糖質制限「老化説」をめぐる攻防


久々に糖質制限が話題になっていますね。

ことの発端は、下記の記事で、東北大学の研究グループが、糖質制限を続けると高齢になってからの老化が加速するという研究結果をまとめたというもの。

ご飯、うどん・・・ 炭水化物減らすダイエット 60代後半で老化顕著に 糖質制限ご用心

糖質制限というのは、現代型の洋食とも伝統的な和食とも異なり極端な食事方法でもありますから異論を唱える人も多くいました。

しかし、糖質制限派が具体的に炭水化物摂取の問題点を提示するのに対して、アンチ糖質制限派は炭水化物を取らないことが「体に悪い」とされる理由を今一つ説明できていなかったため、「糖質制限は体に悪い」という主張は糖質制限派の方々からすると、なんとなくでしかありませんでした。

唯一の反論として、アンチ糖質制限派は、脳は糖しかエネルギーにできないから炭水化物を獲らないといけないと言いますが、脳は、体内で脂肪を分解して生成されるケトン体という物質をエネルギーにできるので、糖しかエネルギーにできないというのは間違いだと反論されます。

それに対し、確かに脳はケトン体をエネルギーとして使用できるが、ケトン体生成の仕組みは糖が不足したときの非常用装置であり、それに頼るのは良くないと、再反論されます。

しかし、この、「非常用装置だからそれに頼るのは良くない」という理屈が弱い。

まず、ケトン体生成が非常用装置だというのは、多くの人が炭水化物を主食にしているから非常用装置と整理されているだけで、本来的に体の仕組みに、こちらがメインでこちらが非常用という区分はありませんから、背理というか、自己循環的です。

炭水化物主食派が、ケトン体はサブの仕組みだと主張したところで、糖質制限派からすれば、それはあんたが炭水化物を主食にしてるからサブなだけだろと突っ込まれて終わりです。

そして、糖質制限派としては、以下の3つで反論します。

1.そもそも人類の歴史上、農作を始めたのは比較的最近で、農作に出会う前の700万年の間、人類の主食は肉だったわけで、ケトン体利用が非常用なのではなく、むしろこっちが人間の本来の仕組み。
2.エスキモーなんかは事実上糖質制限食で元気に暮らしてる。
3.自分自身が糖質制限をしているが何不自由なく、むしろ健康に暮らしている。

これに対して、アンチ糖質制限派としては、むむむ、としか言えません。

もし糖質制限派が勢い余って、適度な糖質摂取すら体によくないとまで踏み込んできた場合には、反論する余地がありますが、糖質制限そのものを「悪いもの」であると認定することは困難でした。

そこで登場したのが上記の記事で、ついに糖質制限の問題点が科学的に実証されたらしいと、一部の人たちは食いついているわけです。

と言ってもねえ。

まず、記事をよく見るとわかるように、記事元は農協べったりの日本農業新聞。

記事の最後には、おにぎりダイエット運動なるものまで紹介するおまけつき。しかも、研究をまとめたのは農学系の研究グループ。

いくら私が白米大好きで、農家の皆さんや農協への感謝を忘れたことがないとはいえ、この時点で、私は詳細を調べる気も起きないですね。

そうはいっても、ちょっと詳しく調べると、マウスの実験だそうで。

草食動物相手に糖質制限したら健康状態が悪くなったなんて、一体何をやってるんだという感想しかないですね。

何を食べさせたんですかね。ちょっと笑ってしまう。

とはいえ、糖質制限の第一人者の江部先生がしっかり反論しています。

糖質制限「老化説」が抱える根本的な大問題

私は、糖質制限に関しては、やりたいならやればという感じですし、ダイエット方法としては、カロリー制限よりわかりやすくて、外食が避けられない人などにとっては実践的だと思います。

とは言え、糖質制限なんて体にいいわけないだろとも心の中で思っている一人でもあるのですが、江部先生は好きです。

この人の文章からにじみ出る人柄の良さと頭の良さが好きです。

糖質制限というかダイエットはビッグビジネスですから、目が¥マークの人達に囲まれて四苦八苦してそうですが、なんとか中立的で穏便で丁寧な論説を心がけていて、良識派の学者のお手本みたいな人だと思います。

まあ、京大の医学部の教授とかになると、お金も権力も名誉も全部あるわけで、日常生活に不満なんてないだろうから、人格者になるのも当然かもしれませんが、まあ、そういうのはさておき。

それにしても江部先生、本当は、農協べったりの農業新聞に載った糖質擁護の記事なんて読む気も起きないでしょうが、そういった背景的な陰謀には一切触れず、しっかり反論しているのはさすがですね。

この件に関しては、江部先生の言っていることの方が説得力があると思います。

相変わらず、イントロが長くてすみません、ここからが本題です。

こういった議論を見ると思いますが、ちょっと世の中全体が、科学に期待しすぎではないかと思います。

これは、グーグルのせいでしょうか。

何か疑問があったときに、すぐに答えっぽいものが見つかるせいで、皆が皆、すべてに答えがあるかのような錯覚に陥っているのでしょうか。

というより、答えが無い状況に我慢が出来なくなっているような気がします。

なんかあるとすぐに、科学的根拠がー、学術的根拠がー、などと言い出す人が後を絶たず、その一方で、ちょっと権威ありそうな報告が出るとそれに飛びつく。

これは、危険な流れだと思います。

科学が進歩したなんて言っても、人間の体の仕組み、社会の仕組み、宇宙の仕組み、どれを取っても1%もわかっていないわけです。

トレーニング雑誌を読めば、毎号のように、「最新科学が教える新常識」なんて特集をやっていて、おそらくこれは5年後10年後もそうで、つまり、今日の最新研究は基本的に明日ひっくり返る可能性があります。

そう考えると、科学的根拠に基づいて論理的に行動しようという試み自体が論理的なのかどうかは怪しいです。

とは言え、科学的に証明されたことが将来ひっくり返るとはどういうことなのか。

数学の証明は二度とひっくり返りませんし、物理とか化学もそんな感じでしょう。

一体どういうことでしょうか。

まず、証明のほかに立証なんて言葉があります。

立証というは、裁判とか法律の言葉ですが、裁判官に確信を抱かせること言います。

殺人事件にしろ、強盗事件にしろ、タイムマシンで戻らない限り真実は分からないという限界があります。

そうはいっても、白黒つけなくてはいけないので、検察が証拠を積み上げて、立証するわけですが、究極的には過去の事実の証明なんてできないわけで、結局は、公平中立な第三者である裁判官が、「こうであるに違いない」という確信を抱くかどうかにかかっています。

そういう意味では、裁判における立証とは、自然科学的な証明とは異なり、絶対的なものではありません。

裁判官の経験と知識を結集した全人格的な判断、なんていうと、人文系の叡智というか意地は見えますが、客観的な証明ではありません。

では、自然科学的な証明とは。

これが、数学はさておき、物理、化学、生物、いずれも、分析的なことに関しては証明が可能です。

対象を細分化していって、仕組みを解明するのは、証明が可能です。

重力波があるのかとか、ある物質がどういう働きをしているかとか、このホルモンの働きはなんだとか、こういったものは証明が可能です。

そういったものを探り当てて、その判断の客観性を担保することは可能です。

しかし、トレーニング科学とか、医学の世界のように、あるインプットに対して、どういうアウトプットが起こるかという話になると、理論的には証明不能です。

人間の体には無数の仕組みがあるわけで、そういう状況の中、糖質を制限するとどうなるのかなんて、純理論的には、人によって違うというのが結論で、「その結果を証明する」なんて不可能です。

単に、統計データがあって、その統計データには、実験した人が特に記録した項目しか観察されていません。

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細分化してミクロの分析をするのではなく、人間の体という複雑怪奇な仕組みを前提として、何らかの因果関係を探り当てるなんて言うのは、統計的なデータの取得は可能で、それをもって科学的根拠ということはできても、イメージほどの神通力はありません。

糖質制限の有効性を報告する論文が出たら糖質制限を始めて、今度は否定する論文が出たら糖質制限をやめて、それが科学的なんでしょうか。

もちろん、「科学的」とはそういうことなんだと言われてしまえば、そうなのかもしれませんが、それが「科学ごっこ」と何が違うのかはわかりません。

抽象的な人間からなる想像上の世界では合理的な生き方かもしれませんが、自分でやってみなければわからない現実の世界で、巷に溢れる「科学的根拠」なるものに依拠して生きるのが、どこまで意味があるのかはわかりません。

他人の体で実験した結果、しかも統計的な傾向なんて、自分の体に当てはまるかどうかなんて完全に未知ですから、所詮は、一流の論文誌に載ろうが何だろうが参考でしかなく絶対的な指標になるものでありません。

上記の江部先生の主張にもありますが、人類は農作を始めるまでの700万年の間は、糖質制限食だった、そして、人間の体はそれに最適化されているはずという考えも、論理的のようで、そうではありません。

農作を始めてから、糖質摂取に適した体を持つ人類のみが生き残ったかもしれませんし、そうでないかもしれませんし、結局は分かりません。

江部先生は、結局、「歴史的な経緯から言って人間の体は糖質制限食に適しているはずだ」と信じているというだけです。

体の仕組みに関する「動物の起源と進化の歴史重視教」の教祖とも言えます。

したがって、上記の反論のなかでも、当然のように、そもそもマウスは歴史に登場して以来草食であるから、マウスに糖質制限食を与えたら代謝が壊れるのは当然だと言っています。

そういう主義なわけです。

しかし、これだって、本当はやってみなければわかりません。

もちろん、私は個人的に、マウスについてはそうだろうと思います。

健康な生活に不可欠な糖質が不足したから老化したのか、それとも草食動物にいきなり糖質制限食を与えた結果代謝がおかしくなって老化が早まったのか、この実験からは分かりません。

しかし、江部先生の言う通りで、草食動物のマウスに糖質制限食なんて与えたら、体が壊れるのなんて当然と思います。

とは言え、人間については、同じように700万年もの間肉食だったんだから、糖質中心食で体が壊れるかと言われれば、そうだとは思いません。

マウスと人間と何が違うのか、なぜそこに線を引くのかと言われても分かりません。

米を主食に元気に長生きした人は沢山いるんだから、体に悪いわけないと勝手に思っているだけです。

もしその人たちが、糖質制限食実践していたら、もっと健康で長生きしたかもしれないとしてもです。

ただ、それに対し、科学的根拠に乏しい思い込みだと反論されれば、動物の食生活の歴史なんて持ち出すのも科学とは関係ないと言い返すかもしれません。

やってみなければわからないし、食生活の歴史を持ちだすにしても、科学的議論に持ち込むのであれば、何万年継続すると変化に対応できないくらい固定化するのかとか、何万年かけると変化に適応するとか、動物ごとにあれこれ実験して試せと。

結局、世の中何にもわからないわけです。

似たような話に歴史認識があります。

以前、歴史学というのは、資料の客観的な考証を重ねて歴史上の真実を明らかにすることが使命だと思われていました。

しかし、こういった客観的な真実主義の歴史学というのは批判にされされます。

理由は2つあって、

1.近代以降は資料が多すぎてとても一人が読み切れない。
2.資料の分析結果どころか資料自体が記録者の主観と切り離せない。

こういった観点から、歴史上の真実というものはなく、究極的には見る人次第のフィクションでしかないのだ的な意見が多勢を占めるようになります。

こういった主張を受けて、従来定説とされていた歴史認識を再検証する動きが始まり、新しい歴史観が登場します。

例えば、従来の歴史は欧米中心の解釈で欧米以外を劣った地域社会と捉えてきたとか、男性中心に歴史は語られていて女性の影響が過小評価されているとか。

しかし、ここで見逃せないポイントがあって、従来の歴史観は欧米中心の歪められたものであるなんて主張するのは歴史専門家ではなく、きまって、アジア中東アフリカ諸国の独立運動家であり、男性中心の歴史観を否定する人たち女性運動家であるという点です。

歴史の真実追及に疑問が呈され、従来の定説とされていたことも再検証しようという歴史学者の主張の結果、歴史は現在、単に政治運動の道具になってしまったという現状があります。

現在、本屋に並んでいる歴史に関する本で、歴史の専門家が書いたものなどほとんどなく、ある特定の主張を持った人たちが歴史を紹介してものばかりです。

100%客観的でいられないというのは、つまり主観が入るということです。

そして、それを客観的なものとして信じるということは、その主張者の主観に乗っかるということです。

これは、歴史だけでなく科学にも言えます。

重力波があるのかないのかとかではなく、「AするとBになる」的な、自分の生き方の参考になるような科学的情報に100客観的なものなどあり得ず、かならず主張者の主観が入り込んでいます。

大事なのは、自分の生き方の参考にするときには、客観的な事実に注目するだけでなく、主観的な部分にも理解することです。

自分が主体的に生きるために利用するのは良いとしても、真実を追求しようとした結果として自分の頭で考えることを忘れ、主体性を失ったために、他人の主体的な主観に利用されるのは危険です。

現実社会の多く、特に自分の行動の帰結はやってみなければわからないことだらけで、大事なことは選択です。

臨済録に下記の一説があります。

如諸方学道流、未有不依物出来底(諸方の学道流の如きは、未だ物に依らずして出で来る底有らず)

これは、諸方の修行僧たちで、何かに依存せずに私の前に出てくる者はいない、という意味です。

自分のところを訪ねてくる修行僧の多くが、誰々先生はこういうことを言っていますが臨済先生はどう思いますかといったようなことを聞いてくるのにうんざりしていて、他人の意見に頼ってばかりいないで、少しは自分の頭で考えたらどうなんだとそのあとの一説で口うるさく言います。

これと同じで、最近のやたら科学的根拠を主張したり、求めたりする風潮というのは、他力本願の象徴のような気がします。

価値観が多様化している中で、自分の生き方への不安は募るばかり。

その一方で情報の洪水に押し流されている。

そんな中で、宗教にすがる人が増える一方で、宗教なんて非科学的だなんて言う人に限って、科学という宗教に依存して、それを全力で寄りかかって「正しい」生き方をしようとしているわけです。

世の中の仕組みを解き明かそうとする科学界の中では論理的思考は欠かせませんが、分からないことだらけの現実社会で論理的に生きようとすることは、どこかでよって立つ前提を他人から借りてくる必要がありますし、それは自分の主体性を見失うことと裏表の関係にあります。

ロシアのことわざに下記のようなものがあります。

「歴史を知らない者は片目を失う。しかし、歴史ばかり見ているものは両目を失う。」

これは、科学についても言えるんだと思います。