「私はラーメン」「俺はチャーハン」
最近、日本語に関する本を読んでいるのですが、そういった本の中にはかなりの割合で、「ら抜き言葉」などの言葉の乱れの話が登場します。
私が知る限り、言語学者の方はみな、「ら抜き言葉」を当然の変化で、そもそも受け身と可能を同じ単語で表現することに無理があると言っています(「ら抜き言葉」は可能の場面でしか使われない)。
確かに、仮に英語で、I can speak Englishには、「私は英語を話せます」と「私は英語で話しかけられた」の2通りの意味があり場面で変わりますなんて教えられたら発狂します(あんまりうまい例じゃないけど)。
「言葉は生き物だ」的な見解に無節操に同調するわけではないのですが、私は新しい言葉が大好きで、面白がってよく使います。
ちなみに、「あたらしい」というのも、もともと「あらたし」だったのが(「気持ち新たに」など)、いつの間にかひっくり返ったものです。
「~ってよ」「~だわ」「~のよ」は明治時代に流行した女学生言葉らしいです。
そんな感じですから、俗にバイト敬語と呼ばれ忌み嫌われる「よろしかったでしょうか」も、どうも擁護したくなります。
なにより、「よろしかったでしょうか」に違和感を感じるのは当然としても、それを批判する意見に薄いものが多い。
これを書く前に、「よろしかったでしょうか」についてググってみましたが、「よろしかったでしょうか」は過去形という説明の多いこと。
「過去の事実の確認に使う分にはOK」とか。
それは違うと思うけどなあ。
まず、「た」があるから過去形というのは違います。
駅のホームで「電車が来た!」と言っても過去形ではありません。
電車はまだ来ていません(?)。来終わってないというか。
少なくとも、過去ではなく目の前の現在の話です。
「た」は厄介です。
語源をさかのぼると、古文で習う「き、けり、つ、ぬ、たり、り」という6つの過去や完了を表す助動詞は、現代語では全て「た」になってしまいました。
したがって、「た」は完了を表すことがあります。
「昨日巨人が勝った」の「た」は過去です。
しかし、サヨナラホームランをみて、「やった、巨人が勝った!」と言えば、この「た」は完了です。
盗塁の場面での「1塁ランナー走った!」も完了形です。
まだ走っているわけで、過去形ではありません。
過去とか現在とか未来とかは「時制」です。
その点、完了形とは、動作の「局面」を表現するためのもので、一連の動作の開始から終了までに注目した表現です。
完了かどうかは時制とは関係ありません。
そして、文字通り完了した場合もあれば、完了していない場合もあります。
なんのこっちゃわからないかもしれませんが、英語の授業で、「現在完了形の継続用法」というものを習って、誰もが混乱します。
I have caught a cold since last week
先週から風邪を引いています、と訳し、風邪は完治しておらず今も風邪を引いています。
進行形と何が違うのかと誰もが疑問に思いますが、
自分の胸に手を当てたとき、
「新幹線が来た!」とはいっても「新幹線が来ている」とは言いません。
「一塁ランナー走った!」とはいっても、「一塁ランナーが走っている」とは言いません。
どちらも間違いではないですけどね。
風邪を引いた時も、「昨日風邪を引いた」なんて言いますが、現在も治っていないととらえるのが通常で、相手に昨日の出来事を伝えたいわけではなく、自分が風邪を引いてから治るまでの一連のプロセスの中にあることがテーマの文といえ、引き始めという局面が昨日「完了」したこと、もしくは風邪が「存続」していることを伝えています。
この動画のコメント欄に、「ずっと好きだったんだぜ」は完了形であると教えてくれた英語の先生のエピソードを載せている人がいますが、正にその通りで、過去の一時点で好きだった事実を伝えているのではなく、「好き」であったプロセスを強調した表現です。
このように「た」は過去だけでなく、完了を表します。
そして完了だからといって過去なわけではありません。
何らかの行為が完了している以上必ず過去であるなんて言い出せば、「現在」というものは存在しない、なんていう哲学の話になってしまいます。
さらに、「た」の意味は過去や完了だけではありません。
英語で仮定形を習ったときに、If節の中は過去形を使うといった、特定の局面で時制を変えなくてはいけない文法にうんざりした人も多いと思います。
実は日本語にもこれがあって、代表的なのが、
「犯人はお前だったのか!」で、
これは、真実の発見。
「しまった!明日テストだった!」
と言えば、既知の事実の再発見。
これに至っては、過去どころか未来の話。
いずれにせよ、日本語では、気づき・発見・再発見の場合は、過去形を使うというか、「た」を使います。
そして、それが発展すると「確認」に使われます。
「そういえば、君は野球が好きだったね」とか。
「過去に聞いたことのある事実」の確認と言えますが、この文章のムードは「現在自分が認識している事実の確認」であり、過去の話はしていません。
そして、この「君は野球が好きだったよね」を「君は野球好きだよね」と置き換えたときに醸し出される押し付けがましさは誰もが感じると思います。
この違いが大事です。
だんだん「よろしかったでしょうか」の核心に近づいてきました。
さて、今現在行われている注文の確認の時に「過去形」の「よろしかったでしょうか」を使うのは間違いで「現在形」の「よろしいでしょうか」を使うべき、という見解は何が間違っているか。
まず、見てきたように「過去形」という指摘は間違いで、この場合の「よろしかったでしょうか」は「過去形」ではなく、「現在の自分の認識の確認」のムードを出すために、過去や完了に使われる助動詞「た」を使っているだけであり、過去が現在かと言えば現在形です。
これを「た」が使われているから「過去形」だというのは、英語の仮定文で、動詞が過去形だから、過去の話をしていると言っているのと同じ誤りになります。
では、「よろしいでしょうか」と「よろしかったでしょうか」は何が違うのか。
これは、「君は野球が好きだよね」と「君は野球が好きだったよね」の違いと同じです。
「よろしかったでしょうか」というのは、「自分の認識」の確認を相手にしているのです。
その点、「よろしいでしょうか」というのは、相手の意思を確認しています。
ものすごい意訳すると「ラーメン1つでよろしかったでしょうか」は「私はラーメン1つという注文をうかがった認識でいますが、私の認識は正しいでしょうか」という確認であるのに対し、「ラーメン1つでよろしいでしょうか」は「あなたの注文はラーメン1つですね」という確認になります。
相手の意思を直接確認するのではなく、自分の認識の確認を求める体にして、ワンクッションおいているわけです。
根底にあるのは、相手に直接的な回答を求めることを回避しようとする相手への配慮です。
配慮してくれているのですから、あんまり怒らずに。
注文時に怒り、「ラーメンになります」なんて言って持ってきたときにも、またおかしいと怒る。
その一方で、店員がいない時にテーブルでは。
「俺はチャーハン」
「チャーハンは太る」
「鍋食べよう」
なんてやってるくせに。
おかしな日本語に注目してカリカリするのではなく、日本語自体が世界有数のおかしな言語であることに注目して楽しむのが良いかと思います。
以上の説明、「わかりやすかった」でしょうか。