9月4日の日記です。
最近は、わけわからん記事ばかりに熱くなっていて日記は久しぶりです。
先日読書感想文に関する記事を書きました。
一気に書いたのですが、読み返してみると、である調とですます調が見事に混在していて、こういうのはちゃんと作文で訓練しておかないとダメかもしれません。
あと、書き始めてから、特定部分に熱くなりすぎて、何を書いているのかわからなくなることはしょっちゅうで、記事を書き終わった後いつも、書く前に整理しておくのは大事だなと思いながら、時間をかけて修正しています(タイトルが変わることも多い)。
また、起承転結なんて言いますが、昔から、起と結はなんとなく分かるのですが、承と転の意味がよくわからないので、いつも無視しています。
こういうのも「承ってなんだよ」とかひねくれてないで、ちゃんと守った方がよいのかもしれません。
自分の文章力のなさは単に訓練の不十分さのような気がしてきました。
やはり読書感想文などの作文はやったほうが良いのでしょうかね。
気が変わってきました。
屁理屈こねずに、与えられた課題をコツコツやるのも大事かもしれません。
それにしても、メルカリで読書感想文が売られるなんてすごい時代になりました。
それを批判する気持ちはわかるし、それらを買って提出することに意味がないという主張もわかります。
その一方で、自力で読書感想文を書こうとしている人たちが持っている書き方マニュアルの内容のひどさ。
1.本との出会い
2.あらすじ
3.感想
4.本から得た教訓
の順番で書こうなどとZ会とかが言っているわけです。
どう考えても、1と2と4は要らないだろうに。特に「本から得た教訓」って何でしょうかね。
こんなものを、これが読書感想文の書き方なんだと言って売ったり、それをありがたがって買ったり、メルカリで読書感想文の売買しているのと大して変わらない気がします。
「読書感想文」というタイトルの作文が書ければ、中身はなんでもよいんでしょうかね。
偉い人が言ってるんだから、それが読書感想文なんだと。
白紙を前に何を書くかを考えるプロセスは無視して、マニュアルに沿って埋めていくことに専念し、読書感想文を書くということが、一定の様式に集約していく。
マニュアルに沿って1か所ずつ埋めていき、後はつなげるだけで感想文の出来上がり。
人間の尊厳の放棄といっては大げさすぎか。
読書感想文の形式化の根底には、読書感想文を出せと言われたから出さなくてはいけないという思考停止があり、宿題はやらなくてはいけないものだから宿題はやらなくてはいけないという思考停止があり、学校はいかなくてはいけないところだから学校には行かなくてはいけないという思考停止があり、勉強はしなくてはいけないものだから勉強しなくてはいけないという思考停止がある。
意味なんて誰も考えず、全てが形式化していて、ちょっと怖くなります。
メルカリでの読書感想文の販売を受けて、それがいいとか悪いとか、自分でやらなくては意味がないとか、売る方も買う方も考えられないとか、大人たちが自分のもの差しであれこれ言っていますが、今の子供たちが生きる時代がそういう時代だということの方が大事です。
どう考えても、なんでもありで、法や制度整備が現実に追いついていない時代が到来しています。
そういう時代をどう生きていくか。
やれと言われたからやる、できない時はマニュアルを買ってきてその通りやり、できましたと提出。
コツコツやることは大事ですが、与えらえたものを何も考えずにコツコツやることに意味はあるのでしょうか。
先日、小学生向けのYoutuber養成塾なるものがテレビで紹介されたらしく、ネットで話題になっていました。
それに対する批判コメントの多さ。
「社会をなめている」とか、「人生の厳しさこそ教えるべき」とか。
Youtuberを目指す小学生と、Z会で読書感想文の書き方を学ぶ小学生。
果たして、成功するのはどちらか。