ゴーン被告逃亡から考える日本の司法制度の問題点


やってくれましたね。

ご存じのように、年末にカルロス・ゴーン被告が海外に逃亡して大騒ぎになっています。

正義からの逃亡ではなく、正義のための行動と主張しているらしいですが、アメリカやフランスに逃亡するならまだしも、レバノンなんて国に逃げておいて、「自分は公正な裁きを求めている」とは、一体何を言ってるんだという感じで笑ってしまいます。

しかし、その一方で、例の如く、欧米礼賛型の知識人たちが、国外逃亡は許せないものの、くやしいことながら彼の言うことにも一理あるとか、日本の司法制度に大きな欠陥があるのは間違いないとか、相も変わらず、「頭良い風」の思慮深そうな渋い顔をしながら、空理空論をもてあそんでいるので、刑事裁判の歴史からさかのぼって、日本の司法制度の問題点を考えてみます。

刑事裁判の原始的な形は、糺問(きゅうもん)型と言われるものです。

糺問とは、糾問と同じで(糺と糾は同字)、問いただすという意味です。

糾という字の糸へんの右の丩は、「まつわる」という意味で、現代ではあまり使いませんが、「海藻が足にまつわった」なんて使い方をする言葉で、根っこの意味は「糸をよる」の意で、転じて、からみつく、乱れたり戻ったりする、もつれを正す、なんて意味になり、それぞれ糾合、紛糾、糾弾なんて使い方をします。

したがって、糺問というのは、緩んだものを直すために問いただすという意味ですが、糾問型裁判というのは、大岡越前などの時代劇にでてくるような、お白州に被疑者を正座させて、「さあ、白状せい!」とやるやつです。

これを制度的に説明すると、特徴は、検察官と裁判官が同じという点にあります。

取り調べする人と裁く人が同じで、これの何が問題かというと、検察官が裁くと言っても過言ではなく、要するに有罪前提で全てが進み、安政の大獄を考えてみればわかるように、「まだ口を割らんのか!」と、自白するまで拷問が続くという事態が起こる。

このやり方は、人権保障上の問題があるだけでなく、「認めると言え!」と自白するまで拷問が続くため、「認めるからもう開放してくれ」という発言が果たして真実の自白なのか、真実に基づく裁判という観点からも大問題でした。

したがって、人権侵害が甚だしく、しかも真実性の保証もなく、要するに権力者のやりたい放題ということから大いに批判され、フランス革命もバスチーユ監獄の襲撃から始まるともいえますが、近代になり、被告人の人権保障を考慮した弾劾型が主流になります。

近代というか現代の刑事裁判というのは、弾劾型と呼ばれます。

弾劾型においては、糾問型と異なり、検察官と裁判官が分離しているの一番の特徴です。

つまり、検察官が、「裁判長、聞いてください、コイツ犯罪を犯しました」と弾劾(起訴)することから、刑事裁判が始まります。

(なお、ややこしくなるので深入りしませんが、日本語的には糾問と弾劾は、「罪を問いただす」という同じ意味であり、糺問型の想定する仕組みは本来的には弾劾の語法の方が適切だと思う)

そして、公平中立な裁判官の前で、あくまで対等な検察官と弁護人が、被告人の犯罪を巡って攻撃と防御を繰り広げ、その結果浮かび上がってくる真実に基づいて、裁判官が判決を出すというものです。

裁判官の前に置いて、検察と被告人は対等です。

この弾劾型の帰結に、「疑わしきは罰せず」という原則があります。

これ、時々勘違いしている人がいるので、少し脱線ですが補足します。

弾劾型においては、検察官は訴訟を提起した者として、被告人の犯罪について、「立証」、すなわち、裁判官に確信を抱かせなくはいけません。

裁判官としては、「有罪かな無罪かな、どっちだろうか」という判断をするのではなく、検察官の弾劾について確信を抱けるかどうかが判決の基準です。

つまり、「疑わしきは罰せず」の原則というのは、「有罪かな無罪かな、どっちだろうか」と迷ったら無罪にするという原則ではなく、裁判官が検察官の主張に確信を抱けない場合は、検察官の立証失敗であり、検察官による弾劾が認められない結果被告人が無罪になるという、弾劾型の構造からは当然の帰結です。

このように、公平中立な裁判官の前で、民事裁判の原告と被告のように、対等な当事者として、検察官と弁護人(被告人)が、攻撃防御を繰り広げるのが、弾劾型の刑事裁判です。

この弾劾型になってくると、刑事裁判の大前提たる真実究明にも影響があります。

つまり、真実発見を重視しすぎると、結局は「白状せい!」という自白強要に繋がりますから、それを防ぐためには黙秘権というものを権利として認めざるを得ません。

また、警察や検察官は、裁判の前に家宅捜索などをして証拠物を押収しますが、家宅捜索というのはプライバシー権の侵害ですし、証拠物の押収というのは財産権の侵害であり、警察に自由に認めるわけにいきませんから、令状といって、事前に独立中立の裁判官に令状請求をして、その審査を受けて令状が発布されます。

当然、裁判官が、必要性がないとして令状発布を拒否し、家宅捜索や証拠物の押収自体が認められない場合もあります。

その場合に、「ふざけんなよクソ裁判官が!」と、令状なしに警察官が勝手に容疑者宅に踏み込んで結果的に薬物や銃器などの証拠物が見つかったとします。

この場合、その警察官が処分を受けるのは当然としても、見つかった証拠は紛れもない真実なわけですから、その証拠に基づいて犯罪を認定できるのか。

それはさすがに無理があって、捜査過程で警察官に些細な不備があったからといって全て無罪放免になるわけではないのですが、法律が人権保障の観点から規定している令状規定をまるっきり無視するような悪質な方法で見つけた証拠の場合、「プロセスに問題はあるが事実である以上証拠になる」なんて言ってしまえば、法の定めが無に帰しますから、そういう証拠は刑事裁判上は無いものとして扱われます。

つまり、刑事裁判というのは、真実発見が第一目的なのですが、その真実というのは、黙秘権や令状主義という人権保障の枠内で浮かび上がってくる真実であり、タイムマシーンで現場に戻ったかのような究極の真実ではありません。

この、人権保障の結果、真実発見が後退せざるを得ないというのが弾劾型の最大のポイントです。

まあ、真実発見を追求しすぎて自白するまで拷問を続ける糺問主義が導くものが本当に真実なのかも怪しく、要するに真実というのは常にやぶの中なんですけどね。

そして、あくまで人権保障の枠内での真実発見という点で、一番問題になるのが、起訴前の取り調べです。

家宅捜索や証拠物の押収の対象は基本的に物的証拠ですから、出てきた物は間違いなく、事実というか真実であり、それらを、起訴前に検察官の方で収集・整理して裁判に臨むことに反対する人は誰もいません(令状発布という裁判官の関与もあるし)。

問題は、容疑者の取り調べです。

実は、こここそが、日本の刑事司法の問題点と呼ばれているところです。

欧米流というか、弾劾主義の理念からすると、起訴するかどうかなどの事前調査はさすがに必要なので、裁判の準備としての容疑者の取り調べは認められますが、真実発見は法廷でされるべきですから、基本的に言い分を聞くだけであり、一定以上踏み込んだ取り調べはできないことになります。

なぜかというと、弾劾型の場合、容疑者というのは、公開法廷で裁判官の前において、検察官と対等に対論する存在ですから、検察と容疑者の直接対決は、公開法廷において裁判官の面前でなすべきだからです。

したがって、裁判前に物的証拠や証人を集めるのはいいとしても、裁判官のいないところで、検察官が自分に都合の良い供述を得ようと容疑者にプレッシャーをかけるのは認められないことになります。

具体的には、事件の概要について検察官が容疑者に尋ねるのは良いとしても、裁判官のいない拘置所の取調室で、検察官が言い分を聞いた後に、「嘘つくんじゃない、そんな言い分通るわけないだろ」と追及を続けるのは、認められないことになります。

「嘘つくんじゃない、こっちには証拠があるんだよ」とやるのであれば、それは法廷でするべきということになります。

これが無罪推定の原則。

要するに、判決がでるまでは、容疑者はあくまで無罪として扱わないといけなくて、有罪であるかのような前提に立って執拗な取り調べをしてはいけないという原則。

しかし、日本の刑事実務では、起訴前の逮捕や勾留といった身柄拘束の間、警察や検察が延々と取り調べをします。

本来的には、逮捕や勾留と言った身柄拘束は、逃亡や証拠隠滅を防止するためのもので、取り調べのためのものではないのですが、実態としては、身柄が拘束されているのをいいことに、ずうっと取り調べが続くわけです。

無罪推定どころか有罪推定です。

これが悪名高き「人質司法」と言われるものです。

名目上は弾劾型の刑事裁判制度を採用していながら、その実、起訴前に、真相究明の名の下、検察が容疑者を徹底的に取り調べるという形で、実態としては糺問型に近いではないかという批判です。

特に、日本は、刑事裁判の有罪率が99%ですが、その裏に、起訴率66%という数字があります。

つまり、検察の取り調べを受けても約3分の1は起訴されずに終わるのです。

具体的には、取り調べの段階で、警察と検察が証拠を突き付けて自白させ、徹底的に真相を究明するとともに、被害者への謝罪や賠償まで仲介して、示談が成立したら不起訴にするという事件の解決方法が広く行われています。

これは、刑事事件の解決が、司法ではなく行政たる検察官の手元で完結している話ですから、弾劾主義の観点からは到底許容されるものではありません。

理念上は。

そう、これは現実の話ではなく、「弾劾主義」という名の教義をどこまで徹底的に制度に反映するかという話です。

あくまで、人権保障を至上命題に置いた話です。

刑事司法の一番の目的は、社会公共の秩序維持であり、悪事への必罰、すなわち罰すべきは必ず罰し、罰すべきでないものは罰しないことです。

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人権保障それ自体が目的なのではなく、悪事への必罰を実現する中で、それをむやみに追求しすぎると、人権侵害が止まらなくなるどころか真実発見まで歪められるという糺問主義の反省を生かして、人権保障に配慮しながらも、できる限り真実を明らかにして、罰すべきは必ず罰し、罰すべきでないものは罰しない社会を実現することが最上段の目的です。

つまり、大事なことは、真実発見と人権保障のバランスであり、弾劾主義という理念をむやみに徹底し、人権保障を徹底した結果、疑わしい人の殆どが無罪になるなんて結末は誰も望んでいません。

そして、日本の現実に目を向けると、現行司法制度は決して悪いものではないのです。

まず、捜査段階で徹底的に真相を究明し、確実に有罪が得られると確信しない限り起訴しないというのは、容疑者の裁判の負担の考慮という人権保障からも決して悪いことではありません。

また、証拠物や目撃者などからある程度容疑が固い場合など、本人が反省して自白したか、それとも最後まで往生際悪く否認し続けたかで量刑の軽重を変えるという運用とも相まって、取り調べの段階で、「嘘ついたってろくなことにならんぞ」と説得して自白させ、事実をすべて明らかにしたのちに、相手が示談に応じた場合など、社会的な制裁は受けたし、まあこれで手打ちにしてもいいだろうという不起訴解決の運用も、事件ごとの各論レベルでの反論はあるとしても、総論としてはうまく機能しています。

何でもかんでも法廷に持っていくのがそんなに理想的なのかといえばそんなわけはなく、事案の真相を明らかにして、事件の性質ごとに柔軟な対応を取る方が重要です。

また、検察のキツイ取り調べを受けて、日本の刑事司法は前時代的だと批判する当事者はいても、結果として、虚偽の自白を強要されたとか、証拠が捏造されたと主張している人はほとんどいません。

つまり、人質司法批判というのは、あくまで人権保障の観点からの批判であり、刑事裁判の結論を揺るがすような批判ではありません。

さらに、悪事を働いた人間から真相を聞き出すためには、ある程度圧力をかけることが必要なことは誰だって理解できます。

なにより、日本は治安がよく、刑事司法制度の究極的な目的である、社会公共の秩序維持を実現しているという点で、ほかの国に声を大にして批判されるような状況では決してありません。

つまり、理念はさておき、現実に目を向けると、悪事には必罰で報いるという目的の達成は99.9%は上手く行ってるわけです。

しかし、検察の取り調べが、「こいつが犯人だ」という前提で進むのは間違いなく、その結果、欧米ではありえないような、悲惨な冤罪事件がごくまれに起きているのも間違いありません。

この点だけは、文句なしの欠点であり、引き続きゼロに向けて改革を続けていく必要があります。

以上のように、人権保障だけに目を向けると問題があるように思えても、究極目標である社会公共の秩序維持という観点からは、99.9%に注目すれば間違いなく素晴らしい成果を上げているのですが、0.1%に注目すると、とんでもない欠点を持った制度ということになります。

したがって、日本の刑事司法制度を評価するのは本当に難しくて、弾劾主義という理念と制度を頭の中で比較して批判するのは簡単なのですが、現実に目を向けるとどこかを変えると必ず何かを失います。

具体的に何を失うのかは、それこそ欧米型の司法制度を見てみればわかります。

その一方で、起訴前に徹底的な取り調べを行わない欧米型の制度では、真実究明は法廷に委ねられるわけですが、十分な取り調べができないまま法廷に行ってしまうと、もうそこから先は法律の条文片手の訴訟ゲームにならざるを得ず、検察サイドの理論武装も粗だらけですから、結論から言うと、大枚はたいて優秀な弁護士を、しかも大量に雇って、(裏側での証人や陪審員の買収とか)揚げ足取りまくりの訴訟戦術を練れば練るほど無罪になる可能性が高まるという制度になっています。

その結果、理念だけ考えていれば良い幸せな知識人やお金持ちは、自分達としては現実的な問題はないし、制度設計的にも弾劾主義という「近代的な教義」に忠実で、素晴らしい制度ということになるわけですが、理念なんてどうでもいい庶民からすると、金さえあればどうにでもなる制度と思われているのも事実で、決して、みんながみんなもろ手を挙げて絶賛しているわけではありません。

ちなみに、ぴったりな具体例がいま日本で起きています。

それは、カジノ誘致に関する、国会議員の中国企業からの献金問題。

渦中の5人のうちの1人は認めましたが、残りの4人は否認しています。

その内の人は、下記のようなコメントをしています。

曰く、地元観光企業から200万円献金を受けた、その観光企業から渦中の中国企業の紹介を受けたが、200万円の出所がその中国企業だとは知らなかった、あくまで地元観光企業からの献金だという認識、また、全然別の理由で渦中の前防衛大臣に100万円渡したが200万円とは関係ない。

これを聞いて、多くの人が、そんな言い分通ると思うなよ、と感じたと思います。

しかし、欧米型のように、上述の弾劾型を徹底すると、このケースは、物的証拠でも出てこない限り絶対に無罪になるでしょう。

犯罪を犯した犯人に刑罰が科せられるのは、したことが”悪い”ことに加え、犯人が、自分の意志で、引き返そうと思えば引き返せたはずなのに、一線を越えた点にあります(だから、物の善悪が分からない人は無罪になったり刑が軽くなったりする)。

したがって、犯罪の認定には、故意の認定が必要なわけですが、ここが一番厄介で、出刃包丁で心臓や首元を何十回もめった刺しにした事件なんかであれば、犯人が、殺すつもりはなかったなんていくら主張しても、そんなわけないだろと一蹴して、文句なく殺意の認定はできますが、贈収賄罪や経済犯罪などの被害者や証拠品のない犯罪の場合、事情を知っていたのかどうかという故意の認定は、本人の自白がないと認めようがないケースも多く、「知らなかった」を貫き通されると無罪にせざるを得ないわけです。

そして、弾劾型では、凄腕弁護士の尋問に耐えうる証人・証言が出てこない限り、ほぼ無理です。

しかし、日本の場合は、一定以上容疑が固まると、口裏合わせという証拠隠滅の恐れがあると言って、逮捕・勾留という身柄拘束を行い、その間に検察官による過酷な取り調べが延々と続きます。

「知らなかったなんて話が通ると思ってんのかよ」と。

そして、時に恫喝、時に懐柔、百戦錬磨の取調官たちが、代わる代わるあの手この手で説得して、一言一句に裏を取りながら、一瞬のスキを見せれば、そこを突破口に一気に供述を得ます。

連日の取り調べにより疲労困憊の中で発した些細な発言を集めると、やっぱり知ってたんじゃないか、と言えるようになったりするわけです。

今回の献金事件なんて、銀行の振込履歴が日本企業である限り、本人の自白が無ければ絶対に有罪にはできません。

もっとも、検察官も、このニュースを聞いた私たち同様、「こんなの知ってたに決まってんだろ」という「先入観」に基づいて取り調べを行うので、時々その姿勢が、とんでもない冤罪事件を引き起こすわけです。

ゴーン逃亡のニュースに関して、悔しいが彼の主張にも一理あるなんて言ってる連中が、その一方で、献金疑惑の国会議員について、検察には徹底的な真相究明をしてほしいなんて言ってたら面白いですね。

ゴーンに一理あるというなら、真相究明は法廷で行われるべきで、「知りませんでした」という本人の主張をそのまま法廷に持ち込み、他の証拠がないなら、それが真実であり、根拠なく疑うのは人権侵害として許されないと主張しないと辻褄が合いません。

少し脱線しすぎました。

悪事については必罰で臨むという国家の基本姿勢から考える時、99.9%に目を向けると上手く行ってるが、0.1%に目を向けるととんでもない欠点を持つ、日本の刑事司法制度。

個人的には、欧米を見習って人権保障を手厚くした結果、無罪で終わる可能性が高まり、結局司法取引制度を大々的に取り入れないといけないとか、優秀な弁護士を雇えるどうかで結論が大きく変わるなんて方向にはいってほしくないですけどね。

特に日本人は、社会の秩序維持のためには、疑いを受けた以上は、ある程度、人権の制約を受けても仕方がないと考えていると思いますけどね。

これをもって日本は旧態依然とした全体主義と批判されても、だって、国民がそうおもうんだから仕方がないし、遅れてる進んでるの一方的な物差しを基準にして、国民の納得しない「先進的な制度」を導入しても意味がないと思います。

また、裏表ですが、今の欧米の司法制度が、先進的なものだとは思わないし、現実として社会には不満が渦巻いてるじゃないか、と思います。

とは言え、私は死刑賛成派なので、えん罪だけは絶対に防止する必要がある。

結局、大枠は変えないまま取り調べの録画を義務付けるという方向が正解なんじゃないだろうか。

密室の方がやりやすいんだろうけど、自白獲得のプロセスについての検証可能性の確保だけはやらざるを得ないだろうな。

以上、究極的には、刑事司法の目的は社会公共の秩序維持なんだから、人権保障も、国民の価値観を前提に、最終目的とのバランスで考えるべきであり、日本に比べてものすごく治安が悪く、人権保障を徹底した結果、庶民には厳しく金持ちや権力者には甘いなんて実態になって社会に庶民の不満が渦巻いている国家の真似をする必要は無いと思います。

個人の人権を重視する弾劾主義という思想も、よりよい社会を実現するための方法論の1つでしかなく、よりよい社会の実現が目的であって、弾劾主義の忠実な実現が目的なわけではない。

個人も大事だけど社会も大事であり、国民主権の民主主義なんだから、国民の納得するバランスの実現が大事。

いずれにせよ、”公正な司法を求めて”レバノンなる国に逃亡した輩の発言に動揺する必要は一切ないでしょう。