もうすぐWカップも終わってしまいますね。
日本の大活躍から未だ興奮冷めやりませんが、予選リーグのポーランド戦とその後の論争を見て思うところがあるので書いてみます。
ポーランド戦というのは、予選リーグを突破するために、日本が終盤、負けているにも関わらず10分以上をボール回しに使い、1-0での負けを維持した試合です。
この、ボール回しをして戦わないという姿勢、特に、勝っている状態で勝ち切るためにするのではなく、負けているにもかかわらず、しかも、別会場の試合が動けば意味がないのにも関わらず、この戦法を取ったことに対し、フェアプレーに反する、アンチフットボールなどと批判がなされました(確かに見てる側としてはつまらない内容でした)。
もっとも、勝負というのは勝ってなんぼで、結果的に予選突破を果たし、目的を達成したのだから、何も悪くないという擁護を、著名人たちが続々としたので、騒ぎは沈静化しました。
そして、続く決勝トーナメントのベルギー戦で、惜しくも負けてはしまいましたが、日本が大健闘したので、この話題は影が薄くなってしまいました。
このベルギー戦での大健闘の結果、ポーランド戦を見て、もう日本の応援をしないとか、日本には負けてほしいなどと苦言を呈していた海外メディアが手のひら返しで日本チームの闘いを絶賛という記事が多数出ました。
この海外メディアの手のひら返しというのが、よく見てみると面白いです。
まず、ポーランド戦に関して、海外メディアから批判が殺到という報道が相次いで紹介されましたが、批判の急先鋒はイギリスのBBC。
試合を中継していた、解説者3人が、日本のことをボコボコに批判しました。闘わないのなんてスポーツじゃないと。決勝トーナメントでベルギーにボコボコにされてほしいとまで言われました。
そして、ベルギー戦の後、このイギリスメディアは、まさに手のひら返したように、日本のことを絶賛します。最後まで戦い続け、美しく散っていったと。ポーランド戦の汚名を晴らしたと。
しかし、ここに、面白い国があります(まあ、無数のメディアがあるので一概に国ではくくれないのですが細かい話はさておき・・・)。
イタリアです。
私が読んだ記事によると、イタリアにはマキャベリズムという超現実主義、結果主義が浸透しているため、サッカーも戦略重視で、日本のポーランド戦についても、予選リーグ突破のことを考えれば、リスクはあったが合理的な選択で、なんら非難されるようなものではないという論調だったそうです。
ではこのイタリアはベルギー戦をどう報じたか。
そう、手のひら返して、批判するわけです。
途中2-0でリードした時点で、守りに入るべきで、特に、最後の場面なんて、時間稼ぎをして、延長戦に持ち込むべきであると。
イタリアの名将であるカペッロ監督などは、あそこはまず審判に残り何秒かを聞いて確認し、それに応じて時間稼ぎしながら戦うべきで、最後の最後で相手方のカウンターを許すようなボールを蹴った本田選手のことを批判し、自分が監督だったら、真っ先に飛んで行って首根っこをつかんで張り倒すなんて言っています。
最後まで美しく戦うことを選択した結果負けた日本を、サッカー後進国の弱さが出たと批判するわけです。
スポーツである以上闘うべきなんだと主張するイギリス。
勝ってなんぼの結果主義を貫くイタリア。
ともに手のひら返しですが、両社とも首尾一貫しています。
では我々日本人はどうでしょうか。
おそらく、ポーランド戦のボール回しへの批判に対しては、そんなこと言ったって、敗退したら元もこうもないだろ!と擁護しつつ、格上相手に最後まで攻め続けて美しく散っていったベルギー戦に感動した人が多数派じゃないでしょうか。
私たちは矛盾しているのでしょうか。
まあ、私もポーランド戦のボール回しについては擁護派ですし、勝たなきゃ仕方ないんだし、プロスポーツであって高校野球じゃないんだから当然の戦略と言いつつ、主張しながらも、ばつが悪いというか、モヤモヤした感じはあります。
その点、ベルギー戦に関しては、観たいものが見れた晴れやかな感じがあります。
結果うんぬんよりも、競合相手に、最後まで攻め続けて、あわよくば地力で勝てるんじゃないかという素敵な夢を見させてもらったと、感動しましたし、日本サッカーがついにここまで来たかと感慨深いものがありました。
勝っても喉に骨が刺さったようなポーランド戦と比較して、ベルギー戦は、負けて非常に悔しいですが、本田選手と同じくきよきよしい気持ちでした。
この感じ、みんなそうなんじゃないでしょうか。
姿勢か結果か、様式美を貫くか冷徹に結果を求めるか、どっちかにしろって言われてもできないというのは、ナイーブと言われればそれまでですが、どっちが重要ではなく、この問いの中で揺れ動く心と、それを互いに理解することが重要かと思います。
学校の成績で、平常点というものがあります。
まあ、私のような人間が、勉強できないやつは平常点を稼ぐしかないなどと言うと、非常に角が立つので言いたくないですが、それは間違いではありません。
また、平常点といえども、制度上は総合点に加算されるわけですから、そこを稼ぐことはこれまた当然の戦略です。
しかし、世の中、勉強のできない方が多数派で、その結果何が起きるかというと、平常点の過大評価が起きます。
曰く、勉強だけできても仕方がない、学校は勉強だけするところではないと。
こういった考えに染まりきると何が起こるのか。
それが、先日、神戸かどっかで起きた事件です。
職員が勤務時間中の3分くらい使って弁当を買いに行っていたのが判明し、処分を受けるという衝撃的なニュースが報道され、日本の厳しさは異常と海外でも面白がって大々的に報道されています。
これは、平常点至上主義の一つの到達点です。
高々3分外出したことの何が問題なのかわからないのですが、その3分を譲れない人たちがいるわけです。
確かに、会社員時代を振り返ってみると、仕事を頑張るということを、休憩したり私語をしたりせず、始業時間から就業時間までまじめな顔してパソコンに向かうことだと考えているようなタイプはどこにでもいました。
仕事において結果を残すことではなく、まじめな勤務態度を取ることが目的になってしまっているわけです。
これは、おそらく学生時代から始まっていて、勉強を頑張るということを、授業にまじめに出て講義を集中して聞いて、宿題を期日通りにしっかり提出したり、先生に言われたことをきっちりこなすことだと思っている人は確かにいました。
勉強を頑張ることイコール良い生徒でいることとなっているわけです。
もちろん、結果さえ出していれば生活態度なんてどうでもよいというわけではありません。
ただ、こういった態度や姿勢自体が目的に転化してしまうことには問題あります。
それは、それが逃げ道になりかねないから。
勉強ができるようになるために努力することに比べればまじめな学生になることは遥かに簡単で、仕事で結果を出すことに比べれば優良社員になることなんてはるかに簡単。
水は低い方に流れるように、知らないうちに、美しい生き方的な様式美に染まって、結果を出す努力を放棄することにつながりかねない。
最近は、芸能人が不祥事を起こすとネット上のバッシングがやみません。
そして、これは昔からですが、スポーツ界や芸能界は不祥事に甘いと非難されます。
これはある意味当然で、スポーツ選手や芸能人は、芸で生きているからです。
芸こそがすべての世界にいれば、私生活上の不祥事よりも、その芸や才能が消えることが惜しいわけです。
犯罪はさておき、不倫のような民事上の不祥事は、相手方に謝罪したり慰謝料払ったりして、とりあえず落ち着けば、復帰を認めます。
健全な私生活なんかより、芸の方が遥かに価値が高い世界に生きているからです。
しかし、美しい生き方的な様式美至上主義に陥っている人は、それを認めることはできません。
人生の価値は、勉強ができるとかお金を稼ぐとか名誉を得るとか影響力が強いとかそういうのではなく、人としての基本を守ることにあるなどと声高に宣う人にとっては、才能が有って活躍した人が不倫などをしたときに、不倫なんて大した話じゃないでしょと復帰を認めるかどうかは、自身のアイデンティティーにかかわる大問題ですから、絶対に許しません。
もちろん、結果を出してれば何やってもいいわけではもちろんないし、姿勢や態度は大事です。
特に、マキャベリズム的な、結果を出すためには手段を択ばずといった冷徹な現実主義に対して嫌悪感を抱くことは、調和の取れた社会を実現するうえで重要で、如何に外国からナイーブと批判されようが、無視してよいでしょう。
お金がすべて、出世がすべて、影響力がすべて、いずれも醜い態度です。
しかし、結果か努力かで、努力こそが美しいのだという考えは大切であるものの、努力の内容が変化し、結果実現のための努力を放棄して、なにか美しい生き方的なふわふわしたものをアピールすることになってしまうのは怖い。
なぜ怖いのか。
それは、様式美主義というのは、ある生き方なり姿勢なりを美しいとする、特定の価値観を前提にするから。
特定の価値観を前提とするということは、何がよくて何が悪いのか、何が美しくて何が醜いのかという物差しがはっきりあることを意味します。
要するに、最終的に、人はどう生きるのかとか、社会はどうあるべきかという議論にしかならない。
そして、人はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかに、明確なイメージを持つとする。
そして、お金を稼ぐとか、出世するとか、権力を得るとか、そういった現実的な目標を俗物的なものとして完全否定するようになると、必然的に現実社会で生活に困るようになり、社会に不満を持つようになる。
で、結局テロリストになる。
俗物的な結果での評価を否定し、特定の様式美を貫きつつ「人はこう生きるべきなんだ」的な生き方を実践しながら、心の安寧を得るためには、どうしても異なる生き方をしている人を否定する必要がある。
そうしないと自分は間違っているかもしれないという不安から逃れられない。
悪い奴らを殺して殺して殺しつくすと良い社会になるかどうかは、難しい疑問というか、現実には殺しつくすことはできない(もしくは人間がみんな死んじゃう)から設問がおかしいというのが正解なんでしょうが、そういう方向に考えが進むようになる。
お前らみたいなやつがいるから社会がよくならないんだと。
最近は、こういった、美しい社会を希求する想いに根差したバッシング行為が後を絶ちません。
しかし、その一方で、炎上させている連中の方がよっぽど社会を悪くしているという意見もあります。
逆に、些細なことをやたらに騒ぎ立てるお前らこそ、社会の害悪だと。少しは寛容になれと。
・・・・・・
時々、争いのない社会を実現しようなどとおかしなことを言う人がいます。
争いがない社会というのは、全員が同じ方向を向いている社会であり、個性というものが一切認められない気持ち悪い社会です。
そんな社会は目指すべき目標ではありません。
しかし、様式美を追求すれば、人はこう生きるべき、社会はこうあるべきなんだとなりますから、どうしたって、一つの考えなり価値観で世界を染め上げようとすることにつながります。
私たちは一人一人が違う人間なわけですから、当然、譲れない信念や価値観も一人一人違います。
ということは、潜在的には、一人一人が対立関係にあるわけですから、目指すべきは、争いのない社会ではなく、無数の潜在的な対立をうまく溶かしながら進む社会です。
対立は至る所にありつつも、ほどほどに調和のとれた社会でいいんだと思います。
人はこうあるべき、上司・会社はこうあるべき、報道はこうあるべき等々、あるべき論をまとった様式美主義が過激に叫ばれる現代社会。
ちょっとばつが悪いけど現実的な結果も大事じゃん、様式美ばっかり追及しても世の中上手くいくはずないじゃん、という方向に揺り戻すきっかけにポーランド戦はなったのでしょうか。
私は、ポーランド戦後のマスコミで散見された日本代表チームに対する批判を見て、理想的なやり方を追求するのも大事だけど、現実的な結果を得るのも大事だと熱く語っていました。
そしたら妻に、だったら少しは見習ってくれと言われてしまいました。