たまには時事ネタを。
目次
はじめに
最近、ゆたぼんさんという、学校に行く必要がないと主張する10歳のYoutuberが話題です。
まあ、この子がどう生きようが個人の自由だし、学校に行こうが行くまいが自由。
そしてその理由が、宿題がやりたくないというものでも全然問題なし。
この子の将来に何の責任も負えない私にはとやかく言う権利はないです。
また、一部では親御さんにも批判が言っているそうですが、子供をどう教育するかは親の自由。
それについても何も思わない。
ただ、本人が「革命家」を名乗っているのが気になる。
革命はやめてほしい。
そんなの個人の勝手というのは違います。
革命を志すということは、社会を変えるということなので、同じ社会で生きている私も無関係ではありません。
革命家の両極
革命家というのは、社会や人間についての何らかの真理を見つけてしまった人。
正反対の二派があって、根本で実はつながるのですが、とりあえず両極がある。
まず一つは、宗教系で、神の声が聞こえた人。
もちろん、神の声が聞こえようが宇宙の声が聞こえようが、そんなの個人の勝手なんですが、そういう人たちは、自分の意見に同調しない人を、「お前は魂がけがれているから真理の光が見えないのだ」と考える。
もう一方は、理性系(科学系)で、理性的人間として考え抜いた結果、社会や人間のあるべき姿に到達した人。
この人達は、自分達がたどり着いた解について、理性があれば納得できるはずと思うので、最終的に「俺たちの言うことを理解できないのは愚か者である」というスタンスになる。
そして両者とも、神の光なり、理性の光などが見えずに、暗闇の中で暮らしている私たちに光を当てようとしてくる。
本当に余計なお世話。
これを英語ではEnlightenmentと言い、まさに光を照らすという意味ですが、日本語では、啓蒙といいます。
啓蒙とは、蒙(道理に暗い人)を啓く(教え導く)という意味です。
啓蒙主義
啓蒙主義というのは、もともと、キリスト教への反発で生まれたもので、神の教えという絶対性を利用して、大衆を愚民化している教会へ対抗運動です。
しかし、理性主義というのは、結局、反対する人たちを愚か者とみなすので暴力につながってしまいます。
典型的なのが、社会主義とナチズム。
社会主義者に言わせると、労働階級闘争を経て社会主義革命が起き地上の楽園が訪れるのは物理法則から導かれる論理必然でした。
社会主義は、キリスト教への反発から生まれた思想なので、疑似宗教にならないように細心の注意を払った思想で、その科学性にどこまでもこだわり、「魂がけがれている者には見えないのだ」と同様の「まともな人間にはわかるはずだ」的な論法を使って、キリスト教と同じ穴のムジナになることを徹底的に拒み、各種勉強会など、徹底的に啓蒙活動を繰り広げるのですが、最終的には、「いくら説明してもわからないバカ」を大量に殺すことになってしまいました。
また、ナチズムも、今では頭のいかれた狂信的な差別主義団体みたいに思われていますが、当時は時代を代表する知識人たちが擁護に回っていて、なぜかというと理論的だったからです。
ナチズムと切っても切り離せない優生学なんて、優秀な人間だけが子孫を残し、また、民族特性に応じて産業を割り当て、世界を再構築することで、理想の楽園を「設計」しようとしました。
非常に恐ろしい思想ですが、合理的かどうかと言われると合理的です。
これも、理性主義の行くつく論理必然として、「いくら説明してもわからないバカ」と「子孫を残すに値しないバカ」を大量に殺戮して終わりました。
このように、理想的な社会を描き実現するはずの理性が、いつのまにか正常と異常を区別する物差しとなり、最終的に大量の「愚か者」を殺戮するという悲劇を生みだしました。
その結果、このような理性全開で社会変革を訴える人というのは今は多くありません。
ポストモダン派
非合理的で、一方的かつ権威的な宗教支配から抜け出し、庶民を啓蒙して理性による理想の社会を目指そうとしたんだけど、上述したように理性と暴力は裏表の関係にあって、理性への過信がとんでもない悲劇を生みました。
そこで、戦後登場してきたポストモダン派知識人たちはどうなったか。
社会を変えたいけど、神の声なんて非理性的なものは持ち出せないが、理性そのものを強調する危険性も自分達は理解していると反省しているつもり。
そこで何をするかというと、弱者を持ち出す、という技をひねり出した。
つまり、今ある社会構造からあぶれた人達を持ち出して、その人たちの不遇や苦悩を代弁し、「弱者が住みやすい社会」を標榜します。
これがポストモダン派の特徴です。
女性、LGBT、移民、更には、オタクとか腐女子とかを物知り顔で語ったりして、社会で生きづらさを味わっている人たちを担ぎ出して、「○○な人たちが生きやすい社会」にしなければいけないと叫びだします。
そして、そのやり方に反論しようものなら、弱者の気持ちがわからない人非人扱いしてきます。
しかし、相手からすると、自分自身は弱者でもないくせに弱者を利用する卑怯者と写ります。
特に、従来の社会主義者やファシストのように、これが理性的な結論なんだといった純潔さがなく、ただ反対運動をしたいだけ的な根っこが見え隠れする中で、優しさとか人間性を語るので、反対勢力としては余計に腹が立ちます。
つまり、対立の核が、「弱者の気持ちがわからない人非人」VS「自分は強者のくせに弱者をかたる卑怯者」ですから、対立が非常に感情的になるという問題があります。
従来の、純粋な知性をぶつけて徹底的に議論するよりも、人格攻撃の度合いが高まる分、かなりなんでもありの消耗戦になります。
お陰で、現在の社会的な議論は、興奮しやすく、双方がネット上にヘイトをまき散らしています。
なお、弱者持ち出し型の派生型として、「文化人やメディアが既存体制を批判するのが先進国」という一派もあります。
なぜそれが先進国なのかわかりませんが、どちらも、理性重視の社会批判の夢が破れた人達の、とりあえず社会の批判は続けたいという姿勢を維持するために後からひねり出されたものです。
このように、目指すべき社会を持っているようでその実、神の声の実現や、理性から導かれた理想の社会の実現ではなく、弱者を担ぎ出したりとりあえず批判したりする姿勢ありきで、まず今ある社会をぶっ壊そうとすることから始まるのがポストモダン派の特徴です。
(変な例出すと小泉元総理は上の例で言うポストモダン的で郵便局解体とか自民党をぶっ壊すとかプロセスは非常に具体的でしたが、その結果国がどうなるかみたいな部分は、民営化でよくなるくらいのプロセスありきの後付けイメージ像しかなかった。)
こう見ていくと、今回の少年革命家による不登校問題への言及というのは極めてポストモダン的です。
ここで、「いや学校にいくべきだ」という言論が大量発生すれば、それは、全国の不登校生徒を苦しめることになりますから、戦場を求めるポストモダン派知識人としては、不登校生徒という弱者を救うべく立ち上がった天才少年の下に、ぞくぞくと集結するでしょう。
もっとも、この少年は宿題がやりたくないから学校に行かないだけなわけで、ほかの不登校生徒とは少し毛色が違いますが、「弱者を担ぐが自分は弱者ではない」というのがポストモダン派の特徴ですから、問題にはなりません。
また、俎上にあるのは学校で、国家という禁止と命令を内実とする法律なるものを発案実行する抑圧専門の巨大権力装置が作り出したロボット人間製造工場ですから、「とりあえず既存社会を批判するのが先進国における文化人の役目」という立場の文化人も放っておかないでしょう。
このように、「学校なんて行かなくても良い」派が戦闘態勢に入った今、どのように議論を進めるべきなのでしょうか。
学校には行くべきか
まず、学校には行くべきか問題ですが、それに対してはどうこたえるべきでしょうか。
実はここが一番重要で、私はこれを書きたいからこの記事を書いていますが、「学校には行った方がいいよ」という意見の理由としては、常識や自分の経験を持ち出すべきです。
「自分は行って良かったと思ってる」から「あなたも言った方がいいよ」とか、「みんな行くからちょっとくらい我慢しても行っておいた方が良いよ」というべき。
この、常識とか自分だけの個人的経験に基づく意見というのは、ともすると、崇高な理念に比して非常に卑近で反知性的な態度に見えます。
まさに思考停止のロボットのようです。
しかし、実際は逆で、自分の現実と結びつかない意見なんて何の価値もないのです。
宗教家による「神様が学校にいかなくていいと言っている」、理性派による「ネットやスマホが普及した現代社会を前提にした場合学校に行く必要はないというのが理論的必然」、ポストモダン派による「不登校を異常みたいに扱うのがおかしく、学校に行くもいかないも自由な多様性を重視した社会を目指すべき」等々、何でもいいですが、そういった見解にのまれて、自分の体験という現実から離れた「学校に行くべき論」を展開するのは危険です。
神様でもないくせに社会を分析しきったような態度や、弱者でもないくせに弱者をかたったりする態度と、同じ穴のムジナになる必要は無いです。
地に足付かない理念同士の争いになって社会良いことなんて一つもなくて、なぜかというと、答えなんかない中で、「私はたまたまこう思うだけ」という自分を肯定できないと、気高い理念の持つ誘惑に飲み込まれ、反対意見を言う人が愚か者に見えてきて、自分の攻撃本能が発動し、社会にヘイトをまき散らす結果になるからです。
また、理念と理念で対決して、あるべき論に猛進するようなドラスティックな変化ほど社会に悪影響を与えるものはないです。
仮に社会を取り巻く環境が激変しているとはいえ、人間自身がそんなに変われない。
社会の分断や急激な変化は、大多数の人にとって害悪でしかない。
もちろん、時代の変化に応じて、学校も変わらなくてはいけないと思います。
私も学生時代、散々両親とも喧嘩しました。
「あんたらが若いころとは時代が違うんだよ」と。
そして、それと同じようなストレスを今の若い世代に押し付けたいとは思いません。
だから、今の時代の特性は自分なりに考慮するけど、しかし、私が学生の頃はスマホなんてなかったという事実は変わらないし、どんなに想像しても想像でしかないという点は忘れない。
「もし自分が今学生だったら学校には行ってない」でも、「もし自分が今学生だったとしても学校に行ってる」でも、どっちでもいいけど、「もし」で始まる想像上の意見で議論する愚だけは認識する必要がある。
確かに、「学校には行った方が良い」という意見が今現在不登校の学生を苦しめているのは心苦しいし、詳細な時代分析や未来予測に基づく「学校に行く必要は無い」論に対して、なんとなくの常識とか自分の経験なんかに基づいて意見するのは頭が悪そうでやはり心苦しい。
しかし、どんな立場に立っても、本当のところの正解を持っている人はいなくて、どんな理論も、「神様がいかなくていいと言ってる」的な論理の飛躍を内包している。
今がどんな時代、将来がどうなる、など、どんなに理屈をこねたところで、究極的には「その人がそう信じてる」以上のものではなく、証明なんてできない。
そういった、究極的にはどこにも正解なんてなく、結局すべては宗教でしかないという当たり前の前提に立った時に、自分が受け入れている常識や自分の経験に基づいて意見を言う、その価値を肯定するというのは、自分を見失わない唯一の方法であり、目の前の社会の安定は、理想の社会へ一歩近づくことと同じくらい重要です。
宗教家でも科学者でもポストモダン派知識人でも、なんでも話を聞いて勉強するのは大事ですが、地に足付かない理念の中で、どれが大事かという議論に付き合うと、いつの間にか自分も信者と呼ばれる人になってしまいます。
カルト集団の洗脳方法にはなんか特殊な方法があるわけではなく、社会で生きている誰しも、確固たるものなんてないという所を突かれます。
これだけ学問が発達して、情報化した時代に、なんだかんだ言いながら、みんながやってることが「正しい」のだという思いは、非常に馬鹿みたいに写り、そこを突かれます。
学校教育に洗脳されて思考停止のロボットになっているだけなんじゃないの?と。
カルト集団でも自己啓発セミナーでも、全ての洗脳は告白から始まると言われます。
みんなの前で自分のつらい経験や想いなどを語りながら、やさしく質問され、徐々によって立つ確固たる理念の無さや曖昧さを自分の口から表明させられた後に、真理を知って幸せに包まれている人達の歓喜の輪に加えられ、大いなる安心という幸福感を味わったらもう後には戻れません。
しかし、なんとなく集団文化に乗っかり、その枠内でみんなに合わせて過ごすことも重要なのです。
国家がフィクションなんじゃなくて、独立した個人こそがフィクションであり、社会なくして自分なく、社会の一部として周囲に合わせて生きるのなんて当然です。
社会の一部として既存のルールに合わせた経験が、現実社会から離れたところで考えられた思想より劣るというのは、幸せな知識人の暇つぶしの産物でしかありません。
究極的には宗教と何にも変わらないのに、宗教ではなく合理的思考の産物とか、人間なら誰でも当然に有するべきやさしさの産物、みたいなものを主張して、最終的に反対勢力に、愚か者や人非人のレッテルを張って攻撃するよりはるかにましです。
常識や自分の経験に基づき、「たまたまそう思う自分」でしかないけれども、既存社会のルールに乗っかって満足している自分に自信を持ち、戦争を辞さない覚悟で理念を振り回す連中にこそ訝しい視線を向けることが重要です。
革命家を無視できるか
上述のように、常識や自分の経験を重視した上で考えた結果、「学校に行くべき」となるか「学校に行かなくてもいいんじゃないか」となるかは、個人しだいですが、どっちにしろ、まあ、勝手にしろと、少年革命家を放置することはできるのでしょうか。
実は、ポストモダン派による弱者を担ぐ社会変革というのはここが厄介です。
今回問題になっている不登校問題でも、「いやいや、学校には行った方が良いよ」という意見が、必然的に不登校の子を追い詰める点が難しい。
もちろん、ほとんどの人は、いじめなどのように、行きたくてもいけない子を無理やり行かせようとして、「学校には行った方が良い」と主張しているわけではないのですが、実際に不登校の子にとっては、その理由が千差万別だとしても、みな同じように、後ろめたさを感じさせることになります。
そして、この少年革命家グループが、集会でも開いて、不登校生徒を集め、「つらかったな、学校なんて行かなくていいんだよ」とやる。
そこには、同じ思想を持つ人達が集まって、生き生きとしていて、よく来たなあと、自分を歓喜の輪が包んでくれる。
しかし、一歩外に出ると、自分を追い詰める「学校には行った方がいいよ」という声ばかり。
これは、イラクやシリアで米軍に家族を殺された人たち集めて集会やってるのと同じで、その中から続々と、社会に恨みをもつテロリストが発生します。
ポストモダン派知識人の講演会などは昔からそうで、弱者にやさしい社会を目指す人の講演会は集いに集まるのは、虐げられて被害者意識を持っている人たちで、みな社会への怒りに震えています。
何が言いたいかというと、学校に行くべきかどうかを巡っても、今後は、議論だけでなく、現実的な社会の分断が今後生まれてくるということです。
そして、その時に、「学校には行った方が良い」派が変に理論武装して、理念対理念の対決になって、お互いがお互いをバカ呼ばわりする社会だけは避ける必要があります。
ぶれることなく、「たまたまそう思う自分」を肯定して、常識や自分の体験に基づいて議論すべきです。
そして、常識の健全な発展こそを心がけるべきです。
この常識の輪こそが、社会からあぶれた人達が過激思想に染まるのを止められます。
おわりに
10歳のYoutuberなんて、子供なんだから、攻撃したらかわいそうだし、そのつもりもないのですが、革命家を名乗り、不登校問題を語っていることから、もしかした大規模テロリズムにつながるかもと思い、書いてみました。
半分冗談の半分本気です。
究極的には、社会はどうあるべきかや人はどう生きるべきかについて答えは無く、答え的な物には必ず、どこかで「信じるから信じる」的な論理の飛躍があり、したがって、世の中みんな宗教です。
そういう点では、常識や自分の経験に基づく思考もそう思うから思うだけの宗教です。
しかし、とりあえず目の前の社会を安定させる力はあり、真理を片手に相手をバカだと思うようなこともなく、相手の尊重につながります。
お互い、「たまたま」だらけの人生を生き、似たようなもんだから相互に尊重できるのです。
常識によりかかって幸せを感じていても、それはロボットではありませんし、そういうった批判に憶する必要はありません。
むしろ、そこを疑い始めると、自分と現実とのつながりを無視した何らかの理論に帰依する道しかなくなるという点に気づくべきです。
そして、そうなると、反対意見を言う人が愚か者や人非人に見え、最後は戦争になります。
言いたいことはそれだけです。
参考文献
この記事書く前にさらっと読み直したら、非常に良くまとまっていてだいぶ引きずられてしまった。パクリではなくリライトです。