自粛ポリスともいうらしいです。
ここ最近、自粛警察という言葉を目にすることが多くなりました。
自粛しない人たちを自粛させようと実力行使に出る人たちで、営業している店に「やめろ」と張り紙を貼ったり、他県から来た車を攻撃したり、いろいろ盛んなようです。
よほど、心の中にたまっているものがあるのでしょうが、一体どうしてこういう人たちが生まれてくるのでしょうか。
そこを考えてみます。
まあ、理由は簡単で、憲法のせいだと思います。
日本国憲法が海外の真似してやたら個人を賛美し、一部の人たちがその教義を無条件に賛美するからこういうことになるのだと思います。
自分の胸に手を当てて少し考えてみればわかるように、「自分」とか「私」とか「個人」なんていうのものは賛美に値するような代物では到底ありません。
だから、人間誰だって、寄って立つ組織なり社会なり価値観なりが必要なわけです。
社会の中で社会の一部として生活している以上、誰かに肯定してもらわなければアイデンティティーは保てませんし、肯定してくれる人がいなければ、何らかの教典にすがるしかありません。
裸の個人を肯定できる人なんていません。
もちろん、お金持ちや地位・権力に不自由のない有名人などの、一部のエリートは良いです。
他人から認められようが否定されようが、お金があればいい暮らしをして、とりあえずは幸せな生活を送れますし、頭脳なり体力なり一芸で身を立てることに成功したエリートも、その恵まれた才能を生かして豊かな生活を送れます。
世界を股にかけて、エリート同士で政治家などの悪口を言いながら、あるべき社会像なんて語りながら幸せに生活できます。
しかし、エリート以外はそうではありません。
中間層だってあやしくて、大企業に勤めているとか、それなりの大学出たとか、横目で自分より下を見ながら、何かに掴まることで何とかして自己を肯定して生きています。
しかし、下層になるとそうはいきません。
身を立てるような一芸もなく、すがることのできる会社も無ければ、頼れる家族もいないような場合、自己を肯定できるようなものなどありません。
社会のルールを守り、常識的で道徳的な、「善良な市民」になること以外に自分を肯定する方法はありません。
自粛生活なんてその代表例であり、私を捨てて公のために尽くすなんて、自分を肯定する重要なアイデンティティーです。
それにすがってかろうじて自己のアイデンティティーを保っている人からすると、自粛しない人は、自分の唯一の精神的な支柱をぶっ壊す敵でしかありません。
そいつらを攻撃しないと、自分の存在が脅かされるわけです。
自分と違う意見を持つ人は、自分に安心をくれる精神的土台を破壊する人であり、存在してもらっては困るわけです。
強固な信念を持つ原理主義者ほど過激なテロリストになるのと構造的には同じで、自己肯定感において、「善良な市民」であることの重要性が高まれば高まるほど、他者攻撃の激しさは増すんだろうと思います。
不倫したり暴言を吐いた芸能人について、その才能を惜しんで寛容な処分をしたりするのは一番のご法度で、善良な市民であることより、才能・能力の方が重要であるなんて考えを受け入れるのは自殺と同じですから、そんな連中には地獄に落ちてもらう必要があります。
自粛警察の方々にとって、その活動は、自己の存在をかけた闘争なわけです。
何をそんなに熱くなっているのか、では済まないのだと思います。
ここから一転過激な主張になりますので、心の美しい人は読まないでください。
そう考えていくと、今回のコロナ禍の中で、自粛警察と同類の人たちがだいぶ前から発生していた気がします。
どんな人達かと言うと、やたら医療従事者を賛美する人達。
もちろん、医療従事者の奮闘があるから日本ではここまで被害が少なくなっているわけであり、彼らを貶める気は毛頭ありません。
しかし、SNSの一部の界隈では、医療従事者をヒーロー扱いして、みんなで感謝の気持ちを送ろう的な、騒ぎをしている人たちがいます。
特定の価値観に基づいて、自分より下を作ってそれを叩いて自己肯定するのと、自分より上の立派な人を作って積極的にひれ伏すのと何が違うのだろうか。
危機的状況において、「善良な市民」という集団に帰属することで自己肯定しようという点において同じなんじゃないだろうか。
特に、自己肯定感を、人とつながることで得ようとしている点では全く同じだと思います。
みんな自粛を頑張っているのにお前は何をやってるんだ
というのと、
みんなでヒーローたる医療従事者に感謝の気持ちを伝えよう
というのは何が違うのだろうか。
福沢諭吉は『学問のススメ』で、学問をしろと言っているわけですが、何のためにかと言えば、独立のためです。
あの本のメッセージを一言で言うと、学問をして独立をしろ、だと思います。
しかし、読んだ人は知っているように、世の中バカばっかりということで文明社会の実現は全然うまくいかず、後半はキレています。
その原因とは人民の無知文盲即ちこれなり。政府既にその原因の在るところを知り、しきりに学術を勧め法律を議し商法を立つるの道を示す等、或いは人民に説諭し或いは自ら先例を示し百万その術を尽すといえども、今日に至るまで未だ実効の挙げるを見ず、政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ。
ようするに、真の意味で独立できるほど学問できる人なんてそんなに多くいないわけです。
にもかかわらず、憲法は個人を賛美し、その自由を高らかに謳う。
ここで、欧米のように、公の利益を説きつつも個人の独立を強く説くキリスト教があればいいのですが、日本にはそれがない。
結局、個人主義の美名の下に、人を真空の中に放り出して、独立した原子として生きろと言ったところで、一部の恵まれたエリート以外は、わがまま放題で生きるか、そうでなければ、何かにすがって群れざるを得ず、そして、違う考えの人におびえて暮らすしかないわけです。
もちろん、美しい念仏を共に唱える聖歌隊となって自己満足という光のオーラで身を守るか、悪を駆逐して回る修羅となるかは人それぞれですが、「善良な市民」なるものに帰属することで自己を肯定している点において、独立していないわけです。
要するに宗教的な背景や単一的な道徳観などのない、純粋な多様性の尊重なんて無理なんだと思います。
良いとか悪いとかではなく、無理なんだと思います。
自粛警察はもちろん許されませんが、正義の暴走とか、一部のおかしい人たちの仕業のような分析はあまりに場当たり的な批判だと思います。
個人を社会に放り出したって、持たざる者は常識とか道徳にすがらざるを得なくて、それを守らない人を許すわけにはいかないんだって。
加点目的の暴走ではなく、自己の存在をかけた闘争なんですよ。
そして、一部のエリート以外は、程度の差はあれど、根本的には同じ問題に直面して、似たような行動をしているわけです。
たまたま幸せだったせいで、過激な行動をとらずに済んでいるだけで。
「あいつキモイよねー」といって一人をいじめるのと、「私たち美しいよねー」といって一部で徒党を組むのは、心の余裕の程度の差でしかなく、本質は同じだと思います。
自粛警察を批判している人たちは、正義の暴走とか、自粛生活で不満がたまってとか、義憤を善とする文化がとか、あれこれ述べながらも、みんな、要するに一部のおかしな人たちが暴れている的な軽い話に寄せていますが、彼らを生み出す構造的問題をしっかりと議論した方が良いと思うわけです。
個人の自由とか、多様性の尊重とか、美しい念仏を唱えたところで、人は何かに掴まらないとアイデンティティーを保てません。
したがって、経済的な打撃により個人のアイデンティティーが危機にさらされている状況においては、理想と現実のバランスを取って、「善良な市民」であることを罰則で強制して、国家として精神的な支柱を提供しないと、無用な混乱を生むと思うのです。
にもかかわらず、今回、政府が自粛の「要請」にこだわり、罰則を伴う強制にしなかったのは、自律的な個人といった念仏を真に受けすぎているからだと思います。
戦前や全体主義の否定もいいけど、少なくとも危機的な状況では、ほどほどにしないと余計な混乱を生むだけのような気がします。
やはり、教科書を鵜呑みにする人間ランキングの覇者たる学歴エリートがこの国をダメにしてるのだろうか。
なお、自粛警察と戦時中の非国民警察を比べるのは違う気がする。
戦時中こそが正義の暴走であり、ある意味素直な問題であるのに対し、個人主義がここまで進んだ現代社会における自粛警察の問題は根が深い構造的な問題だと思う。
戦時中の非国民警察は自己の存在をかけた闘争ではない気がする。
違うかな。