コロナ禍が突き付けたもの:情報化社会における無知礼賛


私は何を知っているのでしょうか。

はじめに

コロナ禍の引きこもり生活の中で自宅を整理する人が多かったようです。

そのせいもあり、メルカリなどのフリマアプリは大活況とのこと。

実は私も漏れず、最近はかなりメルカリをやっています。

そんな中で気づいたことがあるので少し語ってみます。

上辺だけの善良さ

メルカリと言うのは、赤の他人同士の取引なわけで、お互いを信頼しろと言ってもなかなか無理があります。

そこで機能するのがレビューシステムで、取引の都度、出品者と購入者はお互いを評価し合い(双方の評価が完了するまでお互いに見れない)、その結果は公表されます。

したがって、良い商品があるなと思ったときに、出品者の評価をみて、過去の取引数100件、その内高評価100件と言った履歴が確認できると、まあまともな人なんだろうと安心できたりするわけです。

その反面、低評価があり、ネガティブなことを書かれていたりすると、もしかしたら予期せぬトラブルに会うかもと、良いものを安く出品しても敬遠されます。

基本的に良い機能なわけですが、現実には過剰に作用します。

不良品を出品したり、説明すべきことを記載しないで売ったりしていれば、低評価をつけられても自業自得ですが、些細なことで神経質な購入者から、「上から目線で不愉快でした」なんて低評価をつけられてしまうと、良いものを安く出品しても敬遠されます。

その結果、誰もが言葉に気を付けて、つまらないことには腹立てず、常に笑顔で振るまいます。

また、購入前の出品商品への質問とその回答といったコメントのやり取りも公表され、そこでも、「お忙しい中恐縮ですが、質問させてください・・・」とか「ご質問いただきありがとうございます・・・」と言った、気持ち悪いまでの慇懃なやり取りが当然のようになされています。

まさに監視社会で、どこかの社会主義国家の映像で、市民がみんな満面の笑顔なのと同じような感じです。

のさばる厚顔無恥

ただ、監視社会の結果、全員が善良な行動をするのかと言うとそうはいきません。

厚顔無恥な人間がのさばるのです。

ろくに商品説明を読まずに質問してくる人間や、それくらい自分で調べろよと言う質問をしてくる人間が後を絶ちません。

ただ、監視社会の中で、「それくらい自分で調べてください」とキレるわけにもいかず、「興味を持っていただきありがとうございます」なんて思ってもないことを言いながら、笑顔での対応を迫られている現実があります。

その点、2チャンネルは健全だなと思います。

あの界隈では、「教えて君」、「くれくれ君」といった、ろくに自分で調べもせず当然のように他人から情報提供を求める者や、「でもでもだってちゃん」のように、自分から相談しておいて、他人のアドバイスにいちいち反論するようなタイプが登場すると、「死ね」「消えろ」と罵詈雑言の嵐や、「ここに全部載ってるよ」なんて言ってウイルスのリンクを踏ませるといった制裁が機能しています。

それが良いとは言いませんが、ただ、おかしな人にはしかるべき制裁が発動され、厚顔無恥な人間が我が物顔でのさばることを許さないという当然の文化があります。

しかし、メルカリでは、誰もが監視社会の中で、「鼻につく人間」として些細なことで低評価をつけられることを恐れ、「なんでもかんでも他人に頼るなよ」といったような当然の言い分すら躊躇せざるを得ない状況が出来ており、結果として、自助努力を何もしない人間が大手をふるって跋扈しています。

子供のころ、なぜソ連の共産主義は崩壊したのかという話で、まじめに働く人もサボる人も同じ給料だとみんなサボるようになるという説明を聞いて、頭では理解できるもののどうも腑に落ちないなと感じていたのですが、メルカリをやっているとわかってきます。

監視社会の中で、いい加減な人間がのさばっているのを見ていると、確かに、まじめにやっているのが馬鹿馬鹿しくなってきます。

「そのくらい自分で調べろよ」、「そんなことも自分で調べられない人間は百貨店にでも行って定価で新品買ってくれ」と言いたくてたまりませんが、言えません。

例の如く長いですが、さあ、ここからが本題です。

終わりのない情報収集

私は、簡単に調べられることも調べないような他力本願で厚顔無恥の人間とは異なり、自分で出来る限り調べます。

といいつつ、私は何を知っていて、何を調べることができるのでしょうか。

最近の情報化社会、何を調べても膨大な量の情報が出てきて、しかも玉石混交であることも踏まえると、とても消化しきれません。

結局自分で調べても、適当なところで、「このくらいでいいだろ」と、あきらめにも近い形で、終わらせる以外に方法がないです。

ただ、その反面、ではその道に詳しい専門家に全て委ねますかと聞かれると、自分の答えはノーな気がします。

テレビなどのメディアに登場する専門家の面々、どうも信用できず、向こうにはそれなりの経験や肩書があり、こっちはど素人であるにもかかわらず、「本当かよ」と疑うどころか、「絶対間違ってるよ」なんて平気で言っています。

しかも、なぜか確信に近いものを持っています。

専門家憎悪

テレビで専門家と称する人が偉そうな態度で気に入らないことを言っていると腹が立って仕方がありません。

コロナ禍の初期も、マスク不要論を主張する専門家がたくさんいました。

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マスクに意味がないのは感染症専門家の常識とか、たくさんのエビデンスがあるとか・・・海外では主流で、日本でもそういうことを言う専門家がたくさんいました。

マスクは絶対効果がある派の私としては、そんなわけないだろ、この人本当に専門家なのかと腹が立って仕方がないのですが、では私が、感染症とマスクの関係について何を知っているかと言えば、論文や専門書はおろか、適当な一般向けの情報すらろくに読んだことがなく、ハッキリ言って何も知りません。

無知です。

にもかかわらず、絶対受け入れません。

子供のころ、父親がビール飲みながらテレビの経済評論家のコメントを聞いて、経済評論家なんていうのは、経済のことなんて何にも分かってないんだよなんて嘲笑するのとは次元の違うヘイトや怒りが心の中にある気がします。

何なんだコイツは、偉そうにと。

その反発の本質は、何も知らない自分への怒りなんでしょうか。

日ごろ自助努力を全くしない無知(無恥)な人間を軽蔑し、自分は自分なりに調べていますなんて気取っているせいで、その態度からすれば、意見する資格がないことが分かるがゆえに、どうにも腹の虫がおさまらないといった気分になるんだろうか。

メルカリ内でろくに調べない人間に対して、「それくらい調べろよ」「わけわからんコメントしてくるな」と腹を立てる一方で、テレビを見ては、「専門家なんていったところでほんとのところ分かってないんだよ」「歴史上専門家が間違えたことはたくさんある」なんて、ある意味真逆な態度をとっています。

結果的に、無知を軽蔑しつつ同時に、知の専門家も軽蔑しているというか、なぜか無知な自分を肯定しています。

バカも嫌いですが、自分より詳しい人も嫌いです。

心の中の怒りの量を考えると、バカ以上に専門家の方が嫌いかもしれません。

芸能人の政治発言

自粛期間中に芸能人の政治発言が話題になりました。

予想通り、芸能時は政治のことなんて知らないんだから黙ってろというしょうもない意見が湧いて出てきて、それに対して、政治に興味を持つことは良いこと、さらには、誰にだって政治的意見を言う資格があるなんて発言が登場しました。

確かに、誰だって政治的発言をする資格はありますし、人間は平等で、一票の価値も平等です。

しかし、だからと言って政治的意見のすべてが同じ価値のはずがありません。

世界経済のグローバル化によってさまざまな問題が生じているがそれらは全てユダヤ人の陰謀である、なんて意見は無価値です。

そんな意見を、それもそれで立派な一つの意見などとリスペクトする必要はありません。

ただ、じゃあお前の意見は、同じくらいバカげたものではないのかと聞かれると、何を根拠にノーと言えばよいのか。

自分では、自分の政治的意見は、おかしな陰謀論と同列の馬鹿げた意見ではないと信じていますが、それは自己愛がバカとそれ以外の間に都合の良い線を引いているだけなのでしょうか。

おわりに

この情報化社会、調べようにも調べきれません。

自助努力をほとんどしない厚顔無恥な人間なんて昔からたくさんいるし、そういった人間をバカにしたり、直接かかわる時に腹を立てたりすることも何千年も昔から繰り返されていることでしょう。

しかし、その反面、「自分で調べる」という行為の無力感がここ最近急激に高まっていて、調べれば調べるほどわからないことだらけで、あれこれやってもほとんど何にも知らないに等しい感じがするからこそ、その自己否定が自己愛と結びつくと、なぜか攻撃的になって、専門家に食いついて、無知な自分を肯定するという状況が生まれているような気がします。

昨今情報リテラシーを持とうなんて声高に叫ばれますが、それは、専門家とされる人々の意見を鵜呑みにすることなのか、それとも自分なりに調べる態度を持つことなのか。

必要な情報を調べて正しい知識を持つことが重要であるという結果責任で行くのか、それとも、自分なりに努力することが大事という努力義務で行くべきなのか。

民主主義とか国民主権なんて、さも立派な思想のようにあがめられていますが、昔から批判は根強いです。

無知で感情的で独善的な民衆が主権なんてもってろくなことになるわけがないと。

確かに、今回のコロナ禍のストレスフルな生活の中、誰もが、「当たり前のこと」すらしない人間に腹を立てつつ、ろくな知識もないのに、専門家などに噛みついています。

ちょっとずるいですが、自分自身の胸に手を当てて考えれば考えるほど、一人一人が、丁度自分の真下という都合の良いところで人間の線引きをして偉そうに政治活動に参加していては、良い社会になるようには思えません。

まあ、正しい知識を得ることも大事だし、自分の頭で考えていく態度も大事ですが、自分で考えながらも常に謙虚に他者の意見に耳を傾けて内省していくこと、その両輪をバランスよく回すことが一番大事で、自立心と謙虚さのバランスを保ちながら、一人一人が独立した人間として成長していくことが民主主義社会にとっては重要だと思う、

なんて書けば、小論文の試験とかなら、頭の悪い教養の専門家にいい点もらえるんでしょうが、そこまで私は愚かでもないので、どうしていいかわからないという所で終わりにしたいと思います。

今回のコロナ騒動、私は自分が知識を重んじているのか、軽視しているのか、本当にわからなくなってきました。