日本人選手はなぜ謝罪するのか


こういう話が大好きなので考えてみます。

オリンピックで、金メダルを取れなかった日本人選手は一体なぜあやまるのでしょうか。

これについては、元陸上選手の為末さんが記事を書いています。
http://www.nikkansports.com/olympic/rio2016/column/tamesue/news/1697656.html

曰く、社会から選手への謝罪要求があるというのですが、個人的には少し違和感があります。

選手が謝罪するのは、潜在的か顕在的か、何らかの外部的な圧力により受け答えを選択した結果というよりは、日本人として自然の行為なのではないかと思うからです。

少し考えてみます。

参考にするのは私の大好きなルース・ベネディクトの『菊と刀』です。以下の引用は全て社会思想社現代教養文庫の長谷川松治訳の本からの引用です。

このルース・ベネディクトという人は第二次世界大戦当時のアメリカの日本論の専門家で、日米戦争が始まりそうな雰囲気の中、アメリカ政府から依頼を受けて、日本人というのがどういう人間なのかレポートを書いて軍部等に提出した人です。

そのレポートを元に(?)まとめ直して、戦後に出版されたのが『菊と刀』です。

Amazonのレビューなんかを読むといろいろ書かれていますが、私はこの本はすごい本だと思っています。

どんなに日本に詳しいとはいったところで著者は所詮は外国人であり、我々はなんといっても日本人ですから、読むと違和感がある箇所があったりするのは当然で、それをもって誤解が多い、この人は日本のことを分かっていないなんていう評価を加えるのは私はズルいと思ってしまいます。また、当時の日本と現代の日本が大きく違うのは事実で、しかも当時の日本人を我々現代日本人は良く知りませんから、そもそも、間違っているかどうかもわかりません。

むしろ、外国人が、それも一度も来日したことのない人が、よくここまで日本人・日本文化を分析したなと感嘆するばかりで、異文化圏の専門家が気合を入れて日本文化を解説するとこうなるのかという面白さしか感じません。

まあ、書評はさておき、その中に、『過去と世間に負い目を負う者たち』という章があります。

西洋では、自分たちを過去を継ぐもの達と言ったりするが、日本では過去に対し全く違う考えをするから注意が必要であるといった話から章は始まります。

東洋文化における祖先崇拝とは、西洋で一般に認識されているような過去の栄光を賛美するようなものでは全くない。日本人は、今の自分たちがあるのは全て過去のおかげであると考え、その過去に対して負っている債務を認識する儀式が祖先崇拝であると説明します。

さらに、日本人が負い目を負うのは過去だけではなく、日本人は、自分が教育を受け、家族と共に暮らし、幸せな日常をおくっているのも全て世間様のおかげであると理解し、世間一般に負い目を負っている、つまり、世間に対し一種の負債を感じて生きているとします。

この負債は、日本では「恩」と呼ばれ、日本人は、過去や世間に恩という負債を感じ生きていると説明されています。

そして、戦前の小学校の教科書から、恩ヲ忘レルナというタイトルで載せられている忠犬ハチ公の物語を引用して、日本人が、恩を感じることや恩を返すことの重要性を幼少のころから道徳として徹底的に叩き込まれることを紹介します。

受けた恩を忘れずに、忠とか孝行によって恩返しすることが当然とされる点で、親の恩なんていう場合に、恩は愛に近い要素もあるものの、西洋における無償の愛とは明らかに違い、恩とは間違いなく債務や負担であると説明しています。

さらに、ここからがなかなかおもしろく、恩=債務を補足するために、「恩を着せる」という表現の説明に移ります。

つまり、恩を感じなくてはいけないのですが、日本人は恩を受けることを無条件に喜ぶわけではなく、他人、特に何の関係もない人から恩を受けることを非常に嫌い、時には侮辱と感じることがあると。

それだけ恩というのは日本人にとって負担でもあるのだというわけです。

そして、これが分からないと、「すみません」という言葉の意味は理解できないとなります。

著者によると、「すみません」とは、「すむ」という動詞の否定形で、すむ(済む)とは英語でいうEndであり、「すみません」とは、直訳すると、This doesn’t end. つまり、「これで終わりではない」という意味である。

そして、その中には、「私は確かにあなたの恩を受け取りました」という感謝の念、「しかし、この恩を受けたにもかかわらず、もう会う機会もないかもしれませんので恩を返せない」という謝罪の念、さらには、「私はこのような立場になったことを恥ずかしく思う」という遺憾の意の告白の三つ意味があると説明します。

風で帽子が飛ばされた時に見知らぬ人が帽子を取ってくれた場合、「すみません」の意味は、著者によると下記になります。

この人は今こうして私に恩を提供しくれるが、私はこれまでに一度もこの人にあったことがない。私はこの人に、まずこちらから恩を提供する機会を持たなかった。こんなことをして貰ってうしろめたい気がするが、あやまればいくらか気が楽になる。日本人の感謝を表す言葉の中では、おそらく『すみません』が最も普通な言葉であろう。私はこの人に、私がこの人から恩を受けた事実を認めていること、そしてそれは帽子を受け取っただけでは済まないということを告げる。だって私にはどうにもしようがない。我々は互いに見知らぬ人間なのだから。

違和感はありますが、間違っているかと言われるとそうでもない気がします。

そして、すみませんの上級表現として、「かたじけない」が登場します。

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「かたじけない」の語源はいろいろありそうですが、紹介されているのは、「かたじけない」を「辱い」と書くという解釈で、直訳すると、屈辱である、意訳すると、恩を受けるような立場にないにもかかわらず過大な恩を受けて本当に恥ずかしいという心理の表明であるという説明です。

そして「かたじけない」の正確な意味は、著者によると下記になります。

私はこのような恩を受けて面目を失ってしまった。このような賤しい位置に身を置くことは、私にふさわしくないことである。私は遺憾に思う。私はあなた方に丁重に感謝する。

両方とも鋭いなと思うのは、恩を受けた時に感じる負担感とそれにともなう恥の感覚は、言われてみると確かに自分の中にある気がするからです。

それにしても、同意するかどうかはさておき、「すみません」や「かたじけない」の意味を聞かれて、ここまで突っ込んだ説明ができる日本人はいるんでしょうかね。

まあ、こんな感じの、日本人の我々が日本語ですら説明するのが難しい日常表現・日常生活について、恩という世間への負い目をカギにして鋭く興味深い解説が続きます。

そして、最後に、夏目漱石の『坊ちゃん』の引用が来ます。

主人公(学校教師)は山嵐というあだ名の同僚と仲良くなります。そして、ある日二人でお祭りに行くのですが、そこで主人公は山嵐から1銭5厘の氷水をごちそうになります。

その後、主人公は、山嵐が自分のことを陰で悪く言っていることを知るのですが、主人公はものすごく悩みます。殴りあうにしろ、話し合うにしろ、1銭5厘の恩を受けたままではどうにも腹の虫がおさまらないわけです。

以下原文です。

そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯ぱいしか飲まなかったから一銭五厘しか払はらわしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経たった今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中かいちゅうをあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏ふみつけるのじゃない、清をおれのかたわれと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶あまちゃだろうが、他人から恵めぐみを受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちでありがたいと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐はありがたいと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣ひれつな振舞ふるまいをするとは怪けしからん野郎やろうだ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。

最終的に、主人公は、山嵐の机に1銭5厘をおきに行きます。

これらをルース・ベネディクトは、このような繊細さは、アメリカでは、不良少年の記録や精神病患者の病歴簿でしか見られないが、日本人にとってはこれは美徳の物語なのだと説明します。さらに、多くの日本人は、いくら日本人でもここまで極端なことは考えないと言うだろうが、その日本人がだらしがないだけであると言い切ります。

確かに、ここまで大げさに考えたりはしないかもしれませんし、ただの癇癪に過ぎないエピソードですが、たかが1銭5厘でも恩を黙って受けるというのは百万両より尊い返礼であるというのは、非常に面白い表現だと思います。

わずかな恩でも、それを恩と認めたうえで受けるということは、一人の独立した人間にとってそれは、以後百万両にも値するそれなりの態度をもってその恩人に接していくことであり、それをもってはじめて恩という債務の負担から逃れることが出来るというのは、確かに日本人の徳の道である気がします。どんな恩でも、恩を返しきることなんてできないという感覚が日本人にはある気がします。

大げさすぎる例えのようで、日本人の道徳感情を象徴的に非常によく捉えている引用ではないでしょうか。

ちなみにこの章の後には、赤の他人に道を教えてもらったり等、恩を受けたからと言って必ず返さなくてはいけないわけではないのだが、恩の中には、必ず返さなくてはいけないものが存在し、それを「義理」という、そして、多くの日本人がその義理の返済に悩まされているという、『義理ほどつらいものはない』という章があったりします(歌舞伎の勧進帳などが引用されます)。

まあ、本の紹介はここまでにしますが、この本の言うように、恩を受けざるを得ない自分の立場に対する恥ずかしいという思い、少なくとも、恩を受けながらもそれを返すことの出来なかった自分を情けないと感じる思い、せめてそれを告白させてくれという思いは、恩を感じる感情と裏表で必ず存在する気がします。

そう考えると、「たくさんの声援・支援を頂きながら、結果を残すことが出来なかった、すみません。」という言葉は、日本人として自然なのではないかと思います。

何も謝罪するのが正しいとか、当然であるとか言っているわけではなく、恩を感じる心の裏側に、かならず、恩を返さなくてはいけないという負担感があり、そして、それを返せなかったときに恥ずかしい、と思う心は日本人なら誰にでもあるのではないでしょうか。

このままで終わらすことは出来ない、しかし、実際は何もすることが出来ない、こんなことになって大変恥ずかしく遺憾である。まさにこれが「すみません」なのでしょう。

そう考えると、

「たくさんの声援・支援を頂きながら、結果を残すことが出来ず、すみません。」
「そんなことない、よくがんばった。十分楽しませてもらったし、勇気や感動をもらった、謝罪する必要も恥じ入る必要もない。」

これで1セットの、日本人同士の日本人らしい会話として普通のやり取りなのではないでしょうか。これでいいのだと思います。

日本人以外の外国人で謝罪している人なんていない、だから日本は異常だ、といった皮相的な論調にはとても同意できないですね。