「こそ」の係り結びだけなぜ已然形なのか


なぜ、「こそ」だけ已然形なんでしょうか。

最近、ADOという歌手が若者の間で流行っているというニュースをよく見るので、私も流れに乗ってYoutubeで聞いて、次から次へと新しい才能が登場して音楽業界もすごいなーと思っていました。

そうしたら、『ギラギラ』という歌の中に、「マガイモノこそかなしけれ」という歌詞が登場し、あ、「こそ+已然形」じゃんと思いました。

しかも、「ちぢにものこそ悲しけれ」と歌った大江千里の和歌(最後に解説載せました)に根っこの部分で似てないこともない。

表現方法は進化しても、根底にある人間の感性や悩みの本質的な部分はいつの時代もおんなじですかね。

とういわけで、まだ記事にしてなかったと思うので、こそ+已然形の話を書いてみます。


オフィシャルの英語字幕で見る限り順接で使っているみたいですね。

本当の古文

本当の古文と言っても、学校で教えている古文は偽物だとか、そういう暑苦しい話をしたいわけではありません。

学校で古文を習う場合、理解できない文章が出てきたら、品詞分解して、品詞一つ一つの意味を辞書で調べて、繋げていけばそれで終わりです。

そういった点では、古文で試されているのは、情報処理能力です。

分からない全体があった場合に、それを品詞と言う部分に分解し、個々の部分の意味を確認して、それを繋いで全体に再構成するという点で、情報処理能力そのものです。

古典のセンスなんて聞かれていません。

古文が苦手な人と言うのは、「書かれていない背景・文脈を読む」なんてことに精を出して、足のないお化けと必死に格闘していますが、多くの場合「書かれている文を品詞分解して個々のパーツの意味を言うこと」ができなかったりします。

では、そもそも、品詞分解後に分からない単語を調べるための古語辞典というものはどうやって作ったのか。

もちろん、どの時代も、それ以前の時代の研究がされており、研究の蓄積があるのでそれを利用するわけですが、そこは無視して、ゼロベースだと仮定すると基本スタンスは一つです。

それは、ある古文の文章を読んで、文脈などからこの文章はこういう意味だろうと考え、そして、そこから、もうしそうなら文中のこの単語はこういう意味なんだろうと決めるというものです。

そんなバカなと感じる人もいるかもしれませんが、品詞分解して訳すというのは本来的には学校古文のみの世界であり、新発見の古文書が出てきた場合には、まず品詞分解してとはならず、というより、意味が分からなければ絶対に品詞分解なんてできないので(もちろん、現代には研究の蓄積がありますからそれを利用できますが、それなしで原理的に考えると)、意味を確定する方が先行します。

そして、この文章はこういう意味だろうという訳が決まって、ということはこの単語には現代語で言うところのこういう意味があるんだろうなんて推理します。

長年のその推理の蓄積が古語辞典です。

何が言いたいかというと、今から、「こそ+已然形」の説明をしますが、究極的には、古文にそういう文がたくさん出てくるけど、それはこういう意味なんだろうという推理であり推測です。

当然、細部を見れば諸説あり、そのどれが正しいか確定するには、タイムマシンができるまで待つ必要があります。

どの説にも、説明に合わない例外というものはたくさんあるのですが、それは、現代で想像してみるとわかるように、存在する文章の全てが文法的に正しいなんてあるはずがなく、例外なのか単なる著者の間違いなのかわかるはずものない話です。

現代でも言葉の乱れとして「ら抜き言葉」なんて挙げられますが、2000年後くらいに、20世紀における「ら抜き用法」なる概念を提唱する学者と、あれは単に文法ミスに過ぎないなんて論争しているかもしれません。

しかし、学習者が理屈を知りたいのは、盲目的な暗記ではなく理解することのが目的で、歴史の真実を知ることではないでしょうから、腑に落ちる説明で「なるほどな」と思えばそれでいいと思います。

そもそも已然形とは

まず、そもそも已然形とは何か。

これは、

SV、 SV。

と、1つの文の中にセンテンスが二つある時に、「、」の前の動詞に使われる活用です。

そして、順接にも逆接にもどっちでも使われます(迷ったら順接かな・・・)。

つまり、

「アイツはウザイ。」の「ウザイ」は終止形ですが、

1.アイツはウザけれ、嫌われている(順接)
(あいつはウザイので、嫌われている)

2.アイツはウザけれ、人気者だ(逆説)
(あいつはウザイけど、人気者だ)

こういう2つの使い方がある。

この、順接にも逆接にも使われるという説明も、已然形+「、」形式の文が古文書にはたくさんあって、訳を考えると、後続のセンテンスと順接でつながるとしか考えられないパターンと、その逆に逆接でつながるとしか考えられないパターンがあるだけ。

もちろん、無数の古文書がある中で、「アイツはウザけれ、無視した」みたいな文もあるわけで、この場合、「ウザイので無視した」のか「ウザイけど(我慢して)無視した」のかは文脈次第で、個々の文ごとに、学者さんたちの間で解釈が一致するものもあれば、見解が割れる場合もあるし、9割がた一致しているのに頑固な学会の重鎮が一人反対していて、その人が書いた本でだけ少数説の訳が載っているなんてこともある。

つまり、已然形+「、」を見たときに、この場合は順接ですか逆接ですかという質問は原理的には順番が逆で、訳を先に決めてから自動的に決まる話。

そして、そもそも已然形って何ですかと言えば、未然・連用・終止・連体・已然・命令という活用6分類も、江戸時代(古文とは言えだいぶ現代に近い)に古文の研究者たちが、動詞の活用をめぐって何分類にするか散々議論していて、その中で合理的だと判断された6分類がまあ広く認められているというだけ。

その中の已然形と言うのは何かといえば、まさに、上述のSV、 SV。の時の「、」の前の動詞に使われている語尾の形式に「已然形」という名前を付けただけ。

まず最初にあるのは、SV(已然形)、SV(終止形)。という文であり、特定の条件を満たすと終止形が已然形に変化するわけではないです。

続いて、「こそ」+已然形の話。

「こそ」は強調

「こそ」というのは強調するときに使う言葉です。

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そして、上述の

SV(已然形)、 SV(終止形)。

には順接・逆接の2パターンあると言いましたが、最初のセンテンスに「こそ」が入り、

SこそV(已然形)、 SV(終止形)。

となったときは、ほぼ逆接で確定です。

ただ、これは自然な話で、なぜかというと、強調というのは、「強調されるもの」と「それ以外の強調されないもの」の間に線を引く表現だからです。

「顔こそ悪けれ、性格は良し」と言ったように、あるものを特別と言う場合、それ以外は特別じゃないわけで、つまり逆接になるのが自然な話。

「人こそ見え(已然形)、秋は来にけり」であれば、

「誰も訪ねてこないけど、秋は来たんだなあ」となる。

以上、「こそ+已然形、」で後続のセンテンスがある場合には、逆接と考えて問題ないです。

強調と逆接

しかし、このように「強調」と「逆接」とが自然な関係で、相性の良いものだとすると逆も然り。

つまり、「足が痛かったけど、頑張った」みたいな文章を考えるとわかるように、逆説と言うのは、本質的には強調ともいえる。

ただ「頑張った」わけではなく、すごい「頑張った」わけですが、そのすごさを強調するために「足が痛かったが」という逆接句をつけている。

その結果として、強調のための逆接句だったはずが、逆接句を強調表現に転用するという進化が起きる。

例えば、陸上大会の後かなんかで、

先生「最後頑張ったな。」

生徒「マジ足痛かったんだけど。」

というやり取りが生れる。

これ、「ど」という接続助詞で文が終わっており、後続センテンスがないのは本来は変なのですが、意味が通じてしまう。

つまり、逆接表現の言い切り型、すなわち後続センテンスがない使い方が生れる。

そういう使い方が生れると普及は早いもので、

図書館で騒いでいる不届き者がいた場合に、

「うるさいんだけど!」

なんて発言が生れる。

言うまでもないですが、これは、「うるさい」の強調表現であり、「うるさいけど、私は我慢する」とかそういった逆接表現ではありません。

こういう言葉の進化が起きるのは現代に限られず、平安時代でもあるわけで、清少納言などの流行に敏感なコラムニストたちが使い始めるわけです。

あるヤンキー学校があるとして、

散々見てきたように、「アイツこそヤバけれ、ほかの生徒はみんな根はいい子」と、「こそ+已然形+、」で逆接に使う文が本来の使い方。

意味は、「アイツはマジヤバいけど、ほかの生徒はみんな根はいい子」。

しかし、

「この学校はヤンキーばっかりだけど、アイツこそヤバけれ

などと已然形を文末に持ってきて言い切る使い方が生れてくる。

上述したように、現代語にも逆接を強調に転用する言い方があるから、

「この学校はヤンキーばっかりだけど、アイツこそヤバけれ」は「この学校はヤンキーばっかりだけど、アイツはマジでヤバいんだけど」と無理やり逆接で訳しても通じちゃうのですが、テストや入試で話し言葉で解答するわけにいかないので、

「この学校はヤンキーばっかりだけど、アイツはマジでヤバい」と丁寧に訳すことになります。

すなわち、逆接ではなく強調という整理になります。

このように、元々は已然形と言うのは「、」とセットで使うものだったのですが、「こそ」をつけて逆接で使う方法が多用されるようになり、やがて、文末で使う方法が歴史の途中から登場してくるわけです。

まとめ

文中の「こそ+已然形、」は逆接。

文末の「こそ+已然形。」は強調。

本来的には、「こそがあると結びが已然形になる」という説明は間違い。

もともと、文中に已然形をもってきて順接・逆接の条件句として、後続センテンスを続ける用法があった。

そこに「こそ」を足して強調する逆接表現が生れた。

更にはそれが逆接関係なく文末に持ってきて単純な強調表現として使う方法が登場した。

たぶんこうだと思う。

演習

<百人一首47番 恵慶法師>
「八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」

【訳】
何重にもつたが生い茂って寂しいこの宿に、人は訪れてこないけど(逆説)、秋は来たんだなあ。
(「AのB(連体形)に」は「A=B」。つまり、八重むぐら茂れる宿で寂しい宿の意味)

もちろん、これは「人こそ見えね」の後に「、」と補う場合。

もし、「人こそ見えね。」と「、」ではなく「。」が心の目に見えるなら、その場合は強調として訳すことになる。

【訳】
何重にもつたが生い茂って寂しいこの宿に、人なんか誰も訪れて来やしない(強調)。秋は来たんだけどなあ。

こっちで訳したって間違いではないですが、テストとかで主張するのは勧めない。

ただ、究極的には卵と鶏で、両方で訳してどっちが自然かという話をしてるだけ。

<百人一首26番 大江千里>
「月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」

【訳】
月を見ると、何かともの悲しく感じるなあ(強調)。私一人に訪れた秋ではないけれど。

下の句が明らかに逆接の条件接続なので、「悲しけれ。」と考えるのが普通と言っていいと思う。

無理やり「悲しけれ、」とここで切れないとすることもできなくはないですが、

【訳】
月を見ると、何かともの悲しく感じるけど(逆接)、私一人に訪れた秋ではないけれど。

と訳さなくてはいけないこととなり、それは不自然。

もちろん、超現代語訳として、

月見ると何かともの悲しいんですけど!私一人に訪れた秋ってわけじゃないのに。

と訳してもいいけどね。

参考文献


大野説が何かと分かりやすい。