「学校教育はロボットを育てる」と繰り返すロボット


口を開けば、「同調圧力」とか「画一的な学校教育」とか、ロボットはどちらなのか。

目次

はじめに

先日から話題の10歳の不登校Youtuber問題。

私も気になってニュースを見ていますが、昨日テレビに出ていたインフルエンサーの人が発していたコメントが、例の如く金太郎あめみたいなインフルエンサー発言でした。

曰く、

「日本は同調圧力が強い」
「学校教育により均質な人材を育てる」
「今後普通の人はAIに置き換わられる」
「これから個性の時代」

最後の、「これからは個性の時代」くらいになってくると、真顔で言われるとちょっと怖くなってきます。

以上のような発言を改めて読んでみると、界隈の人が如何にも言いそうな発言ばかりで、むしろ、こっち系の人の方こそ、いますぐAIに置き換えること可能なのではないかと思います。

しかも新しくなく、確か、大正時代か昭和初期らへんに学歴社会批判がマスコミをにぎわし、それを受けて、三菱商事当たりが、これからは学業重視ではなく人物本位の採用を行うなんて発表してたような気がします。

上手くまとまりそうもないので、感じるところを徒然なるままに書いてみます。

自己顕示欲

まず最初に言っておくと、社会に物申す系のYoutuberのような、外に向けての何らかの主張は自己顕示欲の現れです。

その主張を叩くのも自己顕示欲の現れ。

そして、叩きを「叩くのが好きだねえ」と言って叩くのも自己顕示欲の現れ。

などとのたまうこの記事も自己顕示欲の現れ。

まあ、そこは止まらない。

日本は同調圧力が強い

最近、「日本は同調圧力が強い」という見解をよく聞きます。

これ本当でしょうか。

不登校Youtuberに対する、「学校は行った方が良い」とか「宿題はやった方が良い」というコメントに対して、「自分がそうだったからと言って同じ行為を強要している」と決めつけるのは、違うと思います。

そうではなくて、「学校には行った方が良い」と考えているからそう主張しているだけで、「自分と同じにしろ」という理由で主張してるわけではないと思います。

まあ、そういう人が皆無だとは主張しませんが、私が問題にしたいのは、これを「同調圧力」と呼びたがるのはなぜかという点。

思考実験として、「学校なんて行かなくても良い派」がどんどん増えていき、いつか過半数を超えて多数派になったとします。

そうすると、今や少数派となった「学校に毎日通い宿題をきちんとやる生徒」について、どう思うのか。

きっとバカにするはず。

ただ、そんなことはなくて、自分達は多様性を主張していて、学校に行くことを否定しているわけではないと主張するでしょう。

そこが甘いんだよ。

多様性を尊重し、多様性を内包する社会は必ず階層化します。

アメリカでもフランスでも多様性を尊重しても、1人×1億グループとはならず、社会はグループ化して相互に明に暗にいがみ合うようになります。

もちろん、グループの内容が人種などのように自分が選択できないものの場合は相互に尊重することも可能でしょう。

しかし、「自分の選択」についてはそうはいきません。

自分なりに合理的だと判断した選択と異なる選択を合理的とは思うはずはありません。

その証拠こそ、「同調圧力」ブームであり、少数派の「学校に行かなくても良い派」は、自分たちのグループで同じ主張を言うわけですが、少数派の内部で「同調」して言ってるわけではなく、「これからの時代」を考えるとそういう風に社会が変化していくべきであると、合理的に思考した結論であると主張します。

しかし、多数派である「学校に行った方が良い派」については、同調の強要として言ってるだけというレッテルを貼って、多数派の一人一人が思考しているとは考えないわけです。

これはバカにしてる以外の何物でもありません。

自分と異なる意見に平然と思考停止のレッテルを貼りながら、自分は多様性を尊重しているというのはどういうことでしょうか。

ただ、フォローすると、究極的には、自分が理性的である限り、自分と異なる結論に達した人間を尊重するなんて空想でしかないので仕方がありません。

前回の記事で書きましたが、多様性という言葉は基本的に、社会を批判したいけど社会主義を中心とした理性で社会を設計していこうとする主義がだめらしいとなって困った人達が、弱者を担ぎ出して社会を批判するという技を見つけたときに、一緒に見つけ出した武器で、自分達の主張を受け入れない人間は、多様性を否定する人非人ないしは時代の流れを掴めていない愚か者として、社会的に抹殺し、多様性の名の下に許したりはしません。

しかし、多様性をうたっている以上、人非人や愚か者と名指しで侮辱するわけにはいきませんから、日本社会には慣習や同調圧力という「妖怪」が潜んでいて、みんなそれに囚われているだけ、目を覚まさせたい、という態度を取ります。

マクドナルド化する社会

マクドナルド化する社会というのは、1999年に出版された社会学の有名な本です。

何となくタイトルからわかるように、マクドナルドの効率的なオペレーションのように社会全体が効率的なオペレーションを目指しているという見解です。

店側が効率化すると、客側も整然と並びます。

誰もが経験あるように、自分の前の人が、並んでいる間に散々考える時間があったのに、カウンターの前に来てから、何にしようかなどと注文を悩みだすと、イラっとします。

このように、社会全体が効率的な運営を指向し、その参加者たる我々も、その効率的なオペレーションを乱さないような自己管理が求められます。

そして、そのような自己管理ができない人間は、ものすごい嫌われ、多くの人がそうならないように息苦しさを感じながらも、全体の効率化に貢献します。

これが同調圧力の正体です。

そして、このマクドナル化する社会を書いたのは、もちろん外国人で、世界全体のことを話しているのであって、日本の現象なんて書いていません。

もちろん、日本の場合、言語、宗教、民族などすべてが均質的ですから、社会の効率化は進みやすく、その点から社会的な圧力は強いと言えますが、それは、日本人に同調圧力なるものが存在するのではなく、同質的な社会だからそうなるだけということ。

見方を一段階薄くして、結果として日本社会には強い同調圧力が存在すると言えなくもないですが、それは結果であり、日本人の特性としてそういった力があるわけではありません。

「日本は同調圧力が強く、これからは多様性を・・・」と主張している先進的な人にはキャッシュレス派も多いと思いますが、おそらくレジで現金をジャラジャラやっている人に対して、なんであんなことやってるんだろうと感じることも多いはずですが、「まあ個人の自由だけど」なんて言いながら小ばかにするか、正直にイラっとしているのかのどちらかで、そういった嫌悪感が圧力となっているだけです。

つまり、同調圧力は日本的なものではなく、どちらかというと社会のマクドナルド化を進め経済的な合理主義、すなわち進歩論が好きな西洋合理主義的な知識人がもたらすものです。

戦前からの亡霊

この同調圧力議論にみられる、「日本人は・・・」という議論が面白いです。

戦後民主主義という考えがあります。

1945年の8月15日から新しい日本が始まったなんて考えるわけですが、せっかく平和を指向する新しい日本を目指そうとしたのに、戦後15年くらいたったら、朝鮮戦争などの影響もあり、日米安保や自衛隊の創設など、平和主義に逆行するかのような流れが始まりました。

そこで登場したのが60年安保闘争でせっかくの流れを変えるなと学生や知識人たちが大騒ぎします。

しかし、当時は中卒が当たり前、高校に行けるのは選ばれたエリートであり、その先の大学なんて働く必要のない裕福な家庭の超エリートが行くところでした。

そんな大学生が学校占拠したり、道路を封鎖したりしても、ほとんどの国民は付き合わず、仕事に精を出していました。

時代は、高度成長期に差し掛かったところで、みんな自分が豊かな生活を手に入れることが先決だったからです。

天下国家論より、自分の衣食住が足りることの方が先なのは当たり前です。

恵まれた環境で育ったエリートたちが昼間は暴れ回り夜は酒を片手に日本の行く先を威勢よく議論していた反面、9割以上の人々は今とは比べ物にならない劣悪な環境で働いていましたが、経済的な復活やさらなる成長の兆しを確かに感じ取っていました。

しかし、もともと恵まれていた連中にはそんなことわかりませんから、政治に無関心な日本人を嘆き、これは右も左も同じで、天下の趨勢よりも目の前の生活が優先とは、経済的な豊かさの中で人間性や理性を失った日本人たちよ目を覚ませと、叫びだしこれは未だにやっています。

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そして、アメリカやフランスやイギリスなどを持ち出して、なぜ日本には真の近代主義なり真の民主主義が根付かないのかなんてやっています。

それの何が面白いって、「日本は○○だ」的な、安易な主張が、戦前の皇国思想と呼ばれるものとそっくり同じで、「特別な日本」を持ち上げるか下げるかの違いだけで、根本的な部分が何も変わってないという点です。

60年代当時、幸せな連中の空中戦に付き合わずに自分達の生活を優先したというのは極めて現実主義であり、決して馬鹿にされるような態度ではありません。

仏教伝来、儒教伝来、キリスト教伝来、西洋文明伝来、戦後の民主化、日本は全てそのまま受け入れることはせず、少しずつカスタマイズして取り入れ、均質化しつつも安定した社会を維持してきていて、それを骨がないとみるか骨太とみるかは見方次第ですが、現実の生活を見据えた態度は、理想に突っ走って二大政党制で社会が二分するような文化と比較して決して劣ってはいません。

むしろ、現実の生活よりも大事なことがあるなんて、これからの時代トークもそうですが、知識人たちの理論や理想を振りかざして議論する態度こそが、無謀なアメリカとの戦争に日本を駆り立てたということが分かっていないような気がします。

向いてる方向は異なるようで、根底にある態度自体が同じなのです。

均一的な知識人

学校教育で人間が画一化するという主張もおかしい。

学校に行かない選択肢もあっていい、多様性が大事と、10歳の不登校Youtuberを擁護する人たちに高学歴が多いのは何でなのか。

実は、これこそが学校教育の問題点の1つ。

江戸時代の思想というのは面白く、一言で言うと100人100様。

それなりに思想発展の系譜はありますが、色んな立場の人たちが色んなことを言っていて、西洋のように、近代主義の発展の歴史みたいな一直線が無い。

なんでかというと、世襲制の国家だったから。

殿様の子が殿様になり、同様に主要な役職に就くのは名門の子孫であり、実力なんて関係がありませんでした。

もちろん、名門士族は厳しく育てられまし、名門内部での競争も多少あったので、上の人達はそれなりの人達ですが、中国や朝鮮の科挙のような、試験を実施して広く役人を登用する制度などありません。

したがって、下級武士の子供はどんなに勉強ができても出世する見込みはありません。

しかし、勉強が好きな人というのはいつの時代もいるもので、出世が関係ない分、自分の興味のある学問だけを私塾などに通って頑張っていました。

ペーパーテストが無いので、教科書作りのように、学問を体系だたせる努力自体があまり存在せず、各自が勝手に勉強をしていました。

そういった好きで勉強した人たちが自由に猪突猛進する土壌があったからこそ、幕末から明治維新にかけて、化け物のような下級武士たちが登場してきます。

しかし、明治時代になり、優秀な人材を広く募らなくてはいけないとなり、そこから、高等文官試験という制度が始まり、要するに試験勉強と立身出世が結びつく現行制度が始まるわけです。

そして共に始まる学校制度ですが、この制度の特徴は、国民の平均値を上げることが目的ですから、教育内容の均質性は言わずもがなです。

しかし、教える内容が均質なだけで、均質な人間を育てようとはしていません。

しかし、ペーパーテスト前提の学歴社会には厄介な問題が生じます。

それは、与えられた内容を鵜呑みにする人間ほど上に行きやすいという問題で、高学歴な人間ほど、学校教育における思想的な部分(現代文の教科書に載る評論文)などを、現代文明論などと鵜呑みにしやすく、つまり、高学歴な人ほど均質になります。

(安保闘争があれほど過激化した理由として、社会に反旗を翻したものの9割の国民から白い目を向けられる中、自分達が、批判の矛先を向けている権力者側が施した教育を必死に暗記した優秀者で、彼らに選抜されたエリートであったということに気づき、二十歳前後のナイーブな若者の中で沸き起こった自己否定感情が自暴自棄な攻撃本能に転化したとも言われています)

以上が、自分は高学歴な知識人が、10歳の不登校Youtuberに「学校に行くも行かないも自由」と均質的に擁護する理由です。

もう少し補足しようかな。

戦後教育

戦後の特徴は、戦後右翼にしろ戦後左翼にしろ、国民の大多数はついていかないという所です。

そして、主流派の戦後民主主義は、西洋から直輸入したモノサシを使って、日本がなぜ真の民主主義国家にならないのか、それをあの手この手で論じ、そういった立場の社会論が国語の教科書に登場します。

そこで登場する論調に、日本人の政治無関心を嘆くものがあったり、要するに大衆をバカにする態度が背後に潜んでいます。

右翼からすると平和ボケ、左翼からすれば慣習にとらわれすぎ、戦後民主主義からすると経済のことばかり、ポストモダンからすると均質化で多様性を認めないなどと、みんな国民がついてきてくれないことにいら立ち、戦後社会を批判する論調ばかりで、知識人たちの浮ついた議論に付き合わずに現実生活を重視する国民を真正面から評価・分析する論調はありません。

そして、そういった知識人たちの、なぜ「日本の大衆は・・・なのか」という議論には必ず学校教育批判が登場します。

どの立場も国民が「考え」さえすれば自分達の主張になびいてくれると信じているので、「学校教育が思考停止状態の国民を育てている」という点で一致します。

そうして、そういった公教育批判を優等生らしく「頑張って鵜呑みにした人たち」がそのまま、「日本の公教育は個性が・・・」などとステレオタイプに批判するわけです。

「均質化した日本社会」を批判しているようで、その実、「均質化した日本」を均質的に批判するロボットにわれ先になったのが高学歴な秀才なわけです。

日本では曲がりなりにも平等選挙が行われ多数派の意向をくんだ政権が政治をやっているのに、未だにフランス革命当たりの権力装置としての政府観を振りかざしたり、均質な人間を作り出す方が権力サイドにとって都合がいいなんて陰謀論まがいの公教育批判を繰り広げたり、まさに均質的な高学歴戦後知識人の伝統そのもの。

義務教育は、平等が理念ですから、教育内容は均質化していますが、均質な人間を育てようなんてしていませんし、同じ勉強をして均質化するのは、教育内容を高度に履修した人たちだけです。

「学校の宿題をやっている他の生徒がロボットに見えた」という発言する人の方がよほどロボットに見えるのは私だけでしょうか。

これからは個性の時代

個性の過剰な賛美はいい加減やめた方が良いと思いますけどね。

何かにつけて、個性が大事、自分らしさを大事にしよう。

大事なんだけど、殊更主張しなくても、同じ制服着て通学して、髪の色を黒に制限して、ピアス制限しても、みんな違う人間になります。

今やうつ病や不登校など、社会生活に悩み苦労する人たちが増えていますが、個性教育を生真面目に鵜呑みにしてしまったことが、その人たちの生きづらさを構成している部分があるんじゃないかと思うのは私だけ?

そりゃ、社会生活の中で個性を主張すれば軋轢が生まれるのなんて当然。

それを受けて当然と思うか、学校では自分らしさを貫けと教わったのにそれを認めない社会はおかしいと思うかの違いが大きな分岐点になっている気がします。

そういう意味では、自由平等まで保障される究極的な多様性社会というのが実現不可能なのにもかかわらず、それを前提として個性を煽る教育自体が社会からあぶれる人達を生み出しているような気がします。

10歳の不登校Youtuberを擁護し、「学校に行った方が良い」という意見を同調圧力と呼ぶ人たちは、10年後にその「同調圧力」が無くなってると思ってるのだろうか。

そしてそれが相も変わらず続いていたとしたら、学校に行かない選択をした子たちは、「同調圧力」によりひどい目に合うわけですが、その責任はだれがとるのか。

だからこそ社会を変えていかなくてはいけないなんて、「あるべき論」にすり替えるのかな。

もちろん、時代の先を行くインフルエンサーたちにしてみれば、「これからは個性の時代」、「学校教育は均質化した人間を作る」、「学校にまじめに通う人間はAIに置き換えられる」と煽って、学校に行かなくなる人たちが増えると、自分達のお客さんが増えるわけだから、ビジネスとしては非常に合理的ですけどね。

おわりに

いろいろ思ったところをワーッと書いてみました。

雑多な感じでまとまりがないですが許してください。

一番最初に、徒然なるままに書いてみますなんて言ったので最後も徒然草から。

おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

思ったこと言わないのは腹が膨れるような気持ち悪いことなので、筆に任せたつまらん暇つぶしで、どうせ破り捨てる者なんだから、見なくていいよ。

といったところでしょうか。

こういう文章を読んで、そうはいっても書き残している以上、承認欲求がどうのこうのと「読解」するのが現代人の良くないところですかね。

そりゃ生きづらくもなります。