フランスでヴィーガンの過激派による食肉店襲撃が多発しているようですね。
目次
はじめに
ネット界隈でこのニュースが話題になったきっかけは、堀江さんの下記のツイート。
ヴィーガン放っておくとこうなる説濃厚。まだ日本では勢力小さいうちに芽は摘んでおくべきと思う。 https://t.co/ebUBVLEszH
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2018年7月14日
起きていることの詳細はこのツイートに埋め込まれたCNNの記事が詳しいです。
例のごとく、この強烈なツイートに関して、襲撃は一部の過激派の仕業であって、ヴィーガン=危ない奴らみたいな決めつけはやめろと、炎上しているようです。
ちなみに、ヴィーガンというのは完全菜食主義者のことで、卵とかミルクも食べない人達のこと。
宗教上の理由によるベジタリアンの場合だと、戒律上タブーは血を流すことだったりする場合も多いので、ベジタリアンとはいえ、卵やミルクはOKだったりする場合も多い。
しかし、ヴィーガンというのは、動物食を一切しない完全菜食主義者のことで、色んな理由があるらしいのですが(当然宗教とかアレルギーが理由の人もいる)、家畜産業の否定(動物愛護や環境破壊)を理由に挙げる人も多く、個人の理性的な選択として選ぶ場合も多い思想です。
まあ、ヴィーガン=危険思想のわけはなく、問題なのは一部の過激派なのですが、一部の環境保護原理主義者たちの過激行動というのは最近よく目にします。
いったい彼らはなんであんなに過激なんでしょうか。
ヴィーガンに特定せず、環境保護原理主義全体を考えてみます。
環境保護原理主義者
環境保護をめぐって過激な行動に出る人たちには2種類います。
まずは、環境保護を名目に、既存政権との政治的戦いを繰り広げる急進派の左翼団体。
もう一つは、このままいくと、環境が破壊され、気づかないうちに地球が破滅を迎えると考え、それを回避することが目的の人達。
後に詳述しますが、前者の左翼系グループは、既存政治と真っ向から闘うという点(特に民主主義を否定しない点)で、環境保護は政争の道具でしかなく、後者の環境保護を至上命題に掲げる団体とは異なります。
この記事では、既存政権を倒す政治活動の手段として環境問題を取り上げる団体は横に置き、このままいくと大破滅は近い、子孫たちに文明社会のツケを払わせるわけにはいかない等、環境保護そのものを至上命題に活動するグループを環境保護原理主義者として検討の対象にしています。
アンチ民主主義
環境保護原理主義者というのは、政治的に生み出される環境保護政策に基本的に無関心、それどころか敵対的です。
なんでかというと、民主主義自体を嫌っているからです。
民主主義では、バカだろうが利口だろうが一定年齢以上の国民全員に選挙権が与えられ、多数決で物事が決まります。
その結果、民主主義政治というのは、どこの国でも最適解発見プロセスからは程遠く、各種団体による、マスコミを駆使した国民の扇動合戦となっています。
政党のマニフェストなんて、洗剤のCMと本質的には同じものです(参考文献からのパクリ)。
そして、今ある生活の利便性や満足を大幅に後退させる不愉快な政策なんて採用されるはずがないことは分かり切っています。
したがって、環境保護原理主義者たちからすれば、政治プロセスで決定される環境保護政策やプログラムなんて言うのは、「過剰を抑えて環境に配慮していれば何とかなるさ」的な、現実を無視した自分勝手で都合の良い政策としか映りません。
彼等からすれば環境保護政党なんて、現状の便利な生活の維持を望む一般大衆に支持された大政党と民主主義の枠内で議論したり妥協したり、権力争いを環境保護でお化粧しているだけで、地球を救うという点では無意味であり、本気で地球を救おうとはしていない集団として軽蔑されます。
つまり、環境保護原理主義者というのは、民主主義政治という既存の枠組み内での環境保護活動では地球を救うという目的は到底達成できないと割り切っています。
民主主義社会や資本主義社会の根底にある、個人の自由という考えを維持するならば、最終的には環境保護政策はすべて、個人の生活スタイルの選択の問題に帰着してしまいますから、個人に不愉快な生活を迫る変革など本質的に無理なわけです(これは間違いなく正しい)。
ですから、もっと根本的な部分から変えなくてはいけないとなります。
では、どうすればよいのか。
必要なのは、根本的な治療であり、地球で暮らす人々全員の意識改革が目的となります。
意識改革がすべて
この意識改革が厄介です。
彼らのほとんどは基本的にキリスト教的な素地を持っています。
そして、どの分野の専門家でもそうですが、自分達と異なる文化圏の思想には疎いです。
したがって、欧米を離れアジアに来ると、人間は自然の一部であるという考えが今でも主流であるなんてことは知りません。
世界中が当然のように自分達と同じようなキリスト教的な考えに染まっていると思っています。
キリスト教的な考え、すなわち、十字軍とか新大陸発見とか植民地政策とか、生命工学から宇宙開発まで、世界とか自然というのは人類にとって利用可能な存在であり、人類は人類以外のものを利用してより良い世界を創造していくという考えです。
人間対環境であり、人間も環境の一部であるとは考えません。
そういった文化圏で育ちながら、環境問題を必死に勉強し、遊牧民などと共同生活を送ったりして、人間も宇宙の一部に過ぎないなんて考えに触れるといたく感動して、世界は間違っていると叫ぶようになります。
これまでの科学のような、地球を分析対象とするようなアプローチ、人間が地球という外部的存在を分析するというその根底にある考え方自体が間違っていると思うようになります。
人間が地球を分析し、環境破壊を測定し、それをどうやって治癒しようか。
そういった人間至上主義を維持したままの政策で地球を救えるわけがないという考えに至ります。
理性と知性で人類の未来を創造していこうという合理主義的な考え方を捨てて、自然の一部として自然と調和のとれた生き方をしない限り地球は救えず、ガイア理論じゃないですが、地球に生きるすべての人が、人類も宇宙全体の一部であるという意識に目覚めることこそが、環境保護の第一歩だと考えます。
行動主義の行き着く先
もっとも、どうすれば人類全体の意識改革が可能なのか。
啓蒙活動を頑張っていると、いつの日か空から光のオーラが下りてきて、人類全体が正しい意識を持つにいたると夢想したりはしません。
人間が意識を変えるためには、きっかけが必要です。
そして、そのきっかけというのは、なんらかの体験である必要があります。
ある体験をきっかけに、「このままではいけないのかもしれない」と考えるからこそ、人は古い考えを捨て、新しい考えに目覚めます。
したがって、社会やその中で生活する人々に、意識を変えるきっかけとなる体験を迫るようになります。
その結果、環境保護原理主義者というのは、啓蒙活動よりも、行動主義者が多くなります。
しかし、相手は現状の生活に満足している人々ですから、多少の行動ではびくともしません。
そして、エスカレートして、過激行動になっていくわけです。
その結果行き着く先がテロです。
人が、このままではいけないと考え、意識を変えるきっかけになる体験の最たるものは恐怖体験だからです。
そこで、恐怖を体験させようとするわけです。
そして、一番怖いのは何かというと、それは狂人です。
環境保護団体が、化学薬品工場を襲撃したなんていうのは、怖い話ですが、ある意味筋が通っていて怖くありません。
少なくとも理解可能な行動で、話し合いが通じそうな感じです。
その結果、社会の大多数には、自分には関係のない争いとしか映らず、大して影響を与えることができません。
しかし、無差別殺人のようなテロは違います。
誰でもよかったなんて言うのは一番怖くて、理解不能、説明不能、説得不能な狂人が一番怖いからです。
無差別に人を攻撃し、誰でもよかったとか言っている容疑者のニュースを見ると、一体どういうことかと疑問を覚えたりしますが、意味不明な行動をとって、得体のしれない圧倒的な恐怖を与えることこそが目的なわけです。
また、自分も被害者になるかもしれないと思わせることで、社会全体に「考えなおすきっかけ」を与えることが出来ます。
テロにも2種類ありますが、アメリカの911やコロンバイン高校乱射事件のような復讐戦争としてのテロではなく、地下鉄サリン事件に近く、恐怖をきっかけに、社会全体の意識改革を迫るためのテロです。
社会の変革をせまる行動主義者がテロ行為に行き着くというのは飛躍はあるにせよ決して不合理ではありません。
もちろん、社会に不満を持っている人や社会変革を望む人全員がテロリストになるわけではなく、むしろそのほとんどは沢山の不満を抱えながら犯罪行為には走りませんから、普通の人がテロリストに変わるきっかけの究明こそが重要なわけですが、そのきっかけとしては、怒りや哀しみがこれ以上ないところまで行って、絶対的な絶望感や喪失感を感じることが挙げられます。
その点、もう肉は食べないとヴィーガンに転向する人の多くは、肉を食べようと思えば食べられる人達ですし、その他の環境保護活動家というのも環境のために現状の生活を後退させてもかまわないと考える点で、窮乏とは程遠い恵まれた人達ですから、極限レベルの絶望感や喪失感とは無縁で、今までも環境保護原理主義者による無差別テロというのは起きたことがありません。
それだけに、このヴィーガンによる、普通の肉屋の襲撃というのはインパクトがあります(捕鯨船の妨害よりは無差別テロに向けて一段階進んだ感じ)。
今のところ、環境保護原理主義者による無差別テロは起こっていませんが、目的が社会の変革である以上、いつ起こってもおかしくないと私は思います。
ユートピア思想の末路
また、過激行動にでる背景に、原理主義者は、自分達を道徳的上位者であると思いがちである点があげられます。
環境保護原理主義者の目指す世界とは、人類が自然の一部として暮らし、自然環境が調和を保ちながら永続性を保つユートピアです(なお、彼らは人口爆発問題には触れないのですが・・・)。
この、ユートピア思想という、社会の行き着くべきゴールを明確に見据えている思想というのは本当に怖いです。
過去の代表例で真っ先に思いつくのは共産革命主義。
マルクスというのは物的豊かさを非常に重視していましたし、その弟子たるレーニンなどは工業分野における大量生産技術の研究(アメリカのテイラーなど)を非常に評価していました。
産業統制により、効率的な分業体制を作って、社会の隅々まで物的に満たされた社会が実現されれば、持つ者と持たざる者との階級社会という人が人を支配する社会が終わり、真に個人の自由が実現するユートピアが実現すると考えていました。
次がナチズム。
ナチズムを支えたのは優生思想でした。
不良の人間を排除し、出来のいい人間だけ残し、それらを各民族特性に応じた産業に従事させ、適材適所の配置を実現することで生産性の高い合理的な社会を構築し、当時の現実社会とは比べ物にならない豊かで調和のとれた社会が実現できると考えていました。
その次が、宗教的な原理主義者。
これは、特定の宗教の戒律に従った社会を作ることで、神から愛される究極の社会を作ろうとします。
共産革命主義、ナチズム、宗教原理主義、こうしたユートピア思想が、最終的に何をやるかは、説明するまでもありません。
こういった、ユートピアを目指す思想の背景には、進歩史観、すなわち、科学は進歩する、人類の英知は日々蓄積されていく、社会は少しづつ前に進んでいくという思想があります。
高校の現代文の授業ではありませんが、日本のように、元号や十干十二支のような時間は巡り歴史は繰り返すという概念ではなく、西暦のように、ゼロから始まって一直線に進んでいくというような考えが骨の髄までしみついています。
その結果、そういったユートピア思想を持って活動している人たちには、自分達に同調しない一般大衆が、個人の利益を優先して社会的な利益を考えずに社会の進歩を阻害する、堕落した連中と映ります。
そして、こういった道徳的優越感というのは、いつの間にか、あの堕落した連中にガツンと一発分からせてやらないといけないとなって、過激行動へのハードルを下げてしまいます。
以上のように、個人の自由を大前提とする既存の民主主義に委ねることのできない問題を解決しようとする環境保護原理主義者は、話し合いには興味を示さず行動に出るわけですが、一般大衆はなかなか考えを改めませんから、道徳優越感も相まって、過激行動にでるわけです。
現実主義というイデオロギー
以上が、環境保護原理主義者たちが過激行動に出る理由なわけですが、私たちが、良識的な一般人としてそういった行動に対抗するときに注意すべきことがあります。
それは、私たちの生活の満足や便利を支えているテクノロジーを今更捨てて昔の生活に戻ることや、ヴィーガンの過激派が言うような地球上の人類が皆肉食をやめることなど、あまりに非現実的である考えて、無理に決まってんだろと突っぱねてしまう点です。
環境保護原理主義者の主張を聞いても、社会の大部分の「現実主義者」は、それらの主張はあまりに非現実的な主張であると考えます。
しかし、こういった「現実的」な考えも、問題を深く考えずに今のままでいいじゃないかと相手の主張を突っぱねる点でイデオロギーそのものです。
(将来のテクノロジーが解決してくれるだろうというテクノロジー原理主義も、議論不能・事実上議論拒否という点で同じくイデオロギーと言える)
そして、そういった、そんなこと言われても無理だよ、過剰を抑制して適当に節制していけばなんとかなるだろうという、「現実主義」イデオロギーの蔓延が、個人の自由を尊重する資本主義・民主主義社会の持つ最大の欠点であることは彼らの言う通りです。
彼らの主張を聞いて、「ムムム、難しい問題だな」と悩む姿勢こそが重要で、現状のままでいくしかないという意見と、このままでいいわけないだろという意見の両方を聞いて丁寧に議論していく姿勢を取る人が主流派になる必要があります。
もちろん、どう考えようと個人の自由なのですが、社会全体が抱えている問題を自分の生活と切り離し、政治家や一部の活動家の解決すべき問題と捉えて、とりあえず現状維持で行こうという「現実主義者」が多数を占めて民主主義社会を動かしている限り、ユートピアを夢見てテロも辞さないロマンチックな人たちが、次々と出てくることになります。
過激な原理主義者を否定しているつもりが、自分自身が、根拠のない先延ばし原理主義者かもしれず、争いの根本的な要因であるかもしれないわけです。
環境保護問題は本当に難しい問題ですね。
おわりに
今話題になっている、ヴィーガンによる肉屋の襲撃も、十二分に社会への脅威ですが、無差別テロには及んでおらず、まだ話が通じそうな気がします。
しかし、襲撃者たちが、人類至上主義をやめろという明確なメッセージを発しているのには要注意です。
食事スタイルの選択という個人の問題に関して、頭のおかしな奴らが価値観を押し付けているのではありません。
彼らの目的は社会変革です。
しかし、当然ですが、肉屋をいくら襲撃しても社会は変わりません。
その結果、売り手が存在するのは買い手が存在するからだとなり、そして、買い手の多くは自分には関係のない問題だと思っている点に気づき、社会全体の意識を変えなくてはいけないとなり、さらには、意識改革にはそのきっかけが必要となり、「このままでいけないのかもしれない」と否応なく考えなおすような体験を与えることが必要と思い至ったときに彼らがどういう行動になるのか。
この問題はフランスで起きている問題ですが、対岸の火事ではない気がします。
そして、この手の問題は今後ますます増えていきそうな気がしますね。
特に、ヴィーガン=過激派という決めつけは論外だとしても、宗教とかアレルギーとか個人的嗜好ではなく、動物愛護とか環境保全といった、社会のための選択としてヴィーガンを選んだ人というのは、他人に同調を求める人は少ないとはいえ、自分は社会のために良いことをしているという意識がある以上、ヴィーガンでない人(社会よりも個人を優先している人と考えられる人)とは潜在的な対立関係にあることは正面から受け止める必要があります。
それにしても、彼らが突き付けている問題というのは、改めて考えてみると非常に難しい問題ですね。
難しすぎてわからないので、珍しく、超優等生的な終わりになってしまいました。
悩み続けることが一番重要だと思う、みたいな。
こういう姿勢が一番、学者・評論家受けがいいので大学入試の小論文とかだと良い回答なのですが、現実社会ではどうでしょうか。
悩み続ける姿勢で何かが変わるのかな。
これまた、ただ穏当なだけで何の主張もない、中庸の美徳原理主義者になったりして。