百人一首解説その13:三条院(68番)と謙徳公(45番)


百人一首解説のその13です。

今回は、68番の三条院の歌と45番の謙徳公の歌を紹介します。

百人一首を代表する悲しい歌です。

しかし、一方は百人一首の中でも一番と言って良い、本当に悲しい歌ですが、他方は「悲しい風」の歌だったりもします。

まずは・・・。

68番の三条院の歌です。

こころにも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半よわの月かな

これは非常にシンプルな歌で、訳も簡単。

「心にもあらで」というのは、「心にもあらず」つまり「心にもなく」です。

「うき世」は「憂き世」で「つらい世の中」です。

「ながらふ」は「長生きする」とか「生きながらえる」ですが、「ながらへば」は「未然形+ば」なので、「ながらえたから」ではなく「もしながらえたとしたら」という意味になります。

「恋しかるべき」の「べき」は、「~するのが当然」という意味ですから、「恋しいのが当然」すなわち「きっと恋しいに違いない」です。

「夜半の月かな」は「今夜の月だなあ」でいいですが、不思議な日本語を駆使する学校古文的には、「今宵の月であることよ」となります。

以上、

こころにも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半よわの月かな

訳すと、

心にもなくこのつらい世の中に生きながらえたとしたら、きっと今宵の月が恋しくなるに違いないだろうな

となります。

この歌は背景が大事です。

この三条院と言うのは、院と呼ばれるのは元天皇ですから、元の三条天皇のことです。

そして、この歌は、天皇の退位を決断したことに詠まれた歌と言われています。

なぜ、退位したのか。

三条天皇の時代はまさに藤原道長の時代です。

三条天皇の即位と同時に皇太子になったのは、前天皇たる一条天皇の皇子であり、道長の孫(長女彰子の皇子)である敦成あつひら親王。

三条天皇にも次女を嫁がせた道長ですが、男の子がいなかったことから、道長と三条天皇の中は決裂。

また、即位中に眼病を患い、年々悪化して行ったと言われています(道長からもらった薬を飲んで一気に見えなくなったと言われています)。

そして、眼病などを理由に、道長から様々な圧力をかけられ退位されられ、敦成あつひら親王が即位し(後一条天皇)、道長の黄金期が始まります。

天皇でありながら道長に圧力をかけられ続け、また周りの人間も全員道長の顔色を窺っているようなありさまで、しかも、眼病が進む一方。

失明寸前となり、退位を決意した時期に、冬の夜半に明るく輝く月を見ながら詠んだ歌とされています。

こころにも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半よわの月かな

背景を知ると、ものすごい悲しい歌に思えてきますね。

次は、45番の謙徳公の歌です。

あはれとも 言ふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

「あはれとも言ふべき人」というのは、一瞬何だろうと思ってしまいますが、言われれば簡単で、「自分のことをあはれと言ってくれるだろう人」のことです。

三条院の歌でも登場しましたが、「べし」というのは「~が当然である」という意味なので、「~違いない」「きっと~だろう」という意味が基本です。

したがって、「(私のことを)あはれだと言ってくれるに違いない」ような、私のことを親身に思ってくれる人、ということになります。

「思ほえで」は「思ほゆ+で」であり、「思ほゆ」が「自然と思われる」という意味ですから、「思い当たらないので」という意味になります。

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「身のいたづらになり」の「身がいたづらになる」は現代語にはしにくいですが、「いたづら」というのは、空虚な、無意味なという意味ですから、自然な日本語にすると、無駄死にする、空しく死んでいくといった意味になります。

そして、最後の「ぬべき」は「完了+当然」ですから、意味は「~してしまうに違いない」です。

以上、

あはれとも 言ふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

訳すと、

私のことをかわいそうだと言って親身になってくれる人も思い当たらないので、きっと私はこのまま空しく死んでいくのでしょう。

となります。

この歌を詠んだ謙徳公というのは、藤原伊尹(これまさorこれただ)と言う人で、孫が皇太子、甥が天皇となり、摂政や太政大臣にまで上り詰めた人です。

そもそもが名門生まれのエリートで、しかも官職の頂点まで登っただけでなく、歌などの芸事の才能にも恵まれ、容貌も優れていたらしく女性と流した浮き名は数知れず、さらには、当代随一の派手好きで贅沢三昧の生活が有名でした。

要するに、この世の栄華を極めた人です。

その人が詠んでいるわけです、自分には同情してくれるような人もいないから、このまま空しく死んでいくのだろうなんて。

歌の詞書ことばがきによると、自分に冷たくなった女性に贈った歌とのことですが、頂点を極めて豪遊三昧の人間から「このまま空しく死んでいくのでしょう」なんて送られても、私がその女性なら、「そういうところが嫌なんだよ」なんて言ってしまいそうです。

もちろん、この歌を好意的に解釈して、おそらく若い時の歌で、後に栄華を極めた伊尹でも、若き日には、相手の心をもう一度こちらに向かせようと、弱々しく相手の情に訴えたこともあったところが面白い、なんて言ってる人もいますが、個人的にはそうは思えないですね。

思わせぶりなだけで、白々しいにもほどがあり、あまり魅力的ではない歌に思えてしまいます。

しかし、この人の家集(自分の歌集)は、身分の低い男が、女性と歌のやり取りをしながら恋愛をしていく歌物語風になっているという異色の作品で、その冒頭に登場するのがこの歌。

この人は、豪奢を極めて贅沢三昧だったと言われていますが、芸術方面の才能があったのは間違いなく、いわゆる成金趣味ではなく、美意識を追求した生活を送っていて、歌もうまかったし、お屋敷や庭園は見事だったと言われています。

そういう人が、自分の歌集を作るにあたって、自分が詠んだ歌を、下賤の男が女性に贈ったという歌物語風の凝った作品にして、かれなりのロマンチズムを表現するなかで、冒頭にこの歌がくる。

そう考えると、詞書にあるような自分に冷たくなった女性に贈った歌というより、自分の人生を振り返ってみて、昔はいろいろな恋もしたし、贅沢三昧で社会の頂点は極めてけど、なんだったんだろうな、としみじみしている歌と言えます。

つまり、栄華を極めた男が女性の着を引くために詠んだ白々しい卑屈な歌というより、世俗の頂点を極めたからこそ、自分の人生を振り返って、自分の歌集を作るときに、

あはれとも 言ふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

という自分の歌を見て、本当にそうだよなと、しみじみと虚しさを感じて、冒頭に持ってきたわけです。

そしてその歌を、貴族が没落し武家社会が始まった平安末期と鎌倉時代を生き、もののあはれを身をもって感じ、昔の貴族社会にノスタルジーを抱く藤原定家が選んだ。

そう考えると、これはこれで趣のある歌のような気もしてきます。

三条院の歌と比べると、悲しみの深さというか、抱えている絶望感のレベルが違いますけどね。

ただ、二首とも、シンプル過ぎて平凡な歌のようで、背景を知ると、一気に深みが出てくる面白い歌です。

というわけで、今回は、悲しい歌二首でした。