百人一首解説のその3です。
今回は、鎌倉右大臣(93番)と崇徳院(77番)ですが、共に悲劇の人生を歩んだ人のやるせなさが感じ取れる歌です。
鎌倉右大臣というのは、源実朝のことで、ご存じように鎌倉幕府の3代目の将軍であり、最後の将軍です。
崇徳院も、悲運な人生を送り最終的に保元の乱を経て四国に島流しにされそこで亡くなる人です。
そして、この2首はともに、訳すのは簡単なのですが、背景を考えると、表面的には分からない部分が見えてくる歌なので選んでみました。
まずは、93番の鎌倉右大臣の歌。
『世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも』
この歌は、難しい歌ではないのですが、上の句に、「もがもな」という変な語句が登場するため、そこからの先の句が全然頭に入ってこないという歌で、古文でも英語でも、分からない単語が一つでもあると読む気が失せてしまうという文章のお手本のような歌です。
さて、問題の「もがもな」ですが、も(強調)+がも(願望)+な(詠嘆)で、何々だったらいいのになあ、という意味です。
つまり、上の句の「世の中は常にもがもな」というのは、世の中が常だったらいいのになあ、という意味です。
まあ、そこで「常」とは何だとなるわけですが、「常」とは「無常」の反対語で、まあ、「無常」こそが「常」の反対語なわけですが、諸行無常の「無常」の反対です。
しかし、よくよく考えてみると、「無常」ってそもそもどういう意味なのかと疑問になります。
これは、常ならず、すなわち物事が変わり続ける様を意味し、それがあわれなのですが、幸せが続かないのは嫌でも不幸が続かないことはうれしいことのような気もします。
そういう意味では、無常というのはプラスマイナスゼロなはずですが、どうも少し物悲しいイメージがあります。
これに関して、私が思い出すのは、学生時代に出会った国語の問題。
堀口大学という変な名前の詩人の詩が問題文で、穴埋め問題です。
【問題文】は下記。
彼等はよく知る、よろこびに果てあることのかなしさを
彼等は知らず、かなしみに果てあることのXを
【問題】はXに入る語句を書けというもので、私は3秒くらいで、なにこれ楽勝じゃんと、「よろこび」と書きました。
まあ、もちろん間違いで、正解は、「かなしさ」です。
詩人には、よろこびの果てあることも、かなしみの果てあることも、ともにかなしいのです。
詩人たるもの、喜怒哀楽で一喜一憂などしません。
喜びだろうが哀しみだろうが、損得的な見方はせず、その瞬間瞬間の心に起こる気持ちや感情に深く向き合う人たちであり、心の底に生起し自分を深く捉えた感情が、時間の経過とともに薄れていく悲しさを綴った詩なわけです。
まあ、詩人とは言え、素人への当てつけみたいなこんな詩を書いて嫌味な奴だなとは思いますが、それはさておき、諸行無常の無常もそれと同じで、幸せは長く続いてい欲しいとか、不幸は忘れたいとか、そうではなく、物事が生々流転して変わっていくこと、何一つとしてそのままではあり得ないことに「もののあはれ」を感じているわけです。
話がそれて長くなりましたが、「世の中は常にもがもな」というのは、世の中が無常ではなく常であってほしい、つまり、世の中がいつまでもかわらず平穏だったらいいのになあ、という意味です。
そして、「もがもな」をクリアすれば続く「渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」は簡単です。
なお、小舟は「をぶね」です、こぶねとは読みません。
「綱手」は「つなで」で、船を引っ張る綱のことであり、「あま」は「海人」で、漁師のことです。
つまり、渚を小舟が漕いでるのですが、それを陸からも綱で漁師たちが引っ張ている風景で、それが「かなし」といってるわけです。
しかし、この情景を見た実朝の気持ちを巡って大きく解釈が分かれることになります。
高校生用の古語辞典なんかを引くと、「かなし」には二つの意味があるから要注意なんて書いてあります。
つまり、「かなし」には、「愛し」と「悲し・哀し」の二つがあることになっています。
「愛し」は「かなし」と読みますが、意味は「いとおしい」です。
そして、「愛し」の用法の例文でこの歌が挙げられていたりします。
学習用古語辞典の例文に採用されることから分かるように、この歌の最後の「かなし」を「愛し」で訳すのが主流派です。
実朝は、若くして将軍に担ぎ上げられましたが、28歳にして甥の公暁に殺される人で、征夷代将軍になったときからすでに北条氏の傀儡であり、自分の行く末は分かっていたと言われています。
そんな悲劇の政治家ともいえる実朝が、漁師たちが汗を流しながら釣り船を引っ張ている様子、つまり漁村の日常風景を愛でていると解釈するわけです。
そうすると、この歌の訳は下記のようになります。
世の中がいつまでも変わらずに平穏であったら良いのになあ、渚で漁師たちが船を綱で引っ張ている日常風景のなんと穏やかでいとおしいことよ、となります。
そして、このように訳すにも補足理由もあって、万葉集に、「常にもがもな」や「綱手かなしも」を使った元歌があるわけですが、それらは日常生活の喜びを幸せに歌う歌なわけです。
それを、引用したわけですから、同じような意味で訳するというのは理解できます。
しかし、私はこの訳し方はどうもしっくりこないのです。
この歌を詠んだ源実朝は、2代目将軍であり兄でもある頼家が暗殺された後12歳で将軍にされますが、歌が好きで、本当は侍を指揮したりするよりも、本を読んだり和歌を詠んだり、書斎で穏やかに過ごしたかった人でした。
歌が好きだったので藤原定家の弟子になりますが、一度も会うことはかなわず、なぜかと言えば、一度も鎌倉から出たことが無いからです。
自分の歌を京都の定家の下に送って添削してもらったり、送ってもらった『新古今和歌集』を大事に読み込んだり、弟子とは言えほとんど独学で、最後まで夢はかないませんでしたが、鎌倉にいながら、京都の歌壇文化に憧れていた人でした。
しかし、将軍に担がれてからは、父である頼朝の旧臣達が続々と粛清されていく中で、いずれ自分も北条氏に殺されることは覚悟していたとされ、実際に、色白の文学青年というよりは、最後の瞬間まで将軍として堂々たるふるまいを見せます。
とはいえ本当のところは、自由に別の人生を歩みたかったはずです。
そんな悲劇の将軍が、釣り船が綱で陸から曳かれているのを見たとき、いとおしい日常風景なことよと愛でたとは個人的には思えません。
本来は波の上で躍動するはずの釣り船が、渚で漁師たちに陸から綱で引かれている風景を見て、自分と重ね合わせて切ない気持ちになったとと解釈するのが私は好きです。
とするならば、「かなし」は「愛し」ではなく「哀し」なのかと二者択一になりそうですが、そうではなく、本当のところ、当時の「かなし」は、「愛し」でもあり「悲し」でもある、二つが合わさったような気持ちなんだと思います。
急にポップな感じになりますが、メランコリックでセンチメンタルな気持ちであり、心の底で複雑な感情が生じたときの表現だと思いますが、うまく訳せません。
自分の境遇と運命をよく理解していた実朝は、釣り船が漁師たちに陸から綱で引かれている風景を見て、自分と重なり、胸を締め付けられたのだと思います。
だからこそ、あえて幸せいっぱいの万葉集の歌から表現を借りたのだと思います。
白洲正子女史が、百人一首を1首1首解説するものの、現代語訳を載せないというなかなか意地悪な本を書いていますが、この歌の箇所では、背景を延々と語りながら、歌の意味について、他の歌でも現代語訳は極力避けてきたが、この歌に関しては大体の意味さえ述べることは不可能であるとしています。
私も、漁村の日常風景を愛でているとおめでたく訳すには違和感がありつつ、代わる訳が見つからないので、その流れに乗りたいと思います。
結局、『世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも』ですが、
世の中がいつまでも変わらずに平穏であったらよいのになあ、本来は渚を漕いでいるはずの小舟が今日は綱で漁師たちに曳かれているが、なんと胸を打つ光景であることよ。
としておきます。
まあ、どっちが正しいとかは無粋ですけどね。
続いて、77番の崇徳院の歌。
『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』
これは、前回の記事で説明しましたが「むすめふさほせ」の「せ」ですから、百人一首初心者必修の歌であり、かるた競技では、読み手が「せ」と発音した瞬間に、「われてもすえにあはむとぞおもふ」という札を弾かなくてはいけません。
この歌も最初が分かれば簡単な歌です。
「瀬をはやみ」というのは分かりにくいですが、古文の世界で「XをYみ」というのは「XがYなので」の意味で使われ、「瀬をはやみ」は、瀬が早いので、つまり、川の流れが速いので、という意味になります。
なお、ほかの歌に登場する、「苫をあらみ」は、苫(植物を編んだ衣服)が粗いので、の意味であり、「風をいたみ」は、風が「いたし」なのでという意味で、いたしは「甚だしい」という意味ですから、「風をいたみ」は、風が激しいので、という意味になります。
「岩にせかるる」の、「せかるる」は「せく」+「る・らる(現代語の「れる・られる」)」で、「せく」は川を堰き止めるの「堰く」なので、岩に堰き止められる、という意味です。
つまり、川の急流の真ん中に大きな岩があり、その岩で水流が二つに割れる様を歌っているわけです。
下の句の「われても末に逢はむとぞ思ふ」は、そのままで、今は分かれてしまったが、行く末はかならずや添い遂げようぞ、という意味です。
「逢はむ」の「む」も、文字にすると分かりにくいですが、現代語の「ん」であり、「いざ、戦わん」というときの「ん」です。
一人称で「いざ、戦わん」は意志、二人称で「一緒に戦わん(か)」は勧誘、三人称で「彼は戦わん」となれば推量です。
現代語かどうかは怪しいですが。
とすると、『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』の訳は、
流れが速い川瀬の水流が、岩に堰き止められて二つに分かれてもいずれ合流するように、私たちも今は事情あって離ればなれになっているが、将来のどこかで必ずや添い遂げようぞ、という意味になります。
間違いなく恋の歌です。
そして、そのまま恋の歌と解釈するのが主流です。
しかし、崇徳院の境遇なんかを考えると、恋の歌を装っているものの、裏側にある別の意味が見えてくるのです。
この崇徳院、退位したから院号で呼ばれ崇徳院とされますが、5歳から22歳まで崇徳天皇でした。
父は鳥羽上皇のはずなのですが、母親である璋子さんが、結婚前に白河院の養女であったことから、実の父は白河院と言われていて、実際に白河院の後ろ盾で幼くして天皇になりますが、父親であるはずの鳥羽上皇には疎まれていました。
そして、白河院が亡くなり、鳥羽上皇の寵姫である得子さんという人が皇子体仁(としひと)を産むと、崇徳天皇は鳥羽上皇と関白藤原忠通に無理やり退位させられ、この体仁が即位します(近衛天皇)。
つまり、父親に疎まれるどころか無理やり弟に帝位を譲らされるわけです。
そして、それから十数年後、近衛天皇が亡くなってしまうのですが、子供がいなかったため、順番的に崇徳院の御子重仁が即位するはずなのに、得子さんと関白忠通は、自分達に恨みを持っている崇徳院の力が強くなるのを恐れ、側近だけで事をまとめ、崇徳院の弟(同母弟)である雅仁を皇太子でもなかったのに即位させます(後白河天皇)。
自分の出生という、自分ではどうにもできない事情により、父親とその寵姫に自身が帝位を奪われるだけでなく、自分の息子の即位まで奪われるわけです。
しかし、新体制が固まらないうちに、鳥羽法皇(この間に上皇から法皇になってる)が病に倒れると、藤原氏の内紛もあって、一気に政情が荒れだします。
そして、鳥羽法皇が亡くなると、鳥羽法皇派のこれまでの仕打ちに鬱積していた崇徳院は一気に動き、関白藤原忠通の弟である左大臣頼長とともに、帝位奪還の謀反を起こします。
これが保元の乱といわれるものですが、激戦の末に敗れてしまい崇徳院は四国の讃岐に流され、そこで生涯を閉じます。
この歌は讃岐に流された後の歌ではありませんが、父親である鳥羽上皇と当時の関白忠通に無理やり退位させられた後の歌です。
しかも、改作であるようです。
もともとは、「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ」という歌でした。
出だしは激流ではなく行き悩む心情ですし、滝川ではなく谷川と、最後は力強いですが決して激しいものではなく穏やかさもある恋の歌です。
しかし、これを改作して、川瀬の急流と滝川を登場させているのが、この百人一首収録の歌です。
つまり、この恋の歌の裏側には、崇徳院の鬱積する激しい気持ちが歌われていると考えられるわけです。
『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』
訳すとすれば上述のように、流れが速い川瀬の水流が岩に堰き止められて二つに分かれてもいずれ合流するように、私たちも今は事情あって離ればなれになってはいるが、将来のどこかで必ずや添い遂げようぞ、です。
しかし、中核となる思いは、このまま終わってなるものか、という気持ちです。
つまり、崇徳院はこの歌の裏側で、政治の激流に翻弄され徹底的に打ちのめされた自身を顧みていて、この恨みはらさでおくべきかという気持ちを込めたのだと思います。
そして、実際にその思いが爆発して保元の乱につながるわけです。
なお、保元の乱に敗れた崇徳院は流された讃岐で生涯を終えますが、「願わくば大魔王となって天下を悩乱せん」と血書の誓いを立て、世を恨みながら亡くなったとされます。
そして、成仏できずに怨霊として浮世をさまよう様子は、上田秋成の雨月物語の第1話である『白峰』に登場します。
雨月物語は面白いので読んだことのない人は是非どうぞ。