ら抜き言葉、言葉の進化、方言と標準語の接触


言葉が乱れているのは、そもそも標準語という言語に無理があるからのようです。

はじめに

最近、ブームに乗って縄文人関係の本を読んでいたのですが、いつの間にかアイヌに関する本を読み始め、気づいたら方言に関する本を読んでいます。

そしたら、非常に面白い本に出合いました。

私は東京生まれ東京育ちで、方言を何も知らないのですが、そうはいっても耳にすることは多く、関西弁など、話せないにしても理解はしているつもりだったのですが、全然わかっていなかったことが判明して、ショックを受けました。

しかも、単なる方言の紹介とかではなく、方言をテーマにしつつも、外国語まで含めた言語学的な検討をして、日本語という言語の特異性や面白さが見事に分析・紹介されています。

「知者は学びたがり、愚者は教えたがる」とはよく言ったもので、紹介したくてたまらないので、記憶に残った部分を一気に書きます。

面白いので是非一読をお勧めします。

ら抜き言葉

いきなり方言でなくてすみませんが、まずはら抜き言葉。

ら抜き言葉というのは、助動詞の「られる」、を使うときに、らを抜いて話す言葉のことです。

「れる」と「られる」には、受け身、可能、尊敬、自発という、外国語なら間違いなく個別の表現方法が用意されるであろう4つの意味が託されていて、そもそも荷が重いうえに、特に可能と受け身は区別がつきにくいという問題点があります。

先日のF1中継で、解説の片山右京さんが、「このコースはタイヤに仕事させられますからねえ」と言っていて、タイヤをギリギリまで追い込むアグレッシブなマシンセッティングができるという意味なのか(可能)、タイヤマネジメントが難しくチームに負担がかかる(受け身)という意味なのか、分かりませんでした。

そんな、面倒くさい「れる」「られる」。

「話す」とか「歩く」といった五段活用の動詞に関して、明治時代までは、「話される」とか「歩かれる」などと言っていたのですが、可能に関しては、「話せる」とか「歩ける」といった、いわゆる可能動詞という専用の言葉が登場し、今に至っています。

そこで、「起きる」や「食べる」のような、上一段活用や下一段活用の動詞についても、「起きれる」「食べれる」といった可能の意味専用の言葉を作ってしまおうというのが、ら抜き言葉です。

こうやって考えてみると、ら抜き言葉は、言葉の進化と言える側面があり、しかも合理性があるような気がします。

可能の方言

しかし、このら抜き言葉と可能については、四国の方(愛媛の方?)に行くと、話が複雑になるそうです。

もともと、方言に

1.食べれん
2.食べれれん
3、食べられん

という3つの言い方があるとのこと。わかりやすさから否定形にしています。

「食べれん」は、状況的に不可能であったときに使うらしく、

「忙しかったけん、昼ご飯、食べれなんだんよ」と使うらしいです。

そして、「食べれれん」は、努力してもダメだったときに使うらしく、

「給食全部食べれれんかった」と使えば、食べようと努力したことが先生に伝わり、仕方がないと許してくれるそうです。

しかし、「給食全部食べれんかった」と言えば、もっとがんばらんとなと説教されるそうです。

3つ目の「食べられん」は、不許可を意味するらしく、

「病院の待合室ではお菓子は食べられんよ」といったような使い方がされるとのこと。

そして、この使い分けは、なかなか便利なようで、この地方の人達は、可能が1パターンしかない標準語を不便に感じるようです。

よー食べん

可能に関する方言を見ていて、実はびっくりしたのがこの言葉。

よー食べん。

確かに、関西出身の人が、

「好き嫌いは少ない方だったけど、納豆はよー食べんかった」といったような発言をしているのは聞いたことがありますし、よー食べんかったとか、よーせんかったとか、聞いたことあります。

しかし、これが可能の意味だったとは初めて知りました。

よー食べんというのは、「よく食べなかった」つまり「あまり食べなかった」の意味だと、今までの人生でずっと思っていました(究極的にはつながるかもしれませんが)。

これ私だけ?

しかも、

大雑把に分けると、「よー食べん」は能力的に食べられなかったことを意味し、状況的に食べられなかった場合は「食べられへん」とのこと。

「納豆は大嫌いで、勧められてもよー食べんかった」(能力可能)
「納豆は大好きだけど、時間が無くて、食べられへんかった」(状況可能)

という整理が良くされるようです。

実際の使い分け方はさておき、普段からこういう使い分けをしていると、couldとwas/were able toの違いとか、can notとshould notの違いとか、東京の人間よりスーッと頭に入るかもしれませんね。

もしかして関西圏の人達の方が英語も得意なんだろうか。

いずれにせよ、このように言語学的に日本語の構造をみていくと、日本語の中でも特に標準語というのはグローバルスタンダードからかけ離れているらしく、むしろ方言にグローバルスタンダードと近いものがあるらしいです。

もちろん、実行可能とか、状況可能とか、禁止とか、分ければ分けるだけ便利とはならないかもしれませんが、あれこれ区分する方言は色んな地方にあり、可能が一種類しかない標準語がよくできているわけではなさそうです。

各種方言では数種類用意されている可能が1種類しかないだけでなく、さらに受け身、尊敬、自発と一緒になっているわけですから、せめて可能だけは抜き出そうとするら抜き言葉を言葉の乱れの一言で片付けてしまうのは、木を見て森を見ずで、標準語を中心に物事を考えすぎかもしれません。

今後、可能を意味する変な日本語が登場したときに、短絡的に言葉の乱れと判断しない方がいいかもしれません。

したがって、「れ足す言葉」と言われる、「書けれる」とか「泳げれる」とかも、ただふざけているだけなのか、何らかの限定した状況で選択的に使われているのか、よく分析検討した方がよいかもしれません。

「いる」と「ある」と「おる」

存在を表わす動詞には標準語では、「いる」と「ある」があります。

英語でいう、Be動詞ですが、外国では一つしかないのが普通で、この区分は日本語を学ぶ外国人には難関とのこと。

カッコに入るのは「いる」か「ある」か。

あそこの水族館には魚がたくさん(1)
あそこの魚屋には魚がたくさん(2)
あそこの畑には野菜がたくさん(3)
あそこの八百屋には野菜がたくさん(4)

まあ、理由を説明できるかどうかともかく、間違える日本人はいないでしょう。

とはいえ、古風な日本語だと、人間に「ある」を使う場合もないわけではないというのはみんな知っているかと思います。

「聞き取り調査をしてみると、深夜に叫び声を聞いたという人が一人あった。」

なんて、気取った言い方の感じはしますが、小説などで出てきても驚きません。

実際に松本清張なんかは、「いる」と「ある」が混在しているそうです。

とはいえ、厳密な区分はさておき、なんとなくは使い分けを共有しています。

しかし、西の方に行き、「おる」が登場すると話がややこしくなるようです。

西日本でも、京阪神では、人の存在については、「いる(いてる)」が一般的で、「おる」は綺麗な言葉でなく、どちらかというと卑語の部類に入るらしいです。

しかし、京阪神以外の西日本では、人の存在には「おる」を使うのが一般的で、京阪神のように卑語性はない。

その結果、京阪神の人が四国などを訪れ、「飲み会に呼ばれていったら社長がおってな」なんて言葉を聞くと、このような差異を知らない京阪神の人は心の中で、「こっちの人はきつい言い方しはるなあ」などと感じるとのことです。

「する」と「している」

人の存在に関する「いる」と「おる」、実はこの言葉が方言の根っこの部分で重要な働きをしています。

「する」が現在だとすると、「する」+「いる」の「している」というのは現在進行形のような感じがします。

今まさに何かを「している」感じです。

「話している」、「泳いでいる」、「書いている」全部そうです。

しかし、よく考えると、そうじゃないパターンがあります。

例えば、

「落ち葉が散っている」

この文章を読んで、何をイメージするか。

まあ、落ち葉がヒラヒラと舞い落ちている正にその瞬間をイメージした人もいるかもしれませんが、地面に落ち葉が散らばっている、すなわち、落ち葉が散り終わった状態をイメージした人が多いかもしれません。

しかし、

「木の枝が折れている」

なんてなると、折れる瞬間の進行形をイメージする人はほとんどいなくなるでしょう。折れ終わった後の完了的な状態を意味します。

つまり、区別がつきにくい場合がありますが、動詞が、動作を意味する場合ではなく、変化を意味する場合には、進行形ではなく、状態変化の結果を表すわけです。

同じ「している」系の変化なのに、動詞の意味によって、進行形と完了系で意味が区別される。

「しよる」と「しとる」

しかし、人の存在に「おる」を使う地方の諸方言になると話がややこしくなってきます。

人の存在に「おる」をつかう西日本に行くと、「する」+「おる」が「しよる」と「しとる」の二パターン登場し、使い分ける諸方言があるらしいのです。

そして、その使い分けは、勘の鋭い人は気づくかもしれませんが、進行形と完了形の区分だったりするわけです。

「9月にはビルが建ちよった」(進行形)
「9月にはビルが建っとった」(完了形)

「建ちよった」の場合、9月にビルは建設中で、「建っとった」の場合、9月にはビルが完成しるらしいです。

このような諸方言では、「落ち葉が散っている」も「落ち葉がちりよる」と「落ち葉が散っとる」で進行形と完了系を使い分け可能。

こういった方言になれている人が標準語を使おうとすると、不便だなと思うわけですが、それだけで済まず、東京に出てきて標準語で話そうとするときに、間違えてしまう人が出てくるらしいのです。

完了形の「しとる」も進行形の「しよる」も標準語だと「している」になるという表現上の理解になりがちで、動詞によって片方の意味が消えるという部分が理解されにくいというのは、確かにそうかもしれません。

その結果、始まったばかりのビルの建設現場を見て、「新しいビルが建っている」と言ってしまったりするようです。

ただ、標準語使いの人も、違和感を覚えつつも、状況が分かると、言わんとしていることは理解できます。

それは、この標準語の用法自体に相当無理があるからなのだと思います。

実際、標準語における、同じ「している」表現によっても、動詞次第で進行形か完了形か意味が変わるなんて言うのは、言語学的に、世界の諸言語と比較しても、相当無理があるようです。

確かに、英語だと、be + ing系が進行形で、have + 過去分詞が完了形で、すべての動詞についてそうなります。

その点、動詞+「している」は進行形もしくは完了形を意味し、動詞次第で意味が変わるなんていうのは、日本語を学ぶ外国人にとっては恐怖でしかないかもしれません。

そして、現実に、標準語エキスパートの東京人ですら混乱しつつあり、「株価が上がっている」なんて、進行形で使うのは本来的には間違いなのでしょうが、状況次第で二刀流で使っています。

こうして新しい表現の土壌が出来ていくのかもしれません。

「している」と「してある」

「している」を使うとき、動詞が、動作を表す場合は進行形、変化を表す場合結果系になると言いましたが、実は第3のパターンがあります。

それは、主体が動作し、客体が変化する動詞の場合です。

例えば、作る。

「お母さんがケーキを作っている」

これは、基本的にお母さんという主体の動作を表していますから、ケーキを今まさに作っているという進行形です。

さすがに、出来上がったケーキをイメージする人はいないでしょう(一部の東北の人ごめんなさい)。

しかし、「しよる」と「しとる」を使い分ける地方では、

「お母さんがケーキを作りよる」(進行)
「お母さんがケーキを作っとる」(結果)

とで意味は分かれ、「作っとる」の場合は、ケーキが出来上がっていることになります。

なお、「しよる」と「しとる」で分けるというのはあくまで方言の一例で、下記のようなわけでもよいです。

「お母さんがケーキば作りよー」(進行形)
「お母さんがケーキば作っと―」(完了形)

これも、「作っと―」の方では、ケーキは完成しているらしいです(私としては本を信じるしかない状況)。

とはいえ標準語では、「お母さんがケーキを作っている」という表現しかなく、つまり、進行形の意味の分しか作れません。

しかし、ケーキという客体がゼロから作られるという点で変化が実際に起こっており、会話において、ケーキ作成の完了を表現したい場合があるのは標準語でも同じです。

そこで登場するのが「してある」です。

しかし、標準語の「してある」は難しく、変化した客体すなわちケーキを主語にしなくていけないことになっています。

「ケーキが作ってある」

が正解で、

「お母さんがケーキを作ってある」

というのは文法的には間違いとなります。

しかし、この用法は難しい。

同じ「している」表現でも、動詞の意味によって進行形と完了形の区別がされ、その結果すべての動詞に進行形と完了形が用意されておらず、完了形が用意されていない場合に完了を表現したい場合には受動態表現を使う必要があるという仕組み。

これは、言語学的に諸外国の言語と比較すると、グローバルスタンダードとかけ離れていて、相当無理があるというのは、素人でも、まあそうだろうなとは感じます。

なお、沖縄では、

「お母さん、ケーキ、作ったーる」

で、完了形を表すようです。

しかし、この沖縄方言、正確には、沖縄の伝統的な方言ではなく、ウチナーヤマトグチ(伝統的な沖縄弁ではなく、那覇などで一般的に話される沖縄弁のこと)という、伝統的な沖縄弁と標準語の接触によって生まれた、新方言(新言語?)ともいえる方言での用法です。

これは、まさに言葉の進化の方向性を暗示しているのかもしれません。

そして実際に、ケーキが作り終えられている場面で、

「お母さんがケーキをつくってある」

という表現は標準語に徐々に広まりつつあって、あまり違和感もなくなって来ました。

目的語さえ入っていれば、文脈からなんとか判断できそうです。

「お母さんが洗濯物を干してある」

まあギリギリ許容可能です。

洗濯機を回したけど、干し忘れたまま外出してしまい、しまったなあと思いながら家に帰ると、洗濯物が干してあるという場面で、

「お母さんが干してある」

なんてセリフを主人公がつぶやくシーンがマンガやドラマに登場する日も近いかもしれませんね。

おわりに

最近読んだ方言の本があまりに面白かったので、いわゆる「言葉の乱れ」を、標準語の持つ欠陥・無理を修正する進化ととらえ、その方向性自体がすでに方言に潜んでいるという流れで、まとめてみました。

言葉の乱れにうるさい日本語学者とか文学者と違って、世界中の言語を比較分析する言語学者界隈では、1つの言葉で可能・尊敬・受け身・自発なんて無理に決まってんだろと、ら抜き言葉を至極当然の流れと考えているようで、そういう視点からして面白いです。

この本では他にも、時制の扱いに関する日本語の特殊性がいろいろ示されていて、なぜ自分が英語が苦手なのかよくわかりました。

言語学というのは、今一つ何するのかわかっていませんでしたが、面白いですね。

ここまで客観的に日本語を分析できたら楽しそうです。

とはいえ、著者は中学生時代に大阪の河内地方に引っ越した経験があるらしく、70年代の校内暴力全盛期の時代に、河内弁以外は受け入れないという校内環境を必死に生き抜いたらしく、そういう境遇が言語学者に向かわせたのでしょうか。

まあ、方言の解釈については、私は本を信じるしかないので、西日本に住んでいる方で、ちょっと違うんじゃないのと思った人がいたらご容赦ください。

また、言語学に基づく厳密な言葉遣いや文例の一部は私の方で勝手に変えてます。

興味を持った人は是非一読を。

とっても面白かったです。


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