サイトブロッキング問題の深淵


中間まとまらないってなかなかの名言ですね。

はじめに

サイトブロッキングの検討会議がもめにもめていますね。

「ブロッキング法制化」結論出ず 3時間半の激論、政府検討会は無期限延期に

もめにもめただけでなく、政府主催の検討会議であるにもかかわらず、報告書が出せない状況で、座長は、「中間まとめ」ではなく「中間まとまらない」というタイトルの報告書を出すことまで提案したようですが、それでもまとまらず、座長預かりという形の無期延期、つまりフェードアウトになりそうな様子です。

とりまとめ報告書が出せないというのは異例中の異例で、ブロッキングに賛成派と反対派が対立するのは分かるのですが、そこからよくある両論併記という形に落ち着くのではなく、両論併記にすら異論が出されたみたいです。

両論併記したとしても、「一応はまとまりました」という体で報告書を書いたら、こういう議論がありましたという感じで反対意見が有名無実化するに決まってんだろ!、「憲法違反の疑いが強いから法制化しない方向で議論する」という形の結論にしない限り報告書の作成には反対であると、ブロッキング反対派が強硬な姿勢を貫いたようです。

まあ、ここら辺の事実関係は、ニュースを見ていただくとして、なぜここまでもめるのか、一切妥協が出来ないというのはいったいどういうことかという点を考えてみたいと思います。

問題の発端

具体的、特に技術的な部分について私はあまり詳しくないし、海賊サイト自体に興味があるわけではないのですが、私よりこの問題を知らない人もいると思うので、さらっと紹介します。

この議論、漫画の海賊サイト(漫画のデータを違法にアップロードして無料で配布するサイト)を取り締まるために、特定サイトへの接続をインターネットプロバイダに遮断させる法律をめぐる議論です。

私もいい年しているため、漫画の海賊サイトの実態はよく知らないのですが、小中高校生世代の若者は、漫画は(違法サイト経由で)無料で読むという認識が普通で、無料で読めるのになぜお金を払って本屋やアマゾンで買っている人たちがいるのかを不思議がっているそうです。

漫画家や出版社側にしてみればこんな状況はたまったもんじゃないわけですが、海外サーバーなどを使ってやっていて、相手が誰かもわからないし、相手を特定してやめさせたり賠償請求したりするのは、不可能とは言えないまでも現実的にはそれなりに困難ですから、国内のプロバイダ業者に接続を遮断してもらうしかないと考えています。

しかし、インターネットプロバイダが特定のサイトへの接続を遮断するということは、私たち個々のインターネットユーザーがネットサーフィンをする場合に、どこのサイトに接続しようとしているかを常時監視して、特定相手への接続の場合には拒否するという対応をすることを意味しますから、憲法で保障されている通信の秘密の保護の侵害に当たる可能性があります。

憲法で保障された通信の秘密とはいっても、真にやむを得ない場合は(いわゆる公共の福祉のためには)制限が許容される場合もないわけではないわけですが、それほどの事態なのかどうかという点でもめています。

ここら辺の詳細は、ちょこちょこ触れていきますが、私が以下で検討したいのは、ブロッキングすべきかどうかではなく、なぜここま平行線なのか、その本質的な部分です。

平行線の本質

この議論、著作権団体とか出版社などのブロッキング推進派の意向は下記です。

海賊サイトを潰すことが本来的な方法で、ブロッキングが禁じ手に近いことは承知している。しかし、相手は海外サーバーとかを経由してずる賢く立ち回ってくるんだから、海外の法律事務所と組んで現地で訴訟を起こして、相手を特定したり、損害賠償したりするのは現実的には著しく困難で、国内法を作って国内のインタネットプロバイダに特定された海賊サイトへの接続を遮断してもらう方法しかない。そのための憲法の枠内で可能な有効な方法を模索したい。

これについて、反対派の主張は下記。

ブロッキングは憲法上極めて問題がある。ほかの方法を模索すべき。

ちょっとシンプルに紹介しましたが、なぜかというと、私が考えたいのは、主張の内容ではなく、その主張の構造です。

ここで、反対派が、ブロッキング以外に有効な方法がある、Aとか、Bとか、Cとかの方法で十分じゃないかと主張し、詳細な比較分析をして、通信の秘密の保護と違法サイトの取り締まりのバランスを考慮しながら妥協点を探るというなら、現実的な問題対策のための議論という感じで、私も議論に違和感を持ちません。

しかし、実際には、反対派の多くは、ブロッキングなんて駄目に決まってんだろ!という大上段からの理念論が先行していて、補足的に、ほかの方法を模索すべき、という形をとっています。

こういう形式のすれ違い議論を最近よく見るような気がするのです。

片方が現実的な問題を抱えてそれに向けた対策を打ち出したときに、ほかに有効な方法があるという具体的な対案を出して議論するのではなく、そんな方法許されるわけないだろといって抽象的な大前提を持ち出して対立し、「自発的な協力や話し合いによる解決を目指すべき」なんて中身のない対案を添えて、一向に溝が埋まらないという議論。

今回のブロッキングに関する議論もそうなっているような気がします。

なお、最近、とある優秀な弁護士の先生が現地の法律事務所と協力してアメリカで法的手続きを進め、相手方の特定や和解に成功しており、これをもって、ブロッキングしなくても現行法の枠内で対応できることが判明した、ブロッキング法制の立法事実が崩れたと反対派は主張しています。

しかし、権利者側からすれば、本格的ないたちごっこの始まりでしかなく、喜ばしい事態ではあるものの、直面している脅威を取り去るには不十分でしょう。

特に、とりあえず今起きている問題は解決できることが分かったし、立法事実がなくなったんだからブロッキングが必要という主張を撤回しろと迫る意見に関しては、将来を全く見据えていないというか(そもそもそれは会議の守備範囲ではないかもしれませんが)、「とにかくブロッキングはダメなんだ」という理念の先行が透けて見えます。

この、ブロッキングは最終手段であり、やむにやまざる事情がない限りは認められないという前提、そこは疑ってはいけないのでしょうか。

分かりやすい反対派

ブロッキング反対派の中にはハイエク的な自由主義者が少なからずいます(ハイエクは難しいから突っ込みが怖くて安易に名前出したくないんだけど)。

ハイエクというのは経済学者ですが、自由主義者としても有名で、軽々に自由主義の教祖の1人などと言うと専門家のおしかりを受けますが、有名な言葉があります。

それは、自由とは不可逆(一方通行)である、というものです。

これは、何か困ったときに政府や権力者に私たちの自由生活に介入する権利を与えると、与えるのは簡単でも、それを奪うことはもうできないということです。

例えば、我らが日本社会は自由主義ですから、政治活動は自由ですし、軍事独裁党なんていう政党を作って軍事独裁政権の確立を目指して政治活動することは自由です。暴力とかに訴えない限り自由です。

しかし、その政党が政権を取ってしまうと、やっぱり民主主義がいいとなっても、自由民主党なんて政党を作って活動すれば、即銃殺刑です。

つまり、進むのは自由でも後戻りはできないわけです。

今のは架空事例ですが、歴史的な具体例としては治安維持法があります。

日中戦争や日露戦争での多額の出費、急激な近代化から生じた社会のひずみ、追い打ちをかけるような関東大震災とその後の不況。

そういった事態を受けて社会は大混乱で、治安は悪化の一途をたどり、国民の願望を受けて成立した法律でした。

しかし、やがて治安維持法を盾に国家は暴走し、しまいには、政府はやりすぎだぞと治安維持法の撤廃を目指す活動が治安維持法によって取り締まられていきます。

このように、現実のニーズに対応したちょっとした妥協が、取り返しのつかない事態を招く可能性があります。

ハイエクというのは、オーストリア出身の人で、ナチスに祖国を滅茶苦茶にされ、自身も散々な目にあわされた人で、そのナチス政府が民主的に成立し、国民からの信託を受けて権限強化を実現し、国民が気付いたころには、だれにも止められなくなっていたことを目の当たりにしていました。

したがって、戦後の著作では、自由主義を主張し、特に政府の権限の強い社会主義などを強く批判し、政府の介入が期待される局面でも、それが蟻の一穴となることを危惧し、何が何でも小さな政府でいかなきゃ駄目なんだという主張をしました。

こういった感じで考えていくと、ブロッキング問題についても、国家とか公共的な事業者に通信の秘密を侵害する権利を与えるなんていうのは論外という考えになります。

安易にそんな権限を与えたら大変なことになる、一つ例外を作ったら、例外が次々と増え、気づいたら国民が政府の監視下でおびえて暮らすなんて事態になってしまう、国家に権限を与えると二度と後戻りはできず、全体主義国家に向かう道は一方通行なんだ、という考えです。

この通信の秘密(検閲の禁止とセットですが)、自由主義国家の根幹ともいえる制度ですし、過去の独裁政治や恐怖政治とは切っても切り離せないものですから、これへの侵害権限の法制化はいかなる場合であって許すべきではない、ほんのわずかでもそんな権限を国家に与えたら取り返しのつかないことになる、という意見です。

ブロッキング反対派にはこういった古典的な自由主義者もいます(大枠は全く間違っていない)。

反対派の妥協点

とは言え、さすがに、いかなる例外も許すべきではないという主張が主流派なわけではなく、本当にやむを得ない場合はブロッキングのような通信の秘密の制限も仕方がないという意見が普通です。

その妥協点として、分かりやすいのは児童ポルノ問題です。

いわゆるエロ漫画とかではなく、実写の、具体的な被害者が存在するケース。

この場合は、放置しておけば被害者の人生に壊滅的な打撃を与えるケースであり、ネットの場合は瞬く間に広まってしまいますから、裁判所による開示命令によってサイト運営者を特定し、差し止め請求の訴状を相手方に郵送して、なんてやってる場合ではありませんから、さすがにブロッキングもやむを得ないんじゃないかという意見が多くみられます。

特に、天秤の片方が、未成年の将来の人生といっても過言ではない代物ですから、さすがに例外を認めざるを得ないという流れになります。

しかし、漫画の海賊サイトの場合は、保護するのは著作権という財産権。

財産権だって重要な権利ですし、基本的な人権の一つですが、どうしても、表現の自由とか、それを裏側から支える通信の秘密の保護とか、そういった人格権みたいなものの格下扱いされるのが常であり、しかも、財産権であれば、侵害されても後から金銭賠償によって補填可能ということになりますから、児童ポルノ問題とは本質的に異なり、通信の秘密の例外を設けるような真にやむをえない問題ではないという結論になります。

こうやって考えると、実際の検討会議が物別れに終わったのも合点がいく話で、著作権とかいう金銭賠償で補填可能な財産権のために、民主主義・自由主義国家の根幹をなす通信の秘密を制限しようとは何事かという反対派を説得するのは非常に厳しそうです。

こうやって書いてみると、反対派の方が説得力があるわけですが、では現実に発生している問題はどうするのかという問題が残ります。

他の方法を模索すべきと言われても、権利者側からすれば、それが上手くいかないからブロッキングを陳情しているのであって、結局自分達は泣き寝入りするしかないのかとなりますし、どうも具体的な話をする前に、財産権VS人格権的な抽象論で門前払いをされたような感じしか受けないと思います。

これは一体どういうことなんでしょうか。

ここからが本題です。

形而上学は避けられない

形而上学という言葉に関しては、聞いたことはあっても、今一つよくわからないという人もいるかもしれませんが、漢字の当て字が意味不明なだけで、全然難しい言葉ではありません。

これは、人間が知覚できないものを対象とする学問という意味です。

つまり、生きる意味とか、宇宙の本質とか、実験とか観察とかで知覚することのできない対象を考える学問です。

古代のギリシャとかそういう時代においては、家計簿をつける方法とか、麦をたくさん収穫する方法とか、そういった具体的・世俗的な学問というのは程度の低いもので、人間たるもの、人はどう生きるべきかとか、宇宙の果てには何があるのかとか、そういった形而上学的な問題を考えなければならないとされ、知覚できないことを、あーでもないこーでもないとやっていました。

まあ、昔は、宗教がかなり力を持っていましたし、神がいるのは当然の時代ですから、知覚できないことを議論するのは愚かである(非科学的であるとか非合理的であるとか)なんて、誰も言い出しません。

そういう意味では、現代の議論でよくみられる、「そんなのただの宗教じゃん、お前が勝手にそれが正しいと信じているだけなんだから、反論のしようがないよ」といった、発言はありません。

そういったものを追求することこそ学問だったわけです。

そういった流れに一石を投じた人にマルクスという人がいます。

マルクスによれば、人類の歴史というのは階級闘争の歴史であり、いずれは共産主義革命に行き着き地上の楽園が誕生するのは歴史の必然だったわけですが、世界が終わって神の国が訪れるというキリスト教の教えとパラレルにされるのだけは避けなければなりませんでした。

あくまで、マルクス主義は科学であり、「マルクス教」であってはなりませんでした。

そこで、徹底した唯物論的なアプローチをとり、自分達がやっているのは形而上学の議論ではなく、実証可能な科学であろうとします。

その結果、「社会は自然科学的な法則で説明できるのだ」という、ある意味きわめて形而上学的な教義に固執する結果となりました。

マルクス主義はイデオロギーではなく物理や数学と同類の科学であるなんていう主張は、すればするほど宗教臭くなるのは誰もが感じるはずです(学んだこともないお前に批判される覚えはないという批判は受け入れます)。

知覚できないものを排除して「科学的」に議論しようとしても、世の中の全部を知覚できるわけはないので、自分が知覚できる(している)ものだけで社会は説明できるという形而上学的な前提に立たざるを得ないわけです。

もう少しわかりやすい例で言うと、科学を装いがちな分野に心理学があります(心理学者の人ごめんなさい)

例えば、人間の行動について、欲求からアプローチするというのはありがちで、所有欲、権力欲、性欲、いろいろあり、最近では承認欲求なんて言葉をよく聞きます。

物理学者顔負けの大規模実験を行い、その結果について精密な統計分析を行ったうえで査閲ありの論文にまとめて発表なんて、非常に科学っぽいですし、現に、実験によって実証されており、科学的根拠があるなんて主張したりしますが、どうしたって形而上学的な議論は避けられません。

なぜなら、承認欲求なるものは知覚できないからです。

被験者を詳細な行動パターン分析から、承認欲求の強い人と弱い人に分けたりして、客観的なようですが、人をタイプAとタイプBに分けて、タイプAの人はA’の行動をとる傾向があるなどと言ったところで、ただの循環論法です。

ある実験をした結果こうなったよと主張することは可能ですし、その結果を受けて、ニアリーイコールの形で、人間には他者から承認されたいという欲求があるということくらいは言えるかもしれませんが、そこを前提にして、「人間には承認欲求があるから~」云々と始めると、一気に雲行きが怪しくなります。

最終的に、現代人の行動の多くは承認欲求から説明できるなんて所までくると、そう信じたいからそう信じている状態となります。

なにも、マルクス主義や心理学をバカにしたいわけではありません。

ただ、数学とか基礎科学の分野以外では、どうしたって形而上学的な議論は避けられないと言いたいだけです。

そういった意味では、文系的な学問の場合、どんな意見も、知覚できないものを持ち出して結論付けざるを得ない状況があり、そういった点ではどれも究極的には宗教みたいなもので、そう信じているからその結論になるのであって、自分の論理の根底にある、その形而上学的な前提に気づいていない人もしくは疑う余地のない真理として確信している人を説得することは不可能ということになります。

結局すべて宗教か

なんらかの議論の途中に、お前は魂がけがれているから神の声が聞こえないのだと、どちらか一方が言えば、こりゃ駄目だとなり、話し合いは終了します。

しかし、実は、現代社会におけるどんな議論もそれと同じ構造になっているわけです。

移民受け入れの問題に関して、「難民をみて何とも思わないなんてどうかしている」という意見はよく聞きます。

これは、かわいそうな人を見たら助けたいと思うのが人間のあるべき姿であるという、ある意味、人間の本性という、元祖形而上学のトピックであり、「人間の本性は美しい」教という宗教であり、移民受け入れ反対派は「まともな人間」ではないという主張と裏表です。

お前は魂がけがれているから神の声が聞こえないのだという主張と何も違いません。

かわいそうと言っても、地域社会が混乱したり、自分の生活に面倒が増えるのは嫌だという、「結局自分の生活が一番大事」という人間の本性を否定しない人間とは、根本の部分、事実認識のようでそうでない、知覚することのできない、人間の本性とそこに根差した目指すべき社会という形而上学的な理念、ようするに信仰が違うので、どれだけ話し合っても無駄です。

通信の秘密を安易に規制する危険性が分からないのかという主張も本質的には同じです。

人権派の言葉を借りると、人間が「自分の人生の作者」として、自分の人生を自律的に生き、自己の人格を成長・完成させ、自分の人生を全うするためには、他者との自由な触れ合いや意見交換は不可欠であって、それを最大限に保証するのが国家の役割であり、政府や公共事業者が通信を監視・制限するなんて絶対に許されないというのは、その通りのように感じますが、その裏側に、個人と国家に関する形而上学的で宗教の教義的な前提が横たわっています。

背後にあるのは真理ではなく信仰でしかないのがポイントです。

それは、人類普遍の原理なんていえばかっこいいですが、絶対的な真理である保証はどこにもなく、宗教の教義と同じで普遍の原理であると信者が勝手に信じているだけですから、ある意味議論不可能なわけで、そこに気づいてくれないと、議論は一向に進みません。

原則論をしているうちはいいですが、そこから例外を引き出そうとするときに、背後にある信仰的な部分そのものの是非に突っ込んだ議論をしないと、まったく議論が進まないという事態になります。

以下、通信の秘密の保護という人権思想の背後にある、真理のようで単なる信仰でしかない形而上学的な側面を見ていきます。

形而上学と言いたいだけとか言わないでね。

人権思想と難民

通信の秘密とか財産権とか、人権なんてものを対象とする法律論も形而上学的な議論の典型です。

そんなもの目に見えないからです。

しかし、人は生まれながらにして自由で平等で基本的人権を有するなんて、みんな信じています。

憲法の教科書を開けば、人権の前国家性なんて議論が登場します。

これは、人権というのは、人間が人間であるがゆえに当然にして持つものであり、国家によって与えられるものではないという点を強調する議論で、国家よりも前に人権ありという点で、人権というのは前国家的であるなんて言ったりします(社会権とかはさておき)。

そして、個人の人権を最大限に保証するのが国家の役目であり、そのためにやむにやまざる場合には、人権の制約も認められるけど(警察とか)、あくまで国家による人権制約は最小限でなければならないという考えが当たり前のように解説されています。

つまり、まず先に、あらかじめ人権を持った個人がいて、その個人たちが自分の権利を最大限に享受するために国家が後から作られたという考えです。

こうやって斜めから見てみると当たり前なんですが、上記の考えというのは、かっこつけて言えば形而上学的な話で、普通の言い方をすれば何の根拠もない話で、そう説明されて何も疑わずになるほどと思った人達がそう信じているというだけです(歴史的な議論を経ているとはいえ)。

まあ、そうやって、個人主義万歳でずっとやってきて、冷戦にも勝ったし、そこまで問題にもならなかったわけですが、治安の悪化した繁華街の監視カメラ問題とそれに対する人権派団体の反対活動のような話など、なんでもかんでも個人の権利が絶対的に優先というのは違うんじゃないのという考えがいたるところで言われ始めてきたところに、起きたのが難民問題です。

国家というのは個人の権利を最大化するのが役割なのに、最近はテロ対策などを口実に人権侵害ばっかりしてけしからんとか、憲法というのは国家権力を縛るためにある等々、安定した国家で暮らす幸せな私たちが、国家に対して、人権の意義を分かっているのか、人権侵害をやめろと追及している裏側で、国家を失った難民には、自由も平等も人権も何もないという現実が登場しました。

人は生まれながらにして基本的人権を持っているはずで、国家よりも先にそれがあるはずであり、自由や権利は国家の制定した法律によって与えられるものであるなんて大学の期末試験で書こうものなら即落第なはずなのに、国家を失った難民には何もないわけです。

結局、人は生まれながらにして自由で平等で基本的人権を有するといった人権思想も、人権という知覚できないものを対象としている以上、本質は形而上学的な議論であり、究極的には単なる思い込みと同じであり、根本的に宗教と変わらないわけです。

そう信じている人が多いというだけです。

古典への憧憬

上記のような人権イデオロギーともいえる、人権思想は、さらに懐古主義的な色付けをされています。

民主主義の元祖といえば、古代ギリシャの都市国家アテネで、市民が意思決定に参加していました。

しかも、市民が、社会の意思決定に参加する喜びを感じながら、超人的な哲学者たちの影響を受けつつ、国家の方向性をあーでもないこーでもないと議論していたとして、理想の社会のように語られます。

しかし、実は人口の過半数以上が奴隷であり、市民というのは住民の一部でしかありません。

つまり、生活の糧を稼ぐのは奴隷の仕事であり、家事は女性の仕事でしたから、市民というのはすることのない男の大人たちのことで、日々の暮らしの心配のない連中が、国家の方向性について議論していました。

そりゃあ、毎日の生活の心配が無ければ、日々高尚な議論に明け暮れることも可能でしょう。

しかし、今や奴隷制は廃止され、現代社会では、ほとんどの人が日々の生活の心配をしながら生きています。

その結果、税金とか年金とか、経済上の問題が政治上の問題として取り上げられることも多く(というよりほとんど)、政治というのは、国家のあるべき姿を決める場というより、個々の国民の利害調整が主要なテーマです。

とは言え、どうも、民主主義とかについて学ぶ過程で、古代ギリシャをお手本とするような影響を受けている気がしませんか?

消費税や年金の問題に関して、国家のあるべき姿を考えて投票すべきなのか、自分の生活を考えて投票すべきなのかで迷った経験が、選挙に行ったことがある人は誰もがあるはずです。

民主主義っていうのは、個人の利益を追求すればいいのか、それとも、国民一人一人が、良識ある一市民として国家全体の観点から投票しなければいけないのかは、実はよくわかっていません。

しかし、私利私欲を捨てて国家全体の観点から行動するのが美しいといったようなバイアスが誰にもかかっています。

移民問題をとっても、かわいそうな難民を見ても何にも感じないのか、地域社会の混乱とかがどうのこうのとか、自分の生活のことしか考えられないのか、といった論調はよく耳にします。

デモクラシーというのは、民衆政治というのが本来の意味で、扇動されやすい民衆が自分の利益のことを考えて政治意思決定に参加するという点で、どちらかというと悪い意味の単語だったのですが、いつの間にか古代ギリシャへの憧憬とか耳障りの良い「人間の本性は美しいものだ」的なイデオロギーに押され、美しい言葉のようになってしまいました。

そして、現実の私たちは、日々の生活に苦しむ自分と良識ある市民でなくてはならない自分との間で見事に板挟みになっています。

このような、現実的な生活の問題よりも美しい理念の追及が優先しなくてはならないかのようなバイアス。

さらに別のバイアスがあります。

これは、国民一人一人が人の命を顧みず権力者に立ち向かって民主主義を実現したフランス革命などの市民革命を賛美する傾向に見られます。

この傾向を強く受けている法律家の方々は多くて、これだけ民主主義が普及しているにもかかわらず、国家を人権の制約主体として敵であるかのように扱い、憲法というのは国家権力の手足を縛るためにあるものなどとのたまう人も多いです。

国家を捨てると同時にすべてを失った難民問題を持ち出すまでもなく、現代社会においては、国家による様々な積極的な施策なしには生活が成り立たない状況があり、政治家や官僚に対する陳情がやまない状況にもかかわらず、憲法は国家の手足を縛るためにあるなんて、どうしてそんな何百年前の主張を喧伝するのか私は分かりません。

結局、そこも、憲法の本質という形而上学的な議論であり、憲法は国家の手足を縛るためにあるという教義を信じているだけということになります。

法律を学ぶにあたって、その発展の歴史や、現行の法律を支えている思想を学ぶのは結構なのですが、学ぶことに躍起になって、一番肝心な現代社会の課題にどう対処するかを考えずに、古代ギリシャにおける公共意識が高い市民社会や、数百年前の絶対権力者と闘う市民をお手本のように賛美しつつ、所詮は形而上学的な議論であるにもかかわらず、それが絶対的な真理であるかのごとく扱い、現代社会にも適用しようとするどころか、将来にわたっても守り抜こうとするわけです。

いずれも歴史的研鑽を経た議論ですから、説得力はあるのですが、所詮は形而上学的な議論であり、根拠のない思い込みや信仰に近いものですから、絶対的なものとして全身全霊を投げかけるのではなく、その部分を疑う姿勢を忘れてはいけないと思うわけです。

現代社会の課題

ここまで来て、やっと、ブロッキングの問題に帰ってきます。

著作権という財産権のために通信の秘密を制限しろとは何事か、本当に権利者としてできることを尽くしたのか、という意見には、その背後に、これまで見てきたような大きな形而上学的な教義があるのです。

個人の具体的な生活上の問題より、より高尚な、個人の人格権が保障された美しい国家作りが優先するという教義であり、国家による介入は最小限でなければならず、憲法によって国家の手足を縛り、それこそが、国民の最終的な幸せにつながるという教義です。

ちょっと言い過ぎのような気もしますが、出版社や権利者が金銭的な損害を持ち出して、今すぐ規制してくれと叫び、その相手側で理論派弁護士なんかが、通信の秘密の歴史的重要性を説き、民主主義国家の根幹であるなどと説いたときに、資本家VS古代ギリシャの哲学者とはいかないまでも、低俗VS高尚、的な構図を感じない人はいないでしょう。

また、通信の秘密という絶対に侵してはならない権利を安易に制限しようとする資本家グループに対して、また同じ過ちを繰り返す気なのか、歴史から何も学ばないのか、国家に安易に権力を与えてはいけないんだと叫ぶ人たちの熱い想いに動かされる人も多いでしょう。

しかし、個人あっての国家ですが、国家あっての個人であり、そこのバランスをどうするかこそが現代社会の宿題です。

大事なことは、これまで当然のように真理としてきた形而上学的な前提をそのまま維持して、現在ひいては将来の問題に対応できるかなわけです。

もちろん、既存の考えを変えなくてはいけないんだと主張するのは簡単でも、実際には法律実務があり、既存の判例などがあり、それらが一体となって一つのシステムをなしていますから、あれは過去の判例で現代に対応してないから無視して良いとはならず、過去の延長にある現在の法律論で議論しなくてはいけないのは分かります。

いきなり大転換はできません。

しかし、ブロッキングに関して、別の方法との詳細な比較分析とかをするのではなく、ブロッキングは絶対にダメなんだという大上段の理念的な攻撃を仕掛けたなら、その裏側にある人権思想の形而上学的な前提に関して、これまで通りに維持して、今直面している問題や将来起こりうる問題に有効に対応していけるのかも議論してもらいたいと思っているわけです。

大事なことは、現代社会の現実の中で一人一人の幸せを最大化することで、これまで当然と思われてきた美しい教義をそのまま維持すれば、どんな時代でも個人の幸せが自動的についてくるのでしょうか。

プライバシー権の見直し

唐突ですが、結局本丸はプライバシー権なんでしょうね。

プライバシー権について、自分に関する情報をコントロールする権利とか主張している先生がいますが、本気で言っているんでしょうか。

前にも別の記事で書いたかもしれませんが、なんかのデモで、参加者が、ツイッターやらFacebookやらで、今デモやってます!みんな参加してくださいなんて、情報発信しまくっているのに、先頭では有志の弁護士グループが行進して、カメラを向けた警察に対して安保闘争かなんかの時の判例を持ち出して、肖像権の侵害だとかなんとかやったらしいですが、なんだかよくわかりません。

SNSの全盛や、多くのアマゾンユーザーがリコメンド機能をありがたがっている状況で、人間には自分に関する一切の情報をむやみに収拾利用されない権利があり、それは人が生まれながらに持つ絶対的な権利だみたいな議論が現代でも通用すると思うのは現実感覚がずれていると思うのは私だけでしょうか。

国際テロ行為やITを利用した詐欺の脅威、さらにはSNSの隆盛や一部の先進IT企業による個人情報の利用による生活の利便性の向上など、プライバシーに関する国民の意識が大きく変わっているにもかかわらず、既存のプライバシー権の思想を支えてきた理念を盲目的に維持することの意味自体は考えなくていいのでしょうか。

それでこれからの時代を切り抜けられると思っているんでしょうか。

もちろん、大企業に勝手に個人情報を収集利用されるのは反対だし、事実上仕方がないなんて言ってむやみに妥協する気はありません。

しかし、個人情報の収集は一切禁止なんだという理念を貫き通すより、収集情報、その情報の利用方法、その情報にアクセスした者などの公開を義務付け、それを中立な第三者機関が監視していく方向で議論していかないと、情報の利用による利便性の向上が一部のプライバシー原理主義者によってすべて潰され、結局社会のためにならない気がするんですよね(珍しくちょっとテクノクラート寄りだけど)。

どうするのが社会にとって最適を考えていくことが重要で、美しい理念を盲目的に貫くことではないでしょう。

スマホをスワイプするときに画面のどこにタッチするか、スワイプする幅、スマホを持つ手の震えの3つから個人が特定できる時代に、既存のプライバシー権の維持は不可能ですよ。そもそも、何が個人情報とするかのところで絶対に定義できなくなって、管理不能になるのが目に見えています。

実は通信の秘密もそうで、今インターネットをやっている人の多くは、自分がどのサイトにアクセスしたかがプロバイダ側のログ(記録)に残っていることくらいは、誰だって承知しているでしょう(秘密保持は絶対だとしても)。

もともと記録自体は存在しており、裁判所とかの命令があれば警察とかにチェックされても仕方がない状況ですし、ほとんどの人がそれは受け入れているのにもかかわらず、特定のサイトへの接続をブロッキングすることイコール接続を常時監視することであり、通信の秘密の侵害であり、事実上の検閲だと、戦前戦中のような文脈で語られても、まったくピンときません。

理念貫徹を追求した結果、制御不能になって社会が大混乱になる前に、個人のプライバシーを出来る限り守りつつも、海賊の氾濫を防ぎ安定した社会全体の維持も考えていかないと。

通信の秘密の保護は財産権より上位に位置する人権だ的な抽象論で乱暴に解決するのではなく、個々の課題ごとに真正面から具体的な利益調整を議論していく必要があるのではないでしょうか。

おわりに

久しぶりに長文記事を書いてみました。

途中形而上学を連発していて、言いたいだけ感満載ですが、まあお許しください。

ブロッキング反対派の主張はすごくわかるのですが、その展開している憲法論の裏側にある大前提をこれまで通りに貫いていいのかという議論がない点に不安を覚えます。

繁華街の監視カメラ設置についてほとんど国民が賛成しているにも関わらず一部の市民団体が強硬に反対活動したりしますが、そのロジックと、ブロッキングは最終手段という思想が基本部分で同じものであるとしたら、その根底にある理念を疑わないと到底、これからさらに加速する情報化社会についていけない気がします。

IT空間の治安の悪さは、繁華街の比ではありません。

自分達の展開している法律論の裏側にある理念について、何の疑問も持っていない人ならすぐに専門家を名乗るのをやめてもらいたいですが、そうではなく、そこに形而上学的な、本質的には宗教上の教義と変わらない理念があることに気付いているなら、その理念を今後も維持することが有効なのかどうかをしっかり議論してもらいたいです。

まあ、我らが日本国憲法の前文には、「人類普遍の原理」なんて言葉が登場しますが、本当ですかね。

そんなものあるんでしょうか。

まさに宗教的です。

なによりも、本屋に行って憲法とかの本を読んでみてほしいのですが、あそこに書いてるプライバシーの権利の個所をみて、期末試験とか国家試験があるから仕方がないのかもしれませんが、なるほどねなんて言いながら疑問に思わずに覚えている若者がいて、法律家になったりしているとしたら、そっちの方が怖い。

そう意味では、結局教育か。

参考文献

今回の記事は、下記を大いに参考にしました。というより、下記を読んでいて、頭のいい人だなと大変感心していて、何とか感想文を書こうかなとしていたときにサイトブロッキング問題がニュースになったのでそこを無理やりつなげています。

かなり受け売りのところがありますが、例のごとく読解力のなさを棚に上げて自分流に解釈もしているので、ご容赦ください。

なお全部面白いです。ちょっと偏屈すぎる気もしますが。

あと、もちろん、現代社会で海賊という言葉を使うなら、海賊と資本主義も必読だと思います。

既得権益VS海賊で、海賊を叩けばいいってもんじゃありません。しかし、社会の安定という視点も大事だと思います。


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