上野千鶴子先生の東大入学式の祝辞について


思ったことを書きます。

はじめに

先日行われた東大の入学式で、上野千鶴子先生が述べた祝辞が話題になっています。

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世間では絶賛する声が多数ありながら、当の東大新入生たちには批判的な意見も多いらしく一安心なわけですが、自分なりに思ったことを書いてみます。

なお、この記事、いくら見直してもうまくまとまらなくて、頭の中大混乱なのですが、タイムリーな話題だし、時間がないのでアップしてしまいます。

ごめんなさい(少し修正しました)。

両親の教育

まず、この祝辞の序盤は女性差別について触れられ、昨年話題になった、東京医大の不正入試問題に触れられます。

家庭の経済的事情で医者になりたいけど、地元の国立の医学部以外に選択肢がなく、泣く泣く医師の道をあきらめた若者が世の中にはたくさんいるというのに、約3千万円の学費が払える家に生まれた子だけが入学できる医学部の、しかもそんな状況の入学試験でボーダーライン上だった人達が平等だ不平等だ騒いでいるのは少し違和感があるのですが、まあ、関係ないのでそこは突っ込みません。

将来世話になるかもしれないし(そもそも私は、私立医学部の存在は認めなくてはいけないし、親の所得格差の時点で大きな差別がある以上、その選抜方法はある程度恣意性があっても構わないと思っているので)。

そこはさておき、その後は東大の新入生における女子の割合の低さに話題は及びます。

統計的には、女子学生の方が男子学生より偏差値が高いのに、東大の女子の割合は20%にも達しないと。

しかし、その理由として、こういっています。

「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

まったくもってうなずける話なのですが、これは、東京医大の不正入試のような意図的な操作の話ではありません。

両親の半分は女性です。

これは社会に組み込まれた構造的な問題の話で、その構造は社会の構成員である男女問わず私たち自身によって作られています。

しかし、上野先生は、続く話の中で、集団で女性を凌辱した事件の男子東大生の話をしています。

こんなの、頭おかしい連中がたまたま東大生だっただけで、東大生だった以上は無関係とはいえないまでも、実際のところ東大生であるという属性とは無関係の話です。

この後には、東大女子が入れない一部のインカレサークルの話が続きます。

要するに、女性差別は社会の構造的な問題なのに、どうも、結局は男が悪いみたいと言いたいかのような変な話にもっていきます。

男女が複雑に絡み合って社会が構成されているのに、女性差別は男性側だけの問題なのでしょうか。

男尊女卑社会を支えている女性の存在には触れなくていいのでしょうか。

言ってはいけない

上野先生は、下記のようなことを言っています。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

頑張れば報われるなんて、今の時代そんなピュアな人は小学生にもいないんじゃないかと思いますが、それはさておき。

努力のせいではなく、環境のせい。

本当なんでしょうか。

今の世の中は、「言ってはいけない」ことであふれています。

生まれもった才能の話をしなくてよいのでしょうか。

とある脳科学者の先生が、先日テレビで、自分の頭で考えるということができるかどうかというのは、生まれた時点で決まっていて、できるのは世の中の3割くらいという話をしていて、こんなことよく言えたなと思いました。

それと同じで、教育関連議論もそうですが、人はあたかも平等であるかのように議論され、環境ですべてが変わるかの様な言説がはびこっています。

三角関数を理解できるかどうかは生まれた時点で決まっているなんて議論聞いたことありません。

環境の影響は重要だとしても、実は、そもそも持って生まれた才能が決定的な要因かもしれません。

しかし、なぜそういう話を聞かないかと言うと、「言ってはいけない」からです。

別に、環境よりも持って生まれた才能の方が大事という主張をしたいわけではありません。

そうではないです。

努力か環境か才能かなんて話には興味がありません。

しかし、努力は自分のせい、環境は自分のせいではない、では、才能は誰のせい?

その点、才能に触れず、努力ではなく環境の影響が大きいのだという発言には、世間から評判のようですが、東大の入学者という成功者に迎合しないで真実をばっさりやったような勢いがあるようで、どうも「言ってはいけない」ことに触れずに大衆に迎合する詭弁のような気がするのです。

学問の力

上野先生は、後半でフェミニズムの話をし、下記のように述べます。

フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

私が注目するのは、弱者が弱者のまま尊重される社会を求めるというという点です。

もし、弱者を尊重しない非弱者がいたらどうするのか。

上野先生は新入生に向けて下記のように言っています。

恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

弱者を尊重しない非弱者がいたら、このようにして、弱者を尊重するように乞い願うのでしょうか。

それで社会が変わると思ってるのでしょうか。

もちろん、違います。

そんな弱い人ではありません

弱者が弱者のまま尊重される社会を目指す場合、弱者を尊重しない非弱者がいれば、そいつの首根っこをつかんで無理やり尊重させるように強制するか、社会から追い出すしかありません。

だから、この先生は、女性学を進めるとともに、活動家として啓もう活動に邁進し、特定の思想・意見を内心ならまだしも、口外した者は社会から抹殺する仕組みを作ってきたわけです。

社会を変えるためには力が必要です。

そのための力を作ってきました。

上野先生は女性学の第一人者であり、「言ってはいけない」を社会に作り出してきた学問の第一人者です。

昨今の炎上問題のような、「不適切」な発言をした人間を社会から抹殺する世の中の理論的な基盤を作ってきた人です。

女性差別問題だと、会社の役員の数や大学の教授の男女比がよく取り上げられます。

ここで、もし、女性は管理職を嫌う傾向が生物学に認められるなんて論文を書いたらどうなるでしょう(ないと思うけど)。

おそらく、相手にされません。

そういうことは「言ってはいけない」からです。

炎上するか、炎上を恐れる人たちに学会から追放され、絶対に冷静な議論なんて始まりません。

何かにつけてファクトやエビデンスに基づく議論が求められますが、その一方で、社会には「言ってはいけない」ことがたくさんあって、それらが議論に登場することはありません。

しかし、そういった状況にも関わらず、学問は客観的な真実性を持っているかのように受け入れられています。

浅学ゆえに、バシッと出てこないのですが、確かミシェル・フーコーだった思いますが、下記のようなことを言っていたと思います。

科学とは権力である。反対する人間に「頭のおかしい人」というレッテルを張り、社会や論壇から抹殺する点において権力そのものであると。

また、知とは、正常と異常を分類する道具であり、本質的に権力と不可分であると。

女性学のような社会学も、時には社会科学なんて言いながら、ファクトとエビデンスに基づいた議論を重ねて、さも科学であるかのように、客観的な正しさを身に着けてきました。

そして、客観的な正しさは力であり、逆らうものは「愚か者」になります。

トランプが大統領になったときに、ハーバードのロースクール生のインタビューがなんかの雑誌に載っていました。

授業でトランプの意見にも一理あるみたいなことを言ったら、多数派にボコボコにされた。

それだけならまだしも、休み時間に同性愛者の団体だか、活動グループだかが、教室に乗り込んできて、その生徒を取りかこみ、自分達に幸せになる権利はないというのかと、泣きながら抗議を受け、もう二度とトランプの話で自分の意見は言えなくなったというものです。

一時期、トランプを支持するのは、Uneducated Peopleなんて言われていました。

正しさを根拠に相手に有無を言わさない力が行使される事例です。

体当たり男

私が、女性差別の解消が難しいなと感じたのは昨年の「体当たり男」のニュースです。

新宿駅だか渋谷駅で、女性にわざとぶつかる男がいて、しかもそれが結構普通にある事態だということ。

全然そんな話知らなくて、びっくりしたニュースです。

ちょっと話題になり、テレビでも取り上げられていました。

しかし、おいちょっと待て!と言う女性はいないようです。

ニュースでも女性という肉体的な弱者に暴力をふるう男性の卑怯さに非難は集中していました。

そこに異論はありません。

相手が男で、体格に劣り、暴力でも振られたらと思うと怖い。

気持ちはわかります。体格差があれば男も女も同じです。

しかし、もし黙って泣き寝入りするのが当然で、今後一人もその場で文句を言う女性が登場しないなら、男女平等なんて永遠に来ないのではと思いました。

男女平等の本質は個人の尊厳の平等であり、社会によって与えられるものではなく、個人個人が自尊心を持つ結果として実現されるものです。

自分より強いものによる暴力が怖いという気持ちはよくわかるので偉そうなことは言えないのですが、暴力による不正になんで言い返さないのかという意見が一切出ないというのは少し違和感があります。

女性専用車両もそうですが、男が作った檻に閉じこもってないで、不正を働く男と闘えと、駅で女性専用車両に乗る女性に抗議する女性活動家もみたことないです(いるんでしょうけど)。

男女平等とは、男と女がまったく同じ存在として扱われることでもなく、かといって、女性を弱者として保護することでもないです。

違いは違いとして尊重し、それぞれが自尊心をもって生きられるような社会のことです。

しかし、自尊心と交換で弱者としての保護をえることには、相応の魅力もあります。

この体当たり男の報道を見る限り、女性が男性より弱い存在として扱われる風潮が社会全体で許容されている気がします。

昨年、安倍昭恵さんの証人喚問が問題になったときに、田嶋陽子先生がテレビで吠えまくっていて、昭恵さんまで国会に連れ出さなくてもいいでしょうという意見の裏側に、男性側の、女性を弱者として扱うような思想が見えて気に入らないと言っていました。

しかし、現実には、弱い女性を守ることで満足する男性も多ければ、男性に守ってもらいたい女性も多い気がします。

男に体当たりされた女性に「なんで捕まえて言い返さないんだ」と、多くの男性は言えません。

優しくないと思われるからです。

これも、「言ってはいけない」につながります。

弱者に「戦え」というのは、今では最大のタブーの1つです。

優しさゆえに「言ってはいけない」となります。

ただ、そのやさしは、弱者が尊重されない現実社会とは全く無関係なのか。

弱者の尊重を求める学問において。「正しさ」と「やさしさ」は共存できるのか。

西部・そごうの広告

年始の西武・そごうの広告の記事で書きましたが、女性差別は根深い問題です。

社会的・構造的な問題ですから、社会的に解決しなくてはいけなく、出産や子育てなどを巡って、究極的には自由社会における個人の選択の結果だなどと、個人の問題に帰着させるのは絶対にしてはいけないと思います。

しかし、そこが行き過ぎて、社会の構造的なものであることを強調することは、自分に甘い他力本願な人間に万能な言い訳を与えることになります。

自己責任なんて口にしようものなら、「とかく自己責任にしたがる優しくない社会」と「やさしさ」から人でなしと糾弾され、個人に帰着させる態度こそが社会問題の解決を遠ざけてきたと「正しさ」から糾弾されます。

あの広告は、何でも社会のせいにしつつあるけど、個人の問題でもあるじゃないかと、「私は私」というキャッチコピーをもって逆に問いかけようとしたのに、見事に、「その主張は間違っている」「自己責任論を助長し社会的弱者を追い詰める恐ろしい見解」と、批判されました。

「言ってはいけない」だらけで自由な議論ができなくなっている社会の象徴のような炎上事件だった思います。

なんでこんな風になってしまったのか。

上野先生は学者ですから、どんな主張であれ受けて立つでしょうし、特定の発言が許されないなんて社会は望んでいないと思います。

しかし、その活動の結果、そんな社会になってしまうのはなぜなんでしょうか。

個人的な合コンの話

東大男子は合コンでモテるというのは、正に差別というか、根も葉もない話だと思います(30代婚活市場とかは知りませんけど)。

個人的な東大生としての合コン経験を語ると、何人かの女性からお説教を受けたことが思い出されます。

私は箸が正しく持てなかったのですが、合コンでそれを見た瞬間に猛烈にマウント取ろうとする女性が何人かいました。

勉強なんかいくらできても、「人としての基本」が身についていないと意味がないと。

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勉強ができるとか、良い会社に勤めるとか、給料が良いとか、高い地位に就くとか、そういうのは目指さなくてもいいけど、「人としての基本」だけは守るように親から厳しく育てられたと、堂々たる大演説を聞かされたことは何回かあります。

そのおかげで、ベッキーの不倫騒動などはよくわかります。

芸能界やスポーツ界は不祥事に甘いと言われます。

それはそのはずで、みんな芸で生きている人達ですから、プライベートの不祥事なんて大した話ではなく、そんな「小さな」ことで、その才能が世の中から消えることが惜しいわけです。

しかし、「人としての基本」なるものを大事にしている人たちからすると、私生活で不倫したけど、タレントとしての才能が惜しいからあっさり芸能界復帰なんて、許すわけにはいきません。

目の前の老人に席を譲ったり、箸を正しく持ったり、自慢話は絶対にしないなどの、「人としての基本」に全身全霊を投げかけることで、「自分の生き方の正しさ」を確認している人たちからすれば、不倫した人などはどれだけ才能があっても地獄に落ちてもらわないと困るわけです。

才能に比べればそんな大した話ではないなんていう見解だけは認めるわけにはいきません。

これが、最近の炎上文化の本質なんだと思います。

自由社会の中で価値観が多様化し、誰もが漂流する中で、一芸で勝負し、「自分自身」を売りに生きていける人はごくわずかです。

しかし、そうでない人だって、何らかの思想すがって、自分を肯定しないで入られません。

そういう人にとっては、ファクトやエビデンスに裏付けされた科学のような、客観的な正しさを持っている(らしい)ものは、自分の生き方の正しさを証明する究極の権威であり、全力で寄り掛かりたいものです。

客観的な正しさを持っているから、怪しい宗教とは一線を画すようで、まさに、絶対的な正しさが売りという点では、宗教そのものです。

そして、そういったものに寄り掛かり「正しい生き方」を見つけて心の安寧を得ている人にとっては、それに反する価値観は、自分の平安を脅かす敵であり、倒さないわけにはいきません。

むしろ、「間違った」奴と闘うことこそが自らの正しさの証明であり、生きていることの実感となります。

お陰で世の中みんなイスラム国状態です。

「言ってはいけない」ことが社会に氾濫し、あえて言おうものなら「正しさ」と「やさしさ」の両面から袋叩きにされ、社会から抹殺されます。

自分の名前で本も出せれば講演会も開け、そもそも東大教授なんて肩書のある人にはわからないのでしょうが、吹けば飛ぶような個人の多くは、自分の正しさの保証が必要であり、また、自分を包んでくれるやさしさもやさしも必要です。

社会をよくするための理論であった社会学が、「社会が悪い」と主張する点と科学のような正しさを持つらしいところだけ強調されて、宗教と化すわけです。

そして、「お前みたいなのがいるから」と、聖戦が至る所で起こっています。

その結果、感情的な反発を引き起こし、社会の改革は一向に進みません。

新井先生の話

突然ですが、AIで有名な新井先生です。

最近は教育事業に積極的に発言という、政治家みたいなことを始めています。

しかし、世間知らずっぷりが全開です。

AI VS.教科書が読めない子供たちで、全国的な学力テストの結果、中学校レベルの文章を読めない高校生どころか大学生が半分くらいいることを「びっくりした」と書いています。

そんなの社会で生きてる人はみんな知っています。

もちろん、「言ってはいけない」ことの1つであり、政治家が言ったら即辞任です。

本を売るために大衆に迎合しているのか、本当に知らなかったのか知りませんが、たぶん後者で、周りには頭の良い人しかいない人生を送ってきたのでしょう。

AIが発達したら、なくなるのは、臨機応変の対応が求められる窓口業務の一般職ではなく、半沢直樹のようなエリート総合職だみたいなことをいって、拍手喝さいも浴びていました。

私は、先日、ある金融サービスのサイトで、質問はありますかとチャットの小窓が画面に立ち上がったので、質問をしたら、規約はこうなっていますといって、チャット用の小窓に大量の規約がコピペされました。

そういった下界のことなんて知らないんでしょう。

そして、先日、新センター試験の試行調査の数学の問題がおかしいとツイッターで発言したのですが、センター試験の問題自体に有名数学者がかみついたということで、その指摘自体よくわからない小難しいものだったのですが、「いいね」がたくさんつきました。

中身なんか見ずに、新センター試験の批判ということで、「いいね」がたくさんついたわけです。

そしたら、新井先生、ついに、私の言ってることが分からないのに「いいね」するなとキレました。

なんでこんな関係なさそうな話を長々としたかと言うと、ヒトラーとかムッソリーニじゃないけど、民衆のために立ち上がった理想主義の秀才が独裁者になる過程のように見えたからです。

社会のために正しい提言をしたはずが、その正しさというより、より正確には「正しいらしい」ことからくる権威性にすがる盲目的な信者(原理主義者)を生み出し、その連中がやたら過激な聖戦を繰り広げるせいで、かえって感情的な反発を生み出し、社会の改革は一向に進まないどころか、いたるところで紛争ばかり。

しかし、それを嘆くどころか、局所的な紛争に全力で取り組み、「今日も一人悪を成敗した」と満足している。

そういった様子を見て、自分達が手を差し伸べようとしたのはこんな連中だったのかと暗黒面に落ちる。

また、肥大化した組織の中で行き過ぎを諌めようとしたら、かえって創設者が組織から追い出されるなんていうパターンもあります。

新井先生も、新興宗教「社会が悪い」の第1派閥である「教育制度が諸悪の根源」の代表に、その主張の中身もろくに読まない連中に勝手に担ぎ上げられていて、いつ暗黒面に落ちるのか心配です。

アーレントの言葉

ハンナ・アーレントは、独裁政権が誕生するきっかけが武力クーデターであることは珍しく、民主的な選挙で誕生することが多く、その場合決まって、投票率が高くなる、すなわち、普段選挙に行かないような連中が選挙に行くときに誕生すると言っています。

すごい言葉です。

その反面、弱者が弱者として尊重される社会を目指す学問なんて、理想とやさしさで満ち溢れていて、本当に現実の社会が見えているのか不安です。

しかし、熱心な啓もう活動に邁進した結果、正しさとやさしさを兼ね備えた新興宗教「社会が悪い」として、自爆テロも辞さない無数の原理主義者を生み出しています。

その結果、正しさゆえの「言ってはいけない」とやさしさゆえの「言ってはいけない」がはびこり、社会は炎上という名の聖戦で焦土と化し、政治家や官僚どころかコメンテーターの芸人さんすら思っていることを言えません。

トランプ当選やブレグジットを見て、信じられないと発言していた学者たくさんいましたが、本当に今まで現実社会を見てきたんでしょうか。

正しい知識が行き渡り、社会が優しくなるのは良いことです。

しかし、アイデンティティーの不安から何らかの権威に全力で寄りかかることにした人たちが自分達の正しさを確認する道具として学問の「正しさ」を利用し、「間違った」意見を主張した人たちを社会から抹殺するようなことは起きてはいけないと思います。

また、程度はさておき、自己責任の部分まで社会のせいにするような他力本願の人達が、優しさを武器に、「弱者に優しくない」意見を言った人たちを社会から抹殺するような事態も許されません。

なにより、こうした流れが行くとこまで行って、自由な議論が一切できなくなって、無言で社会が対立し、選挙がそのはけ口になるような事態だけは避ける必要があります。

つまり、「社会が悪い」教の盲目的な信者の暴走により、自由な議論が阻害され、いざ選挙をしたら、社会を覆う言説とは裏腹に、窮屈な社会への反動として弱者を平然と見捨てようとするリーダーが出てきても困るし、かといって、何でも社会のせいにする他力本願な人間が投票所に殺到して、「クソみたいな社会を俺が一刀両断する」みたいなリーダーに一票入れても困るわけです。

上野先生は、女性学どころか社会学の第一人者なんだから、社会の現状を受けて、社会がクソみたいな原因は主に二つあって、一つは男がバカであることで、もう一つは女がバカであること、くらい言ってほしかった。

女性差別問題を取り上げるにしても、30年前とまったく同じような態度で男子東大生による女子凌辱事件を持ち出して、男子東大生に問題があるかのように議論を寄せようとしたのだけはいただけない(よく読むと巧妙に避けてるのは分かるんだけど)。

演説するなら、何十年にも渡る活動の結果、社会がちっともよくならない理由について、ハッキリと言ってほしかったな。

東大生相手に、努力ではなく恵まれた環境のお陰なんだ、なんて世間向けのリップサービスは要らないよ。

信者向けの演説は自分の集会でやってくれ。

ベンサムの小話

いきなり、穂積陳重の法窓夜話から小話を。

ブラックストーン(Blackstone)が英国空前の大法律家と称せられてその名声嘖々(さくさく)たりし当時の事であるが、その講筵(こうえん)をオックスフォールド大学に開いた時、聴講の学生は千をもって数え、満堂立錐(りっすい)の地なく、崇仰の感に打たれたる学生は、滔々として説き来り説き去る師の講演を、片言隻語も漏らさじと、筆を飛ばしておった。この時聴衆の中に一人の年若き学生がいた。手を拱(こまね)き、頭を垂れ、眼を閉じて睡(ねむ)れるが如く、遂にこの名講義の一言半句をも筆記せずして講堂を辞し去った。その友人がこれを怪しんで試にこれに問うて見ると、かの青年は次の如くに対(こた)えた。

余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。

 「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の碩学(せきがく)たる未来を語ったものである。他日Fragment on Governmentを著し、ブラックストーンの陳腐説を打破して英国の法理学を一新し、出藍(しゅつらん)の誉を後世に残したベンサムは、実にこの筆記せざる聴講生その人であった。

今回のニュースを聞いて唯一うれしかったのは、上野先生の祝辞に反発した出席者が多数いたこと。

それでいいよ。

目の前に偉そうな人が出てきてもっともらしいこと言ったら、とりあえず何だこいつ、でいいです。

大学に入学するというのは、先生の言うことなり教科書に書いてあることなり、与えられたものを正解であるとして受け入れるという意味での勉強が終わることを意味します(理系はそうもいかないかもだけど)。

先生なる人の話を聞く姿勢から改める必要があります。

板書なんか担当決めてそいつに取らせて後からコピーを回せばいいし、音声もスマホに録音すればいい。

その代わりに授業に出たら、ベンサムのように腕組みでもして、教授として出てきた偉そうなおじさんおばさんが言ってることが本当に正しいのか、真剣に疑うべきです。

大学生活の目標は、その先生の教えを身に着けることではなく、あんたおかしいよと、対等に議論できる人間になることです。

私は欧米礼賛型の人間は嫌いですが、アメリカの大学では、学生が教授をファーストネームで呼ぶと聞いたことがあって、それはいい制度だと思いました。

大学では、教授と学生はともに研究する対等な立場であって、教える教わるという関係ではありませんし、そこに落ち着いてはいけません。

したがって、今回の祝辞も、とりあえず反発したというのは大事です。

勉強の基本です。

地球平面協会

有名なのでご存じの方も多いかと思いますが、地球平面協会という団体があって、地球は球形ではなく、平面であると主張し、自分達で独自の観測ロケットを飛ばそうとしているような変な団体です。

テスラCEOのイーロン・マスクが、なんで火星は平面であると主張しないのかと聞いたら、「火星は球形だからだ、写真見たことないのかよ」と反論した人たちです。

面白がって、あるメディアがインタビューをしたら、よくわからないやり取りが続いたのですが、最後に、インタビュアーが、本当に地球は平面なんですかと聞いたら、下記のように答えました。

私の主張が正しいかどうかといった、他人の主張の是非なんて考えてはいけない、大事なことは自分の頭で考えることなんだと。

東大には、日本を代表する碩学がそろっています。

どうせなら、本当に地球は丸いのかくらいから始めてみてはどうでしょうか。