3月10日の日記その2です。
昨日は1コマもなかったので一気に確定申告を終わらせて提出してきました。
もう3月で、今年もあと10か月もないですが、確定申告でいろいろ整理していると昨年の1年が思い出されます。
売上を確認していて、一人一人の回数券を見直したのですが、良いお客さんに恵まれて本当に幸せです。
今年もよろしくお願いします。
経費系はほとんどアマゾンで買っていて、まとめて領収書を印刷したのですが、なんと2016年度の注文数(商品数じゃなくて)は241件でした。
そりゃヤマトも大変ですね。
その中でも書籍はたくさんあって、買った本のほとんどは読んでないのですが、購入履歴を見ると何を考えていたかが分かって面白いです。
秋にタロットのブログをはじめて、いろいろ書いていたのですが、実は詰まったのが下記のカード。
大アルカナ11番の『正義』というカードです。
右手に剣を振りかざしていて、左手に持っているのが天秤なわけです。
誰だか忘れましたが、「正義とは借りたものを返すことだ」といったギリシャかローマの哲学者がいます。
私はその定義がすごい好きで、一方的に天秤が傾けられた時にその天秤を元に戻すことが正義だと思うのですが、どうも最近の裁判官は、天秤ではなく、東京大学出版会が出した本を手にもって、剣を振りかざしてその本に描かれている世界を実現しようとしているようにしか思えないわけです。
そういった偉そうなことをタロットカードのブログに書くかどうかはさておき、解釈を書く前に正義論をちょっと読もうと思いました。
そして、アマゾンに正義論と入れて検索して、検索結果に孫正義の経営論みたいな本ばっかり出てきて鬱陶しいのですが、それを乗り越えて出てきた買った本の一冊の中に臨済が出てきて、すっかり正義論は忘れてしまって、そのまま臨済を注文して読んで記事にしました。
臨済の「少しは自分の頭で考えたらどうか」といったトーンにやられながら、やっぱり温故知新だなとか思っていたのですが、そんな中WELQの問題が起きて、自分たちは既存の考えの通じない時代の潮目にいるという気がして、IT社会における知とは何ぞやという世界に突入したのですが、スキーシーズンが到来してどっかに行ってしまいました。
領収書の束を見ながら、そんな思考の流れがいろいろと思い出されて面白かったです。
ここしばらくネットの記事ばっかり読んでいて、読書していなかったのですが(1月2月は1冊も読んでない気が・・・)、また、しばらく読んでみようと思います。
そして、さも前から知っているかのようにこのブログに書いていきたいと思います。
本で得た知識をブログに書いたところで、つまらない知識自慢やただの自己満足にすぎないのですが、ご存知のように私はくどい文章を書く習慣があって、それは文章だけでなく頭の中もくどいというかごちゃごちゃしている証しだと思うので、文章を削り落とす過程で、本質に迫る訓練にもなればよいなと期待しています。
生れて以来、一度や二度は詩をつくったことがないでもないが、散文を書きなれた私には、圧縮された微妙な語感は既に無縁で、語にとらわれると、物自体を失う。物自体に即することが散文の本質で、語に焦点をおくことを本質的に嫌わねばならないのである。
これは、坂口安吾の「肝臓先生」からの引用ですが、どうでもよいことにこだわらずに、無駄な装飾とか句読点とから抜き言葉とか読みやすさなんて気にもしないで、本質的なものに迫れる人間に少しでも近づきたいものです。
既にくどいな。
私は物の本質に迫りたいです。
少しでも暇つぶしになれば幸いです。
無反省な正月から2か月して初心に戻りました。