現代語の「れる・られる」と古文の「る・らる」の話です。
古文の助動詞「る・らる」と現代語の助動詞「れる・られる」は意味的にはほとんど同じです。
そして、「うそかじ」と暗記したりしますが、受身、尊敬、可能、自発の4つの意味があるとされます。
まあ、日本語を学ぶ外国人にとっては難関の1つで、Be動詞+過去分詞の「受身」と、CanとかBe able toで表す「可能」が同じ助動詞で表現され、意味は文脈次第、さらには、自発と尊敬とかいう、よくわからないものであるかもしれないなどと説明されたら、そりゃ大変だろうなと思います。
なにより、日本人でもこの悩みは同じで、この4つの見分けは国語学習の難関の1つですし、古文においては「る・らる」の意味の判別なんて、一大論点をなしています。
その結果、可能の場合のみ「ら抜き言葉」というものが登場し、「言葉の乱れ」とか「言葉の進化」とか熱く議論されています。
こんな、まったく関係なさそうな、受身、尊敬、可能、自発という4つの意味ですが、実はこれは相互に密接に関係しています。
個人的には、どれか一つに意味を決定しようとすることがナンセンスなんじゃないかと感じるわけですが、それくらい密接につながっていると思うので解説してみます。
この説明、受身から始める説もあるのですが、「自発が基本」説の方が好きなので、そっちで行きます。
私たち日本人は、文化や思想の土台にキリスト教が根を張っている欧米人とは異なります。
彼らのように、神が自分に似せて作ったのが人間であり、人間は自然の支配者であるなどとは考えません。
日本人からすると、私たち人間は自然の一部であり、自然に一時身を置かせてもらっているちっぽけな存在にすぎません。
それがどういうことかというと、私たち日本人は、自分達にはどうすることのできない、大きな力、The Powerを感じて日々生きています。
日々一生懸命頑張っているにもかかわらず、容赦なく作用してくるPowerを前に、なす術もなく翻弄されながら生きています。
人生は意思決定の連続だなどと翻訳本片手に大声を上げる人もいて、分からなくもないわけですが、悩みという点から考えると、大きな時代の流れの中、生まれ、家族、環境、突然訪れる不幸など、自分では選べないものにがんじがらめにされながら生きていると感じることの方が多く、だからころ、私たちには「もののあはれ」なんて言う考えがあります。
そして、そのPowerを一方的に受けるだけの存在という認識があるから、ある意味他力本願と言うか、他責性をもって生きています。
例えば、会社で会議があり、ある結論が出たとします。
その後、廊下ですれ違った社長から「プロジェクトの件はどうなったかね」などと聞かれれば、
「会議の結果、プロジェクトは延期することになりました」
なんて言います。
延期を決めたのは、自分達なんだから、少し大げさに言うと、
「プロジェクトを延期することに私たちは決断しました」
と言わなくてはいけないのですが、
「延期することになりました」と、
何か大きな力が働いて、そういう結論に導かれたかのような言い方をするわけです。
このように、自分達ではどうすることもできないPowerが働いて、そうせざるを得なくなることを自発と言います。
訳すときには、自然に~される、なんておかしな訳をします。
和歌などでは、こんなに冷たくされてもまだ、あなたのことが「思はれる」、すなわち、あなたのことを「自然と思ってしまう」なんて表現が頻発します。
訳し方はさておき、「あなたへの思い」に関して、自分ではどうする事も出来ないPowerが働いているらしく「あなたのことを思ってしまうのだ」と、平気で主体性を放棄し、その一方でPowerを受け入れます。
そういう点では、西洋人が日本人のことを運命論者だというのも間違ってはおらず、運命というほどトータルデザインされたPowerは感じませんが、何が起きても、「まあ、しょうがない」と考えて受け入れる自分はいます。
そして、また、そういった全体の流れに謙虚でないと社会からつまはじきになれます。
何かにつけて、自分が決めた、自分がした、自分が、自分が、と押しだしてくる人は嫌われます。
もちろん、自分が主体的に嫌うわけではなく、そういった押し出しが強すぎる人間というのは、傲慢に「思われ」ますし、「感じられる」わけです。
これは自発なんでしょうか。
まず、自分がその人のことを、傲慢だと「思い」「感じる」のは、その人に原因があると考えるのが日本人です。
つまり、その人から、私のことを傲慢だというのはやめてくれと抗議されても、そんなのお前が悪いんだろと、喧嘩になります。
お前のせいだろ、お前がそういう態度を取るから、こっちとしては傲慢だと「思い」「感じ」てしまうのだと。
言い換えると、お前がやたら押しの強い態度を取るから、傲慢だと「思われる」し「感じられる」のだと。
これは、自発と受身と可能の限界事例です。
自分が主体的に「思う」わけでも「感じる」わけでもありませんから、自発と考えてもいいです。
しかし、状況的に、その人のことを傲慢だと思うことができるし、感じることができるわけですから、可能でもいいです。
このように、Powerを前提に、主体性を排除した観点から見ると、「自然とそう思う」ということは、「そう思う」状況が存在するということであり、すなわち、「そう思って問題ない」つまり、「そう思うことができる」ということになります。
つまり、自発と可能というのはつながっているわけです。
さらに、彼が傲慢であると「自然に判断してしまう」もしくは「判断できる」状況が発生しているということは、それはそのまま、「彼は傲慢だと判断される」状況と言えます。
これが受身です。
この受身と言うのは厄介で、日本語の受身と英語の受身は全然違います。
英語の受身と言うのは他動詞でしか使えなくて、自動詞に受身はありません。
その点、日本語であれば(日本語において自動詞と他動詞の区別が本当にできるかどうかはさておき)、自動詞でも受身表現ができます。
彼は、彼女に逃げられた。
彼は、母親に死なれた。
これを、英語で、He was ran away by his girlfriendなんてやったら、外国人教師は文法間違いを指摘するどころか、伝えたい意図すら理解してくれません。
ましてや、He was died by his motherなんて書いたら、diedではなくKilledの間違いだろうなんて、添削してくると思います。
しかし、日本語では、英語のように、動詞があらわす動作の受け身にならなくても、状況的に受身であれば受身形を使うわけです。
すなわち、日本語の受身というのは、状況的な受身です。
そして、Powerのせいでそうなったという、主体を排除した観点から考えれば、「一方が自然とそう思う」という自発と「他方がそう思われる」という受身は密接に関連しているわけです。
こうして、自発を中心にして、自発・可能・受身の3つはつながっているわけです。
すなわち、「彼は傲慢な人間だと思われる」わけです。
では、なぜ尊敬の意味が出てくるのでしょうか。
それは、敬語の本質を考えれは明らかになります。
敬語の本質は、相手を持ち上げることでも自分を下げることでもありません。
それは、相手との距離感を適切に認識していることの表明です。
あなた様は、私の存在が影響する人間ではありません、私はそのことを認識していますと表明することが敬語の本質です。
したがって、自発を根本とする言葉、すなわち自分の手に負える範囲の外のことであることを表明する「れる・られる」もしくは「る・らる」という助動詞が、あなたは私の守備範囲の外にいる人ですという表明につながり、そして敬語になるわけです。
校長先生が話された。
これも、自分の影響力の及ばないところで起きていることを認識しているという距離感の表明が敬意の表明になるわけです。
したがって、一番最初に自発の例としてあげた、「プロジェクトは延期することになりました」の「なり(なる)」も敬語になります。
校長先生がお話しになった。
これも、自分の意志能力の圏外で行われたことであると認識していることを表明することが、敬意の表明になるわけです。
また、社長から、「プロジェクトの件はどうなったかね」と聞かれて、
「プロジェクトチームは、綿密な検討を重ねた結果、延期という結論をなしました」
などと、「為す」を使って、さも他人事であるかのように説明することも可能で、その場合でも、
校長先生がお話しなさった。
という形で敬語へ転用が可能です。
と言った感じで、自発の持つ、Powerを強調して主体性を放棄するという性質が、相手との距離感の表明につながり、尊敬になるわけです。
このように、受身、尊敬、可能、自発の4つの意味は、バラバラのようで実は、自発を中心に密接につながっているわけです。
だから、必ずどれかに分けられるわけでもないと思いますけどね。
古文なんて、本当は識別不能と言った方が良いものがたくさんあるんじゃないの?
参考文献
パクリと言われないようにだいぶ工夫したつもりですが・・・