百人一首解説その11:壬生忠見(41番)と藤原義孝(50番)


百人一首解説のその11です。

今回は恋の歌2首ですが、テーマは助動詞「き・けり」です。

共に非常にシンプルで分かりやすい歌ですが、助動詞「き・けり」の意味をよく理解していないと味わえない歌でもあります(と思う)。

そこで、まず最初に助動詞「き・けり」を解説してしまいます。

文法解説なんて面倒と敬遠せずにお付き合いください。

いきなりですが、日本語というのは主観的な言語です。

その点、英語というのは客観的な言語です。

この違いが良くわかるのが、川端康成の雪国の冒頭部分です。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

英語の翻訳では下記のように訳されています。

The train came out of the long tunnel into the snow country.(G.Edward訳)

何が言いたいかと言うと、日本語のでこの冒頭を読んだ日本人はみんな、自分目線で情景を思い描くと思います。

汽車に乗っていて、ガタンガタンと暗く長いトンネルが続き、スッとトンネルを抜けたと思ったら、窓の外には一面の雪景色が広がる場面です。

今でも上越新幹線に乗って越後湯沢に行くときにはこんな感じですね。

しかし、英語の方を見ると、言っていることは、「電車が長いトンネルをでて雪国に着いた」です。

非常に客観的な描写というか、ニュースの朗読のような単なる事実の伝達です。

突然目の前に雪景色が広がる感動なんてまったく伝わりません。

なんでこうなるかと言えば、英語には自分目線の主観的な表現方法がないからです。

目線は神様目線というか、どこか遠くから事実を見ているような目線です。

その点、客観的な描写が得意ですから、過去・現在・未来と時制がはっきりしています。

その事実が何時の話なのかというのが文法的に明確に区別されるわけです。

そういった、客観的な言語ですから、言語分析も非常に進歩・整理されていて、明治時代に外国から輸入されて、日本語もその方法で分析されました。

しかし、日本語は全く構造のことなる主観的言語ですから、外国語の分析の手法が上手くいかず、今になっても日本語文法というのは、教科書を一歩離れると学者たちが基本的な部分で揉めています。

そして、明治時代から始まった外国語ベースの言語分析手法の犠牲の1つが、古文の助動詞「き・けり」で、日本語にも外国語と同様に明確な時制があるかのように、「過去を表す助動詞」という整理にされてしまっています。

しかし、実はそうではありません。

日本語というのは主観的ですから、過去・現在・未来なんてはっきりとした時制は持っていません。

その代わり、「彼はモテる」なんて事実を叙述した後に、「らしい」「に違いない」「だそうだ」「かもしれない」などと、主観的な判断を付け加えます。

つまり、叙述する事実が過去・現在・未来のどれかなんて、区分が無いわけではないのですが、主観的に考えれば、過去も未来も不確かであいまいな世界の話であり、自分としては話している内容が、確実なのか、不確実なのか、それがどの程度なのかという判断の方が重視されるわけです。

その結果、日本語の原始的な形態である古文の世界では、べし、らし、む、らむ、けむ、なり、めり、と言ったたくさんの助動詞を動詞の後に着けて、「~にちがいない」から「~の気がする」までの微妙な主観的な判断を付け加えるわけです。

そうしてみていくと、古文の世界で「き」は過去の助動詞と整理され、特に、体験過去とか直接過去なんていわれていますが、本当の意味は「確信」という主観的判断です。

もちろん、昔は物理法則の発見とかはありませんから、内容に確信を持っているというのは、自分が直接体験した事実に使われることがほとんどなので、直接過去と説明してもいいのですが、本来的には文章の前段で叙述した事実に対し、「まちがいない」という確信を付け足すのが「き」です。

高校古文の教科書や参考書において、「き」の説明でよく出てくる以下の文。

「鬼のやうなるものいで来て殺さんとしき」

「き」は体験過去の助動詞だから「鬼のようなものが出てきて(自分を)殺そうとしてきた」と訳します、という説明で終わってしまいます。

しかし、この文は、竹取物語の一節で、車持くらもちの皇子みこという人が、かぐや姫に、蓬莱という場所に行って宝物をとってきたという嘘話を聞かせる場面です。

その一節はもちろん「き」の連発です。

ある時は風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、 鬼のやうなる物出でて殺さんとしき。 ある時は来し方行末も知らず、 海にまぎれんとしき。 ある時は糧尽きて草の根を食ひ物としき。 ある時は言はん方なくむくつけげなる物来て、 食ひかからんとしき。

「き」本来の意味に注意して意訳すると、

鬼が出てきて殺そうとしてきたんです、本当です。また、海で溺れそうになったりもしました、これも本当です。またある時は、食料が無くなって草の根を食べてしのいだりもしました、本当です。さらにある時は、化け物が出てきて食べられそうになりました、これも本当なんです。

と、迫真(?)の嘘話をしている場面で、そこがまた面白いわけです。

このように、「き」というのは、過去の助動詞と言って誤りではないのですが、あくまで、事実の叙述に「まちがいない(確信)」という主観的判断を付け加えるものです。

次に「けり」。

これは、高校古文では、「けり」には二つ意味があって、1.伝聞過去、2.詠嘆、と説明されます。

「き」は直接体験した過去だが、「けり」は人づてに聞いたような伝聞過去であるが、和歌などに使われる場合は詠嘆の意味があるから要注意なんていわれます。

まあ、非常にすわりが良い説明なので、それが誤りであると断じる勇気はないのですが、「けり」だって主観的判断の表明手段です。

では何か。

「けり」というのは「来+有り」が語源とされていて、要するに、「来て今有る」わけです。

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どこからどこに来たんだよと思う人もいるかもしれませんが、主観的な判断なわけですから、当然、意識の外から意識の内です。

したがって、「けり」の本当の意味は「気づき」です。

過去のことだろうが現在のことだろうが、意識の外に合ったものが意識されたときに使う表現です。

訳としては、「今思えば・・・だったなあ」とか、「気づいてみれば・・・だなあ」なんてなります。

明治時代、外国語中心の言語学の影響で、さも当然に日本語にも時制があるかのように「過去の助動詞」と分類されてしまいましたが、過去とは言い切れません(だから、場合によっては詠嘆の意味もあるなんて整理されているわけですが)。

その点を考慮すると、

「花咲きにけり」は、「桜が咲いていた」という過去の事実の叙述ではなく、「桜が咲いている」という事実に、「今気づいた」という主観的な思いを足しているわけです(「に」の説明は省略します)。

「気づいてみれば、もう桜が咲いているんだなあ」という意味です。

今まで意識の外にあった「桜が咲いている」という事実が、自分の意識の内側に入ってきた新鮮な思いを表明しているわけです。

伊勢物語などの、「むかし男ありけり」も、「昔ある男がいたそうだ」でもいいですが、「そうそう、むかしある男がいたんだけどね・・・」という感じなんじゃないだろうか。

非常に珍しいらしいですが、源氏物語には、「(紫上の父親が)明けむ年ぞ五十になり給ひけるを」なんて箇所があるそうで、来年には50歳になりなさるんだったなあ、という未来の話に「けり」が使われています。

「けり」は現代語でも「け」として残っていて、「俺そんなこと言ったっけ?」と忘れていたことが意識の内に入ってきたときに確認の意味で使いますが、「あなた来年厄年だっけ?」と未来のことに使っても確かにおかしくはないですね。

だからやっぱり、「けり」を過去の助動詞と分類するのはおかしくて、「気づきのけり」一本で通した方が良い気もします(伝聞過去や詠嘆という訳がしっくりくる場面も多いですけどね)。

長かったですが、これが「き・けり」の説明でした。

やっと、歌の解説に入れます。

まずは、41番壬生忠見みぶのただみの歌です。

「恋すてふちょう わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」

なんとなくでも訳せそうな簡単な歌です。

「恋すてふ」の「てふ」は、読み方は「チョウ」で、有名な「衣ほすてふちょう」の「てふ」ですが「~という」という意味です。

というより、「と言ふ」が「てふ」に変化したのが語源ですから、そのままです。

したがって、「恋をしているという」という意味になります。

「我が名」の「名」はいわゆる「浮き名」で、評判とか噂の意味。

「まだき」は「未だき=まだその時期になってないのに」という意味で、「早くも」と訳します。

「立つ」は「噂が立つ」です。

「思ひそむ」の「そむ」は「初む」、すなわち「書き初め」の「初む」ですから、「思い始める」「恋し始める」の意味です。

そして、上述したように、「立ちにけり」の「けり」は気づきの「けり」で、「思ひそめしか」の「しか」は確信の「き」の已然形(「こそ」があるので)です。

以上から、

「恋すてふちょう わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」

の訳は、

恋をしているという私の浮き名が早くも評判になってしまったようだなあ(気づき)、人に知られないように注意して、思い始めたばかりだったんだけどなあ(確信)。

となります。

おそらく全く成就していない恋なのにうわさになってしまい、「えー、バレちゃったんだ・・・」という思いと、「誰にも知られまいと用心してたんだけどなあ」という未練のような気持ちが読み取れる歌です。

さて、次の歌は50番、藤原義孝の歌です。

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」

これは、「き・けり」さえわかれば簡単です。

「惜しからざりし」の「し」は助動詞「き」の連体形ですから、「惜しくはなかった(確信)」の意味です。

「長くもがな」の「もがな」は一単語で、「~であってほしい」「~だったらいいな」の意味です。

「思ひけるかな」の「ける」は助動詞「けり」ですから、気づきの意味があります。

以上、

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」

の訳は、

あなたのためには、まったく惜しくなどないと思っていたわが命ですが(確信)、あなたと契りを結んだ今となっては、いつのまにやら長くあってほしいと思うようになったなあ(気づき)。

となります。

2首とも、「き・けり」を過去の助動詞として、客観的な意味を持たせるよりも、「確信」と「気づき」という主観的な判断という本来の意味を意識した方が作者の気持ちが伝わってくる歌だと思い、まとめて紹介してみました。

いかがでしょうか。

なお、川端康成の雪国の話は下記の書籍から引用させていただきました。

この本非常に面白いです。