『の』をめぐる攻防


長谷川豊氏が世間をお騒がせしていますね。

この件の中身、つまり、人工透析患者の医療費をめぐる話について語る気はありません。語るだけの知見も持ち合わせていません。

過去に、消費税増税を真正面から公約に掲げて選挙に挑み大敗した首相が何人かいると思いますが、それを見た時と同じで、言いたいことはわかるけど、自分の行動がどういう事態を招くか、10手先とは言わないから、1手先くらいは読めよ、という感想しかありません。

もっとも、見過ごされがちな、表層における最深部について少し語りたいと思います。

長谷川氏のブログが炎上した理由は『の』の理解にあると思うのは私だけでしょうか。

助詞、格助詞の『の』です。

日本人は何気なく使っていますが、日本語を学ぶ外国人の多くが苦戦するところでもあり(たぶん)、実は日本人自身が無意識のうちに混乱しているというのが今回の件ではないでしょうか。

炎上の発端となった、記事のオリジナルタイトルは、『自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!』でした。

まあ、これだけ読むと、最初から炎上狙いなんじゃないかとは思いますが、それはさておき、です。

この記事に多くの批判が殺到するわけです。

もちろん、「殺せ」は不穏当だというような、中身はさておいて言葉遣いに注目するものも含め、いろいろな意見があるのですが、結構多数を占める意見に、「人工透析患者の多くは自業自得じゃない!」といった調子のものがあります。

現に、今長谷川氏のブログを見ると、コメント欄の一番上にいる人は、自分は先天的疾患で透析を受けることになったのだが、なりたくてなったわけではない、と主張しています。

要約します。

「自業自得の人工透析患者なんて全員死ね!」

に対し、

「人工透析患者の多くは自業自得じゃない!」

この応酬はかみ合っているのでしょうか。

例えば、

「茶髪の国会議員なんて全員辞めろ!」

に対し、

「国会議員の多くは茶髪じゃない!」

と返したらどうなるでしょうか。

意味不明です。

ここで問題になるのは、助詞、格助詞の『の』の用法です。

「ロボットの私」

ここで、「ロボットの私」は、「ロボットである私」という意味とも言え、「私はロボットです」とか、「私はロボットだから」と言い換えても意味は通ります。私=ロボットですから、格助詞の『の』、まさに同格の『の』です。

しかし、この例だと、無意識に見過ごしてしまうことがあります。それは、「私」という存在が超限定されているという点です。

ロボットは無数にいますが、私は一人しかいませんから、同格と言っても、多対一関係の同格です。

私はロボットですが、数あるロボットの中の一つでしかなく、その一方で、ロボットでない私はいません。

しかし、「AのB」という言い方で、Bが広がりを持つ単語だと話がややこしくなります。多対多になるからです。

例えば、「肉食の動物」と言ったとき、必然的に一定の特徴を持った動物だけ、つまり動物の一部を指すことになります。

動物には肉食のものも、草食のものも、いろんな種類のものがいるからです。

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動物と言われただけで、私たちは無数の動物を想像し、多対多の関係が明瞭ですから、「肉食の動物は・・・」と聞いて、「肉食である動物は・・・」とか、「動物は肉食であるから・・・」なんておかしな勝手解釈はしません。

頭の中で無意識に「肉食である(一部の)動物は」と解釈します。

しかし、この広がりをもつグループが、一定の特徴を持つときに話がややこしくなります。

つまり、AのBと言ったときに、Bが雑多なグループというよりは、今一つ良く知らないけど偏見により特定の特徴を象徴するグループの場合に、B全体にAがかかるような場合が登場します。

「政治に無関心の日本人は・・・」と言えば、もちろん文脈次第ですし、日本人が多様なのは重々承知とはいえ、通常、「政治に無関心」は「日本人」全体にかかるとらえられ、「日本人は政治に無関心だから・・・」という意味で使われます。

他にも、「目立ちたがり屋の芸能人は・・・」という表現も、「芸能人は目立ちたがり屋だから・・・」という意味でつかわれるのが通常でしょう。

しかし、いずれも、「政治に無関心な一部の日本人」、「目立ちたがり屋な一部の芸能人」を意味するものとして上記の表現をしても、何も間違いではありません。

どちらも正しい表現です。

Xさんは会社で人事を担当しています。Xさんは、学生時代に、数学だったり国語だったり、様々な勉強することが、最終的に深い思考力をつけることにつながり、それは社会人になっても強みになると考えており、採用に関しても学歴を重視していました。

そして、おおむね高学歴の人材に満足はしていたのですが、そのうちの何人かは、頭は良いのですが、著しくコミュニケーション能力に欠け、会社の人間関係等に問題を抱えるようになったことを受けて、やっぱり、勉強だけできてもしょうがないんだなと思うようになりました。

ここで、Xさんの発言。

「ガリ勉の東大生は社会では通用しない」

言われ慣れている東大生でも、面と向かって言われたら、カチンと来て、真意を図り損ねて、「東大生がみんなガリ勉なわけではない」なんて言い返してしまうかもしれません。

もちろん、Xさんは基本的に東大生に好意的で、それだからこそ、そうはいっても一部のガリ勉型はダメだと伝えたいわけで、その意を伝える日本語として、上記の言い回しは文法的に何一つおかしくありません。別の意味にも取れるというだけです。

もっとも、東大生を擁護しようとするネット民はいませんから、炎上はしないかもしれません。

Yさんは、貧困問題に取り組むNPO法人の代表者です。近年は、食うや食わざるやの絶対的貧困者だけではなく、最近増加傾向にある相対的貧困者への支援に力を入れています。しかしYさん、活動を続けていく中で、浪費癖のある貧困者の人をしばしば見かけるようになり、その人たちはお金を入手しても、すぐにゲームだったりギャンブルだったりに浪費してしまうことを知ります。

そして、彼らに本当に必要なのは金銭的支援ではなく、計画的にお金を使う習慣を身に着けさせることだと強く思うようになりました。

そこで、Yさんは、彼らに対する、家計簿のつけ方等、生活習慣支援活動に力を入れるようになりました。

そして、その問題を広めるべく、自身のブログを更新しました。

タイトルは下記です。

「無駄遣いばかりの相対的貧困者に対する金銭的支援は無意味」

これは炎上するかもしれません。

「相対的貧困者がみんな浪費して貧しいわけではない!」と。

生活保護を受けている人はそのお金でパチンコしてはいけないのか!といった、熱い人権派まで登場してくると、議論錯綜、もはや収拾不能で火は消せません。

しかも、勝手解釈して本当に傷ついてしまう人も登場しますから大変です。

後から、そういう意味で言ったんじゃないといくら主張しても聞いてはもらえません。

日本語は難しいですね。

「自業自得の人工透析患者」と聞いて、皆さんは最初に何を思ったでしょうか。

私は、この『の』の使い方はやばいよ、と思いました。