西部・そごうの広告が炎上:パイを投げているのは誰か


新年早々炎上してるようですね。

目次


はじめに

元旦の新聞に西武・そごうが出した全面広告が炎上しているようです。

後で引用しますが、新聞の全面広告として出したらしく、過激な写真に過激なメッセージで如何にも炎上しそうな広告です。

時は元旦、大晦日に過ぎた1年を反省し、大いなる未来への一歩を踏み出した途端目にした意見広告ですから、新年早々にも関わらず、テンション高めにこの広告の社会的メッセージを批判的に検討する評論家先生たちがツイッターなどでは大発生しているようです。

私も例年通り31日は自分の1年を大いに反省したのですが、年が明けてみると年末の反省はどこ吹く風、「お正月、今年も来るぞ、大晦日」などと古川柳を口ずさみながら、実家や神社やデパートを行脚するという世俗にまみれた生活をしていたせいで、社会問題について熱く語る姿勢など微塵もなかったため、さっそく反省してこの流れに乗りたいと思います。

お断り

あれこれ御託を並べる前に、最初に断っておく必要がありそうです。

社会の構造的な問題というのは、個人個人の努力ではどうしようもないところがあり、社会的に解決していく必要があります。

そして、そういった構造的な問題を、傍観者よろしく結局は個人の生き方の問題といって矮小化する態度こそが問題の解決を遠ざけ、むしろ女性差別を助長・固定して来たというのは紛れもない事実です。

以下、この広告についてあれこれ語っていきますが、その事実を否定するつもりは一切ありません。

広告の引用

まず、問題となっている広告を引用します。

写真は下記で、動画もあるのですが、基本的に新聞に掲載された写真を中心に語っていきます。


ネットで拾いました。無断転載すみません。

なお、動画はこちら。

続いて、本文を全文引用すると下記になります。

女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。

時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。

わたしは、私。

これが、問題となっている広告です。

4つの前提

イントロが長くて申し訳ないですが、この問題を語るうえで、4つほど前提を整理しておきたいので、まずそれらを述べます。

個人と差別

だいぶ遠いところから始まりますが、日本の憲法の3本柱は国際主義、平和主義、個人主義です。

そして、人権保障の冒頭規定ともいえる憲法13条には、個人を尊重すると書いてあります(1条以降序盤は天皇関連の規定)。

これは私たち一人一人が、自分なりに人生の目的や生きる意味を見出し、それに向かって全力で生きる姿に最高の価値を置き、それを実現するために、その後の条文で規定される個々の人権を保障するという構造になっているわけです。

したがって、個人の尊重というのは、表現の自由とか学問の自由とか、個々の基本的人権の尊重のベースとなるものであり、重要な理念です。

そして、その大事な13条の次に来る14条が法の下の平等という規定で、簡単に言うと、出身地や社会的身分などによる差別をやめろと言っています。

この13条と14条の連続関係は重要で、個人そのものではなく個人の属性に注目し、その属性を持つ集団に目を向け、その集団に対する先入観や偏見を持ってその個人に接することは、個人を個人として扱わないことを意味し、個人の尊重という理念に反するから許されないわけです。

したがって、差別というのは、個人ではなく、個人が持つ属性に注目する行為や作用を意味します。

これが差別問題の根源的な難しさです。

特定の属性を持つ人々が不当な扱いを受けているから、それを是正しなくてはいけないのですが、その是正活動は必然的に、差別を受けている個人ではなく、その属性に注目した活動とならざるを得ないという、本質的な矛盾点があるわけです。

女性差別もそうで、女性差別により、一人一人の女性が自分らしく生きられないことが問題だからこそ、解消しなくてはいけないのですが、女性差別をなくそうという活動が、個人軸か集団軸かという点では、女性差別と同様の、反個人性を持つ集団活動であるわけです。

昨年、テレビ番組で、同性愛者差別が話題になった時、活動家が求める過剰なテレビ規制に対して、ミッツマングローブさんが、LだのGだのBだのTだの、人を勝手にくくって個人を無視しているのは、あんたらの方だろと怒っていました。

どっちが正しいかとかではなく、この根源的な矛盾は頭に入れておく必要があります。

利害と理念

人が集まって社会を構成しています。

文字通り社会は構成されていて、人は、大気中を自由に動き回る酸素分子のように勝手気ままに生きているわけではありません。

人が集まれば、そこでは必然的に組織化・秩序化が生じ、組織や階級が生まれます。

そして、組織や階級が生まれればそこには権力が生じ、持つものと持たざる者が生まれ、その結果、社会構造は固定化します。

女性差別のように、社会の構造的な問題が登場しますが、社会の構造は既存の権力者層に都合よくできているところに問題解決の難しさがあります。

社会を構成しているのは一人一人の人間とはいえ、みんな完全に自由に生きているわけではなく、構造化された社会の中で生きており、現状は既得権益層には都合がいいわけで、持たざる一人一人の人間が努力して、その構造的な問題を解決するのは難しくなります。

そうすると、構造的な問題を解決するには、個人の力の集合から一歩進んだ、権力というか、強い力が必要になります。

では、その強い力の源泉は何か。

これを独裁者とか軍事クーデターに求めると大変なことになるので、あくまで民主主義社会を前提とすると、それは結局、選挙における多数派ということになります。

とは言え、選挙は一人一人の行動の集合であり、その行動の動機は何になるのか。

具体的には、有権者は、個人的な利害に基づいて行動するのか、それとも個人的な利害に反してでも理念を追求する行動に出るのか。

こう考えると、確かに自己犠牲的に崇高な理念に身をささげる人は一定数はいるのでしょうが、養わなくてはいけない家族がいたり、目の前の生活に気を配らないといけない人の多くは、自分の利害に根差した投票行動をとらざるを得ません。

つまり、民主主義社会においては、多くの人が、崇高な理念ではなく、現実的な目の前の自分の利害に基づいて投票行動をし、その結果に基づいて政治権力は行使されます。

特に、社会がシンプルで、政治が国の目指す方向を決定するだけならいいのですが、社会が多様性を持てば持つほどに、政治は方針決定というより、利害調整の場となり、経済政策が主要な争点になると、なおさら有権者は自分の利害に基づいて投票するようになります。

とすると、民主主義社会において、今の生活の土台となっている社会の構造を根本的に変換させる可能性のある政策が実現されることは可能なのでしょうか。

民主主義社会において、暴力なしの革命は可能なのでしょうか。

それが出来ないとすれば、あれこれ言いながら場当たり的な対応に終始するのみで、社会は過去の延長で続くことになります。

これは、今の生活の利便性を後退させて環境保護を第一に据えるような政策が民主的政治の中で採用されるはずがないと、テロ行動に出る環境保護原理主義者が直面している問題でもあります。

ヴィーガンによる肉屋襲撃から考える環境保護とテロリズム

リベラルと暴力

左翼と右翼、リベラルと保守なんて語りだしたら終わらなくなるのですが、細かい派閥間の差異はさておき、根本的なところでリベラル勢力には特徴があります。

それは、手のひらの上に社会や世界を乗っけて、レゴブロックを組み立てるかのように、特定の思想や理念に基づいて社会を設計・構築しようとする点です。

歴史や伝統の延長としてある現状をあまり重視せずに、理念先行で社会をデザインしていこうとする点において、現状維持を重視する保守派に対して、進歩派なんて言われます。

なお、保守派のために一言補足しておくと、保守派の多くは、現状を絶対的に肯定して既得権益を固定化したいのではなく、人間が頭で考えたところでどうせうまくはいかないし、何より急激な変化ほど社会を混乱に導くものはないから、変えるにしても、「構造改革だ!」と叫んだりせずに、現状を大事に少しずつ変えていこうという態度です。

話を戻して、理念先行のリベラルには問題点があって、それは、彼らには社会が進むべき方向が明確に見えているという点です。

そうすると、その方向に反対する人たちが「間違った人」に思えるらしく、多様性を尊重しろという割には、教育が大事と熱く語ります。

旧ソ連や中国や北朝鮮では、政治のリーダーは、指導者と呼ばれます。

文字通り、民衆を正しい方向に導く人です。

なお、日本では総理大臣といいますが、バラバラの物事を順序立てて整えることを「整理」すると言いますが、それの「総」バージョンが総理という言葉で、要するに多様な意見をまとめることを意味し、総理大臣というのは大臣の中の学級委員長のことを意味します。

また、リベラルの極みである左翼政権の場合、刑法において、「思想犯」といって、間違った思想を持ってしまったという犯罪が規定されているのが特徴で、しかも彼らが送られるのは刑務所ではなく、シベリアなどにある「教育施設」です(実態は刑務所かそれ以下)。

社会の進むべき方向性が決まっていますから、間違った人と正しい人の区別は容易で、教育こそが国家の重要課題です。

こういったリベラル思想、やわらかく言うと、現状にとらわれない進歩的思想、もっと柔らかく言うと、社会が進むべき方向を明確に持っている人というのは、反対意見を持つ人との共存は本質的に難しいです。

思想にしろ宗教にしろ、正しい道を見つけられた人には、迷いからの解放と心の安寧という特典が付いてくるのですが、そういう人たちからすると、自分と違う意見を持つ人の存在は、潜在的に、心の安寧を壊し、再び迷える世界に自分を連れ戻そうとする敵となります。

そういった人々が民主主義社会において少数派の場合、上述したように、崇高な理念より目先の自分の生活を優先させるような堕落した多数派により、一向に社会の変革を進みませんし、民主主義社会の下では原理的に社会は正しい方向に変わらないのではないかという点に気づくとテロリストになります。

もっとも、理念と利害が結びついて多数派になった場合は最悪で、選挙によってえらばれたヒトラーのように、少数派を粛正して、完全な社会を実現しようと、正義の名の下の非道な権力行使をためらわなくなります。

まあ、リベラルイコール多様性を否定するのかといえばそんなことはないどころか、むしろ真逆で、個人の自由が尊重された多様性社会を望んでいます。

しかし、今回の広告炎上に対する批判的な言論のいくつかに見られるように、最低限のルールを守っていれば基本的に言論や表現は自由であるなどと、表面上は多様性を尊重するのですが、「最低限のルール」という言葉を多用し、それが全然最低限じゃないどころか極めて恣意的という問題点があり、それが膨張して、反対者に対して全力で憎悪をぶつけるところまで来ているのが、昨今のポリティカル・コレクトネスの名の下の言論弾圧であり、いわゆるポリコレ棒です。

まあ、ポリコレ棒がどうのこうのはさておき、社会はこうあるべきという思想が明確であればあるほど、本来的には、多様性への許容度は低くなります。

静的と動的

突然ですが、量子力学という科学の一分野があります。

電子とか素粒子とか、超ミクロのものを分析対象とする分野ですが、分析対象が超ミクロになると伝統的なニュートン力学が通用しないことから、量子力学という領域が生まれました。

なぜ、分析対象が超ミクロになると問題が起きるかというと、電子がどうなっているか調べてみようということで、実験台の上に電子をのせて電子顕微鏡で電子ビームを当てると、電子一個の持つエネルギーに対して電子顕微鏡が発するエネルギーが大きすぎて、電子が吹っ飛んでしまって分析できないわけです。

まあ、これは滅茶苦茶な例えですが、何かを分析しようとしても、精密に考えると、実験とか観察という行為が分析対象に影響を与えることは避けられなくて、対象が超ミクロの場合、観察行為が分析対象に及ぼす影響が大きすぎて、観察行為がないとした場合の、本当のところどうなっているかわからないわけです。

そこで、量子力学の講義では、物理学というのは、ある実験をしたときにどういう結果になるかを説明する学問であり、本当のところ物質はどうなっているかを探求する学問ではないと、ピュアな理系の夢をぶち壊すところから話が始まります。

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女性差別により、女性一人一人が輝ける可能性が奪われています。

そこで、女性差別をなくせば、女性一人一人が輝けると社会が来ます。

これはその通りですが、こういった見方は静的な見方です。

「女性差別のある社会」と「女性差別のない社会」、二つの状態があれば、必ずそこには変化の過程があり、その過程の中では、女性差別を取り除く作用が社会に向けられています。

そして、上述したように、女性差別を取り除く作用というのは、女性という属性に注目した活動であり、女性一人一人の個性を顧みないという点においては、根本的に女性差別と同質的です。

したがって、変化の過程では主に女性という属性に焦点が当てられ、その過程の中で多くの女性が、本来の目的である、「性別という属性から解放された自分」という本来の目的が無視されているような感覚を抱くのは避けられません。

そして、女性という属性に注目した女性差別撤廃運動の果てに、突然、女性という属性から解放された女性が誕生するのかは難しい問題です。

女性差別をなくせば一人一人の女性が輝ける社会が来るというのはその通りですが、現実には、女性差別をなくそうとする活動が必要であり、その作用が社会に与える影響は、女性の女性という属性からの解放とは逆方向にあるという点は過少評価できないように思います。

違和感への違和感

まず、西部・そごう広告炎上なんかで検索すると、著名コラムニストやら個人ブログやら、様々な記事が見つかり、SNSでシェアされて共感を呼んでいるものも複数あります。

これらの記事はみなこの広告に批判的で違和感を表明しているのですが、それらを読んで、違和感を持ったことが、本当のところこの記事を書こうと思ったきっかけです。

まず、一番おかしいと思った見解から。

上でも全文引用しましたが、この広告には、下記の文書が登場します。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。

この部分の前段の、「今年はいよいよ、時代が変わる。」の部分を、広告主体による断言と受け取って批判している記事が複数あります(Yahooニュースで見れるものも含め)。

これはちょっとびっくり。

どういうことかというと、「今年はいよいよ、時代が変わる。」と言い切っているが、どうして今年は変わると言い切れるのかとか、根拠を示せと、批判している。

それは違うでしょ。

この段落は、動画を見るとより分かりやすいですが、「今年はいよいよ、時代が変わる。」といった言説が聞こえてきたりするけど、それは本当だろうかと、広告主体はむしろ懐疑的に捉えているのであって、今年は時代が変わると根拠なしに断言した上で、突然不安になって疑いを投げかける二重人格者じゃないです。

つまり、「今年はいよいよ、時代が変わる。」というのは、広告主体とは異なる主体による発言の引用です。

これに対して、広告主体とは異なる主体による発言なら「」(かぎかっこ)でくくるべきであり、それがない以上、広告主体の意見ととらえるのが論理的などというなら、受験勉強を実社会に持ち込みすぎ。

次に、これまた複数あるのが、下記の部分への批判。

女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

女であることの生きづらさを報道することは、女性差別を見える化し、解決へのきっかけとなるから、むしろ女性が輝ける時代を近づけるものであり、「女の時代」は遠ざかるとはどういう意味か、間違っているという指摘。

これは、最初とは逆に受験勉強を思い出した方がよくて、問題にします。

【問題】
なぜ、作者は女の時代をかぎかっこでくくったのか説明しなさい。

こう問えば、答えられる人も多いはず。

特段難しいわけでもない言葉をかぎかっこでくくるのは、その用語から連想される一般的な意味とは別の、作者が特別の思いを込めたその用語の意味を読者に伝えたいから。

つまり、この文脈における、「女の時代」とは、女性という属性を持った存在が活躍する時代ではなく、女性が女性という属性から解放されることで活躍する、作者の中での「本当の意味における女の時代」のこと。

女性であることから不当な扱いを受けている人が望むのは、女性という属性に基づく不当な呪縛から解放された社会であり、女性という属性に着目して厚遇を受けたいわけではないはずです。

しかし、報道が女性差別問題を取り上げる中で、女性という属性に注目した言論が増えれば増えるほど、性別という属性に関係なく一人一人の個性が注目される社会とは離れていくという点を主張していて、それは間違ってはいないと思います。

最後。

それは、このパイを投げられている写真が、女性に生まれた時点で罰ゲームという女性の生きづらさを表現していると捉える見解。

パイを投げつけられて、抵抗する様子も見せずに立ち尽くす女性。

そして、文章では、女性差別は社会の構造的な問題であるはずなのに、個人の問題であるかのようにとらえようとする見解が述べられる。

もし、この広告をそう捉えるのであれば、そう捉えた人が怒り狂うのはまあ自然ではありますが、さすがに、昭和の「おしん」じゃないんだから、理不尽な暴力を受けても抵抗を示さず、これは社会の問題ではなく私の問題なんだと捉えて生きるドMな女性を賛美する広告ととらえるのは、批判に前のめり過ぎではないでしょうか。

この続きは、以下で私の解釈とともに述べます。

広告の解釈

昨年後半に更新が滞っていたタロットカードのブログを慌てていくつか更新したのですが、ちょっと無理やり感があって、だいぶ怪しい感じになっていて、迷走中です。

とはいえ、この広告の解釈も結局はデザインの解釈なので、タロットブログのノリで書いてみます、

タロットカードの世界では、赤は意志や情熱のシンボルで、白は純真とか無垢とかのシンボルなのですが、情熱の赤との対比で、中立的という意味で、白が理性を表すこともあります。

そして、これはタロットカードに限らず一般的なイメージとも合致しているような気がするので、援用します。

この広告では、女性がパイを投げつけられています。

そして、女性は赤い服を着ていて、パイは白いです。

したがって、デザイン的には、情熱や意志をもっている女性に対して、理性を象徴する白いパイが投げつけられているという様子を表現していることになります。

もう少し深読みすると、女性は口が開いているので何かを言おうとしたらパイを投げつけられたのかもしれません。

また、パイを投げつけられた結果、パイのせいで女性の顔は見えなくなっています。

そして、赤い女性の服にも白い飛沫が飛び散っていて、服も白く染まりつつある様子も表現しようとしていると踏み込むのもありです。

結論としては、今回の広告騒動は非常に皮肉な話になっていて、西武・そごうは意志・情熱をもってメッセージ広告を元旦に出したのですが、それが理性によって批判される、つまり、白いパイを投げつけられて、立ち尽くすという状況になっています。

女性差別解消運動が、女性の活躍だ、女性の社会進出だと、女性という属性に着目した単なる皮相的なキャンペーンになりつつある現状があって、その流れの中で、女性だからという理由で活躍や社会進出したいわけではなく、女性という属性から離れた「私」を無視して進んで行くかのような現状に違和感を覚えている女性も多く、それを受けて、一人一人の私こそが主役であるというメッセージを発しているんだと思います。

そして、それに対して、女性差別は社会構造的な問題であり、私は私と、個人の問題に置き換える態度こそが女性差別を助長してきたのであり、この広告は問題の本質を分かっていないと、批判にさらされています。

この広告の解釈の最後のピースは、動画にも写真にも一切登場しない、パイを投げる者であり、それは誰かと考えると、それは、この広告を居丈高に批判している人たちということになります。

今回の炎上は、広告を考えた人の思った通りの展開でしょうね。

個人的な感想

長々とこの広告について偉そうに語ってきましたが、実は、個人的にこの広告を見て最初にどう思ったか、快か不快かと聞かれると実は不快に感じました。

でも、それこそが女性差別の温床なんでしょうね。

どうも、乱暴なイメージがして、不快な感情を持ってしまう。

私は、もう若くないけど、飲み会やらパーティーやらでパイ投げをするとなったら、先輩後輩を問わず相手が男なら遠慮なくやりますが、相手が女性ならやらないです。

冗談やゲームであっても罪悪感を感じてしまいます。

森友学園が話題の時、安倍昭恵さんの証人喚問が議論になったときがあります。

その時、田嶋陽子女史が、テレビの議論の中で、首相夫人ではあるけど政治家ではないのだからさすがに昭恵夫人の証人喚問まではやりすぎじゃないかという論調にブチギレていて、その理由は、男の論者を中心とするその言説の中に、女性をか弱いものとして気を遣うムードがあって、それが気に入らないと言っていました。

男だろうが女だろうが、名が出た以上は国会に呼び出してボコボコにしろと。

個人的にこれは、へーと思いました。

もう一つ。

大学のフランス語の教官でK先生という人がいて、私はフランス語が大っ嫌いだったので、講義内容はまったく記憶にないのですが、唯一記憶しているものとして、先生が、異性の美しさは同性愛者にしかわからないという話をしたのを覚えています。

これは、成長する過程で固定観念的なジェンダー観を刷り込まれ、さらに性欲を持った男性に女性の美しさは分からず、凝り固まったジェンダー観から解放され、女性を性欲の対象として見ない同性愛者には、女性の美しさがより分かると。

これは、男女逆でもたぶん同じで、先生は女性でしたが、古代ギリシャの裸のヘラクレスの彫刻を鑑賞したりして、仏文学者として御託を並べながら、心の奥底にあるモヤモヤした感覚に苦しんでいて、その結果として同性愛者に過剰な役割を背負わせようとしたのかなと思います(ごめんなさい)。

卑近な例を突然持ち出して申し訳ないですが、身近な例を出すと、個人が持っているジェンダー観というのは、その根深さに直面して、理性の力で修正して、中立的な立場に立てるのか不安になります。

つまり、この広告を見て不快に思う心の仕組み自体が男性による女性差別の温床だとしたら、難しい問題ですね。

いずれにせよ、写真のインパクトはなかなかなので、これを見て直感的に不快と感じた人がそれを後付けするかのように理屈を並べていたり、直感に抗うことこそ理性の役目と理性人気取って変な御託を並べている場合も多そうですね。

とは言え、私は、好きな小説は『兎の眼』、好きな海外ドラマは『ベターコールソウル』、好きな映画は『True Grit』と、人生の美しさは抵抗するところにあると思っているので、方向は何であれ、社会の風潮に抵抗する個人を応援するよという企業の姿勢には賛同します。

ジェンダートークは全然詳しくないのでこの辺でやめます。

おわりに

新年早々意欲的な広告が炎上しているようなのでコメントしてみました。

最近は毎年ヨーロッパで大変動が起きていますが2018年も大きな動きがありました。

それは、移民排斥運動へのリベラル勢力の合流です。

移民排斥というと、フランスのルペン率いる国民戦線などの極右勢力による運動というイメージが強いですが、実は現在はそうではなく、男女平等、LGBTの権利、外国人参政権などを強く主張するリベラル勢力が移民排斥運動に加わり、右も左もなくなってきました。

なぜかというと、中東やアフリカからの移民の多数派を占めるイスラム教圏の人達は、男女平等やLGBTの権利については真っ向から否定しますから、そんな人たちを大量に受け入れて、参政権など与えたら、リベラル勢力にとっては目指している方向とは全く逆に社会が進む恐れがあるからです。

そこで、自分達が信望している普遍的な価値観に賛同しない者は入国を認めるべきではないと主張し始めているわけです。

まあ、リベラルとか左翼とか、勝手にくくってしまうのは無礼千万でよくないのは分かってはいるものの、リベラル勢力には、女性の権利、LGBTの権利、移民受け入れ、外国人参政権などが大好きな人も多いです。

この広告を許せない人たちは、本当にイスラム教徒に寛容に接することが出来るのでしょうか。

今年はそこら辺にも注目していきたいと思います。