なんと、プロテインを5000mgも含有しているそうです。
さっそく、ダルビッシュ選手が突っ込んでいます。
えぇ。。 プロテイン5g。。 https://t.co/H4XaoJjVXR
— ダルビッシュ有(Yu Darvish) (@faridyu) 2017年3月14日
ただ、結構売れそうな予感。
こういった商品のフロントランナーはやはり、味の素が出した、アミノプロテインでしょう。
普通のプロテインでは一度に20g以上摂取が通常でしたが、吸収の良いアミノ酸を配合することで、1回あたり4gで足りる運びとなり、小分けパックで持ち歩けるようになったと。
今まで、大量の粉を牛乳で割ったりして飲まなくてはいけなかったのですが、これは1回あたり4gで済むので、シェイカーの持ち運びなと不要で、さっと袋を破って口に入れるだけで超便利、といった絶賛するレビューが多いです。
量が少なすぎるという批判の声もありますがごくわずかで、絶賛するレビューがほとんどです。
近年は、グローバルな人材を育てようという視点からの教育改革が進んでいます。
そして、小学生から英語を教えたりしています。
しかし、グローバル人材育成の本丸は歴史教育なんじゃないかとも言われています。
世界がほとんど登場しない日本史と、日本がほとんど登場しない世界史を、完全分離で教えているかぎり、グローバル人間なんて育つわけないという意見です。
両方を徹底的に教えても、別物として教えてしまうと、かえって歴史教育の目的を達成できなくなるのではないかという鋭い指摘です。
細分化が全体の理解を著しく害します。
これと同じようなことが生物教育にも言える気がします。
上記のような世の中を見ている限り、体の中で起きていることを教える生物学と一緒に、口から入れる食物の行き先を教える栄養学をちゃんと教えるべきなのではないかと思います。
栄養学、特に口から入れたものがどこに行くのかを探求していくその歴史は、医学や生物学の歴史そのものでもありますし、初期段階で教えた方が、後の生物学や生化学の導入もスムーズになるのではないでしょうかね。
どんな学問も、世界全体や人間全体を包括的に分析していくことはできないので、あれこれ切り分けて分析対象とします。
その結果、何かを学んだはずでも、部分的な知識だけで全体の結論を出すような事態に陥りかねません。
吸収の良いアミノ酸であれば4gで足りるというのは、生物学でたんぱく質が吸収されるところだけを勉強させる教育の犠牲者でしょう。
「食事をブドウ糖とアミノ酸だけにすると吸収がすこぶる良いので人間は100Kcalでも生きていける」くらいまで行かないと、吸収された後を含む全体には目が向かないかもしれません。
しかし、他人事と笑っていはいられません。
別のところでは、明日どころか、既にわが身かもしれません。
今からちょうど1900年ほど経つとと、地球の片隅の研究室で、猿田博士という天才が頭を悩ませることになります。
科学は十分に発達したし、人間の体の仕組みも十分に分かったのですが、何故か、人造人間が出来ないわけです。
いくら考えても何が足りないのかわからない。
それを火の鳥が見ています。
世界をまず、生物と無生物に分けたりします。
しかし、そうすると、必然的に生物は生まれてから死ぬまでの間だけ存在するものとなります。
無意識に限定が生まれていたりします。
しかし、輪廻転生というのは一つのアイデアにすぎませんが、たくさんの生物が生まれては死んでいき、万物流転というか生々流転というか、世の中は果てしなく続いていきます。
とても分解できるようなスケールではありません。
そういう「全体」がまずあります。
生と死を何かの境目とするのも人為的な区分に過ぎません。
あの漫画には、そういった途方もない「全体」の象徴たる火の鳥が、「部分」にとらわれてもがき苦しむ人間を眺めている姿が描かれています。
科学、宗教、歴史、そういった壮大なものも、永遠に続く世界という「全体」に比べると、ほんの一部しか知らない人間が積み上げて作った「部分」にすぎず、到底「全体」に繋がるものではないのですが、しかし、そういった狭い「部分」の中でしか生きてはいけない人間を描いている漫画なのだと思います。
広井良典先生の本に影響を受けて昨日寝る前に「未来編」を読んでいたら、以上のようなことが思い浮かんだので、横で寝ている妻を起こして話したら、「いい加減にしてほしい」と言われました。
自分という「部分」だけを見ているのはいけません。