議論のあり方を考えてみます。
はじめに
最近、芸能人による政治的な発言がよく話題になります。
まあ、私も心の底では、どうせコロナで暇なだけだろとは思います。
とは言え、暇だと興奮しやすい人も多いらしく、政治的発言をした芸能人に対して、無知無学の芸能人のくせにやめろと怒り出す人がいたり、それを受けて、そういう発言は許せないと怒りだす人もいたり、相変わらず、SNS上では暇人たちによる「熱い議論」が繰り広げられているようです。
ということで、「芸能人はバカなのか」という命題について考えてみます。
芸能人はバカ派
芸能人はバカであるという主張をする人はどんなことを言ってるのでしょうか。
やはり一番多いのは、SNS上での具体的な発言を並べて、「ほらバカばっかりじゃないか」というものでしょう。
また、ハッシュタグのみでツイートするのが政治的意見の表明とは笑わせるなという意見があります。
他にも、法案などを読んでから発言しているのか的なツッコミが入ったときなどに、自分の言葉で反論できないのはバカだからととか。
いずれにせよ、「バカ」な人物や発言を列挙するものが多いでしょう。
芸能人バカじゃない派
他方で、バカじゃない派の意見はどうでしょうか。
よくあるものは、やはり、具体的な人物や発言を上げて、この人の意見はいつも参考になるといったもの。
また、ワイドショーなどに出ている人は、ちゃんと勉強しているし、また、番組を通じて専門家とコミュニケーションをとっているから、それなり知識も身に着けているという意見。
つまり、「バカじゃない」人物や発言の存在を挙げるものが多い。
結論
結論は、当たり前ですが、芸能人にはバカもいればバカじゃない人もいるに決まっています。
つまり、上述の口論は、議論と呼べるものではなく、単なる水掛け論です。
確証バイアスのぶつけ合いです。
誰だって、飛行機に乗ったときに、もしこの飛行機が墜落したりしたらどうしようと不安になったことはあるはずです。
もちろん、だから飛行機に乗らないという人は稀でしょうが、誰もが、世界中のフライト記録から割り出した墜落確率から算出される、合理的な心配以上の心配をすると思います。
このように、もしかしたらこの飛行機は墜落するかもなどの仮説を立てたときに、それを裏付けるような、自分に都合のよい情報ばかり集めてしまい、冷静な判断ができない傾向が人間にはあると言われていて、そのことを確証バイアスと言います。
買わなきゃ当たらないと言って宝くじを買うのも同じこと(批判しているわけではない)。
そういう観点から見ると、上述の2つの見解は、それぞれの意見に都合の良い情報を並べ立てているだけで、自己の主張の「エビデンス」たり得るものではないので、そもそも議論と呼べるようなものではありません。
「自分はバカな芸能人をたくさん知っている」、「自分はバカじゃない芸能人をたくさん知っている」という意見のぶつけ合いは、何の意味もありません。
一般論と偏見
では、「芸能人はバカである」という命題を証明するにはどうしたらいいでしょうか。
これは、命題を修正する必要があって、「一般論として芸能人はバカである」としなくてはいけません。
それをどうやって証明するかですが、その前に、一般論と偏見という議論をする必要があります。
何かというと、一般論を述べると必ず各論で反対してくる人が出てくるという話です。
「日本人はアメリカ人より背が低い」と言ったりすると、「それは人それぞれでしょ」などとおかしな反論をしてくる人というのが、世の中には少なからずいて、議論を迷走させます。
もちろん、日本人は全員背が低いと言えば、それは偏見という不快なものですから、人が嫌悪を抱くのは当然ですし、否定されるべきものです。
しかし、「一般論として日本人はアメリカ人より背が低い」という命題は、両者の平均身長を比較すればいい話で(分布はさておき)、差も1mmとかそういうレベルではないですから、証明可能です。
なお、一般論としてなんて付け加えなくてもわかる人にはわかります。
もっとも、身長のように客観的指標かつデータが存在する状況であれば証明可能であっても、「一般論として芸能人はバカである」となると、いろいろと難しいです。
そもそも「バカ」なる特徴の定義自体が難しいです。
「一般的に」と言えるくらい幅広く支持されるような「バカ」の定義は無理でしょう。
また、仮に定義できたとしても、芸能人全員にテストすることは現実的ではありません。
このように、一般論として「芸能人がバカである」ことを証明するためには、まずバカの定義を決めて、更に、少なくとも全芸能人中の少なくとも過半数がバカであることを証明しなくてはいけません。
そして、そんなことはできません。
つまり、「芸能人はバカである派」への一番適切な反論は、証明が出来ていない点を突くのが正しくて、特に、相手が何らかの主張をしていたら、確証バイアスに基づく都合の良い情報の列挙と証明の区別がつかない愚か者であることを主張すべきです。
くれぐれも、「お前の意見は間違っている、誰々さんは賢い」なんて反論はしてはいけません。
同じ穴のむじなとなります。
政府のコロナ対応の是非
屁理屈を並べましたが、もちろん、芸能人がバカかどうかを議論したいのではありません。
命題を変えて、「政府のコロナ対応は適切であったか」にしてみます。
まず、個別に見ていけば、いい対応もあるでしょうし、良くなかった対応もあるでしょう。
したがって、「政府の対応は良かったと思う、なぜなら医療崩壊を防いだから」とか「政府の対応は悪かったと思う、なぜならPCR検査数を最後まで増やさなかったから」などと言うのは、上述の「芸能人はバカなのか」という議論において、「エビデンス」として具体的な芸能人の名前を挙げるのと同じで、確証バイアスの相互披露でしかなく、議論ではありません。
もちろん、相互に、「たらいまわしにされる人も出てきており実質的に医療崩壊している」とか、「PCR検査を増やしても意味がない」などと反論し合うのは、愚に愚を重ねる所業です。
すなわち、一般論として「政府のコロナ対応は適切であったか」を議論するのであれば、まず最初に、「何をもってすれば総論として適切と言えるのか」、「その判断基準をどうすべきか」を決めなくてはいけません。
続いてその基準を満たしたことを主張する必要があります。
これに対する反論は、基準が恣意的でおかしい、もしくは、基準には同意するがその基準を満たしていない、というものです。
そこを主張しない反論はおかしいです。
例えば、「人口当たりの死亡者数が海外と比べて非常に少ないから、総論として、日本政府のコロナ対応は適切だっと」と言えるという主張は良い主張です。
しかし、それに対して、「いや、PCR検査数を増やせばもっと抑えることができたであろうから適切とは言えない」というのは、悪い反論です。
なぜかというと、適切かどうかについて、異なる基準を用いており、反論になっていないからです。
つまり、「医療水準や福祉環境が外国とは違うのだから諸外国と数字を比べるだけでなく、おかれた環境の中で最善を尽くしたかどうかも加味すべきである」などと、相手の判定基準自体を攻撃することなく、「PCR検査がどうのこうの」という各論を主張するのは、「一般的に日本人はアメリカ人より背が低い」という主張に対して、「いや、背が高い日本人もたくさんいる」という反論をしているのと同じです。
一般論に対しては、判定基準と証明過程の2つを攻撃すべきであり、各論は反論になりません。
各論だって大事ですが、総論に結びつかない各論の応酬は無意味であり、総論でまとめることが大事です。
そして、総論には、正しい主張の仕方があり、また、正しい反論の仕方があります。
つまり、どれだけエビデンスや科学的根拠があるとしても、それが証明している主張自体が無意味な場合があるということです。
終わりに
芸能人の政治的発言に対しは、どんどん言えばいいという論調があります。
私も賛成です。
芸能人だろうがなんだろうが、誰だって言いたいこと言えばいいと思う。
しかし、政治に興味を持つことが大事的な、どんな意見も同じ一票として同じ価値を持つという意見には反対です。
というより、それは間違っている。
選挙において当選者を選ぶ過程における影響力という点においては、確かに、一票の価値は同じです。
しかし、政治的議論における価値として考えた場合、上述の、確証バイアスの披露でしかないような、明らかに価値のない意見もある。
そこは冷静に見極めること重要。
この場合「君は間違っている」という主張は「君は愚か者である」という主張とイコールになるので、紛糾必至なわけですが、それを避ける賢さや優しさを称賛するのは民主主義の敵です。
行くところまで行くと、「あれ」も「これ」も「それ」も全部説明可能であるという、究極の確証バイアスたる陰謀論が猛威を振るい、民主主義自体を破壊する日が来るからです。