読解力とは何か、その向上方法、そして読書との関係


最近流行りのトピック

はじめに

もうだいぶ前ですが、AIとの関連で、下記の本が話題になりました。

この本では、中学生の教科書レベルの文章を理解できない中高生が半分くらいいることを問題にしています。

それは確かに問題かもしれませんが、この本に関するネットの記事やアマゾンのレビューを読むと面白いことに気づきます。

それは、「最近の若者の読解力が低下している」と捉えている大人がたくさんいるのです。

この本は、昔と比べて今の若者の読解力が低下しているなんて一言も書いていませんし、むしろ、半分の人が中学生の教科書レベルの文章を理解する読解力を持たずに大人になっているというのは昔からの傾向で、今の大人もそうなんじゃないかと控えめに書いてあります。

そして、その仮説が、この本を読んでレビューに星5つけ、「必読!、最近の子供の読解力がヤバいらしい、なんとかしないと」などとか書いている大人たちによって証明されているということでしょう。

そんな感じで、テストされることがなくなったことをいいことに、読解力のない大人たちが、子供の読解力について、自分を棚に上げてああでもないこうでもないと議論していますが、私もその輪に入ってみたいと思います。

まあ、この本が問題にしているのは、読解力というより、論理力かなと思いますけどね(根っこではつながるとはいえ、論理力の訓練と読解力の訓練は基本的に別物の気がします。この記事ではそこは深入りしません)。

なお、下記の文章では、読解力について、文章の内容を客観的に把握する能力としての側面に絞ります。

読解力とは本来他者への共感力も含み、コミュニケーション能力に通じる云々、読解力をどう定義するかは人の勝手ですが、定義について議論する気はありません。

読解力のはかり方

最近の若者は本を読まずにスマホばっかり見ているから読解力が落ちたなんて、薄っぺらい意見を耳にすることも多いです。

そこですぐに自分を棚に上げて、最近の連中はけしからんと怒れる人は簡単でいいですが、そもそも自分自身に読解力はあるのかと疑問に思う人もいるかもしれません。

ただ、どうやって確認するのか。

結論としては、読解力があるのかないのかを判定するのは簡単で、センター試験の現代文を解いてみればいいだけです(漢字とかではなく読解の部分)。

センター試験の現代文で満点取れれば読解力はあると言えますし、満点取れなければ、残念ながら読解力が無いと言わざるを得ません。

10年分くらい解いて、まあたまに間違ったりするのは仕方がないかもしれませんが、9割5分以上の正答率が無かったら読解力は無いでしょう。

なんでセンター試験なのか、理由はちゃんとあります。

センター試験というのは、ほとんどすべてと言ってもいいくらいの受験生が受ける試験で、解答も翌日の新聞で発表されます。

そして、変な問題出したりすると、教育委員会とか、学校や塾の先生とか、いろんな関係者に袋叩きにされますから、名うての学者たちが検討に検討を重ねて作問しており、センター試験に悪問は基本的にありません。

そして、現代文の読解の問題においては、「特に」と強調したいくらい良問ぞろいです(おそらく教育関係者で反論する人いないと思います)。

それがどういうことかというと、解答に必ず明確な根拠があることを意味します。

例えば、問題文の内容に一致するものをア~オの中から一つ選べという場合、不正解の4つの選択肢には必ず不正解である根拠があります。

もし正解がアなら、選択肢アと同内容の文章が問題文の何行目に書いてあり、不正解の方が大事なのですが、選択肢イが不正解なのは、選択肢イの文章と問題文何行目の文章が矛盾しているから、といったように必ず問題文中に根拠があります。

したがって、問題を解きながら、消去法で解く場合が多いですが、自分が間違いだと思う選択肢について、問題文中にある選択肢と矛盾する文章を探して、ひとつずつ、マルかバツか、根拠をもって判断していきます。

センター試験の現代文というのは、この作業をしていけば必ず100点取れるようにできていて(漢字の問題とか除いて)、それは他の入試問題でも同じなのですが、完全公開の上、何かあったら全国的に大きな影響があるという点で、作問者の気合いの入れようが違うので、丁寧に解いていくと、解答に疑義のない作りになっています。

そういう点を鑑みれば、センター試験の現代文で満点を取れないというのは、問題文に書いてあることを書いてないと主張したり、その逆をやっていることになります。

ようするに、読解力、文章の内容を客観的に把握する能力が無いわけです。

なんとなくで文章を読んで、言葉のイメージなどから勝手な解釈をして、自分が勝手に抱いた思いを、文章に書いてあったと主張しているわけです。

ここら辺が分かっていない人は、国語の指導者の中にもいたりして、国語教育界にはおかしな迷信があったりします。

迷信1:国語に正解はない

国語、特に現代文の試験には、正解はあります。

時々、面白い人達がいて、大学入試の現代文の問題を、問題文(評論文とか)の著者に送り付けて解いてもらったりします。

まあほとんどは無視されるのですが、時々面白がって回答を返してくれる学者さんとか評論家がいるわけです。

で、採点すると案の定、全然100点じゃないわけです。

こういった事実をもって、国語の問題に正解はないとかいう人がいます。著者の解答が不正解とはどういうことかと。

しかし、気持ちはわかるのですが、この主張は間違っていて、問題文の著者が問題を解けないのなんて当たり前です。

あるテーマについて、何冊も著書を出している学者がいるとして、問題に出るのはその1冊のうち、しかもほんの数ページ。

そして、大事なことは、読解の問題で問われているのは、その数ページの文章から何が言えて何が言えないのか、文章という文字の羅列の客観的な意味であって、著者の心の中にある本当のところの主張ではありません。

当然、その数ページだけから判断したら、その著者が著作全体から言わんとしていることから離れてしまう可能性もありますし、そのテーマについて膨大な思索を行っている著者にその数ページだけの文章について客観的に考えろといっても無理な話です。

与えられた文章から何が言えるのか、限定がある以上、必ず正解はあり、問題文からは推し量ることのできない著者の心の内を推測するクイズをやっているわけではありません。

迷信2:読んだことがあると有利

これも大嘘。

むしろ、現代文の問題で、知っている作家の作品や読んだことがある作品がでるのは一番避けたい事態。

私がセンター試験を受けた前年、問題文は吉本ばななさんの「つぐみ」という小説だったのですが、私は高校生の時にこの作品を読んでいて、男子校育ちの私になかなか強烈な印象を残した作品でした。

自分が受ける時にこの問題じゃなくてよかったと、私は過去問を解きながらほっとしたのを今でも覚えています。

なぜかというと、当然問題は主人公つぐみの心情とかを問うてくるわけですが、考えなくていけないのは、与えられた数ページの文章から浮かび上がるつぐみであって、作品全体で描かれているつぐみではありません。

当然、つぐみの魅力は作品全体を通じて描かれるわけで、切り取られた数ページで描かれるつぐみと、本当のつぐみは違います。

しかし、問われているのは、与えられた文章を正確に読み取る能力であり、書かれていない部分を透視して、つぐみの実像を予想するクイズをしているわけではありません。

すでに読んだことがあって、つぐみがどういう人間か知っている私にとっては、頭を仕切り直して、その数ページの問題分だけから客観的に判断できるつぐみを考えろと言われても難しいわけです。

すでに持っている先入観が問題文に基づいた客観的な思考を邪魔します。

そういう意味で、自分が知っている作品が出るというのは、不利でこそあれ有利になることはありません。

国語のテストが終わった後に、読んだことある作品だったからラッキーだったと言っている人は、読解してない人です。

迷信3:自分の言葉で書く

これは論外。

これをしなくてはいけないのは小論文であって、現代文ではありません。

現代文の記述問題では、必ず問題から文章を抜き出し、つなげる過程で、接続詞を変えたり、語尾を変えたりすることはあっても、自分の言葉で書くなんてことはしません。

聞かれているのは、与えられた文章に書いてあることの内容であって、自分の言葉を足せば足すほど、問題文に書かれている内容からは遠くなり、つまり、理解していないんだなということになります。

これに対して、実質的に同じ意味とか、大して変わらないとかいう人もいますが、使う言葉違えば意味も違います。

これを、受験の作法とか、受験テクニックと呼ぶ人もいますが、言葉の重要性を知っている人であれば当然の話で、人の文章に自分の言葉をはさんだりしません。

読解力をつけるには

読解力をつけるのは簡単です。

なんとなくで解答する習慣をやめることです。

大事なことは、解答するときに、必ず根拠を問題文の中に見いだすということです。

5択問題であれば、間違いの選択肢の一つ一つについて、問題文のこの個所と矛盾しているからこの選択肢は誤りである、と結論付ける癖を訓練することです。

作者の主張はこうです、なぜなら、問題文にこう書いてあるからです。

この選択肢は作者の主張と一致しません、なぜなら、問題文にはこう書いてあり、その個所と矛盾するからです。

こういった感じで、解答に理由を付すとともに、その理由を必ず問題文の中から持ってくるという訓練をする。

そして、選択肢のすべてを潰していくことが重要。

大事なのは訓練であり、この、必ず問題文中に自分の答えの根拠を求めるという努力をしない限り、何冊本を読んでも読解力はつかないし、1冊も本を読まなくても読解力はつけられます。

ただ、世のなかには(特に中学受験とか)曖昧で解く価値のない問題も多く、読解力習得の練習に耐えうる問題というのはなかなかない。

最初にセンター試験の話をしたのもそれが理由で、センター試験ほど衆人監視にさらされている試験もなく、2重3重のチェックを受けており、曖昧さが皆無で、読解力の訓練にぴったりだからです。

全ての選択肢について、問題文の中に根拠がある。

そう考えると、読解力は高校生になってからだとトレーニングしやすいのですが、小中学生の内は難しい。

練習に耐えうるような問題が少ないと思います。

したがって、塾の成績表とかをあまり鵜呑みにしないことも重要で、問題自体がろくでもない可能性は大きいです。

センター試験もそうで、信頼できるのは本番の問題のみで、予備校のセンター模試とかは悪問ぞろいで、作りの甘い問題が普通にたくさんあって、読解力があると、正解なしにしかならなかったりします。

いずれにせよ、読解力をつけるにはそれを目的とした訓練しかないです。

読解力の意味

以上、偉そうに語ってきましたが、読解力とは、上述のような意味であり、また、上述のような意味でしかありません。

日常生活では、そんないちいち言葉尻を取らえてコミュニケーションしませんから、読解力なんて、なくても大して困りません。

むしろ、細かい言葉遣いのようなつまらないことにこだわらない寛容さとか、言葉や文章の裏にある背景を読み取ったりする配慮の方が重要。

ただ、時々炎上事件で見られるような、問題となった文章につき、「そういう意味で書いたのではありません」といった事態は、大人は避けられるに越したことはない。

特に、会社とか、学会とか、正式な場では。

正式な場に提出する文章については、自分がどういうつもりで書いたかではなく、書いた後に、その文章からから何が読み取れるかを客観的に見直すことが重要。

こうも読めるけどああも読めるとか、こう読めちゃうかもしれませんがそうではなくこういう意味です、なんていうのは周りに混乱を起こすだけ。

だからこそ、大学入試なんかでは読解力重視の作問がされます。

大学としては、友人同士や家族内でうまくコミュニケーション取れるかではなく、大人として他人の集まりの中で共同作業をできる能力こそが問題ですからね。

そう考えると、適切な訓練をどこかでした方がよいのは事実でしょう。

読解力と読書

上でも書いていますが、基本的に読解力と読書量はあまり関係ないでしょう。

本は好きだけど、国語の成績はさっぱりという人は結構いて、趣味の読書の時間にそんなに一言一句に集中して読んだりはしないでしょうから、それも自然な話。

また、本好きだけど現代文の成績が悪い人というのは、字を眺めているだけで中身を理解していないというのも言い過ぎ。

本なんて軽く読めばいい。

センター試験の現代文に関しても、なんとなくで7割くらい取れれば、日常生活で問題になることもない。

ただ、気楽に読書するだけでなく、精読モードに切り替えるスイッチはあった方がよいでしょう(なお、熱い趣味がある人というのはこのスイッチをちゃんと持っていて、趣味以外でオンにできない/しないだけだったりする)。

数読みたい人は、自分からそのスイッチは入れないので、なおさら、そういう訓練を意図的にした方がよいとはいえます。

個人的な経験で言うと、私はそんなに本好きではなかったのですが、高校生の時に坂口安吾に出会ってからは坂口安吾ばっかり読んでいました。

それまで、読書するとしても、1冊読んだら次の本という感じで、何が面白かったとかつまらなかったとかはあったにせよ、2回くらいなら読んだ本はあるかもしれませんが、同じ本、同じ話をひたすら繰り返し読むという経験はありませんでした。

しかし、坂口安吾に出会って、はまりすぎて、同じ話(私が特に大好きだったのは「教祖の文学」と「風と光と二十の私と」と「金銭無常」)をなんども繰り返し読むという経験をしました。

そして、この経験を通じて、精読の意味を知ったというか、「読書百篇意自ずから通ず」の意味が分かるというか、一言一句をかみしめて読むと、読むたびに発見があるということを知りました。

また、言葉の力や作家の力量というものを知り、現代文の問題の解答で、自分の言葉を使ってはいけないという意味も自然と理解しました。著者の文章に私の言葉を入れる余地なんてないです。

この精読は、受験勉強とかは関係なくしていたことですが、間違いなく私の読解力向上に寄与したと思います。

そう考えると、読解力という意味では、適当に読んで時間を潰していただけの他の読書はほとんど意味なかったのかもしれませんが、読書の習慣が無ければ、そうした出会いもなかったわけなので、好きすぎて何度も読むという本に出合えるためにも読書習慣はあった方がいいかもしれませんね。

おわりに

先日、ネットで、発達障害関係の記事を読みました。

親が子供に、「運動会なにかでるの?」と聞いたら、子供が「おやつが出るよ」と答えたとのこと。

微笑ましくて吹き出してしまいますが、親からすれば、自分の子供の活躍が焦点なのでしょうが、当の本人はそんなこと気にしていなくて、おやつを気にしていたのであれば、この会話は極めて合理的なやり取りで、何もおかしくないです。

自分とは違う人間に対して、曖昧な質問を投げて、自分の意図した答えが得られなかったからと言って、どうして自分の意図が伝わらないのかと疑問に思ったり、子供には大人の言葉遣いは通じないなどと子供に問題があるかのように捉えていたりすれば、この親こそ発達障害でしょう。

とはいえ、相手が子供や若者になると、どうしても自分を棚に上げがちで、読解力含む教育の話題は全般的にそうです。

そこら辺を話題にしようと思ったのですが、そもそもの読解力のところを書いたことが無かったので書いてみました。

なお、最初に書いたように、話がややこしくなるので、論理力には触れませんでした。

センター試験がどうのこうのとか、この年になって書くのは恥ずかしいのですが、この話は、私が高校生の時に出口汪先生という有名な先生に出会って教わった話で、なるほどと思って今でも覚えているので、書いてみました。

先生元気かな。


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