愚公移山


漢文の教科書に載っていた話です。

私のようなガリ勉の良い子でも、中高生のころの教科書に何が載っていたかなんてほとんど覚えていません。

しかし、漢文の教科書に載っていたある話が、思春期の私の心を非常に強く打ったのか、今でも事細かに覚えています。

その話が、愚公移山、「愚公、山を移す」という話です。

主人公は愚公という人で、住んでいる場所がエベレストをはるかに超える高い山々に囲まれて、村の外に行ったりする時に非常に不便を感じています。

そこで、家族で力を合わせてこの山々を平らにしようという壮大な計画を立てます。

子供と孫と合わせて3人で、巨大な山のふもとまで行って、すきやくわで石を崩して、かごに石をつめます。

集めた石は渤海まで3人でもっていって捨てました。

石を集め、渤海まで行って、石を海に捨てて戻ってくるまで、おおよそ半年かかりました。

そして、また3人で石を集め始めます。

見かねた近所の智叟(ちそう)という老人が忠告します。

「お前らはどうしようもないバカだな。3人で山を平らになんてできるわけないだろ。」

そこで愚公が言い返すわけです。

「頭が固いねと。子は子を産み、孫は孫を生む。子々孫々は絶えることないが、山が増えることはない。いつか必ず山は平らになる。」

智叟は言い返せなくなって、トボトボ帰っていきます。

そのやりとりを天から見ていた神様が、恐ろしくなって、山をどかしたという話です。

これは、道家、道教思想の話で、儒教への風刺でもあります。

したがって、主人公の名前が愚公で、忠告してくるのが智叟と、世間一般を支配する儒教的・合理的な常識に基づく「愚か者」と「知恵者」の顛末を皮肉っているわけです。

なんでこんな話を思い出したかというと、先日、クオリアの話を書いていて、なんだか逆だなと思ったからです。

現在は、科学も進歩しましたが、研究分野はあり得ないくらい細分化していて、個々の分野で、実証と論理を主軸に、非常に厳密ではあるけど、ものすごい部分的な情報がたくさんあります。

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それらを足し合わせると、人間とか社会になるのでしょうかね。

もちろん、そんなこと言っても何にもならないのは重々承知で、科学とか経済とか、学問を否定したいわけではありません。

ただ、ネットで健康情報を探した時に出てくる、視点の異なる部分的な情報のあまりの多さ。

もちろん、人間の体の仕組みも有限ですから、愚公に言わせれば、いつか解明しきる日が来るかもしれません。

そう考えると、人間や世界の仕組み探ろうとする科学は非常に愚公的です。

でも、智叟が、そんなのいつまでたっても終わるわけないだろと言い、愚公が、人間の体の仕組みも宇宙の原子の数も有限個なんだからいつか必ず調べ終わる、と言い返したときに、これはどっちが正しいのでしょうかね。

面白いのは、現代的社会では構図が逆になっていて、ミクロな分析をしている人達がどちらかというと知恵者で、そんなの無意味だなんていう方が愚公的な感じで扱われるようなところでしょうか。

最近は、いくらでもネットで情報収集できますから、議論において、根拠のある方が勝ちで、根拠もなく「そんなはずないだろ」なんていえば、愚か者扱いです。

ネット上のダイエットの議論なんかでも、科学的な根拠はありますか?、なんて応酬が多いです。

私のブログにも時々、私と異なる意見を持ったひまな人が、「何々ついて根拠はあるんですか?」とか、「反対の結論を証明した実験がありますけどご存知ですか?」とか、コメントしてきたりします。

それに対して、「私は私が勝手に思ったことや信じていることをそれっぽく書いているだけで、根拠なんてないですよ」と回答すると、その人たちにとっては、私がものすごくいい加減な人間に映るようです。

「あなたのブログはノストラダムスの予言のようだ」という非常に面白いコメントをしてくれた人もいます。

そういった時代背景のせいか、誰もが皆必死に理論武装しているのですが、出回っている「信頼性の高い情報」は実験で再現できるような、現実とはかけ離れた環境での細かい議論ばかり。

そして、根拠、根拠、根拠と探し回っている間に、いつの間にか、どんな疑問にも答えがあるかのような錯覚に陥って、根拠がないと何も主張してはいけないかのような風潮になってしまいました。

気持ちはわかりますが、根拠のある話だけでは、正しい結論には達しないような気がします。

ただ、そうはいっても、役に立つ情報があるのも確か。

また、根拠のない主張で議論していいということにもならない。

愚公移山

今も漢文の教科書に載っているのかな。現代の子供にこれを教えるの、私には無理だな。

情報リテラシーっていうのは、一体何なんでしょうかね。

最近ノイローゼ気味です。