分裂してますね。
目次
はじめに
最近、フランスや韓国で大統領選挙がありました。
昨年のアメリカ大統領選やイギリスのEU離脱を問う国民投票と同じく、国民の分裂が大きく取り上げられています。
最近、いたるところで社会の分裂が叫ばれています。
そこで、分裂について考えてみます。
花子さんの意見
社会の分裂を考えていたらあることを思い出しました。
話は10年以上さかのぼります。
私が会計士試験に合格したのは2004年なのですが、2004年というのは、法科大学院いわゆるロースクールが始まった年でした。
当時の私は、10年後に自分がビジネスというものを忌み嫌う人間になっているとは全く考えもしなかったので、ロースクール発足が世間を賑していたこともあり、会計士として経験を積んだら、どこかのタイミングでロースクールにも行ってみようかなんて考えていました。
そして、本屋で入試問題集みたいなものを読んでみたわけです。
ロースクールには、3年コースと2年コースがあって、3年コースというのは私のような理系出身とか、法律を勉強したことが無い人が行くコースで、入試問題に法律科目はなく、小論文が中心となります。
そして、記念すべき法科大学院スタート時、つまり入試初年度の小論文の問題というのは、どこも気合が入っていたのですが、ある意味想像通りの内容です。
どこの大学も、内田樹とか、井上達夫とか、上野千鶴子とか、宮台真司とか、いかにもな感じの人文社会系の評論を読ませて、小論文を書かせるという内容でした。
しかし、総本山の東大でおもしろい問題が出ます。
著名学者の著名な評論を持ってきた他大学と異なり、小論文のテーマとなっているのは、太郎君と花子さんの短い創作会話でした。
太郎君はロースクールへの入学が決まって、意気盛んな学生です。
法曹を「社会の医師」と捉えており、法律をしっかり勉強して、社会に存在する様々な紛争の解決に貢献していきたいというわけです。
そこに、インテリ根性全開の花子さんのシニカルなツッコミが入ります。
「社会の医師」ってどういう意味?と。
法曹が「社会の医師」なら、紛争は社会の病なわけ?、紛争のない社会が健康な社会なの?と太郎君を詰めます。
そして、言葉を詰まらす太郎君に花子さんは突き付けます。
法曹の仕事は社会の中で紛争を広げていくことなんじゃないかと。
当然、問題は、花子さんの見解を説明せよというものです。
私は普段、学者はバカばっかりとかいろいろ言っていますが、全て撤回します。
頭良すぎです。
この問題のテーマは社会の分裂かもしれません。
私なんか、10年以上経過し、実際に社会が分裂して初めて意味が分かりました。
右脳と左脳
最近はAIの議論が盛んで、AIは人間になれるのかなんていう話題をいたるところで目にします。
しかし、AIが人間になることはありません。なぜなら、AIには右脳が無いからです。
厳密には、右脳と左脳は繋がっていて、2つで1つの脳を形成しているわけですから、バラバラに考えることは出来ないのですが、以下では簡便に、頭の中に2つの部屋があるかのように考えます。
左脳は言語とか論理とかを司り、右脳は感情とか衝動とかを司るとされます。
ここで、大事なこととして、人間の体というのは、目と耳と鼻だけでなく、全身がセンサーであることが挙げられます。
毎分毎秒、体全体で外部からの様々な刺激を感じ取るだけでなく、その複雑な体自身の内部で心臓の鼓動の増減や血圧の増減など様々なことが起きています。
そういった、体で起きていることを常にモニターしているのが右脳です。
そして、モニターしている右脳で、様々な刺激に応じて発生する電流パターンこそが、我々が感情とか情動とかいうものです。喜怒哀楽とは言いますが、4種類しかないわけでも、4種類に分けられるものでもなく、厳密にいうと毎回毎回ちがって、言葉では説明できないものです。
その右脳での処理を前提に、左脳があれこれ考えたりします。
赤い光を見たとか、様々な外部的な刺激に対して、右脳でどのような電流パターンが発生するかは個人次第ですし、当然赤い光だけで一意的に決まるものでもなく、見た状況・環境によって大きく異なります。
その右脳の電流が左脳に伝わって、信号が赤だからブレーキを踏まなくてはいけないとか考えるわけですが、そんなことを考える前にすでに右脳側で少しイライラしたり感情は発生しているわけです。
ここが、人間とAIの最大の違いです。
AIというのは、極端なことを言えば、左脳だけの存在です。
アルゴリズムという思考パターンのようなものが仕組まれていて、あるインプットに対して、どういうアウトプットをするかがあらかじめ埋め込まれています。
人間が人為的に与えたルールに沿って思考します。
私のつたない知識でこれをフレーム問題と呼んでよいのかわかりませんが、この右脳の有無を理解するための良い例として、フレーム問題というものがあります。
買い物ロボットを作ってAIを搭載します。
このロボットが、からあげクンを買いに行く使命を帯びてローソンまで行ったとします。
レジで、からあげクン一つを注文するわけですが、もしここで、想定通りに店員が、何味ですかと聞いた場合、ロボットは事前に登録された通りに、レギュラー味をお願いしますと答えます。
さらに、想定に反して店員が、「ポンタカードはお持ちですか?」と聞いてきても、それは事実に関する質問ですから、持っていませんと答えられるかもしれません。
しかし、想定外なことに、もし店員が、新発売の激辛味はいかがでしょうかと聞いてくると、どんなに進化したロボットでも答えられません。せいぜい、分かりませんと答えるくらいです。
これが人間であれば、小学生の低学年くらいでも対応できます。
何故かというと、激辛味と聞くだけで、右脳に一定の電流パターンが発生しますから、それに基づいて、何らかの思考を巡らせて、自分が欲しいかどうかの結論が出せるからです。
しかし、ロボットの場合、激辛味に関する感情がありませんから、事前に情報が無い限り、論理で処理できるものではなく、何の行動もとれません。
これがフレーム問題で、あらかじめ論理的な処理パターンで出来た世界という枠を決めておこないと、コンピューターは何もできないわけです。
その点、人間には右脳があり、未知の物でも何らかの情動が生じますから、それに基づいて、左脳で理屈を後付けし、なんとなくYESかNOの結論を出したり、何らかの応対をすることが出来ます。
右脳と自分
この右脳こそがある意味自分です。
左脳が出した結論に基いて理性的な行動をするのも自分であるのは間違いありません。
しかし、「我思うゆえに我あり」なんて言った人がいますが、左脳で理性的に考えているのが「我」ではなく、そんなことを考えなくても既に存在してるものこそ「我」です。
AIというのは、ある意味外部的な存在で、誰かが設計して製造し、その思考パターンたるアルゴリズムも、誰かが外から埋め込みます。
しかし、人間(生物)は違います。
我々は、受精卵の時点から、DNAという設計図を持っています。
仮に試験管の中で育てられたとして、一切教育を受けなければ、言葉は話せないかもしれませんが、見た目など、誰一人として同じにはならず、一人一人が成長後になるべき姿が最初から埋め込まれていて、実際には外部的な影響を受けるとはいえ、その設計図通りに成長していきます。
人間(生物)をマシーンに例えたところで、自己の内部に最初から設計図があり、放っておいてもその通りになっていくという点で、自己創造的な人間(生物)と外部的なAIは根本から違います。
そして、右脳だってその設計図通りに作成されます。
つまり、ある外部刺激を見たり聞いたりした時に、それをどう思うかなんて、生まれた時点で決まっている要素がかなり大きいわけです。
小さなことで、大笑いしたり、楽しそうにしたり、めそめそくよくよしたり、怒ったり、人間関係のなかで、「なんでこの人は・・・」と思うことはよくありますが、かなりの部分が先天的に決まっています。
もちろん、思い出し笑いや、恥ずかしい経験を思い出して夜中に布団の中で叫んだりする経験からもわかるように、人間というのは左脳が発達しすぎて、右脳→左脳という流れ以外にも、左脳→右脳という流れも出来上がっていますから、後天的に知った言葉自体が感情のイメージと結びついていて、感情の動きの全てが先天的な設計に基づくとは言えません。
しかし、「私とはこういう人間である」と、後天的に学んだ言語を使って、左脳で一生懸命「自分」なるものを考えたところで、自意識なるものが形成される前から存在する設計書に基づいて作られた箱の中で情報を処理しているだけですから、それは本当の自分ではなく、本当の自分が言葉を使って考え出した架空の「自分」です。
何もしなくても誰とも違うものになっていき、同じイベントに直面したときに誰とも違う電流パターンが発生する右脳、及びその右脳に誰とも違う電流パターンを発生させる原因となる誰とも違うセンサー群たる体こそが「自分」です。
どんなに、言葉で論理的に考えようとしても、言葉の一つ一つが右脳で形成される自分だけの情動と連携していますから、真に客観的な思考など無理なわけです。
何が言いたいかというと、我々個人の一人一人にはそもそも対立があるのです。
ある外部刺激に対して、形成される情動が違うわけですから、同じものを好意的に受け取るかそうじゃないかは、人によって違います。
芸能人の発言の炎上なんかでも、一番最初にあるのは、その発言を聞いた時の嫌悪感であり、後から、だってだってと、その感情を理由づけるために左脳が使われているケースがほとんどです。
また、自分の行動に目を向けても、選挙での投票など、自分なりに情報を収集したりしますが、どれが正しいか冷静に考えているというよりは、情報に接したときに瞬発的に自分の中で湧き上がってくる感情的なイメージと外部から得た情報との折り合いに悩んでいるのは私だけではないと思います。
ある事象を受けて、ああでもないこうでもないと議論したりするのですが、左脳で理論を組み立てる前に、左脳に渡る情報は既に右脳で、好き嫌いのような情動で色づけられていて、そこから自由になることは出来ません。
つまり、我々個人は、誰とも異なる設計図を持って生まれ、その通りに成長することがあらかじめ仕組まれた存在という意味で、生まれながらに対立関係にあるわけです。
エデュケイテッド・ピープル
アメリカでは、トランプ支持者であると表明すると、高学歴な人達から、Uneducated Peopleとして憐れむような眼で見られるそうです。
Uneducated(アン・エデュケイテッド)というのは、読んでそのまま、Education(教育)を受けていないという意味です。
トランプを支持しているのは、適切な教育を受けられなかった哀れな人達なわけです。
このように、アメリカの分裂は、アンチトランプの人達からすると、適切な教育を受けた人とそうでない人の対立に見えるようです。
つまり、適切な教育を受けていればトランプなど支持するはずがないという考えです。
その反面、アンチトランプになった理由は自分の教育のおかげで、その教育は正しかったと信じています。
教育が分裂を起こしているわけです。
反知性主義という言葉もあります。こちらの方がわかりやすいかもしれません。
本来、反知性主義というのは、既存の知性やそれらを前提とする権威に対して、本当にあなたたちの考えは正しいのか、見直す必要があるんじゃないかと挑むことを意味します。
しかし、既存の知性を当然として受け入れてしまう人たちにすると、疑問を抱くという思想のない人達ですから、正しい教育を受けていない人、もしくは絶対的なものに反発する小児病的態度という感じになり、結局、知性に反する人、すなわち愚か者となってしまいました。
教育というのは恐ろしいもので、何年か当たり前のようにやっていると、学校なるところに行って、先生やら教科書から与えられた知識や考え方を覚えることが勉強であると盲目的に信じる人が大量に生まれます。
特に、勉強が好きで勉強するのではなく、社会の出世競争などの道具として勉強する人たちにとって、勉強は手段でしかありませんから、所与の教義が存在することを前提に勉強が進められ、権威ある教科書を覚えて、自分は、経済学なり、法律学なりを修めたということになります。
例えば、私は、無差別殺人を犯した者は(もちろん立証された場合)、例外なく一律死刑にすべきと思っているのですが、こういうことを言うと、法律を勉強した人には、私は非常に反知性的な、Uneducated Peopleに映るようです。
死刑にするかどうかは永山基準(だったと思う)というのがあるそうです。
長年の歴史の中で形成された理論があり、その基準の精密な適用こそが法曹の使命で、一生懸命その基準の運用方法とか、具体的な適用方法、過去の判例の比較検討などを議論しているわけです。
仮にその基準を批判するとしても、そういった知の集積を謙虚に学ばずして、一律死刑にしろとか、反知性主義にもほどがあると憐れむような目で見られます。
繰り返される、裁判員裁判の死刑判決を懲役刑に修正する高裁判決もそうなんでしょう。
長い歴史の中で作られた権威ある理論があり、それを正しく解釈し、事件に厳格に当てはめて死刑にしないことが知性であり、そう考える人間を育てることが教育なわけです。
六韜のなかで、太公望が周の文王に、知恵があっても臆病なものを将にしてはいけないと説きますが、その通りですね。
ルールを覚えていかなる時もそれを機械的に適用するのが専門家なのであれば、専門家なんて不要でAIで十分です。
いつからルールを守ることが美徳になったのでしょうか。
ここぞという場面で、既存のルールを破り、新しい社会を切り開くことこそエリートの役目です。
教育とフレーム
結局、教育制度が、覚えることではなく考えることが大事と強調しつつも、考えるためのフレームについては、無条件で与えてしまっているわけです。
もちろん、多くの場合、考え抜かれたフレームを使って効率的に処理するのは重要です。
しかし、教育が行き過ぎて、現在の教育のような洗脳レベルまで行ってしまうと、思考のフレームが聖典となり、知性が宗教になってしまいます。
教える本人たちがまったく疑ってませんから、教わる方も疑う気なんてさらさら起きません。
結果、理性的な人間を育てると言っても、理性的な人間であればこういう時はこうするといった、「理性」なるフレームを与えるだけに終始して、それを覚えるだけの人間を量産します。
それの何が問題化というと、人間が人間でなくなってしまうんです。
一定のインプットを特定のアルゴリズムで処理してアウトプットするだけであれば、それは人間ではなく、AIと同じです。
人間であれば、一人一人異なる右脳を持っていて、同じイベントを受けても、それが論理CPUたる左脳に渡る時点で、その人にしかない個性的な色付けされた情報になっているわけです。
その結果、人によって同じ問題に直面しても全く異なるアウトプットが出てくるし、それこそが我々が人間(生物)であることの必然です。
しかし、その事実が忘れられて、理性的な人間なるマシンを作り上げることに全力が向けられています。
AIは人間になれるのかなんて議論されていますが、実は、AIが人間になれるかではなく、そもそも、人間をAIのような存在として捉える考えは昔から欧米では根強くあります。
人間を思考するマシンと捉える考え方です。
あるインプット情報に対して、処理してアウトプットするのが人間であると捉えます。
そして、人間は理性的な存在であるといった考えや、理性的な人間を育てるための教育論などはすべてそういう人間観を前提としています。
脳が中心で、手足といった体は付属品でしかありません。
パソコンに例えると、脳がCPUで、手足はキーボードやマウスみたいな周辺機器でしかないという考えです。
しかし、私たちには右脳があり、体全体で感じた結果が真っ先に処理され、その右脳で処理された情報を前提として左脳は機能しますから、脳あっての体ではありますが、体あっての思考でもあり、人間は、考える脳とその指令によって動かされるだけの手足からなるロボットではありません。
しかし、そういう考え方を持つ人間がリーダーとなり、右脳を無視した左脳中心の理性主義に基づいて教育制度を整備し社会を構築してきた結果、我々は決められた処理をするだけで、AIに置き換えられることをおびえる、社会の歯車と化しました。
人間が理性な存在で(そうあるべきで)、その人間から構成されるのが社会だとすると、当然理性的な社会がデザインされ、社会はそこに向かうべきとなります。
宇宙船地球号なるものは、文字通り、行き先を指定された巨大宇宙船という機械になります。
そうすると、一人一人の人間は、「理性的」と称される、決められた処理をするだけの存在と化し、AIと変わらない存在になり下がりますから、AIに置き換えられるのは時間の問題です。
人間が生来的に持っている右脳など無用の存在で、それを押し殺し、左脳のみで「理性的」に情報を処理することが求められる社会になってしまいました。
分裂を乗り越える
話がだいぶそれましたが、社会の分裂といった場合、グループの対立に話が行ってしまい、個人個人の対立という、社会の、そして人間の当然の前提が見えなくなります。
我々は、いつの間にか欧米流の考えに染まって、理性的でなければいけないと、「理性的な社会」の一部品として行動すべきであるかのように洗脳されていますから、日常生活で右脳で発生する情動を押し殺して行動しています。
一人一人が違うんだから世の中面白いなんておめでたいことを言う人もいますが、自分が自分以外と違うということはそこに対立関係があるということであり、全然面白いものではありません。
ブログを書いていると、コメントで突っかかってくる人がいて(私は非公開にしていますが)、自分と違う意見=自分の否定じゃないんだからそう興奮しなくても良いじゃないかと思いつつ、究極的には、自分と違う意見は自分の否定です。
そこは紛れもない事実です。
冷静にふるまおうとしても、理解できない意見を見るとイラッとするのも事実でしょう。
しかし、Educatedな我々は、そういった意見の違いから自動的に右脳で発生するストレスを涼しい顔して受け流さなくてはいけない、冷静に何も起きてないかのように振る舞うのが理性的な振る舞いであるとして洗脳されていますから、そういった情動を押し殺して生きています。
しかし、移民の受け入れのような、個人間対立が先鋭化する問題になると、もうこれ以上我慢できないとなり、感情が爆発します。
ここにきて、冒頭の花子さんが登場します。
結局、大きな対立の原因は、個人個人の細かい対立や紛争が理性なるものによって押し殺されている社会そのものにあるのだと思います。
理性を普遍的で客観的なものとすると、そこに人間の自由なんてものはありません。
自由主義国家では社会主義政党は許される反面、社会主義国家では自由主義政党は銃殺刑になるのと同じで、理性的な社会を構築しようとすると、個人の自由なんてありません。少なくとも、理性主義の範囲内での自由でしかありません。
しかし、人間は、本当に、生まれながらにして自由であり、社会の方向性とは無関係に、右脳で勝手に自分だけの情動が生じますから、理性なる外部的な枠に収められること自体がストレスなわけです。
分裂を乗り越えるために必要なのは、国家とかいうフィクションの内にこもるか、グローバルという外に開くかといった理論的な対立のどちらか一色で社会を染め上げることではなく、個人個人が抱えている対立が真正面から語られ、白も黒も社会の一部として受け入れる社会づくりをすることだと思います。
最近は、著名人の発言などを巡る炎上事件が後を絶ちません。
炎上させている側は、非難する理由をもっともらしく語っていますが、本質は、芸能人の発言などを見た時に瞬間的に右脳に生じた嫌悪感を表明しているだけです。もっともらしい理由は、右脳から嫌悪感で色付けされた情報を受け取った左脳がひねり出したものです。
そして、合理的な社会の歯車として、日々の日常生活で感情を押し殺して生きていくことを強要された個人が、自然に発生した感情の、他人との共鳴を求めているわけです。
しかし、もしそれをみて、内に生じた感情を我慢できない反理性的な連中、Uneducated Peopleとみてしまうと、冷静なようで我慢しているだけですし、内側に白黒はっきりした基準を持っていますから、いずれ自分も社会分裂の歯車と化します。
最終的に、Educatedを自負する人同士で連携し、「お前らみたいな反知性的な連中がいるから社会が上手くいかないんだよ!」と叫ぶ日は近いです。その共同体を支えているのは理性なるものではなく、右脳で生じたUneducated Peopleに対する嫌悪感の共鳴でしかありません。
あらゆるところで紛争が発生するけど、それを一人一人がのらりくらりと乗り越えていく社会やその構成員としての個人。
現代のような、左脳が重視され、右脳が抑圧された状態で、右脳内でのストレスが極限まで蓄積し、右脳が爆発して感情的な対立が生じると、もうどうしようもないです。
そうなる前に左脳と右脳のバランスの取れた世界を作るべきなんでしょう。
右脳こそが自分ですから、わがままな反面他人のわがままにも寛容といった感じでお互いの右脳を大事にしつつ、対立ばかりじゃ疲れちゃうからちょっと落ち着こうくらいの左脳の使い方でよいのだと思います。
それを実現しないと分裂は収まりそうもないですね。
花子さんの言う通り、大事なことは、紛争を社会の病として無くすことではなく、無数の紛争が溶け込みつつも粛々と回り続ける社会を構築することなんでしょう。
終わりに
書きながらちょっと詰めが甘いなと感じていますが、疲れてきたのでアップしてしまいます。
Amazon Primeでやっているドキュメンタルのシーズン2が相も変わらずの下ネタの嵐で大笑いしながら見ています。
シーズン1途中の怒涛の下ネタ連発に、つまらない、あり得ない、やりすぎと叫ぶ人がたくさんいる中で、全く気にもせずに、やりたいようにやってくれと企画を任せ、実際に序盤からとばしまくるAmazonに拍手ですし、実際にウェルカムで見ている人もたくさんいます。
選挙で国が大きく分裂する前に、バラエティ番組における下ネタのあり方くらいのテーマで、国民が分裂して一戦交えておいた方が良いと思うのは私だけでしょうか。
国会前での乱闘といった政治的な大きな分裂をする前に、ネット上の炎上事件などを通じて、私たちの社会においては、意見の相違に基づく小競り合いが絶えることはないと再認識をして、白黒つけるんじゃなくて、それらをゆるーく受け入れていく社会になっておいた方が良いと思います。