大量殺人事件の対策を話し合うためには・・・


この問題は難しいです。

はじめに

先日の川崎の事件がまだ尾を引いていませんが、この事件に関する芸能人のコメントが炎上したり、様々な意見が噴出しています。

川崎殺傷事件、松本人志と太田光の対照的な見解に反応続々

まあ、感じ方や意見はいろいろなのであえてコメントしませんが、こういった無差別大量殺人を防ぐには何が必要なのかという点に関して、避けて通れない問題があるので、そこを考えてみます。

それは、今回の事件のような凶悪事件が本当に社会問題の延長にあるのかという点です。

個人的な素質という、タブーである優生思想とギリギリの論点に触れずに済ますことはできるのでしょうか。

どうも、一番議論しなくてはいけないことが、この問題を解決しようと熱心な社会活動家のせいでかえって見えにくくなっているのではないかと感じます。

なお、前回の記事、近い人達から、文章が長すぎるという意見をたくさんいただいたので、余計なこと書かずに短く済ませます。

社会学的アプローチの限界

先日の事件に関する報道番組でも、専門家と称する人たちが出てきて、あれこれコメントしています。

しかし、私は、こういった専門家たち達の態度には非常に疑問を感じています。

なぜかというと、あれこれ研究しているものの、大事なことはほとんどわかっていないというのが実態なんじゃないかと思うからです。

彼らの発言はどれも、客観的事実と主観的意見の区分が非常にあいまいな気がします。

子供のころに虐待を受けると、心に傷がつき、人間性を失い、他人の痛みが分からない人間になるとか、様々なストーリーがあり、幼少期の教育や社会環境をキーにして、犯罪者の心の内側の説明を試みる専門家はたくさんいますが、こういった話というのは、基本的に根拠がありません。

「それらしい」というだけで、こんなもの科学でも研究でもなんでもありません。

もちろん、中には、犯罪者には幼少期に虐待を受けていた人が多いことが実証されているなんて言う人もいますが、幼少期に虐待を受けていた人が皆犯罪者になるわけではなく、一番大事なところが度外視されています。

幼少期の虐待、成人してからの喪失・絶望、社会的な孤立、そういったものが要因の一つであることは否定しないのですが、そういった要因がそろっても99%の人間は通り魔などは起こさないわけで、一線を越える決定的な要因の解明こそが重要です。

引きこもりや精神病患者を犯罪者予備軍のように扱うのは間違っているというのはその通りで、なぜかと言えば、そういった人たちを凶悪犯罪者にする決定的なファクターが分かっていないからです。

この点、「死ぬなら一人で死ねなどと社会が言ってしまうと、社会が救いの手を差し伸べないというメッセージを発することになり、次なる凶行を招く」などと、社会的な要因で全てが決まるかのようなミスリーディングな発言が多く、専門家と称する人たちも推測や意見で話をしているだけで決定的なことは分かっていないという事実が正面から問われていない気がします。

ややこしくなりますが、もし社会的な要因だけで決まるなら、引きこもりは犯罪者予備軍という見解は正しいということになります。

そういうことは言ってはいけないのかもしれませんが、もし社会的な要因がそろえば揃うほど犯罪者になる可能性が高まるなら、間違いなく犯罪者予備軍でしょう。

しかし、それはおそらく間違いで、なぜかというと決定的な要因である、個人的な素質の問題があるからです。

しかし、人権意識のせいか、優生学の忌避か、見て見ぬふりか知りませんが、個人の生物学的な性質には極力言及せずに、社会環境ですべてが決まるかのような態度を貫いています。

それは、社会変革の道具として事件を扱う場合には適切なやり方だとしても、この事件の原因究明及び予防策の策定のための正しい態度なのでしょうか。

見たいところだけ見てるということは無いでしょうか。

金属バット事件

川崎の事件を受けて、元農水事務次官が引きこもりの息子を刺し殺すという悲惨な事件が起きました。

報道によると、当事者は43歳の息子の家庭内暴力に苦しんでおり、また、自分の息子が川崎の事件の犯人のように、いつか子供たちを殺すのではないかと不安だったそうです。

この事件に対して、さっそく、父親は東大出のエリートだったから、子育てにも完ぺき主義的で、専門家に頼ることができなかったんじゃないかというしょうもない邪推を口にしている専門家が昨夜のテレビに出ていました。

この話を聞いて思い出したのが、1996年に起きた金属バット殺人事件です。

長男が中学生のころから家庭内暴力を振るうようになり、両親と姉は苦しんでいました。

そして、父親は様々な専門家を訪ね歩くのですが、専門家たちはみな、長男も苦しんでおり、その苦しみや不安を親として受け止めることが重要とアドバイスします。

暴力については咎めずにいるがそれでいいのかと、家庭内暴力問題に詳しい著名な精神科医に聞いたら、それでいい、そういう子供をよくする技術だと持ってくださいと言われ、その通りにしました。

父親は長男の暴力で鼻を骨折したりしながらも、暴力を振るわれて自分も苦しいが、長男はもっと苦しいのだと信じ、長男の苦悩や不安を受け止めるべく暴力に耐え続けました。

そして、最終的には、長男は父親を殴る時に「防ぐな」と叫ぶようになり、父親は長男の暴力に対して、反射的な防御姿勢も取らないように努力して、殴られ続けることになります。

そして、ついに、父親が長男を金属バットで殴り、なわとびで首を絞めて殺すという事件です。

私が言いたいのは、専門家が愚かだとか、役立たずだとか、そういうことではありません。

私の疑問は、何かあれば早めに専門家に相談をという言説が、専門家は有効な手立てを持っているかのようなムードを世間に与えていますが、こういった問題に対処する方法が本当にあるのか、あると言っていいのか、本当に原因が分かっているのか、専門家の指導する方法は本当に実効性のあるものだと言い切れるだけの証拠がそろっているのか、という点にあります。

特に、カウンセリング的な手法で解決できるという根拠はあるのでしょうか。

それとも、カウンセリングという手法ありきで議論が進められているのでしょうか。

池田小事件の宿題

小学生への無差別殺傷事件としては、池田小事件を起こした宅間守が有名です。

この宅間、同情の余地が大いにある不幸な生い立ちです。

やったことは許されないとしても、ハッキリ言ってかわいそうです。

そういった成長過程での経験が彼の性格に影響を与えていることは間違いありません。

しかし、好きな女性に振られたら強姦し、欲しいものが買えなければ盗み、気に入らないことがあると暴力に訴えるという問題のある人格でした。

ここで、その人格が先天的か後天的かという話をしたいのではありません。

問題は、この宅間は精神病なのか、という疑問です。

そして、もし精神病ではないのであれば、犯罪行為に抵抗が無い危険な人格の持ち主を、社会はどう扱うべきかという問題です。

殺人、強姦、強盗、こういった行為に抵抗がない人間がいたとします。

気に入らないことがあるとすぐ犯罪に手を染める。

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その場合、その者には問題がありそうですが、それは社会的な問題であり、生物的に考えれば、別に体が思い通りに動かないわけではなく、また、自分の心をコントロールできないわけでもなく、自分の人生の主体的な生活に支障をきたしているわけではなく、このままいくと寿命が短くなるわけでもなく、特段問題はありません。

してはいけないと思いつつ、ついやってしまい困っているとか、自分をコントロールできなくて悩んでいるとかではなく、犯罪とは知りながらも「まあいいか」と目的を達成するためにやってしまい、特に反省もしない人の話です。

それは、社会的に危険な性格ですが、「病気」ではありません。

単に、善悪の判断に関してタガが外れているだけです。

こういう人がいた場合、基本的人権の尊重を柱とする現在の憲法のもとにある限り、社会にとって危険だからと言って、どこかに閉じ込めておくことはできません。

病気なのであれば精神科医が強制的に入院治療を受けさせることもできますが、それは病気の治療のために、つまり究極的には本人のための後見的な介入として許される行為であって、危険な人物から社会を守る措置として認められているわけではありません。

社会にとって危険だから檻に閉じ込めておくなんていうのは、いわゆる戦前の治安維持法であり、そんなもの現行憲法下では絶対に許されるはずもなく、もし許されたら、護憲派と改憲派は相互に相手を、日本を破滅に導く危険人物として投獄しようとするでしょう。

どんなに治安が悪化してもそんな法律だけは許されません。

つまり、精神的な病気ではなく、単に社会にとって危険な性格である人間に対しては、何もできないのが現状です。

社会問題と犯罪を共に論じる時はこの点を意識する必要があります。

生物学的なアプローチ

しかし、唯一、対策法として可能性のあるアプローチがあり、それは、生物学的なアプローチ。

ドーパミンが少ないとか、セロトニンが少ないとか、専門家ではないからわかりませんが、なんらかの物質が少ないからそういう傾向にあるとわかれば、それを病気として扱い、投薬治療で状況を改善できるかもしれません。

そういった、生物学的な特徴から病気として取り扱い治療の対象とする以外に、社会的に危険な人物から社会を守る方法というものは無いんじゃないだろうか。

犯罪者の置かれた環境をいろいろ分析して、それっぽいストーリーを作ることはできるのでしょうが、結局のところ分かっていない、犯罪を実行するかどうかの最後の一線が、もし、こういった生理学的な差異にあるのだとしたら何が起きるか。

それは、社会が手を差し伸べるとか、専門家が話を聞いてあげるというアプローチが、犯罪抑止という点で、祈祷師がお祓いする程度の効果しかない可能性があるということです。

社会問題と犯罪を勝手に結び付けいるだけで、本当に明確な一線があるかもしれません。

その者に犯罪を起こさせる決定的なファクターが、なんらかの物質の分泌が少ないなんてことにあり、社会的な要因は補助的な要因にすぎないのであれば、必要なのは投薬治療です。

テレビでも、精神科医と小児科医のコメントとして、若いころに専門家が関与していれば何とかなったかもしれない、50歳になると治療ができないなんて意見が紹介されましたが、それは、カウンセリング系の精神科医の意見であって、薬理などを専門にしている精神科医の意見ではないんじゃないのかなと疑問でした。

西川史子と杉村太蔵が川崎殺傷事件「死ぬなら一人で」で激論

自殺を考え自暴自棄になった時期があったけど、周囲の助けによって自分は救われたなんて話す人もいて、その通りでしょうし、真実のストーリーなんでしょうが、脳内ホルモンXの濃度が一定以上あったから、仮にその人がどんなに絶望しても無差別殺人を犯す可能性は低かったなんて科学的結論が出る可能性だってあるわけです。

もちろん、不幸な境遇に置かれている人たちに救いの手を差し伸べることや、不幸な環境を取り払ってあげることは必要です。

犯罪抑止とは別に、社会問題は社会問題として解決する必要がありますし、確かに社会的な要因の現象が犯罪傾向を抑える可能性はあります。

しかし、社会問題と凶悪犯罪がどういう関係にあるのかは、よく吟味する必要があります。

自分達が、正確な原因究明と再発防止策の議論をしているのか、それとも社会が美しくなれば犯罪は減る的な単なるベストケースシナリオを提示しているだけなのかは、混同することなく冷静に考えなくてはいけないと思うのです。

おわりに

社会的な背景分析と凶悪犯罪実行の間にある一線について考えてみました。

社会的な要因とそれに起因する心理的な要因が重要な影響を与えているとしても、社会的・心理的なアプローチだけで本当に有効な対策が可能なのか。

それとも、そのアプローチだけで解決できると勝手に思っているだけなのか。

ビジネスの現場でも、ビジネスプランニングとベストケースシナリオの区別がつかない人はたくさん見てきました。

生物学的に犯罪を犯しやすい傾向がある人間がいるなんていうのは、現代社会では「言ってはいけない」ことの1つですが、もし犯罪抑止を真剣に考えるのであれば、避けて通れない問題の気がします。

近代社会としてそういう優生学につながりそうな話は、研究自体タブーであるという主張もあり得ますが、「言ってはいけない」からと言って、「言っていいこと」だけで問題が解決できるというのは、まさに、ベストケースシナリオでしかありません。

もちろん、現実主義を貫くのであれば、仮に生理学的な特徴があったとしても、社会にとって危険な人物を病気として扱うことが許されるのかは、倫理問題として決着できるのか疑問ですし、特に、そういう仕組みを第二の治安維持法にせずにコントロールできるのかと問えば、できないし気がするし、そっちの方が危険すぎて認めるわけにはいかないというのが現実的解答かもしれません。

とは言え、一定の生物学的特徴を持った人達は犯罪傾向があるかもしれないという見解を、その思考様式だけを持って優勢思想として頭から排除するのも、どうも納得できません。

真正面からちゃんと議論しないといけないと思うわけです。

これは本当に難しい問題です。

優生学=ナチス=悪みたいな単純な整理しかしてなくて、自分の中でしっかり考えていないことこそ問題な気がしてきました。

勉強します。

相模原事件の時買った本がたくさん机に積まれてるし。