無差別大量殺人犯が生み出される社会的要因について


本当に勘弁してほしいです。

はじめに

昨日、登戸で小学生を狙った無差別的な大量殺人事件が起きました。

私は実家が近くなので土地勘のある場所とも言え、他の類似事件以上にリアリティを感じることができて、ショックを受けているというか、怖いです。

両手に包丁を持った男が切り込んで来たら、大人でも対応不能と言ってもよく、その恐怖は想像するだけでぞっとします。

被害者のことを思うと言葉が出ません。

そして、大人たる自分が万が一そんな場面に遭遇したら自分に何ができるかと考えると情けなさでいっぱいです。

それにしても、こういった事件はなぜ起きるのでしょうか。

また、社会的要因を巡る分析はうまくいってるのでしょうか。

そこを考えてみたいと思います。

犯罪心理学の限界

以下では、大量殺人犯が生まれる理由を考えてみますが、その前提として、犯罪心理学の限界というものを意識する必要があります。

それは、何が一線を越えさせたかです。

犯人の性格、生い立ち、境遇など、そういった要因に注目して、大量殺人犯の特徴を分析していくわけですが、実は、同じような状況にある人がもれなく殺人鬼になるかと言えばそんなことはなく、むしろ、ほとんどの場合は犯罪者にはなりません。

そう考えると、一線を越えさせた要因、それこそが解明されるべきものなのですが、そこに特異で決定的な要因があることは稀で、個人の性格や人格の問題にせざるを得ない部分があります。

したがって、多様な大量殺人犯を一般化して分析していく過程というのは、似たような話がたくさんできて納得感はあるのですが、どうしても、それはそうだとしても、だからと言ってなぜ通り魔事件を起こすのかという根本的な疑問というか飛躍のある部分は解消されるわけではありません。

そこを、精神的な病気とするのか、人格の問題とするのか、じつはそここそが、予防的な観点からも本当の問題なのかもしれません。

とはいえ、足元から少しずつ考えてみます。

要因1:回生への悲願

まず、人が殺人鬼に変貌する理由には、「自分の人生はこんなはずじゃなかった」という絶望があると言われています。

前提として長期間に及ぶ欲求不満があり、しかし、時間の経過とともに現状が固定化し、それが解消する見込み、人生を逆転させる見込みがないという事実が徐々に明らかになり、現実性を持って迫ってくる。

そして、人生に対する絶望や悲哀が行くところまで行って、「こんなはずじゃなかった、できることなら・・・」といった回生への悲願となって爆発し、現実の自分を殺したときに、人は鬼になります。

要因2:自己愛と他責性

自分の人生に絶望したときに、自殺するというのは分かりやすいです。

しかし、それが他者に向かう場合があります。

その理由は、自己愛と他責性という裏表の性質が登場します。

他責性とは、なんでも他人や社会といった他者のせいにする傾向をいいます。

自分の人生に絶望し、こんな自分は生きていても仕方がないと悲観するのは自然の流れです。

しかし、ここで自己愛が強いと、話はそう簡単にはなりません。

自己愛が強いと、「本当の自分」という華やかな自己イメージを持っており、現実の自分との比較ができますから、「こんなはずじゃなかった」という思いの延長で、「本来ならもっと輝けたはず」という自己肯定感があります。

そうすると、なぜ現実の自分と本当の自分の間に乖離が生じたのか、それは社会が悪いとなります。

ここの自己愛と他責性はまさにループ現象で、相互に補完し合って、社会への憎悪を増幅させることになります。

要因3:恨み、妬み、憎悪

他責性は欲求不満を社会への憎悪へと転換します。

しかし、それとは別に、持って生まれた身体的特徴、生い立ち、境遇などに問題があると、自分が持ってないものを持っている他者を妬み、恨み、そういった差別を許容している社会を憎悪するようになります。

ここは、他責性と区分があいまいなところもありますが、理論上は分けるべきだと思います。

例えば、容姿が優れなくて彼女ができないといった場合に、これをもって、容姿が悪くても恋人を作った人はたくさんいて、彼女ができないのを容姿のせいにするなど、他責性がみられるなんて言うのはさすがに酷だと思います。

もちろん、だからと言って社会を憎むことを肯定するわけではありませんが、自己愛により自己イメージを持っているのに、それが実現できなくて絶望したとき、生い立ちや境遇の不幸があり、恨みや妬みに基づいて社会を憎悪するのは、他責性とは思いません。

いずれにせよ、自分の力でどうすることもできなかった生い立ちや境遇に関する恨みや妬みは、社会への憎悪を抱く大きな理由の一つだと思います。

そして、大量殺人にも本当に誰でもよかった場合と、特定のターゲットがある場合があり、特定の層を意図的に狙う場合は、恨みや妬みに起因する社会への憎悪が大きく影響している可能性があります。

要因4:芽生えた攻撃性

現実の自分に絶望し、自分なんて生きていても仕方がないと自殺を決意する。

あるべき自分になれなかったのを社会のせいにして、社会への憎悪から、他者の殺害を企てる。

全然違うようですが、実は、方向性が自分か他者かというだけで、心の中に過激な攻撃性が芽生えている点は変わりません。

つまり、人生に悲観して、自殺しようとした人も、「こんな自分生きていても仕方がない」という思いは自分に対する攻撃そのものですから、「なんで自分だけ死んで終わりなんだ」と、他者の道連れを思いつくのは、決して飛躍ではありません。

攻撃性に囚われ、心は真っ赤に染まっていますから、自殺と他殺は対象が違うだけで、同じ揺らぎの中にあり、決して遠い話ではありません。

つまり、一般人としては、自殺を考えたことがある人は数あれど、通り魔を考えたことがある人なんてほとんどいないように、自殺と他殺の間には大きな断絶があるようですが、実は、自己愛の強い人間が人生に絶望したときに、最初は自殺願望だったはずが、攻撃性に心をハイジャックされた結果、いつのまにか、社会への憎悪と相まって、他者への攻撃に打って出るというのは、決して大きな飛躍ではありません。

要因5:社会的な孤立

自分の人生に絶望して、自分なり他者なりを攻撃する決心をしても、自分の居場所、自分が所属するコミュニティがあれば思いとどまる要因となります。

失うものがあれば、抑止力になります。

しかし、社会的に孤立し、自分をつなぎとめるものが無い場合、心の中に芽生えた攻撃性を実現する過程に障害が無くなります。

要因6:きっかけ

以上のような要因がそろったと場合、ふとしたきっかけで爆発します。

解雇・失職、ネット掲示板での荒らし、などほんのちょっとしたものだけど、本人にとっては、唯一と言ってもいいような社会とのつながりが切れた瞬間に、爆発します。

こうして大量殺人事件が起きます。

もちろん、上述したように、同じような要因がそろっても、ほとんどの人は大量殺人なんて起こさないし、その中で限られた一部の人だけが一線を越えるわけで、その要因の分析こそが重要なわけですが、そこに決定的な外部要因が働いていることはまれで、最後の防波堤がないといった個人的な人格・性格の問題であるとしか言えません。

要因まとめ

以上のように、まず最初は、長らく続く欲求不満、それが解消する見込みがなく、絶対的な絶望を経て、こんなはずじゃなかったと回生の悲願となり、自分を完全に否定するようになります。

そして、こんな自分は生きていても仕方がないと自殺願望が生じるのですが、それは自分への攻撃そのものであり、その本質は攻撃性であって、向かう対象は二次的な物ですから、他責性や社会への憎悪により、その攻撃性は容易に他者へと移ります。

そして、社会から孤立した生活を送っていて、帰属する場所が無い場合、一線を越えるハードルはぐっと下がり、ふとしたきっかけで一気に爆発します。

これが、無差別大量殺人の基本的な要因かと思います。

時代背景を考える

以上が、犯罪心理学などの本を読むと大体書いてある、大量殺人犯の要因分析です(区分方法はいろいろありますが)。

納得感はありますが、それらがそろっても行為に及ばない人もたくさんいるわけで、やはり一線を越えるという決定的な要因についてはモヤモヤが残ったままなわけですが、背景分析としては、そうなんだろうなと思います。

しかし、問題は、現代を生きる私たちにとって、こういった要因を分析していくと、現代社会がその要因を加速する状況になっているというか、こういった大量殺人犯が生まれる要素が強まっている気がすることだと思います。

いつの時代も凶悪犯罪というものはあると割り切ることも可能なのでしょうが、そうはいっても、現在を生きる人間の肌感覚として、こういった犯罪が今後ますます増えそうな実感があるかと思います。

社会は間違いなく生きづらくなっていて、社会に不満を持つ人間も相当多くいるような気がします。

以下では、一体それがなぜかを考えてみます。こっちがメインです。

ポイントは、肥大化する自己愛です。

現代病1:神聖なる自己

日本人精神の強調による全体主義傾向の強かった戦前への反省・悔恨から、戦後は多様性を軸とした個人主義が盛んに喧伝されました。

しかし、社会はこうあるべきという理想を掲げすぎると、同意しない人間は排除するという、結局また全体主義になってしまいますから、それは巧妙に避けられました。

そこで、社会運動家の人達は、女性、LGBT、貧困層などの弱者を担ぎ上げ、その人たちの苦しみを代弁することで社会を糾弾し、変革を迫り、多様性を尊重し弱者にやさしい社会が目標として掲げられました。

その結果、出来上がった現代社会の特徴は、とにかく人を傷つけてはいけない、です。

セクハラ、パワハラ、モラハラなどのハラスメントブームに代表されるように、弱者の保護が行き過ぎて、「究極的には相手が不快だと思ったらハラスメントと言わざるを得ない」などと専門家が真顔で言うところまで来てしまいました。

また、専門家たちによって、保護すべき弱者が次々と生み出されています。

心の専門家たちによると、空気を読めず他者と協同できない何とか症候群、何度説明されても同じ間違いを繰り返す何とか障害、他者の発言や行動に過度に繊細な何とか過敏症候群など、様々なカテゴリーが作られ、「普通の人」はそういった人たちの個性を尊重しなくてはならず、自分の当り前を押し付けてはいけなくて、社会に無数に存在するマイノリティに、個別的に配慮した行動を求められます。

そういう人たち相手に声を荒げて怒ったりするのなんて論外で、相手のことを慮ったばかりに、あなたも社会に合わせて行動するべきだなんて発言するのもタブーであり、世間からは弱者に共感できない人非人と非難され、専門家からは、問題を個人に帰着させる態度こそが社会問題の解決を阻害してきたのにそれを理解しない愚か者と非難されます。

このように、人を傷つけることは絶対悪であり、常に傷つけた方が悪いとなっていて、その裏側で、「自己」というものが道徳ピラミッドの頂点に君臨する神聖なものとなっているのが現代社会です。

現代病2:効率至上主義

現代社会はマクドナルド化社会などといわれますが、社会の効率化重視で動いています。

電車に乗ること一つとっても、列を作って待ち、まず降りる人が先でその後から乗り込む。

場合によっては、行先別に複数の列を作って待ったりします。

そんな感じで、個人個人が思いのままに電車のドアに殺到して混乱が起きるような事態は避け、皆でルールを守って、社会全体の効率的な運営を参加者の一人一人が心がけています。

しかし、これは本来自発的な協力であるはずなのですが、今では、ほとんど義務のような強制力を持って私たちに迫ってきています。

そして私たち自身、そういったルールを守らない人たちに対して、ルールを守らない不届き者として、イラつくようになってしまいました。

こういった、効率化強制社会を導いた原因の1つとして、心理学者とか精神科医とか心の専門家と呼ばれる人たちがいます。

数十年前から、心の専門家たちが、精力的に、「職場にいる困った人達」、「身近にいる迷惑な人々」などといった本を書き、最近は読み捨て上等のくだらないネット記事をまき散らしています。

しかも、昔は数パターンくらいしか紹介されていなかったのが、最近の困った人図鑑では、数十パターンも紹介されています。

私たちはそれを読みながら、「いるよねー、こういう人」と留飲を下げながら、その一方で、自分はそうなってはいけないと心に留めます。

そして、心の専門家と称する人たちが、そういう「困った人」がなぜそういう行動をとるのかその原因を分析しながら、遭遇した場合にどう対処すべきか、テクニックを伝授してくれます。

また、自分が「困った人」にならないように、自己分析なるものを通して、うまくいかない時にネガティブになってチームのムードを下げたり、調子のよいときに図に乗って周りから嫌われたりしないように、自己をコントロールするテクニックも伝授してくれます。

まさに心理学全盛時代です。

これの何が問題かというと、暗黙裡に、社会公共生活の事務処理が滞りなく流れることを無条件の是としていることです。

学校、職場、家庭、個々人が所属している具体的な組織には全く問題などないかのように、個人は自分をコントロールして、その組織に既存の業務がスムーズに流れるようにしなくてはいけない雰囲気を無意識下に作り出してしまいます。

個人の尊重、個性の重視で、自分らしく生きることが尊ばれるはずが、その一方で、自分と他者や社会の衝突が起こった場面では、心の専門家たちが、社会の効率的な運営を害しないように、自分をコントロールするテクニックを教え、要するに個人を社会の歯車に押し込むわけです。

他人を尊重するのですが、自分を尊重しない不届き者が登場したときには、キレたり落ち込んだりして「困った人」になってはいけず、自分を押し殺して、全体の効率的な運営のために貢献しなくていけません。

このように、心の専門家たちが、相手を理解する、自分を理解するなど、個人に着目しているようで、その実、私たちを没個性の歯車に押し込んでいます。

現代病3:希薄なコミュニケーション

以上をまとめると、現代社会の特徴は2つです。

1.神聖な他人の自己を絶対に傷つけてはいけない。
2.社会の効率的な運行を阻害してはいけない。

このように、自分以外には無数の個性がある中で、その個性を尊重し、絶対に他人を傷つけないようにしながら、その一方で社会の円滑な運行を妨げないようにするにはどうすればよいのか。

もう無関与・無関心しかありません。

触れ合いは最小限にして、極力深入りするのは避ける以外に方法はありません。

突っ込んだ会話はプライバシーの侵害だし、自分の喜びを伝えるのは自慢話で上から目線だし、もう何もできないので、ひたすら無関心を貫き、どうしても付き合わなければいけない場合は、相手の話の腰を折らず、否定せず、とにかく相手を「承認」してあげるという、薄っぺらいコミュニケーションになります。

相手を怒らせるのもダメですが、自分が怒って組織運営に影響を阻害してもいけませんから、他人とは極力かかわらないに越したことはありません。

その結果何が起きるかというと、他者との軋轢が減りますから、自分が否定されることはほとんどなく、仮にあっても傷つけた人が絶対悪ですから、一人一人の中で、自己愛、自己肯定感が肥大化するわけです。

現代人が、ちょっとのことで傷ついたり、キレたりするのは、自己管理能力が低下したのではなく、「自己」の価値が高まり、神聖な存在となっているため、それを傷つける罪の大きさが増していることの必然的な結果なわけです。

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子供が道路でボール遊びをしていて、そのボールを自分の車に当てられたら誰でも怒りますが、その車が、もうポルシェどころでは済まない高級車だったようなものです。

会社で部下の明らかなミスを注意しても、注意の仕方には細心の気配りが必要で、少し間違えると、ミスしたことは謝りますが、そんな言い方は無いんじゃないですか、俺に対するリスペクトが足んねーんだよと逆ギレが始まり、当人は本気で怒り、非常に面倒な事態になります。

このような事態を避け、個人を尊重しつつも社会の効率的な運営を両立するには、無関与・無関心しかなく、「困った人」を刺激したり、自分が「困った人」になったりしては、社会に迷惑ですから、誰もが他人に対して、はれ物に触るかのようになっていて、その裏側で誰もが「神聖な自己」について、自己愛や自己肯定感を深めていきます。

さらに、学校などでは、自分という存在の尊さや無限の可能性などをやたらと説きますから、自己愛バブルは止まりません。

そして、そういう人が、小さな挫折を繰り返し、傷つきながらも自己イメージを修正し、現実の自分を受け入れていくというプロセスを経ないで、突然、現実社会で挫折や喪失を味わうと、立ち直れません。

自己愛が強く、輝かしい自己イメージを持っているため、「こんなはずじゃなかった」という思いも深まるし、自己肯定感が強いゆえに、それは社会のせいということになってしまいます。

このように、社会で挫折を味わった人たちの社会への憎悪が強くなっているのが、現代社会です。

そして、その原因となっているのは、個人の尊重を叫び、また心理学的なアプローチで個人の悩みを解決しようとしている専門家と呼ばれる人たちなわけです。

本人たちが、そこに気づいていないのが一番の問題です。

現代病4:専門家の悪循環

最近の若者はコミュニケーション能力が低いとか、人間関係が希薄化しているなどといわれます。

しかし、上で見てきたように、戦前の全体主義傾向への反動としての行き過ぎた個人主義と社会の効率至上主義の結果、そのようにふるまわないと生きていけないから、そうなったわけで、現代社会に適応しているだけです。

つまり、現代の若者のコミュニケーション能力に問題があるのではなく、私たちやその上の世代が作ったおかしな世の中に適応しているだけです。

しかし、当の社会学者や心理学者たちは、自分達のせいでそうなったなど微塵も思わず、「なぜ」を探求します。

そして、エビデンスだファクトだと科学的アプローチを貫こうとするのですが、社会というマクロ環境のカオスさに耐えられる人はほとんどいなくて、結局、安易に個人に帰着させる方向に向かう人が多数派で、現代社会の希薄なコミュニケーションについて、「現代人のコミュニケーション能力はなぜ低下したのか」という個人中心の問題提起に無意識でしてしまうわけです。

他者を尊重する社会の実現や、ストレス社会の中で上手に自己管理して心を病まない個人の実現、そういった個人救済の活動の結果、かえって社会の中でコミュニケーションが希薄化したなんて結論には到達できず、あくまで、何らかの外部的要因(スマホとかゲームとか)で、現代人のコミュニケーション能力が低下し、その結果として人間関係の希薄な現代社会があると、原因と結果を逆転させてしまいます。

そして、現代人は臆病で自閉的であり、傷つくのを恐れていて、その結果として、相手に本音をぶつけるのが苦手で、上辺だけの薄っぺらい人間関係で満足してしまうなんて言い出します。

他人を傷つけては絶対にいけない、自分が傷ついたときには自分をコントロールして全体のために行動しなくてはいけない、というおかしな社会を自ら作り出しておきながら、その社会に必死に対応している若者を批判してるわけです。

しかし、当の本人たちは、「なぜ、現代人は臆病で自閉的なのか」という問いに全力投球し、科学的に思考する結果、どこかに原因を見出さずにはいられず、結局、幼児期決定論が登場することになります。

そして、臆病で自閉的なのは、自己愛・自己肯定感が足りないからであり、それは、幼少期に親が子供の自己愛や自己肯定感をうまく育てなかったからとなり、そこで登場するのが、叱らずに徹底的にほめて育てるという子育て法です。

子供を徹底的にほめてその承認欲求を満たすことで自己愛を育て、学校では自分という存在の尊さを教え込み、その無限の可能性に気づかせる。

そして、学校や人間関係でトラブルが起きても、とにかく、あなたは悪くないと取り扱うことで、自己の喪失を味わうことなく、自己愛を肥大化したまま大人になります。

こうして、社会で生きる個人の自己愛はますます強まり、お互い触らぬ神に祟りなしで、余計にコミュニケーションの希薄化は加速していきます。

現代病まとめ

以上みてきたように、個人の尊重される真の個人主義社会を目指した結果、それが行き過ぎて個人が神聖化され、個人の自己愛が肥大化しています。

そして、社会の効率化が進む中で、個人の尊重と両立させるために、コミュニケーションの希薄化を招き、他者との軋轢が少なくなった社会でますます、自己愛は肥大化します。

そして、個人の尊重と社会の効率化の両立が生み出したコミュニケーションの希薄化だったのに、現代人の性質が故のコミュニケーションの希薄化であるかのように、やたら個人に原因を帰着させるアプローチの結果として、原因と結果を逆転させて、現代人は臆病で自閉的であり、自己愛が足りないから、幼少期から徹底して自己愛を育てることが必要となってしまいました。

このようにして、自己愛バブルとそれがもたらすコミュニケーション不全の相互補完が止まらないのが現代社会の特徴で、肥大化した自己愛を抱えつつも、挫折や喪失による自己イメージの修正を伴わないまま大人になる子供が増え、急に理不尽な社会に放り出され、自己イメージと現実の自分との乖離に悩んだときに、強い自己愛故に、社会への不満・憎悪を募らせるという構図が出来上がっているわけです。

そして、この構図の根底にあるのは、専門家たちの、やたら個人に問題を帰着させるという態度にあります。

一人一人が「個人を尊重する人間」になれば必然的に「個人が尊重される社会」が実現されるかのような合理主義というより楽観主義が思考様式の根底に沁みついていて、社会あっての個人という前提と、その社会がどういうものであるかという視点が欠如している気がします。

その結果、個人の尊重を促したら、他者が偉くなりすぎて、コミュニケーションを避けるようになったといった、よく考えてみるとわかりやすい構図にすら気づかず、コミュニケーションの希薄化した社会の原因として、コミュニケーション能力の低下した個人という安易な個人への帰着をしてしまいます。

そして、何でも個人に帰着する誤ったアプローチを盲目的に続け、社会の中で行き詰まる個人を大量生産しているわけです。

理不尽な社会

以上、大量殺人犯の殺意が他者へと向かう要因として存在する自己愛・他責性に関して、現代社会が肥大化した自己愛モンスターを育てる原因を考えてみました。

なにも、自己愛や自己肯定感を持つことがいけないと言ってるわけではないし、私を直接知っている人は知っているように、私なんてまさに自己愛モンスターで、私に対する不敬罪でよく他人にキレます。

しかし、現実の自分を、幸せな部分を恵まれた環境のせいだと思うところもありますが、不幸な部分について社会のせいだとは思いません。

社会というのは理不尽なもので、究極的には個人が受け入れざるを得ないという点は理解しているからです(もちろん、決定的に不幸になっていないというのもありますが、どんなに落ちても通り魔なんて絶対に起こさないと自信を持って言えます)。

社会の構造的な要因から生まれた弱者に他を差し伸べることも重要ですし、他人を尊重することも大事だし、自分を肯定することも大事です。

しかし、自己イメージがそのまま実現することなどほとんどないし、子供は大人へと成長していく過程で、理不尽な挫折を受け止め、現実の自分を受け入れなくてはいけない。

傷つきやすい人は生きづらいのが当然なのか、そんな社会が悪いのか、また、個人の自己責任の問題か社会の構造的な問題か、そんな神学論争とは別に、現実として、他者へのやさしさが、その者の現実適応能力を奪い、殺人鬼とまではいかないけど、社会を憎悪する人間を生み出していることだけは認識しないといけないと思うわけです。

それをあきらめと呼ぶのかどうかはさておき、現実は理不尽なものであり、社会を変えるのも、その現実を受け止めた上での話です。

自己愛を育てるのであれば、それと同時に、自己実現しないという挫折への適応も教える必要があると思うわけです。

やさしさの功罪

今回のニュースでもさっそく専門家がおかしな「やさしさ」を見せ始めています。

犯人に対して「死ぬなら一人で死ね」と言わないようにと注意を促す専門家が出てきました。

曰く、今回の事件の犯人と同じような状況の人はたくさんいて、その人たちに「死ぬなら一人で死ね」と言うと、社会は結局手を差し伸べてくれないというメッセージを与えることになり、次の凶行を呼びかねないからということらしい。

テロリストを非難すると、怒ってテロが起きてしまうかもしれないから、テロリストを刺激するのはやめようということか。

テロリストになったのはかわいそうな生い立ちや境遇のせいであるのだから、必要なものは非難ではなく、やさしさであると。

こういう人達って、本当に他者を尊重しているのだろうか。

してないけないことの一線を越えるのは、その人の意思であり、後戻りできるのに戻らなかったのは、生い立ちや境遇ではなく、その人の意思の実現。

ほとんどの人は、不幸な境遇にあっても、無差別殺人なんて起こさない。

そして、「死ぬなら一人で死ね」なんていうと、新たな凶行が起こってしまうから配慮が必要なんて主張するのは、不幸な現実と闘っている人たちの自尊心を踏みにじる言動以外のなにものでもない。

ほとんどの人は、境遇を嘆き、社会に不満を持ち、自己責任論に不快感を示しても、だからといって、何の罪もない小学生の列に包丁振り回しながら突っ込むほど人間性を失ってはいない。

また、どんな理由があれ、何の関係もない小学生に切りかかることを正当化する理由にはならないし、社会の構造的な問題や、制度の欠陥なんて関係ない。

もし自分にやさしくしない現実が気に入らないからといって凶行に及ぶなら、しかるべき制裁を持って社会として受けて立たなければいけないし、刺激した社会が悪いなんて言説を絶対に容認してはいけないと思います。

そここそ個人の尊重の話で、大人が自分の意思で実現するのだから、それは個人の問題。

自分の意思で一線を越えておいて、社会のせいなんて言うのは許されない。

モンスターを刺激すると暴れるから、社会全体で言うべきことを言わずに我慢して、そのモンスターに配慮すべきなんて、そいつをモンスターにしたのはあんただろと言いたい。

おわりに

昨日起きた事件がショックだったので考えてみました。

こういう事件は本当になくなってほしいですね。

これで最後にしてほしい。

しかし、現実的な話をすれば、必ずいずれどこかで起きるとも言えます。

しかし、対策を練って防止しようとしても限界があります。

何かしなくてはいけないのかもしれませんが、学校関係者、地域社会、警察、役所、その負担は既に限界まで来ていて、負担をこれ以上増やしても社会全体が疲弊するだけで終わるかもしれません。

大人が、包丁を持って数十秒間振り回すのなんて、あっという間の出来事であり、本質的に防ぎようがなくどうしようもないです。

しかし、こういう犯罪を生み出す社会的要因があったり、強まったりしているのであれば、よく考えないといけません。

その点、その主役たるべき、専門家の先生方が、どうも根本からアプローチを間違えているような気がするのでこの記事を書いてみました。

参考文献


この本は面白いです。

日本で起きた有名な無差別大量殺人事件について、レヴィンとフォックスの6要因というフレームワークに沿って分析していく本です。

どの事件も同じフレームワークに沿って説明していくので、非常に論理明晰で素人にもわかりやすく読めます。

なにより、事件の整理が上手い。

もっとも、そのフレームワークにとらわれ過ぎというか、無理やりはめ込んで6つの要因全てが充足しているかのような展開を見せるところもあり、ちょっとフレームワークをリスペクトし過ぎな部分もある。

記事内にも書きましたが、容姿のせいで彼女ができないという悩みを、容姿のせい⇒両親のDNAのせい⇒他責傾向がある、なんていうのは酷だし何より強引な推論だと思う。そこは他責性とは言い切れないでしょう。

また、拡大自殺や投影といった概念も、やたら強調する割には、この著者が心の底から理解しているのか読んでいて疑問で、フロイトとか著名人が提唱していて、精神科医として重要な概念として扱わざるをえないから、その教科書的な内容をコピペしているだけのような気がして、どうも腑に落ちない。

文章が非常にわかりやすい文、分かりにくいところは、本人が分かってないんじゃないかと勘繰ってしまう。


この本は超面白いです。この記事の実質ネタ本です。

もう何度も読んでいて、部分部分はおもしろく、なるほどと膝を打つことも多いのですが、ただ、どうも全体として読むとまとまりがないというか、話があっちこっちに行く気がして、スーッと頭が整理された気にならないのが難点です。

個々の視点は鋭く、挿入されるエピソードも面白いのに、言いたいことがありすぎて、まとまりというか、議論の流れが失われているような気がします。

ということで、パーツパーツはこの本からだいぶパクりましたが、全体の流れは私が大幅に再構成しているので(?)、パクリではなく、参考文献です。