百人一首解説その9:文屋康秀(22番)と紀友則(33番)


百人一首解説のその9です。

今回は「らむ」の歌です。

なんのこっちゃわからないかもしれませんが、助動詞「らむ」が重要な意味を持つ歌二つです。

少し文法解説チックになるのですが、二つとも、ものすごい有名な歌なのでお付き合いください。

まずは、22番、文屋康秀(ふんやのやすひで)の歌。

「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」

これは、一字決まりの「むすめふさほせ」の「ふ」ですから、かるた遊びをするときには、読む人が「ふ」と言った瞬間に、「むべ山風を 嵐といふらむ」という札を弾かなくてはいけません。

したがって、百人一首において、一番最初に覚えるべき7首の1つと言えます。

訳は比較的簡単です。

まず「吹くからに」の「からに」は「~するとすぐに」の意味ですから「吹くや否や」と訳します。

もっとも、古語辞典で「からに」を調べると、「~するとすぐに」の意味があると解説されつつ、載っている例文はこの歌ですから、卵と鶏だったりして。

いずれにせよ、「吹くからに」は、「吹くや否や」とか「吹けばたちまち」と訳します。

「秋の草木のしをるれば」は、現代語の「しおれる」は古語では「しをる」なので、「秋の草木がしおれるので」となります(「已然形+ば」なので確定順接)。

「むべ」は「なるほど」です。

「山風を嵐と言ふらむ」は後述しますが、「嵐」は「荒らし」とかけ言葉ですから、そこを踏まえて訳すと、「山に風で嵐と書いて荒らしと読むのだろう」となります。

つまり、この歌は言葉遊びみたいな歌です。

「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」

訳すと、

吹けばたちまち秋の草木はしおれるので、なるほど、だから山に風で嵐と書いて、荒らしとよむのだろう。

となります。

この歌の解説はこれで終えてもいいのですが、次の超有名な歌を解説するうえでは避けて通れない助動詞「らむ」のいい例なので、ここで「らむ」を解説します。

まあ、大人が趣味で和歌を楽しむ場合、受験生ではありませんから、意味が分かればいいのであって、そんなに文法を細かく理解する必要がないという意見は確かにその通りなのですが、そうはいっても、「む」と「らむ」の違いは分からないといけません。

具体例で言うと、

「花咲かむ」

「花咲くらむ」

の違いは理解している必要があります。

まず、「む」というのは、推量つまり「~だろう」という意味ですが、現在発生していない事態について使います。

現在発生していない事態が、現れ出てくるだろうという推量であるため、予想の「む」、と言われたりします。

つまり、「花咲かむ」というのは、未来形の話で、「花が咲くだろう」という意味です。

もう四月なのに桜がまだ咲いていない状況で、そうはいっても来週には咲くだろうという場合が、「来週には花咲かむ」です。

その点、「らむ」というのは、「有り+む」が語源ですから、ある事実が存在する(有る)状態を推量しています。

つまり、自分は見ていないけど、ある事実がすでに存在しているだろう、という場合に使用するのが「らむ」です。

したがって、上と同じ、まだ東京では桜が咲いていない場面を想定すると、東京ではまだだが沖縄ではもう咲いているだろう、という推量をするときには、「沖縄では花咲くらむ」としなくてはいけません。

「沖縄では花咲かむ」と言ってしまうと、「沖縄では花が咲くだろう(今は咲いてないけど)」になってしまいます。

万葉集の中で、山上憶良が宴会を途中で退席するときに、

「子泣くらむ、その母も我を待つらむ」などと言っていますが、「今頃我が家では子供が泣いているだろう、そして、子の母親も私を待っているだろう」と、自分は直接認識していないけれど、現在発生していると予測される事実を推量しています。

もっとも、現在存在している事実としては、花が咲いているとか、子供が泣いていると言った現象ではなく、理由や原因にも使われます。

これが第二の用法で、目には見えない原因や理由を、きっとそうなんだろうと推量するときも、「らむ」が使われます。

つまり、「自分は見てないけど、きっと沖縄では桜がもう咲いているだろう」という推量と同じように、「自分としては確証があるわけではないけど、きっと理由はこうなんだろう」というときにも、「らむ」がつかわれるようになるわけです。

これが、まさに、「吹くからに」の歌で使われている「らむ」の用法です。

つまり、「嵐」と書いて「荒らし」と読む理由は、「吹けばたちまち秋の草木が荒らされてしまうから」なのだろう、と理由を推量していることになります。

以上、

「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」

訳すと、

吹けばたちまち秋の草木はしおれるので、なるほど、だから、山に風で嵐と書いて、荒らしと言うのだろう。

となります。

ちなみに、この歌、言葉遊びは面白いですが、歌の評価は分かれます。

秋になって草木が一気に荒れてくる様子を上手く表現したと言えなくもないですが、百人一首に選ばれるほどの歌なのかなという疑問も投げかけられる歌です。

ちなみに、紀貫之は、作者の文屋康秀の歌のことを、「言葉巧みにて、そのさま身に負はず(中身が追い付いていない)。いはば商人が良き衣着たらむがごとし」とひどいことを言っています。

しかし、おもしろいことに、藤原定家は、百人秀歌の方では、この歌と紀貫之の「人はいさ」の歌をペアにしています。

そして、チャラついた紀貫之の巧い歌と比べて詠むと、変な色気が無くて、秋を感じさせる風情あり、巧い言葉遊びあり、そして躍動感もありと、なかなかの秀歌に見えてきます。

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さて、次の歌は、百人一首の中でも、一番と言っていいほど有名な歌です。

33番の紀友則の歌です。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」

文屋康秀の歌で長々と文法解説をしたのは、この、文法の知識なんて不要に思える非常にシンプルな歌をしっかりと解説したかったからです。

結論から言うと、この歌の最後には「花の散るらむ」と「らむ」がありますが、そのせいで、この歌の訳は3通りあり、どれに当たるかは買った本次第です。

「らむ」以外は簡単。

「ひさかたの」というのは「天」にまつわる枕詞ですが、枕詞だから訳さなくても良いわけですが、この歌の場合、「光」にかかるので、「空から降りそそぐ」と訳しても別にいいと思います。

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「光のどけき 春の日に」は、「のどかな光が差す春の日に」です。

「しづ心なく」は、静心なくですから、「落ち着きがなく」とか「落ち着いた心がなく」と訳します。

以上からすれば、空から日の光が降り注ぐのどかな春の日に、せわしなく桜の花が散っている様子を詠んだ歌なのは間違いありません。

では、「らむ」をめぐって別れる3パターンの訳を順に見てみましょう。

1.正統派
これは、最後の「らむ」ついて、「花咲くらむ」のように、自分は直接知覚していないけど、現在起こっている事実に対する推量という、一番主だった使い方と捉えます。

したがって、「花の散るらむ」においては、作者は家の中にいて、桜が散る様子を直接見ていないと捉えます。

桜の散り始めたある春の日に、家の中にいて、窓やカーテンの、格子や几帳の隙間から日の光が差しこみ、こんなにのどかなのに、庭の桜の花は落ち着きもなく散っているんだろうなあと、庭の景色を推量している歌になります。

格子の絵(昔の雨戸のこと)

几帳の絵(昔の部屋仕切りカーテン)

(下手ですみません)。

とすると、訳は下記のようになります。

空から日の光が降り注ぐのどかな春の日だというのに、外の庭では、桜が落ち着きもなく散っているのだろうな。

これは非常に素直な訳ですが、歌の前書きに「桜の花の散るをよめる」とあるので、花が散る様子を見て読んだ歌のはずで、直接見てないという訳は矛盾していると指摘する人がいます。

2.ルール厳格派
これは、前書きに忠実で、「桜の花の散るをよめる」とある以上、作者は花が散る姿を見ていると考えます。

その一方で、文法にも忠実で、とすると、「花の散るらむ」とあっても、花の散る姿を推量しているのではなく、上の文屋康秀の歌と同様、その前に登場する理由を推量しているはずだ、となります。

しかし、理由がどこにもない。

そこで、かなり強引ですが、「しづ心なく」が理由であるとします。

結論としては、訳は下記のようになります。

空から日の光が降り注ぐのどかな春の日だというのに、桜の花が散るのは、(桜には)落ち着いた心がないからであろうか。

と訳します。

文法には忠実ですが、強引すぎるような気もします。

3.結論重視派
3番目は、この歌は「らむ」の第3の用法だと主張するものです。

「らむ」において、主たる用法の現在起きている事象の推量から、第二用法たる裏側にある理由や原因を推量する方法に発展し、さらに和歌の世界では、原因や理由を推量するどころか、問いかける第三の用法があるという解釈です。

つまり、「らむ」を、「どうして~だろうか」という意味で使う使い方が存在するのだという主張です(「などか~らむ」の「などか」が省略されていると考える)。

もちろん、真実はタイムマシンに乗る以外に調べようがないわけですが、どうしてそんな用法があると主張できるのかと言えば、その根拠の一つがこの歌でもあったりするので、卵と鶏なわけですが、そう訳すと非常に上手く訳せるからそういう使い方が第3の用法としてあるのだ、という主張です。

つまり、この歌の「らむ」は「どうして~だろうか」と訳すと、さも当然のように解説している本も多いですが、「らむ」にそういう使い方があると主張される根拠たるいくつかの和歌の1つがこの歌なので、この歌を含むいくつかの和歌はこう訳すと上手く行くじゃないか、だから、当時「らむ」にはこういう用法があったと考えるべきだ、というのが本当の論理展開です。

さて、そうすると訳は下記のようになります。

空から日の光が降り注ぐのどかな春の日だというのに、どうして桜の花は落ち着かない様子で散るのだろうか。

雰囲気ありますね。

「こんなにのどかな日なのに、なぜ・・・」という想いが、桜の花だけでなく、世の中全体に対する無常感に通じるところがあり、まさにもののあはれを表現しています。

このように、「らむ」を「どうして~だろうか」という訳する解釈は、「どうして」という超重要な疑問視が省略されていると解釈する時点で少し怪しさが残るわけですが、様々な和歌において、この訳を採用するとしっくりくるものがあることから、支持されているようです。

本やネットで調べても、この歌の訳としては一番多いんじゃないかな。

さて、私はどの訳が好きかと言うと、1番です。

なぜか。

まず、この歌は平安時代の初期のころの歌ですから、古今和歌集の歌であり、貴族政治の腐敗も武家の台頭もなく退廃ムードは漂っていませんから、新古今和歌集のような「もののあはれ」全開ではなく、3番の訳に漂う無常観のようなものはまだないんじゃないか、現代人目線で解釈しすぎではないかという意見に、そんな気がします。

桜の花に「もののあはれ」をみるというのは、桜の花が鑑賞の対象として客観化されており、近代人はそう見るかもしれませんが、この時代の人がそうだったかどうかは分かりません。

菅原道真が大宰府に左遷されることとなった時、庭の梅の木を見て詠んだ歌に、

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
「春な忘れそ」=「春を忘れるな」

という有名な歌がありますが、これと同じように、この時代の貴族は、桜の木を鑑賞物として客観的に眺めて無常を感じるとかではなく、自分の友達のように思って心を通わせていたんじゃないかという考えが好きです。

また、前書きに「桜の花の散るを見てよめる」とあっても、格子や几帳の隙間から、ヒラヒラ舞い散る桜の花びらが少し見えただけかもしれませんから、「らむ」で推量したとしても矛盾しているとまでは言えないと思います。

以上より、

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」

の訳は、

空から日の光が降り注ぐのどかな春の日だというのに、外の庭では、あの桜のことだ、落ち着きもなく散っていることだろうよ。

としておきます。

のどかな春の日にもかかわらずせわしなく散る桜に「もののあはれ」を見るとかではなく、作者が庭の桜の木との間に親密に心通わせる様子がロマンチックで良い歌なのだと思います。

以上、細かい文法議論に字数を割きましたが、22番の文屋康秀の歌と33番の紀友則の歌でした。