ごしています。

目の前の現実を受け入れて、そこに自分の居場所を見つけ、全力でその役割を演じることに泥んでしまうわけです。

自分の力ではどうすることもできない現実が目の前にあると。

そして、自分の仕事はその中における自分の役割を全うすることに尽きると。

『どろろ』に登場する人間も、非道なことを行う理由には、「自分は自分に与えられた使命を全うするのみである」という決意に裏打ちされたものが多いです。

その点、主人公のどろろは両親を失ったみなしごで、自分の居場所がそもそもありませんから、基本的に気ままで、自分の役割を見つけていません。

また、百鬼丸は自分の体を取り戻すことしか考えていないので、目の前に現れた鬼神を殺すのみで、その結果自分以外がどうなろうが気にもしていません。

しかし、この二人が出会う人間たちは違います。

大人も子供も「今ある生活」を維持するのに精いっぱいで、そのために皆どこかで「悪いこと」をしています。

そして、一定以上偉い人になってくると、自分の領民を守るために、鬼神と取引する人たちが出てくるわけです。

個人的に印象的だったエピソードがあって、ある辺境の村の領主が、自分達が先祖代々収めてきた村が、戦乱に巻き込まれ田畑が荒廃し更には飢饉になり、ついには村人同士が憎み合うという状況に陥り、鬼神と取引をするわけです。

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そこで、村から少し離れたところにある尼寺にいたみなしごたちを鬼神に差し出し、後は時々村を訪れる旅人を鬼神に差し出すことで、村全体は鬼神の保護を受けて、戦乱を逃れ、村全体が平和に暮らしています。

戦乱に巻き込まれ、なす術なく悲嘆にくれるだけだった村人たちと領主が、家族を養い平穏に暮らすために、自分達の手を血で染め、鬼神と悪魔の契約したわけです。

そこにどろろと百鬼丸がやってくるのですが、百鬼丸が鬼神を殺してしまうので、平和をもたらしていた均衡が崩れ、結局村人たちが食べ物を奪い合い殺し合うまでになってしまいます。

どろろとしては、過去にみなしごたちを鬼神に差し出したことで平和を保っているという村の豊かさの秘密にたどり着き、多数が平穏に暮らすために何の罪もない子供たちを犠牲にしたという非道な所業に怒り、百鬼丸が鬼神を殺すのをサポートするのですが、最終的に大量の村人が殺し合い、村は焼け、わずかに残った村人が大量の同胞の死体を前に泣き崩れている風景を見て、自分達のしたことを後悔します。

自分達さえ来なかったら、こんなことにはならなかったのだよなと、悩みます。

これは、「自分の役割」という殻に閉じこもる意識と裏腹ですが、果たして自分に他人の現状を変える権限はあるのかという、健全な疑問だと思います。

目の前の現実を受け入れ、それに全面的に組み込まれて生きると社会は安定しますが、目の前の現実はパーフェクトワールドではありませんから、様々な軋轢が生じ、負担を特定の、特に少数の一部に押し付けることになります。

一度そうなると、個人は全体優先で主体性を失いますから、感覚がマヒして、いつの間にか、社会のためにはやむを得ないなんていって、信じられないような事も平然とするようになってしまいます。

人類史上のジェノサイドなどは大抵こうした流れで行われ、こうした悲劇は全体主義が引き起こすとされますが、現実には全体主義に染まり主体性を失った個人による実行行為があります。

そうした状況がこのアニメでは沢山出てきます。

しかし、全員が百鬼丸のように、自分のことだけ考えて行動すると、それはまさに主体的な行動ですが、社会は滅茶苦茶になります。

では、現状にとらわれず、かつ、自分勝手でもなく、特定の価値観に基づいて行動するのはどうでしょうか。

現実に対して、これはおかしいと行動するには、なんらかの価値基準が必要です。

百鬼丸は旅を続けるにつれ、人間的な心を得ていくわけですが、その反面、ブチギレて鬼神だけでなく、死ななきゃわからないようなどうしようもない人間の悪党たちを殺すシーンが登場します。

自分のためではなく、「こういった連中は許せない」という感情に任せて行動する場面が登場します。

これは、いいことなのか。

そこにもポイントがある気がします。

まず、いかなる場面においてもぶれることなく、特定の価値基準(教典)に従って、良いものは良い、悪いものは悪いと、是々非々をはっきりして生きていくことは、主体的なようですが、一番根本的なものを他に依存している点で他力本願な気がします。

もちろん、そうした教典に従う人だけになれば社会は安定するかもしれません。

しかし、それに従わない人は、結局排除迫害されることになります。

現代社会は様々な問題を抱えており、もちろんそれを解決しなくてはいけないのですが、その解決策として、あるべき社会像やあるべき人間像を提示し、その差を消滅しようとする人たちは多いです。

「こういった考えを持つ人が多く(少なく)なれば社会は変わる」とか「社会はこう変わっていくべきで人もそう変わるべき」的な意見。

現状を受け入れてその維持にまい進すると、社会のために仕方がないんだと特定の少数派に過大な負担が押し付けられたり迫害されたりしますが、それを容認している多数派に反旗を翻し、そんなのおかしいと、空気を読む行為をやめて、特定の価値観に基づいた、主体的なようで他力本願な行為にまい進すると、結局、怒りに我を忘れた百鬼丸が暴れた後のように、焼けた村しか残らないなんてことになりかねません。

現状維持に身を委ねる人たちによる少数派の迫害を阻止したつもりが、結局は別の少数派を迫害して終わりなんてことになるかもしれません。

それは、現実優先か、頭の中で勝手に描いた理想の実現か、という点で、AからBに教典が変わっただけ。

集団文化や慣習にとらわれ日本人は主体性を失っているなんて言いつつも、目の前の現実やその安定を考慮しない、静的な価値基準や理念に身を委ねるのも、それはそれで思考停止で主体性を喪失しており、どこか高いところにある崇高な価値観を実現するための「主体的」な行動をしたところで、全体調和を目指すという主体性がない以上、必ず迫害される少数派を生み出すような気がします。

じゃあ、どうすりゃいいのかと言われると私もわかりません。

だからこそ、現実社会に恨みを持つどろろが、「正しい」はずの現状変更行為から生じる新たな不幸を突き付けられながら旅して、どう成長していくかを楽しみにしているのです。