ここまで来るとゴーンさん関係ないかも。
目次
はじめに
ゴーン会長逮捕に関しては、真実はさておき、様々な陰謀論が駆け巡っています。
その中でも面白いのは、藤沢数希さんが提示した、攘夷派による反撃かという見方でしょう。
確かに、TPPやら、外国人受け入れやら、英語教育の早期開始やら、最近の様々な政治的・社会的問題の対立は、開国派VS攘夷派の争いに近いような印象を与えます。
グローバル経済の一部に日本を溶け込ませるのか、それとも日本という国を隔離する外枠を維持するのか。
ゴーン会長逮捕に関しても、さっそく開明的な開国派の方々が、
日本の役員報酬や海外と比べて低すぎる。海外では50億とか100億とかは当たり前であり、こんなことじゃ優秀な外国人が日本に来なくなる。
などと叫んでいて、彼らからすると、今回の事件は、外国人嫌いの偏狭な攘夷派による、国策企業からの外国人追い出し事件に映るかもしれません。
そんな、幕末における開国派VS攘夷派の争いを現代社会に重ね合わせる見方、非常に興味深いので自分なりに深化させてみます。
なお、例のごとく、私は自分の記事のストーリー重視なので、個々の史実引用の正確性などはまったく気にしていないので、歴史にうるさい方はご容赦ください。
尊王攘夷という亡霊
個人的には、しばらくすると、開国派VS攘夷派の争いを再検討する動きが流行る気がします。
というか、もう流行りだしているのかも。
まず、なぜ今さら開国派VS攘夷派なのか。
誰もが、自身の持っている歴史観を振り返ってみるとわかるように、明治維新と幕末の間には不思議な隔絶があります。
幕末というのは、下記に詳述するように一筋縄でいかないのですが、ざっくり言うと、開国派VS尊王攘夷派の争いであり、結果的に、尊王攘夷派が幕府を倒します。
しかし、誕生した明治政府の方針はなぜか尊王攘夷ではなく尊王開国で、なし崩し的に諸外国と不平等条約を結んだ幕府を糾弾して討幕したはずなのに、そのまま不平等条約を承認して諸外国の信頼を得て、ご存じの通り日本の近代化にまい進します。
明治維新の「維新」はもともと御一新だったというのは有名ですが、まさに社会御一新の名の下に、尊王攘夷思想などなかったかのように社会改革は進みます。
そして、この尊王攘夷思想を封印はしても清算しなかったことにより、明治大正の黄金期が終わり昭和初期の大苦境を迎えると、これが亡霊のようによみがえって皇国思想となり、日本を戦争に突き動かしたと捉える人たちがいるわけです。
東条英機の太平洋戦争の開戦の演説のような、日本としては平和的な解決のための努力をこれまでしてきた、しかし、欧米列強の無礼な態度はもうこれ以上看過できない、もはや名誉を重んじる独立国としては戦争しかないのだという方針を受け入れた民意の土台には、亡霊のようによみがえって国を徘徊していた攘夷思想があったというわけです。
そして、実は太平洋戦争後の日本にも同じことが起きていると。
戦争に負けて、新憲法やら民主主義やら平和主義やら人権思想やら、まさに社会御一新で進んできました。
そして、戦争経験をした人たちは、ぼろぼろになった国家の復興にまい進し、日本は見事な復活を遂げました。
しかし、その裏で、戦前・戦中に日本を支配していた気分というか思想について清算することなく、欧米的な自由主義・民主主義と言われるような思想を受け入れてきました。
むしろ、戦後民主主義の正しさの証明を、戦前をひたすら否定することで代替してきたとも言えます。
その結果として、またしても、経済成長が終わり、日本が苦境に陥り変革が求められる現代において、尊王攘夷思想が亡霊のようによみがえってきたと考えます。
これは、反安倍政権側の人達の主張ですが、独裁的な政治手法とか、排外主義・自国優先主義とか、戦後の国際的な潮流である普遍的な近代主義から後退するような流れが出来上がりつつあるとしているわけです。
そして、それを支えているのが未精算に終わっている尊王攘夷思想であり、経済的な長期低迷により世界的なプレゼンスを失う中で、弱者のコンプレックスの反動として尊王攘夷思想が跋扈していると捉えるわけです。
ふわふわリベラル
もちろん、ふわふわしているのはお前らだろという人たちもいます。
まず、明治維新の時は、西南戦争がありました。
西郷隆盛は、多くの犠牲の下で維新が成ったのに、目指したものが何も実現していない、そして新政府はさらに欧化を目指している、これでは、天下や戦死者に対し面目が立たないと、しきりに涙を流していたそうです。
また、岩倉具視も、尊王攘夷が実行され成就したはずなのに、現実の起こっているのは攘夷ではなく開国ではないか、あれは何のための闘いであり、犠牲であったのかと嘆いています。
西南戦争だけではなく、戊辰戦争も含めて様々な相剋を経て日本は近代化しました。
ある意味クーデターによって明治新政府はなったわけですが、福沢諭吉をはじめ、新政府がとってかわった途端に従前の徳川幕府のような堕落した存在にならないような様々な批判的な議論がありました。
しかし、戦後は違います。
何も起きていません。
参考文献の加藤典洋さんの本からの引用になりますが、大江健三郎の『取り換え子』という小説があります。
その中に、右翼のおじさんが登場し、講和条約が締結され米軍が撤退する前に米軍キャンプを襲おうと計画します。
一度も占領軍への反逆が行われないまま米軍が撤退してしまったら、日本は押し付けられた思想に対して一度の反抗もしなかったという歴史が刻まれてしまうではないかと考えます。
つまり、この小説では、相剋を乗り越えずにふわふわしているのは現代版開国派の方じゃないのかという疑問が提示されていると言えます。
特に、江戸時代は封建主義ですから超身分制社会です。
お上がおかしなことしようとすると諫めなくてはいけないのですが、もしそれでもお上がやる場合、従うか反逆するかのどっちかです。
しかし、封建主義にあっては、自分は本当にお上に反逆するのかというギリギリの相剋がありました。
それを乗り越えて、命を懸けた脱藩浪士たちが、幕末にはたくさん活躍します。
そういったギリギリの志士たちによる、開国派VS攘夷派の壮絶な内戦を経て日本は近代化を成し遂げます。
その一方で、現代はそういった相剋は無く、投票なんていかなくても生活には何にも困りませんから、適当な思い付きで、政府を批判したり、官僚を批判したり、学校教育を批判したりするわけです。
現在、過去を未精算だったがゆえに、周りを無視した孤立思考に国民を誘導する尊王攘夷思想が再び亡霊のように現れて国民を酔わせつつあるのか、それとも、明治からつながる戦前の思想がなかったかのように、押し付けられた欧米思想を無節操に受け入れてきた結果、地に足付いていない開国派の思想が暴走しているのか。
以上のように、現代社会の問題を考えようとするときに、開国派VS攘夷派に思いを巡らすのは決して筋悪ではないわけです。
さあ、長いイントロでしたが、開国派と攘夷派の争いに概説してみます。
吉田松陰の思想
開国派と攘夷派の対決を簡単に整理したいのですが、その前提として吉田松陰は避けられません。
この人ほど、幕末の思想に大きな影響を与え、時代を先取りしていた人もいないと言えます。
開国派と攘夷派が喧嘩していたとはいえ、知識人たちの頭の中はみな同じでした。
武力をもって開国要求し、不平等な通商条約の締結を迫るなんて、そんな無礼な話があるか、名誉ある独立国としてそんな奴らは打ち払うべきという攘夷思考。
しかし、どうやら戦争をしたら確実に中国やインドのように悲惨な敗北を喫して植民地になることは避けられない。列強と交わり近代化を実践して国力増強に努めなくはいけないことは自明という開国思考。
当時の知識人たちは、意外なことに結構海外事情に明るくて、この両者の間でみんな悩んでいました。
吉田松陰もその一人ですが、その悩みの中からある別の視点を持つようになります。
それは、攘夷にしろ、開国にしろ、それをする主体は誰なのかという視点です。
それは、天皇の勅許をえずに独断で通商条約を結んだ幕府ではない。
では誰か、そこで登場するのが草莽崛起、つまり、全国にいる憂国の志士たちであるという考えです。
まだ、幕府とか藩とか身分とか世襲制が当然の時代にあって、日本国民という思想に近い考えを見出したわけです。
そして、幕府を倒し主体的な行動を取り戻すために、全国の志士たちよ立ち上がれとやるわけですから、吉田松陰をして、元祖テロリストと呼ぶ気持ちもわかります。
しかし、この、攘夷派にしろ開国にしろ、主体は誰なのか、そこがしっかりしていないとダメなんだというのは、滅茶苦茶な内戦にあっても、ギリギリのところで日本を救った思想かと思います。
環境に対し受け身的にどう対応するかを思案するのではなく、環境に能動的に対応する主体に着目し、その政体づくりを目指す思想こそが、勝海舟と西郷隆盛を最終的に結び付けます。
尊王攘夷思想
さて、尊王攘夷派の尊王について。
尊王思想というのは、天皇以外はみな平等であり、天皇とそれ以外の上下関係は普遍のものであるという考えです。
この考えはもともと徳川幕府が採用した考えで、自分達が作った幕府の正統性を主張したいわけですが、歴代武家幕府や南北朝問題など、どれも新権力というのはクーデター経由で発生しますから、自分達が絶対だということは難しいわけです。
そこで、上下関係の普遍性を説き、自分達は朝廷から命を受けて将軍をやっているという建付けにして、積極的に上下関係の内側に入ることで、自分達の権力構造の維持を図ったわけです。
もちろん、最終的にこの思想における、天皇以外はすべて平等であるという思想が逆に幕府を倒すことになります。
次は攘夷。
攘夷の攘は打ち払うという意味です。
攘の右側は、衣服のポケットにまじない用の小石などを入れて邪気を払うことを意味する漢字で、それに手ヘンですから、武力で打ち払うことを意味します。
(なお、なぜかこれが言ベンになると譲るとか譲歩の意味になりますが、一応、裁判などで相手の罪を言葉で糾弾するという意味もあるようです。余談。)
攘夷の夷は、えびす、つまり昔の中国における東側の蛮族のことで、外敵を意味します。
したがって、攘夷というのは、外敵を武力で打ち払うことを意味します。
つまり尊王攘夷とは、朝廷の統べる神州日本を守るため、大砲で威嚇して開国を迫るような無礼な外国を武力で打ち払おうという思想です。
この尊王攘夷という言葉を最初に使うのは、水戸藩の徳川斉昭らしいのですが、もちろんその時点では、尊王攘夷の実行者はあくまで徳川家です。
無礼な諸外国を打ち払うのは当然、征夷代将軍の役目です。
しかし、段々、尊王攘夷の意味は変わっていきます。
攘夷派の変遷
理屈上、尊王攘夷を実行する任を追うのは当然徳川幕府なのですが、ペリーやハリスとの交渉は押されっぱなしで、幕府は天皇の勅許をえずに独断で条約を締結してしまいます。
そこから、討幕運動の志士たちが尊王攘夷というスローガンを使うようになります。
尊王ではなく勤王志士という言葉の誕生が分かりやすいですが、海外列強の言いなりになって神州の威光を汚す幕府を倒し、朝廷のために自分たちの手で外国を打ち払おうという思想に転化します。
ここにきて、尊王攘夷は、全国の志士達を結びつけるスローガンとなるわけです。
しかし、まだ、外国人を追い出せという運動でしかありません。
さらに攘夷の意味を進化させるのは横井小楠です(ここから先は野口良平さんの参考文献から)。
この人が、攘夷思想に貿易の利と鎖国の害という視点を持ち込みます。
その結果、攘夷とは内に閉じこもることを意味するわけではないとなってきます。
鎖国とは、幕府や諸藩が自分たちのことばかり考えることを意味し、それがよくないのは当然であり、また、交易は基本的に民を富ませるもので国に有益なものだと。
そして、江戸幕府は鎖国を行ってきたのではなく、国の安定を考えて交易をコントロールしてきただけだ。
大事なことは信頼できる国と交易し国を富み、信頼できない国は打ち払って富が奪われるのを防ぎ、民を養うことであると。
攘夷派といっても、一律に開国を否定する方向ではなくなってくるわけですが、ただ、無礼な国とは闘うべしという姿勢は変わらず、不平等条約を押し付けてきたアメリカなどは無礼な国のままなわけです。
そして、諸侯を集めて公議を重ね、一致した国是を決めよう。そして、国際社会の場で、日本としての一致した意見を述べ、武力で押し付けられた条約の不条理さを示し、必戦の覚悟を持って条約の破棄をし、対等な条約を結んで真の開国を図ろうという、破約必戦論という見解に昇華します。
これを横井小楠は幕府に提案するのですが、思わぬ強敵に一蹴されます。
それが一橋慶喜。
確かに武力で威嚇されて締結した不正な条約かもしれないけどそれはこちらの言い分であり、国際社会にとっては違う。国際社会からすれば一方的な条約破棄こそ勝手な言い分であり、戦争になって勝っても名誉を失うことになる。ましてや負けたらどうするのかと。さらに、諸侯を集めて公議など、愚鈍な大名がたくさんいるのはお前だって知ってるだろう、何を言ってるんだと、一蹴されます。
それを受けて、横井小楠は慶喜の卓見に舌を巻いて、これを取り下げてしまいます。
この、横井の撤回を受けて攘夷派はますます幕府への信頼を失うわけですが、その後、長州が下関戦争でボコボコにされ、薩摩も薩英戦争でボコボコにされ、破約必戦のような攘夷論の非現実性を否応なく思い知らされることになります。
そして、最終的に、開国はやむを得ないという認識になるわけですが、中岡慎太郎などが登場し、攘夷思想は実践的な理念となります。
攘夷とは日本独自の考えではない。アメリカの独立戦争やオランダの独立戦争も攘夷である。攘夷とは、状況と利害を考えて当事者が主体的に行動することであり、そのための体制を作ることこそ重要なのだという思想に変遷していきます。
中岡は、バリバリの武闘派ですが、開国やむなしとなっても、本質は変わりません。
薩摩と長州は闘って痛い目にあったがその結果富国強兵に進むことが出来た。富国強兵は戦の一字であり、封建体制のままじゃ駄目なんだと、やるべき時には勝てる体制にしなくてはいけないのだと、攘夷派ならではの開国思想になります。
最終的には現実を知って開国派に転向したと言えばそれまでですが、義憤をもって実際に戦ったからこその転向であり、何もしないで開国やむなしと言っているのは訳が違うという強烈な自負があります。
いずれにせよ、このように攘夷派も、最終的には開国を前提とした政体づくりに焦点が移ります。
開国派とその変遷
一方の開国派。
幕府には当初から優秀な人たちがいて、開国派の思想はあまり変わりません。
攘夷派の志士たちからすると、朝廷の勅許を得ずに独断で不平等条約を締結した幕府、そしてそれを支持する佐幕派というのは売国奴なわけですが、井伊直弼を含め、海外列強のやり方に望んで従っている者など幕府にもいませんでした。
ただ、軍事力の差を、日本で一番早く知ることが出来る立場にいたために、開国以外の選択肢が無かったというだけです。
まず、幕末好きはみんな大好き、老中阿部正弘。
この人は、ペリーが来る7年前の、フランス船が琉球に上陸して通商を迫ったときから、諸外国が開国要求してくることに備えていました。
具体的に何をしたかというと、当時としてはありえないわけですが、外様大名を含めて全国の諸藩に、意見を求めたわけです。
この時点で、この人は、開国が避けられないこと、そして大事なことは挙国一致で外国と対等な実力をつけることを理解していました。
『風雲児たち』にその八面六臂のエピソードが詳しく出ていますが、ペリーが最初に来て、1年後に戻ってくるまでに大急ぎで今のお台場を作ったのがこの人。
本当に、この人が過労死しなければどうなってたんでしょうかね。
他にも開国派と呼ばれる人にもいろいろいますが、現時点で開国はやむなしであり、大事なことは対等な外交を実現する国家体制をどう作るかの差でした。
岩瀬忠震、勝海舟、小栗忠順など、幕府側にもそうそうたる面々が登場し、幕府がどういう立場を担うかでは大きく差がありましたが、交易により国力を増強する必要性については疑っていませんでした。
特に、海外視察を経た、勝と小栗は二人とも、雄藩連合による共和制か(勝)、幕府+郡県制の中央集権制か(小栗)の違いはあれど、従来の封建制社会を壊さない限り、挙国一致の防衛体制構築には至らないと考えるところまで一致していました。
つまり、幕府の中でも開明的な人々は、今の政治体制では対等に外国と交わることが出来ないことは分かってきていて、そういう意味では、結局どういう政体を作るかが焦点というところで、攘夷派とほぼ同じような見解になっていくわけです。
そして、最終的に王政復古をなし雄藩連合の新政府を作るという点で勝海舟と西郷隆盛が合意して江戸城無血開城に至るわけです。
福沢諭吉の後悔
開国派の中には福沢諭吉もいました。
福沢諭吉と言えば、正に幕末・明治時代の知の巨人であり、日本に与えた影響は計り知れません(私は大好きです)。
そして、幕府としての公式渡米第一弾に参加してアメリカをこの目で見て、さらにその後の文久遣欧使節でヨーロッパを見て回り、日本で真っ先に欧米列強と日本の実力差を肌で感じ取った一人でした。
そして、渡欧の途中では香港に立ち寄り、中国人たちが悲惨な扱いを受けているのを見て、植民地の現状に衝撃を受けます。
つまり、バリバリの開国派です。
欧米列強と戦争しても勝てるわけないと、気勢を上げている攘夷派を非常に馬鹿にしていました。あまりに無知であると。
しかし、日本を離れ、海の外から日本を考える時間が長かったせいか、開国思想が行き過ぎて、興味深いエピソードがあります。
それは、ヨーロッパ視察から帰ってきて、偶然、適塾の兄弟子に当たる長州藩士の村田蔵六(大村益次郎)に再会したときのことです。
下関戦争(長州軍が外国船を砲撃するもすぐに報復を受けてボコボコにされる)をからかって、村田さん、あんたの藩は大変ことやったねと、それにしても攘夷派の気狂い達も困ったもんだねと、ということを言うわけです。
それに対して、村田は怒って反論し、気狂いとはなんだ、無礼な奴らは許さないと自分達は決めたんだ、そのために死んだってかまわないと腹を決めているのだと、言います。
しかし、村田は、その裏で伊藤俊輔(博文)と志道聞多(井上馨)ら優秀な若手5人を英国に秘密留学生として送り出す計画を実行しており、欧米列強との実力差やそこから学ぶことの重要性を認識していました。
ただ、開国か攘夷かの相剋の中で、開国するにしても、義をもって道理を通す姿勢は譲れないこと、およびその精神こそが一致団結して国難にあたるうえで重要なものであることをしっかり理解していたわけです。
この態度は、福沢諭吉が一時期陥った、攘夷との相剋を経ていない、地に足付かない開国派の思想を明らかにしています。
丁丑公論とやせ我慢
上述の村田とのやり取りを引きずったかどうかは知りませんが、明治なってから、福沢諭吉は、明治十年丁丑公論と痩我慢の説という二つの文章を書きます。
ここで、福沢の主張はシンプルに言うと痩我慢の説の最初の一文になります。
立国は私であり公ではない。
これを言うために2つ文章を書いています。
ここで、公と私の意味は下記です。
公:政府に使え政府の命令を守ることで、表向きのもの。
私:義を守ることで、個々人の中にあるもの。
官軍には「公」はありますが、賊軍には「公」はありません。しかし、官軍にも賊軍にも「私」はあります。
福沢が強調するのは、国にとって重要なのは「私」であり、討幕を成し遂げたものも「私」であると。
新しい国を作るには一人一人の「私」が結集する必要があり、日本にとってそれは攘夷だったのだと。
痩我慢の説では、老齢の親を看病する子の例えが出てきます。
確かに、人はいつか死ぬものと考えて無駄な行いことをしないことが合理的なのかもしれないが、しかし、右往左往して何とか少しでも生きながらえるように努力するのが子の心情である。
そして、そういった無駄かもしれないが痩我慢ともいえる感情が国の独立には不可欠であり、国難に対処するときには必要なのだと。
そして、丁丑公論では、西南戦争を起こした西郷隆盛を擁護するわけです。
世間は西郷を非難しているが間違っていると。
彼は義で動き、討幕は成し遂げたが、西南戦争では敗れた。
立国は「私」であり「公」ではない。
政情が安定すると、多くの者が官職につき「公」は尽くすが、都会の美食におぼれ軽薄な毎日を送り、「私」を忘れた者たちが大量に出現する。
しかし、討幕を成し遂げたのは「私」であった。
幕末において、開国はやむを得ず、選択の余地はなかったが、国難にあって国の変革を成し遂げたのは、国のためには開国すべきという「公」ではなく、こんな理不尽な話が合っていいのかという攘夷派の「私」であった。
したがって、西郷のような義の人を非難するのではなく、その義を正しい方向に誘導できなかった政府こそが批判されるべきであり、むしろ、第二の西郷が出てこないだろうと思われる気風の低下こそが嘆かわしいと。
このように、福沢も、海外渡航の直後などは浮ついた開国派にだったわけですが、晩年には、当時の自らのような開明的態度ではなく、攘夷派のエネルギーこそが明治維新を成し遂げたことをしっかり見抜いています。
開国&攘夷まとめ
以上、長々と攘夷派と開国派の流れを見てきました。
そうすると、攘夷派が勝ったのに、新政府になった途端開国派になるという流れの中身を見えてきます。
攘夷派が徐々に開国やむなしと変遷していくわけです。
しかし、その変遷過程が非常に重要でした。
まず、幕府もそれなりに開明的ではありましたが、少し進歩的であり過ぎたというか、やはり、大砲による無礼な開国要求に対し、戦いもしないで開国やむなしというのは通用しませんでした。
その点、攘夷派の主張も最初は、無礼な外国に屈した幕府を倒し、外国を追い出すという単純ものでしたが、変わっていきます。
吉田松陰の影響もあり、開国にしろ攘夷にしろ主体は誰かと問うようになり、諸外国にどう対応するかという受け身の思想から、自分達はどうあるべきかという能動的な思想に転化していきます。
無謀な攘夷実行の経験から開国やむなしという現実を理解していくわけですが、時局と利害に応じて主体的に判断して、場合によっては戦争も辞さない、対等に外国と交われる国にならなくてはいけないのであり、そのためには封建制を壊し、優秀な人材を広く集める政体を作るという発想に攘夷思想は変わっていきます。
もちろん、福沢諭吉が言うように、そういった攘夷志士たちを団結させ、一大政変を成し遂げさせたものは、大砲で威嚇して開国要求などなぜ受け入れなくてはいけないのか、またそれに対して、下級武士は意見を言うこともできないのか、こんな理不尽な世の中があっていいのか、自分達の手で道理に則った国を作ろうじゃないかという「私」にありました。
こうして、攘夷派が幕府を倒すことで出来た新政府ですが、富国強兵をスローガンにかかけながら開国政策をとっていくことになるわけです。
ポピュリズム
最近は、トランプ政権誕生、イギリスのブレグジット、ヨーロッパでの極右政党の躍進など、ポピュリズムが盛んといわれます。
まあ、そこら辺の詳細はこの記事では語りませんが、現代のポピュリズム現象の分析とそれへの批判を聞いていると、政治がアイデンティティー・ポリティクスになりつつあるという問題が浮上します。
つまり、グローバリズムに賛成か反対かといった、2項対立的な単純な理念対決に政治が成りつつあるという点です。
日本には、決められない政治とか、縦割り行政という素晴らしい制度があります。
決められないことの何が素晴らしいのかといえば、決められないというのはそれだけ民主的であるということであり、それが民主主義です。
農林水産省の下には、農協や漁協があって、その下には地域別の組織があり、その下には農家や漁師さんがいる。
経産省の下には、経団連やら商工会議所があり、その下には業界別の団体があって、さらに下部には個々の大企業や中小企業がある。
そうした下々の現実的な利害関係を集めて行動しているからこそ、安易な妥協が出来ないのであって、いつまでたっても何も決まりません。
しかし、常に現実的なコストとベネフィットを考えて意思決定がされます。
その点、理念と理念をぶつけるアイデンティティー・ポリティクスになると、どっちかが最終的には多数決で勝つのでしょうが、その先に思わぬコストが待っているかもしれません。
グローバリズムVS反グローバリズム、外国人受け入れVS反外国人受け入れ、エリートVS反エリート、いずれも、ペリー来航当時の幕末初期の開国派と攘夷派の論争のように、地に足付いていない議論かもしれません。
対立概念を掲げて、それを国民投票で決めようなんて動きが出てきたら、本当に幕末の歴史を読み直した方がよいかもしれません。
おわりに
疲れたのでここらへんでやめます。
ゴーンさん逮捕を攘夷派による攘夷実行に重ねる考えが面白かったので、開国派と攘夷派の変遷を追ってみました。
ゴーンさん関係なくなっちゃいましたね。
しかし、歴史的な流れを整理してから、ゴーンさん逮捕のニュースに対する巷のコメントを見てみると、あながち馬鹿な見方とも言えず、如何に今の私たちが、事情に無知な幕末初期のころの開国派VS攘夷派の空虚な議論に近いことをやっているかがわかる気がします。
それにしても吉田松陰と福沢諭吉は本当にすごいですね。
理念の対決に意味がないことをしっかり見抜いています。
地に足付けて考えることこそ重要です。
そのためには、受け身的に環境にどう対処するのかではなく、環境に対処する自分はどうあるべきかこそが重要です。
ハンナ・アーレントが言うように、ナチスにしろ共産主義にしろ全体主義国家が誕生するときというのは、社会の政治的関心が高まったときであり、普段投票に行かないような連中が投票に行くようになったときなので、ポピュリズム的な動向を肯定するわけではないけど、それを止めたいのであれば、反省すべきは、理念先行の開国派だと思うけどな。
私たちが今よりどころにしている思想は、単に戦前の思想の否定に成り立っているだけとも言える。
とはいえ、私たちが大好きな明治維新も、西郷隆盛に言わせれば理想とはかけ離れたもの。
一体どこまで戻って考えるべきなんでしょうかね。
いずれにせよ、尊王攘夷ブームが来ております。
書いてて暗くなってきた。
参考文献
まずは風雲児たち。これを読まずして幕末は語れません。
この人ハッキリ言って嫌いなんだけどやっぱり頭いいと思う。前半の視点はすごい参考にしています。
この本凄いです。面白いし。記事内のエピソードはほとんどこの本の受け売りです。
紹介した福沢諭吉の2つはこの本に入っています。まあ、福沢諭吉くらい原文で読めよといわれそうですが丁丑公論はなかなかないし。
尊王攘夷思想の成立に迫る本で必読らしいのですが、如何せん難しく、これを読みはじめたものの、こりゃいつまでたっても終わらなそうだと感じて記事を書くことにしちゃいました。
続いて2冊。攘夷派というと狂った人達みたいなイメージがありますが、当時の知識人にバカなんて一人もいません。