頭を整理してみます。
その昔、ヨーロッパでは、キリスト教すなわち教会が圧倒的な力を持っていて、民衆を支配していました。
「お前は魂が穢れているから神の声が聞こえないのだ」的な、「こうなんだ、なぜなら神がそうおっしゃってるからだ」といったやり方で民衆を支配するので、いずれ反発されるのは必然でした。
啓蒙主義の時代が来て、「神がこうおっしゃっているから」という上から降ってきた理論をあがめるのではなく、人間の理性を重視し、理性的・合理的に統治は行われるべきという考えが支配的になります。
そうすると、高いところに座ってやりたい放題やってるアイツは何なのかと、もともとは教会と結託して権威を持っていた(王権神授説)絶対君主に民衆の矛先は向かいます。
ここで登場するのが民主主義という言葉で、政治というのは、「民」の声を反映するべきものだという考えです。
大事なことは、絶対君主を倒すスローガンとしては、民主主義というのは非常によく機能するという点です。
本当は「民」にもいろいろいるのですが、絶対君主という敵がいると、その差異は相対的に小さくなりますから、お互いに気にせず一致団結することができます。
教育関係者がこぞって学校を批判したり、野党が結託して政権与党を批判したりするのと同じです。
しかし、『ちびまる子ちゃん』で例えると、入手困難な嵐のコンサートチケットを花輪君が手に入れても、金持ちはいいねーで済むところ、庶民仲間の誰かが何らかのコネで手に入れたりすると一気に不協和音が立ち始めるのと同じで、絶対君主という共通の敵を倒した途端、民衆にもいろいろいるという問題が一気に表面化します。
フランス革命も、王様をギロチンにかけるところまでは良かったのですが、その後は内ゲバにつぐ内ゲバの連続で、ロベスピエールとか、恐怖政治とか、お馴染みの大混乱が続き、最終的にナポレオンが軍事クーデターで統一するまで収まりません。
民主主義のいう「民」とは一体誰なのか。
ここから、民主主義は大きく二つの型が派生することになります。
自由主義(小さな政府)と社会主義(大きな政府)です。
どちらも民主主義です。
もちろん、最初は自由主義です。
市民革命のお題目は、人間とは生まれながらにして自由で平等であり、その個人の自由は絶対だから、政府(王様)は不当な侵害を止めろというものでした。
もちろん、そうはいっても、他人の自由を害する自由はありませんし、復讐とか私刑を認めると連鎖が止まらず社会は混乱しますから、警察作用だけは国家に認めようとなります。
これが、夜警国家とか言われるものですが、念のため補足すると、この場合の警察作用には、いわゆる警察だけでなく、公共衛生の維持なども含まれます。
社会秩序や公共の安全を維持するための最低限の権限だけが政府には与えられ、そのために必要な、犯罪者に対する刑罰や不当行為の取り締まりなど、一定の悪い行為をした者に対してのみ、政府が個人の自由を侵害することが許されます。
そして、政府が個人の自由に干渉するのは、民の代表が議会で公開討論を経て作成された、法律というルールに基づいて行うことが義務付けられます。
しかし、自由主義に必然的に伴った自由主義経済で貧富の差は拡大し、治安が悪くなったり、公衆衛生に問題が生じたり、貧しい人が貧しいままといった個人の問題では済まない社会的な問題が増えてきました。
個人の自由を放置しすぎると社会全体の便益が下がってしまう場面があるということで、政府による積極的ない介入が求められ、少しづつ政府が社会福祉政策を実施するようになり、政府は夜警国家から福祉国家への転換を遂げます。
しかし、これが上手く機能しない。
自由な個人が選挙で代表を選び、その代表者たちが議会での公開討論により最大公約数的な政策を決定すると言っても、現実的には果てしない議論が続くばかり。
非生産的な議会での応酬、その反面、決めるための政党での密談、そしてそれに伴う、権力争いとしての人事や資本家との結託。
何も決まらず政府が機能不全に陥る反面、そこでなされる決定には党派的な利益が露骨に優先され、他方で民衆の間には、政治不信が高まり、相互の差異に基づく憎悪が渦巻き、社会が血なまぐさくなってきます。
このように、自由主義かつ民主主義というのは、自由の美名の下で、延々と議論が続くだけの機能不全を起こすだけでなく、社会に不満と憎悪を発生させ、社会を不安定にさせていく要素が本質的に備わっています。
更には、最大公約数的な妥結を重視する姿勢が、権力者たちの無責任を招くと言われます。
当時、ある例えが良く引用されました(ちなみにはこれは100年くらい前の話をしています)。
新約聖書に登場する話で、キリストが磔にされる際、過越祭(すぎこしさい)というお祭りの時だったので、慣行に従い、ローマのユダヤ総督であるピラトは、誰か一人を赦免しようとします。
ピラトはキリストに会って、これはただの愚か者であり罪人などではないと考えたので、キリストを赦免しようとするのですが、民衆に尋ねたところ、民衆は議論の結果、叛乱の指導者であるバラバという悪党の赦免を要求して、これが認められます。
これは、キリスト教が前提ですが、大衆民主主義が誤った結論を招いたという文脈でも用いられるのですが、その反面、自由主義が、指導者たるべき権力者の無責任状態を生み出すという文脈でも用いられます。
政権交代するたびに政策が大転換して、社会が混迷を極めたときに、政治家が、自分は民意に従っただけだなんて開き直ったとしたら、もちろんそれが民主主義であると答える人もいますが、それはそれで違うんじゃないかと思う人も多いかと思います。
特に、上述のバラバの例えはキリスト教的な話ですが、個人には政治的自由が認められ、一人一票の価値は同じだとしても、「俺は1+1は3だと思う」なんて意見に価値はないわけで、そこを見極めるのも政治家たちの仕事であるといえます。
このように、自由主義的な民主主義というのは、果てしない議論、決まらぬ政策、政治家の無責任、といった様々問題を引き起こし、政治不信や意見対立による荒れた社会情勢に伴い、その反動として社会主義が登場します。
社会主義といっても民主主義であり、政府は、統一的な民意にもとづいて、自由で平等な個人の幸福な人生を実現するために積極的に政策を実施していきます。
もっとも、その統一的な民意はなんなのかと言えば、ここに大きく二つの流派があって、労働者独裁の共産主義とエリート独裁のファシズムです。
社会を支えているのは汗水流して働く労働者たちなんだから、その労働者を中心にして社会を構築していくべきだという考えが共産主義であり、それに対して、いやいや、無知無学の労働者階級を最上段に掲げる教義なんか上手くいくものか、知的エリートが中心になって誰もが幸せになれる社会を構築していくべきだというのがムッソリーニが始めたファシズムです。
ここで、共産主義もファシズムも、個人の自由を最大限に保障する国家を構築しよう、しかもそれを民意に基づいて実施しようという点で民主主義です。
知的エリートがみんなに代わってに考えてあげた「合理的な意思」を民意を呼ぶのか、社会を支える労働者の意思を民意と呼ぶのか(これも一部の人が代弁するのですが)、違いはありますが、民意に基づいて福祉国家を実現するという点では民主主義です。
これは真の意味での民主主義ではないなどと言いだすと、言葉の定義の問題になってしまいますが、市民革命で実現された民主主義の「民」だって、対君主としての抽象的な「民」であり、そこから派生している以上、民主主義と呼びます。
しかし、上述の共産主義とファシズムが、「民意」に基づく統一的な国家を目指す過程で、「民意」に反する一部の「民」にした惨劇は語るまでもないと思います。
(なお、余談ですが、政府を批判するのは結構なんだけど、安易に政治家をヒトラーに例えたり、ナチスを持ち出すのは本当にやめてほしい。彼らはホロコーストとか、全体主義が引き起こした悲劇をちゃんと考えたことがあるんだろうか。ヒトラーもナチスも政権批判の道具としてのアイコンくらいにしか思ってないんじゃないだろうか。)
こうして、第二次世界大戦や冷戦を経た現在は、社会主義的な民主主義も、先進国では上述のような過激な形態はとらなくなっており、それが社会民主主義と言われるものです。
自由主義的な要素を大きく残しながらも、何とかして「統一的な民意」にもとづいて福祉国家を積極的に実現しようとする国家です。
さて、ここで、現代の民主主義には、自由主義型と、抑えめ社会主義の社会民主主義の2つがあることが分かりました。
まず、自由主義型の筆頭はアメリカです。
医療保険すらない自由主義型を貫徹しており、とにかく個人の自由に対する政府の干渉は最小限にすべきという考えです。
行政の長たる大統領も議員とは別に選挙で選ぶ厳格な三権分立型であり、司法では陪審員制が採用され、権力者による市民への干渉を徹底的に監視します。
議会と大統領が対立して機能不全に陥ったり、陪審員制でおかしな判決が出たり、オバマからトランプへなどのように選挙のたびに政策が大転換しても、それが民主主義なんだから仕方がないという態度です。
なにより、合衆国憲法修正第2条というすごい条項がある。
いわゆる、銃の所持を認める規定であり、民兵の考えで、すなわち、権力者が民主的な手続きに基づかずに個人の自由や権利を侵害し始めたら、市民は武装して戦う権利が認められているし、また、戦わなくてはいけない。
血の雨を降らしてでも、個人の自由に不当に干渉しない国家を維持するという誓いの条項です。
では、アメリカという国では、自由主義を貫徹しながらも、なぜ上述のような副作用を受けずに発展することができたのか。
それは、個人の自由を強調しつつも、アメリカという国では、キリスト教が地域社会に強固に根を張っていて、倫理道徳観などは、実はかなり統一的です。
国民の4分の1が、福音派と言われる、ダーウィンの進化論すら否定する原理主義的なキリスト教徒の人たちで、それくらい、キリスト教の影響は大きいです。
しかし、一部のエリートが自由主義という理念を盲目的に崇拝し、多様化を推し進め、その一方で無宗教化も進み、まさに今自由主義の弊害が噴出し、社会は分断され、社会の至る所でヘイトが沸き起こっています。
その一方の社会民主主義で有名なのは北欧諸国。
北欧は、もともと辺境地ですから(失礼)、これと言った大産業があるわけでもなく、貧富の差も少ないし、また、国民的な気風が統一されているので、ある意味不平等な政策をとってでも、結果の平等を実現するという政策が支持されています。
つまり、社会主義的な統一的民意の形成が比較的容易な地理的状況ゆえに社会民主主義が機能しています。
その反面、無宗教化を進めて、かなりあやしくなってきたのがフランス。
なんだかんだ言いながら、ヨーロッパもキリスト教が市民を統一していたので、社会民主主義が機能していたのに、移民を大量に受け入れたり、無宗教化を進めた結果、「民意」が形成できなくなり、国民は分裂し、やはり社会内部でヘイトが沸き起こって、社会情勢は不安定になっています。
その反面、エリートたちは、暴走機関車のように、EUの推進、自由主義経済、多様性の尊重といった理想論にまい進しています。
その結果、黄色いベスト運動で明らかなように、二極化ではなく、下層の犠牲の上に中層の生活を維持するような政策を維持することで、多数派を何とか抑え込みつつも、時限爆弾のような状態を生み出しています。
さて、ここまで来てやっと日本の話。
日本というのは、北欧に近いというか、昔から社会民主主義。
自由主義を輸入したところで、もともと統一的なので、何もせずとも社会民主主義になる。
自民党が保守政党のようになっていますが、長く続いた一党独裁の影響でかなりリベラルです。
女系天皇を議論したり、夫婦別姓を議論したり、それが良いとか悪いとかではなく、保守がリベラルかと言えば、間違いなく保守政党ではなく、かなりリベラル。
その反動で、野党には、極左的なスーパーリベラル政党か、「是々非々」を標榜しつつも、キャラクターとしては経験の浅い自民党の縮小コピーのような政党しかない。
そんな中道でどちらかという左派なんじゃないかとすら思う自民党の一党独裁の下、議論はいろいろありましたが、島国育ちで統一的な日本人ですから、あの国は民主主義じゃないなどと諸外国からは揶揄されながらも、社会民主主義を運営して来ました。
しかし、日本では、研究イコール外国の文献を読むことだと思っている知識人を筆頭にひたすら欧米の真似をしてきました。
先の大戦の反省もあり、とにかく伝統や慣習を捨てて、欧米の理性的・合理的態度に学ぶべきと啓蒙してきました。
しかし、欧米の理性主義・合理主義が、悪しき伝統や慣習からの脱却をうたいつつも、実はその裏でキリスト教が強い影響を持っていたからこそ、自由主義型にしろ、社会民主主義型にしろ、なんとか統一的な民意の形成が上手く言っていただけということが、移民の増加や無宗教化の進展に伴う混乱の増大に伴い明らかになってきました。
そして、もともと強い宗教が無く、世界のだれでもない日本人という特殊なアイデンティティーが統一感を作っていたのに、欧米を礼賛して伝統や慣習を破壊することが良いことであるかのようなムードが支配的になってきた日本でも、議論がまとまらなくなってきました。
アメリカ型の憲法を礼賛してやたら自由主義の理念を強調し、フランス革命などの権利闘争の歴史に心打たれて民主主義の本質を反権力と捉える反面、国家の積極的な社会福祉政策を求めたり、その場その場で都合の頼ことを言うだけで、根本の部分で、自由主義で行くのか、お上頼みの社会民主主義なのか、よくわからなくなっています。
その典型例が、「マイナンバーはやだ」けど「給付金は早くしろ」でしょう。
もちろん、政府による過大な管理はごめんだし、給付金は早く振り込まなくては意味がありませんから、そのどちらも間違ってはいません。
しかし、自由主義型に立って、「マイナンバーにも反対だけど、給付金にも反対、必要な人だけに給付すればいい」という考えや、その反対で、社会主義型から「なぜマイナンバーを強制しなかったのか、マイナンバーを持っている人だけに給付すればいい」という意見が聞かれません。
どちらも極端だというのは分かるのですが、テレビなどでは、大きな視点から議論してほしいし、各論だけで文句つけてたら収拾がつかなくなります。
なにより、自由主義型にしろ社会民主主義型にしろ、本当のところは、国民全体に統一的な思想があったから上手くいっていたわけであり、本当に個人の自由にしたら、個人は人それぞれ、意見もいろいろで、「民」なんて人はいないのですから、どんな形であれ民主主義は上手くいかなくなります。
自由主義型の小さな政府を支持し、その反面、決まらない政治や、単なる有権者の代弁者としての無責任な政治家を許容するのか、その反面、社会主義型の大きな政府を支持し、ある程度は「民意」を代弁する政治家による、積極的な政策推進を許容するのか。
そして、後者を選ぶのであれば、同じ歴史を持ち、同じ言葉話すから、日本人として一体感を持てるわけですから、ある程度、伝統・慣習といった保守的な気風を認めざるを得ず、それはイコール「民意」のふりをした統一的な伝統的・慣習的な気風に反する「民」への不寛容は仕方がないと割り切らざるを得ません。
そこが宙ぶらりんのまま政治批判だけが続き、案の定、社会は対立し分断され、内部にはヘイトが増幅しています
それを象徴するようなコロナ禍だったと思います。
それにしても、コロナ騒動の間、ネットもテレビも悪口ばかりで、みんなイライラしています。
大きな視点に立つというより、枝葉の細かい批判ばかりネチネチ繰り返しています。
ただ、日本は強硬的な政策を取らなかったのに、なぜコロナの被害が少なくて済んだのか。
おそらく、この神経質な性質のせいなんでしょうね。