2018年3月26日の日記


3月26日の日記です。

どうも最近日記をさぼっていてすいません。

実は、没にした記事が2個あって、書いた後に読み直したところ、怒りに震えている自分しか見つからず、虚しさしかなかったので止めました。

まず、内田樹(「たつる」と読む)さんが先日、『受験生の皆さんへ』というひどい文章をネットに上げていて、それを素晴らしい文章などと崇拝している人たちが多数いたので、何言ってんだと思って書いた記事。

この記事は異常に長くなったので消しました。

『受験生のみなさんへ』のリンク

次に、今話題の、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んでの感想。

この本がベストセラーになっているということで読んでみたのですが、正直、何言ってんだこの人はという感想で、これまた怒りに震えて記事を書いたのですが、そうはいっても相手は東大の教授でしかも数学者ということで、批判を書いててむなしくなってきたので止めました。

とはいえ、せっかく言いたいことがあるのだから、日記のふりして書きます。

両者に言えるのは、二人とも、いわゆる知識人の典型。

卑怯の一言。

まず、内田樹さんの方から。

まあ、右翼とか左翼というのは、もう何が何だかわからないわけですが、保守派と革新派ないしは進歩派というとまだわかりやすい。

この左翼とか革新派とか進歩派という人たちは分かりやすくて、内田さんがこういったくくりに入るかは微妙ですが、理性とか知性を信じている。

その結果、手のひらの上で世界を組み立てるかのように、理性や知性を駆使して、美しい世界を設計し、組み立てていこうとする。

それができると信じている。

それに抵抗を示すのがいわゆる保守派。

保守派というと、伝統や歴史を重んじる立場ということになりますが、反革新派ととらえる方が分かりやすくて、理性やら知性で理想な世界を描いたところで、人間の知性というのは大したことなく、そんなにうまくいかないだろうから、現状を大事にして行こうという立場。

ここで、現状の歴史や伝統それ自体が美しいなどと、自分たちの持つ文化それ自体に絶対的な美しさがあるかのような主張をしだすと、いわゆる右翼ということになってしまいますが、多くの保守派というのはそこまでではなく、保守派の一番の核心は、急激な変化ほど社会に混乱をもたらす害悪はないと考える点。

そこの理論的支柱に関して、なんだかんだ言いながら伝統や慣習は過去の知恵の集大成だという歴史へのリスペクトを重視するか、革新派知識人の言うようにうまくいくわけないだろという人間の知性への不信感を重視するかで流派は二つに割れてしまいますが、社会はこうあるべきなんだとかを声高に叫ぶのはやめて、伝統・歴史を大事に、社会を変えるなら少しずつ変えていこうという立場。

しかし、革新派の言うようにうまくはいかないという根拠の根本に、一部のインテリは社会の変化についていけても、多くの一般人は慣習やら自分の育った思考様式から離れられないから急激な変化は社会に混乱に起こすだけという、人を二種類に分けた上での一般人下げがあるので、庶民からは意外と嫌われます。

その反面、革新派・進歩派の主張は、みんなでこういう社会にしていこうよというポジティブシンキングしかなく、インテリとそれ以外に線引きをしたりはしませんから、一般受けは非常によい。

さて、そういった革新派知識人たちのよる社会設計の一番最たる実験が旧ソ連だったわけですが、ものの見事に崩壊しました。

みんなで一生懸命働いて富を分け合って差別のない自由な社会を作ろうとしたわけですが、手を抜いても食い扶持に困らないということで、当然働かないやつが出てくる。

このままじゃ駄目だとなって、結局は一部の優秀な人間が監督者として睨みを利かせ、その他大勢を強制的に働かせることになる。

しかし、当のその他大勢としては面白くないわけで、一体あのふんぞり返っている特権階級の連中は何なんだとなって、数に物を言わせて暴動をおこし、結局制度が崩壊。

ただ、知識人達は、どうしても、制度に甘んじて働かないやつが出てきたというところ、特に、ほとんどの国民がそっちを選んだという現実を直視しない。

人の理性を信じたり、人間の協同を美しいと言ったりする人たちだから、人間の本性みたいなものについては、絶対に言及しない。

トランプ大統領を批判したり、批判した芸能人を勇気があると称えたりはしても、トランプ大統領に票を入れた国民については、絶対に批判しない。

トランプはバカだとは言うくせに、選んだアメリカ国民の過半数がバカだとか、アメリカ国民の過半数は正しい判断が出来ないかわいそうな人たちだとかは言わない。

民主主義が機能不全に陥っているとかなんとか、巧妙に論点をずらします。

選ばれた人を批判して、選んだ人を批判しないというのはおかしな話の気がしますけどね。

内田さんの文章も同じで、教育制度をひたすら批判します。

あたかも、教育制度の設計次第で国民がどうでもなるかのように語ります。

現在の日本の大学のレベルが落ちていることの理由に、教育制度の設計ミスだと言い切ります。

どう考えても、もし学生や研究者のレベルが落ちたとしたら、その根本原因は、学生や研究者が勉強しなくなったからです。

そして、皆自分の意志でそうなったのであって、基本的には制度のせいではありません。

一応は自由主義社会ですからね。

しかし、制度のせいで国全体の科学力が落ちたみたいな全体論をするだけで、個々の学生や研究者自身の姿勢に言及することはないわけです。

自由主義社会を維持する限り、教育だけでなく、経済もそうですが、政府にできることなんてたかが知れていて、どう設計したところで、残念ながらそんな大した影響はないです。

社会が豊かになって、ハングリー精神をもって勉強している人が少なくなりました。

その一方で、インドなんかでは、グーグルのピチャイCEOに憧れる貧しい子供たちが、這い上がるには数学で優秀な成績をとるしかないと、屋根のない教室でぎゅうぎゅう詰めになって勉強したりしてます。

しかし、インドでは、数学至上主義で、歴史とか地理とかの勉強は見向きもされません。

中国なんてすごくて、中国人の友人がいる人は分かると思いますが、みな、日本の学生生活を羨ましがっています。

小学校や中学校では、体育や美術の時間はありますが、担任が勝手に潰して英語とか数学とかに当てます。クラブ活動なんてありません。

あの国でサッカーをしたいのであれば、将来国旗をつけてサッカーをプレーすることを目指す覚悟と才能を認められなくてはなりません。

また、理系であれば、バイオとITの分野にかなり強い力で誘導されます。

もちろん、日本だって、人並みの生活をするために勉強するというハングリー精神を持った子が減ったとはいえ、宿題やってこない子供をひっぱたいて、落ちこぼれを放置して、強制的に数学や物理などの勉強をさせれば、従来の水準は維持できるでしょうけど、そうしたいのでしょうか。

そういうのに思いっきり反対の立場のくせに。

その一方で、アメリカのように、二極化上等で徹底的な自由競争社会にするのも反対。

それじゃあ、中国やインドやその他アジアアフリカ諸国が対応しているなかで、日本が従来と同じプレゼンスを示すなんてできるはずがないです。

うまく誘導すれば、自主的に勉強する子に育つなんていうのでしょうけど、そんなことあるわけなく、平均値でみたら、全体主義国家か貧しい国家の半強制的な教育制度の結果に絶対に勝てるはずがない。

勉強しないでもそこそこの生活ができる社会で、熱心に勉強する子供なんて少ないに決まっているし、そんなのは子供じゃなくて、成長した大人を見れば一目瞭然の事実。

ただ、ここら辺からどうしても眼をそらす。

政治家のレベルが低いのは国民のレベルが低いから。

政治家に人格者がいないのは、国民に人格者が少ないから。

こんなの当り前なのに、卑怯だから、口に出さない。

その一方で、上手く制度設計すれば、国民皆がロボットのように思い通りに動き出すと思っている。

そういう前提で考えるから、今の社会の問題を見ると、現状の制度に問題があり、一部のバカな指導者のせいでこうなってしまったという結論にしかならない。

そして、官僚がー、政治家がー、とただ権力サイドを批判するだけ。

百歩譲っても、戦後からはこの国は民主国家です。

にもかかわらず、過去の政府も現在の政府も民主的に選ばれていて、国民の意向を受けて政策が決まっていることは無視して、一部の権力者が制度設計して、その過ちゆえに現状があると考えます。

内田さんの文章の中にも、現場の教師は優秀なんだけど、行政の問題で、力が発揮できてないとかなんとか・・・。

古代ギリシャの哲学者であるプラトンは民主主義に非常に懐疑的で、一般市民に選挙権なんてものを与えると、もっと権利をもっと自由を要望が止まらなくなるだけでなく、それに応えることが出来るかのような演説をするペテン師が出てきて、しかもそんな連中が実際に選挙でえらばれることになり、国家はめちゃくちゃになるなんて言っています(佐伯先生の受け売り)。

フランス革命も、盛り上がって専制君主を倒したのは良いのですが、そのあと民主主義社会になって、幸せな時代が来たのかと言えば、そんなことはなく、市民勢力内部の内ゲバに次ぐ内ゲバで、ジャコバン派とか恐怖政治とか、世界史でおなじみの大混乱になって、最終的にナポレオンが軍事クーデターで国家を統一します。

フランスはこういった経緯をたどりますから、当時の現実的な知識人たちがそれを指をくわえて見ていたかというとそんなことはなく、民主主義の選挙制度というのは、民意を如何に国会に持ち込まないかの工夫の歴史です。

これは、今の日本憲法だってそうで、43条に、『両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。』とあります。

ここで、「選挙された」という文言と、「全国民を代表する」という文言が肝です。

国会議員は選挙でえらばれる以上、選挙区の有権者との対話が大事なのは当然なのですが、あくまで、全国民の代表であり、選挙区の代表ではないとわざわざ言っているわけです。

つまり、国会議員というのは、自分を選出した選挙区の有権者の意思に縛られる必要はなく、あくまで全国民のために、自分の信念に従って行動してよいとされているわけです。

こうやって、民意がそのまま国会に持ち込まれることを遮断しています。

そういう意味では、小泉内閣の郵政解散というは、絶対やっていはいけなかったことの一つで、参議院で否決されたからと言って、衆議院を解散するとは何事だと、一部の人たちが怒っていましたが、それも当然。

郵政民営化の是非はさておき、重要なことを国民に聞いて何が悪いんだという話になってしまうから厄介なのですが、国民の衝動的な感情を国会に持ち込んで良いことなんて何もいいことないわけです。

しかし、知識人達は、民主主義は美しいとか、そういうよくわからない考えを持っていますから、内心ではいろいろ思っているのに、国民に問うこと自体への批判は口にしません。

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国民に選ばせた結果、国が間違った方向に行ったとは口が裂けても言いません。

ここの矛盾を意図的に無視しているせいで、結局は声を大にして、既存の権力や制度を批判するだけになります。

国に問題が生じているのであれば、全部、国民一人一人のせいです。

制度の影響があるとしても、その制度を設計したのは、一部の権力者ではなく、一人一人の国民です。

制度を批判するなら、根本的な民主主義という仕組みそのものまでさかのぼっていく必要がありますし、結局は国民一人一人にたどり着かないと、地に足付いた議論にはなりません。

そこを無視して問題の克服は遠いでしょう。

1月に残念ながら西部邁先生が自殺してしまいました。

このニュースを聞いて、評論家なんて全員死ぬべきだと私は思いました。

言葉に命を懸けると決めたなら、自分の言葉が通じないのであれば、死ぬべきです。

その覚悟がなく、社会を批判しながら、自分の信者に本を売って、大学教授だとかなんとかの地位に甘んじて、笑顔で死んでいくのであれば、俗物中の俗物なんだから、高尚ぶるのはやめて、政治家になって権力闘争の泥にまみれて、社会を自分の信じる方向に一歩でも近づけるべき。

文章の中で、内田さんは下記のように言っています。

日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。

一言で言うなら、お前が言うなです。

社会学や歴史に関する知識も、社会を分析する洞察力も、将来のビジョンも持ち合わせているのに、一方的に情報を発信するだけの立場に固執し、同業者との議論に明け暮れ、政治家などになって自分と異なる価値観を持つ人間たちと闘うことを一切してないお前が言うなです。

また、ここの部分は、日本人の日本人である本質に係るところで、学校教育がどうあれ、変わらないと思いますけどね。

教科書や指導要領を変えると、突然アメリカ人みたいな人間が社会に出てくるんでしょうかね。

いじめも、学歴社会も、受験戦争も、大学の低迷も、制度設計の影響もあるでしょうけど、私たち日本人に、それが人間だからか日本人だからかはさておき、国民の一人一人に社会をそういう方向に向かわせる原因があるんですよ(もちろん時代の流れを受けて)。

制度、正確にいうと、今の制度を作った一部の悪者のせいじゃないです。

さらに、この文章、最後がひどすぎる。

ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。ご健闘を祈ります。

受験生へと称して、受験生以外の大人の視線を気持ち悪いくらい意識した政府批判を延々としながら、最後に、本来の名宛人たる受験生に対しては、主体的に頑張ってね、みたいな。

何を言ってるんだこの人は。

結局、この人の周りには頭のいい人しかいないわけです。

この人自身が、頭がよく食い扶持には困らない知識人の仲間内で語り合うだけの生活をしてきたわけです。

片手の上に現世界をのせて分析したり批判して、もう片方の手には理性やら知性やらで理想的な世界を描いて、比較してあーでもないこーでもないと。

完全に、社会が自分の住んでる現実世界から離れた単なる頭の中の分析対象でしかなくなっていて、今ある制度・社会はみな、民主主義に基づき、変動する社会の中で国民が一喜一憂揺れ動きながら自らの意思で作り出したものという当然の前提を忘れてます。

その結果、若者に対しても、最終的には主権者たる自分達が社会を作り出すんだぞというアドバイスではなく、社会がさも誰かから与えられるものであるかのごとく、これからはこういう社会になるから、その中でうまくやってねというアドバイスになるわけです。

この点ある意味でホリエモンは正統派です。

若者に対して、君たちは、バカな大人たちが作ったバカみたいな教育制度のせいで洗脳されている、そのバカな考えを捨てない限り、未来はないと、ハッキリ言います。

社会の変化を所与として、その一部としての生き方指南ですが、主張の是非はさておき、社会を作り出しているのは自分たち自身であるという前提がはっきりあって、反対意見を持つ人たちに対して真正面から喧嘩を売っていて、非常に民主主義的な態度です。

しかし、内田さんの場合は、社会が一部の権力者たちによって作られる器とその中で生きる庶民の二極構造であるかのような構図を前提として、おかしな制度設計のせいで国がおかしくなってしまったと、延々と制度批判を繰り広げて、本当のところその制度を作ってきたのは主権者たる国民自身であるという点に一切触れずに、にもかかわらず、最後のところだけいきなり、これからは主体的に生きるのが大事です、みたいな。

主権者が国民であるという一番大事な点を巧妙にぼかして作り上げた理屈です。

そして、最後の結びとして、「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」、それで行けなんて、徹頭徹尾聞こえが良いだけの文章の末尾としては上出来ですが、これが通用するのは、一部の頭のいい子だけ。

問題は、これが通用しないその他大勢の子の話(また、社会での成功は運不運の要素も大きい)。

そういった子たちを、机に縛り付けて横一線の優秀な平均層を作ったところで、物的に豊かになった日本ではあまり意味がないし、また、中国をはじめとするハングリーないし全体主義国家に勝てるはずはもない。

しかも、Youtuberなり、プロゲーマーなり、アフィリエイターなり、勉強ができない子供たちでも、従来のようにスポーツ選手やヤンキー経由の起業家になる以外に、様々な分野で活躍する可能性が増えている。

そういった、選択肢が増えている状況とはいえ、保守的で安定志向で序列好きの国民性ゆえに社会自体はなかなか変わらず、一歩間違えれば、真っ逆さまに転落して、学歴差別などで這い上がれない社会が当分続く。

持って生まれた個性を生かして自分だけの可能性を伸ばすのと、時代が変わってもなかなか変わらないコンセンサス重視社会の中での生活、それらに平均的な子供たちがどう折り合いをつけるかこそが問題。

頭のいい子は、放っておいたって勝手に上手くやる。

しかし、一部しかおらず、頭がいい子には入らないその他大勢の子がいる。

世の中には二種類の人間がいるなどと言ってしまうとその他大勢の人から嫌われるからと言って、誰もが自分の夢やら好きなことを追求して食っていけるかのように語るのは、本当に卑怯者の極み。

自由主義社会の中で、社会も豊かになり、インターネットだゲームだと誘惑も多いわけで、子供が勉強しなくなるのなんて当然。

こんな社会で、机にかじりついて勉強しているだけの人なんて、天才以外将来ものにならないと思います。

また、机に縛り付けて勉強させたところで、昔と違って、それほど意味があるとは思えない。

勉強力より、行動力の重要性がますます高まっていることは間違いないです。

しかし、勉強は大事。基礎が無ければ、大人になってからの自主的な勉強が出来なくなる。

それに、学歴社会も当分は変わらない。

若いうちは意味が分からなくても、やっといた方がいいので、騙されたと思うか義務と思うかは別にしてやっておいた方がよい。

学歴社会は、制度設計の結果としてなった側面が多分にありますが、日本人はそういった序列化が大好きで(社会の調和に有効ともいえるし)、日本人が日本人である結果としてそうなった部分があるので、当分変わらない。

結局、勉強はやっておいた方がよいではなく、嫌なでもやらないと後々大変なので、やらないとだめです。

しかし、面白いと思ったことを実行に移す環境が昔と違ってすごい充実しているので、起業なり、ゲームなり、Youtuberなり、思いついたらとりあえず、実行することも重要かと思います。

自分の持って生まれた才能や個性を生かして生きていくことほど楽しいことはないです。

しかし、好きなことで勝負できでればそれに越したことはないけど、多様性の中では、多様性が増えれば増えるほど、超とがった人以外では、共通の物差しは重視され、学歴はまだまだ重要な要素になる。

結局、趣味、勉強、スポーツ、全部やった方がよいので、あまり意味を考えず、どう折り合いをつけてやりたいことや嫌でもやらなくてはいけないことを全部やるかを考えるのが重要かと思います。

これが私から受験生へのメッセージ。

それにしても、今の時代、勉強しなおしたいと思ってる大人は多いんじゃないだろうか。

ここまで情報があふれると、自分で判断するためのベースの足りなさが気になって仕方がない。

私はこれは、正常な流れだと思います。

子供の教育制度の終わらない議論に時間を使いすぎないで、大人が勉強しなおすための環境を整えてほしい。

国立の大学の授業なんて、全部Youtubeで流してほしい。

大したコストじゃないでしょうに。

そして、誰もがいつでも勉強しなおせる環境にしてほしい。

これからの時代に社会の活力を高めていくためには、7歳から22歳までは勉強して、それい以降は学者になる人以外働く、みたいな画一的な制度をやめることが一番重要で、いつでもだれでも、勉強したくなった時に勉強するのが本流という制度にしてほしいですね。

もちろん、それは政治家がするのではなく、我々大人たちが政治家を通して実現しないといけない。

そのためには、子供の教育制度を変えるのではなく、大学に行ったり、勉強しなおす、30代、40代、50代が増えることが一番重要なんじゃないでしょうか。

大人が勉強に夢中になれば、教育制度がどうあれ、子供も勉強するのようになると思いますけどね。

勉強したくなったらいつでもするし、できるという環境が重要。

そして、勉強しつくした頭のいい人は、批判ばっかりしてないで、政治家にでもなって社会を変えてください。

一気に書いたので、途中脱線しすぎて、本当に脱線していますし、「制度」なるものの影響に関しては揺れ動いていますが、ご容赦ください。

マンガを読んだりや音楽を聞いたりすると、若い才能はちゃんと育っているとは思いますけどね。