だいぶきな臭くなってきましたね。
最近、芸能人がやたらこの話をつぶやいたりするせいで、検察庁法改正の話が大きく取りざたされています。
少し調べてみれば、専門家の方々がかなり詳しく解説されている情報がたくさんありますので、この件自体に深入りはしません。
いろんな議論があるのもいい。
野党が政争のネタにするのも理解できないわけではない。
しかし、政府は今後、黒川氏なる子飼いの検事長を検事総長に据えることで、検察が政権中枢の政治家を追求できないようにすることが目的で、人事権片手に検察庁までその傘下に置いて牛耳り、国家権力を我が物にしようとしている、という主張は怖い。
こんな、荒唐無稽な陰謀論を安易に信じる人たちが本当に怖い。
そこで、思い出したのが、第二次世界大戦前のナチスドイツにおけるユダヤ陰謀論。
ナチスドイツというと、ヒトラーという頭のおかしい人が中心となった気の狂った集団がユダヤ人を虐殺したという理解になりがちですが、ナチスドイツは民主主義的な選挙で生まれたわけで、国民の過半数が支持したことになります。
それはつまり、当時のドイツの過半数が、「ユダヤ人が世界を支配しようとしていて、ユダヤ人による世界征服計画のためにドイツが苦しんでいる」という荒唐無稽な陰謀論に与したということです。
今となって考えると、にわかには信じられないというか、何か別の要因があったのではないかと疑ってしまいますが、そんなことはなく、本当に、ユダヤ陰謀論という馬鹿げたものに国中が熱狂していたのです。
この件に関する第一人者で、私の大好きなハンナ・アーレントは、そのような恐るべき事態が生まれた背景を以下のように分析しています。
ファシズム運動であれ共産主義運動であれヨーロッパ全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的にはまったく無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党がバカか無感覚で相手にならないとあきらめていた大衆からメンバーをかき集めたことである。
要するに、普段選挙に行かないような連中が、「さすがに今回ばかりは我慢できない」なんて言いながら息巻いて投票所に行くような事態になって投票率が上がったときに、全体主義とか独裁政権なんてものは生まれるわけです。
当時のドイツでは、第一次世界大戦の敗北、膨大な賠償金、そして世界大恐慌、こういった不幸が重なり、街には失業者があふれ、先の見えない不安と緊張が国全体を覆っていました。
日に日に増していく混沌の中で、偶然と必然に翻弄されて落ちぶれていく自分なんて誰も受け入れることはできません。
かと言って、難しい問題を難しく考えるのは嫌だ、誰かわかりやすく説明してくれという人達が飛びついたのがユダヤ陰謀論です。
アーレントは言っています。
全般的崩壊の混沌の中にあっては虚構の世界へのこの逃避は、ともかくも彼らに最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれると思えるからなのである。
欲しいのはカオスの中で頼れる精神的な安心であり、考えれば考えるほど現実は難しいなんて話は何の精神安定剤にもなりませんから、何々が悪いというシンプルな話と、その悪を倒すために戦う正義の自分という肩書が欲しかったわけです。
一流の先進国が、危機的状況をきっかけにバカげた陰謀論に国を挙げて熱狂する羽目になり、とてつもない大惨事を引き起こしたという歴史があるわけで、その陰謀論自体は、時代背景が異なるとはいえ、今から考えると到底信じられないようなバカげた代物だったことを胸に刻む必要があります。
民主主義とはそれだけ危機にもろいわけです。
普段は、政治家にまかせっきりで、何の関心も持たないような人も、大不況や大災害など、危機的状況が自分の身にも迫り、誰かに何とかしてほしいと思うようになると、にわかに政治を語り始めたりします。
実際、今回のコロナ禍において、自粛生活で暇ということもありますが、有名人が血気盛んに検察庁法改正についてコメントし始めたり、コロナ禍の対応を巡って、政治家の真贋がはっきりしてきたなんて語り始める人も増えてきました。
普段から、政治、外交、教育など、社会問題を考えている人は当たり前に知っていることですが、どの問題も難しい問題ばかりです。
考えれば考えるほど、あちらを立てればこちらが立たずというトレードオフばかりで、難問だらけです。
その結果、ある専門家の本を読んで「なるほど」と思っては、別の専門家の反論を読んで「それもそうだ」なんて右往左往しているのは私だけではないと思います。
今回のコロナ禍も、政府の対応に不満を持っていない人はいないと思いますが、日本の被害状況を諸外国と比べる限り、これでもよくやってる方なのかもしれないと思う人も多いと思います。
PCR検査やロックダウンに関して、別のやり方にすればもっと被害は小さかったと厚顔に断言することを躊躇する方が正常かと思います。
しかし、普段から政治や社会問題に興味を持っていない人というのはその複雑さに耐えられない。
各種利益を代表する政党、省庁、業界団体が、自己利益を主張し合う中で妥協として政策が決まるというのが民主主義の基本で、政策決定が遅いというのはある意味それだけ民主的であるといった主張は理解できない。
コロナ禍のように根本的に未知で原理的に正解はわかりえないなんていうのは最悪で、全員にPCR検査を受けさせろといった言説のように、「確かなもの」で安心したい。
とにかく、「正解」や「真実」が知りたい。
シンプルで、全てを説明できるような切れ味鋭いものが欲しい。
そして、先行き不透明な経済危機も発生中ですから、誰だって現金をばら撒いてほしいわけで、その政策に過大な心理的なバイアスがかかります。
そんな中、政府はなぜ迅速で十分な所得補償政策をしないのだという不満が溜り、シンプルな正解がほしいという欲求と結びつき、暇を持て余した自粛生活の中で暴走する想像力の力を得て、陰謀論へと導かれるわけです。
「俺わかった」「私わかった」と開眼してしまうわけです。
答えは簡単、そもそも政治家や官僚の連中は自己の保身しか考えておらず、国民の生活などどうでもいいのだ、など。
そして、陰謀論の一番怖いところは、一度開眼してしまうと、「あれ」も「これ」もつながってくることです。
様々な不満が説明できてしまうようになります。
そりゃ巨悪な黒幕の存在を仮定すれば全部それで説明できるに決まっています。
そして、全般的な崩壊と混沌の中で個人の生存が脅かされると、どうしても「悪を倒す」的な自尊心を満たす方向にエネルギーが行きがちで、そこも、悪を前提とする陰謀論と相性がいいわけです。
客観的に考えてみると馬鹿げた話なわけですが、80年前とは言え今とは大して変わらない文明社会において、ユダヤ陰謀論なるものが多数派の支持を受けて、とんでもない悲劇を招いた歴史があることを忘れるわけにはいきません。
アーレントは、「全体主義運動」という言葉を使い、全体主義が運動であることを強調します。
つまり、全体主義というのは、民主主義の枠内の一つの主義主張ではなく、陰謀論に飲み込まれた人たちによる、虚構の悪を倒すという運動なわけです。
運動になると、もう台風みたいなもので、中にいる人には、善も悪も、嘘も本当も分かりませんし、周りの声も届かなくなって歯止めがきかなくなります。
目的である、悪を倒し正義を実現することにまい進するようになります。
そして、これは、妥協が本質という民主主義を根本から壊すことになるわけです。
今回のコロナ禍をきっかけとした政権批判ですが、かなりヤバい空気になってきた気がします。
どうしても諸外国との比較になってしまうけど、被害状況を見る限り、政府も官僚も専門家会議も大失敗はしてないと思うけど。
参考文献
だいぶ参考にしました。原著は難しいし、この本、本当によくまとまっているので仕方ない・・・